どすん!どすん!と廊下の床を、野球のバットや鉄の棒で激しく突く音、さらに、「こら!若い者が何をしとるか、早うでてこんかい!」と大声で怒鳴る声に、部屋で談笑していた私たち十数人の者は仰天して、素早く裏廊下に飛び出した。
男たちは殺気だった雰囲気で我々青年を睨みつけ、「早よう出てこいよ」と念を押すと「さあ行こう」と言い捨て、どやどやと足早に立ち去っていった。
この長島愛生園に、設立以来もっとも深刻な事態が持ち上がっていたことなど、そのときの私たちは知る由もない。
昭和十一年(一九三六)八月十二日の出来事である。
この屈強な二十数名の一団は、前々日早朝、日出地帯から新良田地区に通じる一朗道の道路掘削作業中、突然職員に抜き打ちで出勤者の総点検を行なわれた者たちである。
彼らはこの作業総点検は作業主任の捺印を信用しない、奴隷的な扱いであると憤慨した。
これをきっかけに、土木部に従事していた者を中心に、日頃、職員の横暴極まる態度に不満を持っていた者たちが自然発生的に集まり、徒党を組んで気勢を挙げながら園内を巡回していたのである。
これがいわゆる長島事件のはじまりであった。
その日の午後、患者作業を管理していた事務分館の作業係には秘密りに、入所者による自主的な作業主任会が開かれた。
その討議の中で、「職員に対しての抗議行動として、明日一三日から重病棟・不自由者付き添い・動物飼育を除いた、全作業を一斉に放棄する」との決定がなされ、これが入所者に流布された。
入所者は普段から職員の横暴に苦しめられており、異論のあろうはずもなく、一斉にこれに従うこととなった。
当時、食料費は愛生園の定員八百九十人分の予算しか示達されていないにも関わらず、施設側は当時の一二〇〇人を超す入所者を、これで賄っていた。更に、雀の涙ほどの作業賃は、実は予算に組み込まれておらず、これも食料費からカットしたものを作業賃に充当していた。
病気を治すため安静して栄養を摂らねばならない筈の我々入所者の食事が、豚の餌の様なひどいものになるのは当然であり、作業賃が煙草銭ほどしか出ないのも、これでは当たり前である。
また、そのような状況にありあがら、施設の運営は、重病棟、不自由者棟の付き添いをはじめ、軽症患者の労力に頼っており、さらに施設側は新たな入所者を受け入れようとしていた。
これを知った入所者は一致団結し、日頃の鬱屈を爆発させる結果となったのである。
翌一三日は作業主任会の決定通り、ゼネストに突入した。
園内の不穏な空気を察知した光田園長は、午前十一時、緊急に礼拝堂に入所者を集めようとした。
園長の訓辞は「作業ゼネストは一部の過激分子の扇動であって、ほかの者は、軽率な行動は慎むように」といった内容のものであったが、そうこうするうち、十二時の昼食の時間がきた。
礼拝堂での行事があるときは、終了後の配食が慣例となっていたため、時間が来ても職員は扉を開けようとしなかった。
このため礼拝堂の真下にある炊事場では、待たされた不自由者の付き添いや炊事当番にあたっている四十名余りの者が、「正午がきたぞ、配食場の扉を開けろ」と大声で叫びはじめた。
事務職員も駆けつけて説得に努めたが、礼拝堂での訓辞の内容を知ると、一層興奮が高まってきた。
罵声と怒号が飛び交う中、入り口では分館長が教育勅語を読み上げていたが、功を奏することなく無理に押しかけた入所者によって扉は潰されてしまった。結局騒ぎは治まらず、配食は各自持ち帰ることになった。
午後二時からは園側(園長を除く)と、入園者側代表との協議を行なったが根本的な問題である超過人員に相当する予算の支出、新入患者の収容の一時停止、予算の公開、自治制の容認などについて、
園側は一歩も譲る気配はなく、協議は決裂、入園者総代はただちに寮長会を礼拝堂に招集した。
総代は寮長会に、施設との交渉の経過を報告したが、このとき。施設が入所者のなかの穏健派にゼネストに反対する働きかけを行なっているという情報が入り、会議は興奮状態となった。
これはもう、園長の出席を求め、我々との直接交渉を持つべきであるという意見の一致をみて、園長出席のもとで、寮長会の団体交渉を行なうことになった。
私たちが礼拝堂に傍聴に出かけた頃には、もう午後八時を過ぎていた。
大勢の病友が場内を一杯に埋め尽くしており、職員席の中央の高台の上には、光田園長が一人、臆する様子もなく、どっかりと椅子に腰掛けている。
入所者側は最前列に総代以下四十人余りの寮長が陣取り、少し間隔をあけたところに病友がぎっしり座っていた。
交渉は平行線をたどっており、進展は見られない。激しい野次と怒号で交渉の内容が聞き取れないときもあった。
皆、口汚く罵り、場内は騒然となっていた。やがて誰かが立ち上がって、園長に向かって下駄を投げつけた。途端に皆がそれに習い、次々と草履や座布団を投げ始めた。
光田園長のすぐ横にも飛んでいくが、園長は顔色ひとつ変えることはなく、泰然自若、堂々とした態度で自分の信念である、「患者職員は大家族」「同病相愛」「一食半座を削っても『救らい』の精神を変える事はない」
と患者の要求を突っぱね、一歩も引き下がる気配がみられない。
膠着状態が続く中、突然、床上にこつんと音を立てて鉛筆が落ちてきた。「誰か天井におるぞ」という声に入所者が天井を見上げると、空気穴の小窓から、懐中電燈の光がチラリと光った。「外に出て礼拝堂を取り囲め。盗聴者を逃がすな!」と誰かが大声で叫んだ。皆は一斉に外に飛び出した。
暗闇の中を、黒い人影が二つ、坂道を転げ落ちるように下っていくのが見えた。「皆逃がすなよ」と駆け出した瞬間、何かに足をとられて何人かが将棋倒しにころんだ。
「こんなところに電線がが敷いてあるぞ、この電線に足を取られたんだ」と声があがり、早速電線を拾い上げ切断して手繰り寄せるてみると、普段は汽缶場から伸びて医局と建物を繋いでいる電話線であった。
それが今、礼拝堂の天井裏から事務本館へと伸ばされている。
すぐに盗聴用の電話線であることがわかった。
この卑劣極まる盗聴行為が場内に知れ渡ると、入所者はいっそう激昂し、興奮の絶頂に達した。
一方、東側の玄関から「盗聴者を捕まえたぞ」と声がした。まるで警官が犯人を引き立てるときのように一人の職員が両手を後ろ手に回され、抱えられて入ってきた。よく見ると洗濯消毒場勤務の職員である。
後で分かったことであるが、彼は盗聴には関わっておらず、当日当直で園内巡視中に礼拝堂の横を通りかかって捕まったのである。
ひき千切った盗聴電話線を光田園長の前に突きつけ、彼を患者の中に座らせて、総代は、「患者の会議を天井裏から盗聴させる悪辣極まる行為と、家庭の事情で帰省を願い出ても許可されず、やむなく帰省しようとして捕まり、現在収監されている四人と、どちらが人道的なのか」と詰め寄った。 この四人とは、昨日、患者の密告によって監禁室に収監された、逃走計画者たちである。入園者副総代は、頻繁に逃走者が出るのは生活環境の悪化に原因がある、と分館長に抗議していたのであった。
入園者総代は更に、「この監禁中の四人を釈放しなければこの職員は引き渡さない」と交換条件を出した。頑固一徹な園長もこれには顔色を変えた。職員を救出するためには、逃走未遂で監禁中の四人の釈放を承服せざるを得なくなり、ただちに監房の鍵が患者側に渡された。
人質になっていた不運な職員も同時に釈放された。
患者が監房の鍵を開けて釈放することは、開園以来のことである。物珍しさも手伝って、私を含め四十人位の者が監房への道に続いた。
重病棟と治療室に通じる廊下まで来たとき、突然暗闇の中から私たちの一団に向かって、激しい勢いで水が浴びせられた。消防用ホースによる放水である。先頭の数人が倒れ伏し、皆逃げようとして後ろ向きとなり、水浸しになってバタバタと倒れた。また、横からは目潰し用の石灰が投げつけられ、大混乱となったが、すぐに態勢を立て直し、我々は放水している方へと向かっていった。たちまち数人の職員が事務本館へ逃げ去っていくのがみえた。「この野郎!」と水を被った者が絶叫しながらその後を追ったが、こん棒で試験室や本館の窓ガラスを叩き割る者も出て、誰かが後ろから羽交い絞めして制止しているのが見えた。
消防用ホースを消火栓から外して礼拝堂に運び、交渉を続けていた園長の前に突きつけ、患者に向けて放水するとは、目潰しを投げるとは、島に強制隔離して患者を囚人として殺傷しようというのか、園長返事をせい、と迫ったが、園長からは一言の弁解もなかった。
後で分かったことだが、連絡用電線を切断したことにより、園長が園田氏と交換した監禁者を解放するために、患者に監房の鍵を渡した、という連絡が、職員には届かなかったのである。群れをなして礼拝堂から出てくる入所者を目の当たりにした職員は、てっきり交渉が決裂して、入所者が事務本館の襲撃に及んだものと勘違いし、既に用意されていた防御体勢の放水と目潰しを投げて、鎮圧を図ったものらしい。
十数人の者が監房へと向かい、到着したのはもう真夜中近い、十一時を過ぎた頃であった。収監されていた四人は「どうしたんですか」、と仰天した様子であった。「あなた方を助けに来たからね、今格子戸を開けるから」と鍵を開けながら事情を話すと、彼らは納得したように同室の人と帰っていった。
一方、礼拝堂の要求交渉は一向に進展を見せず、双方が「内務省、岡山県当局の主張を求めて是非の判断を請うこと」を決め、一時交渉を打ち切ったのは午前三時のことであった。
園はこの園内の険悪な状態に備えて、牛窓警察に出動要請をした。
翌八月十四日、牛窓署から井上署長以下二十七名が到着、警戒に当たると共に、入園者側とも折衝に当たったが、進展はなかった。
入園者側は、午後入園者大会を開き、次のことを決議した。
一、現在の処遇を改善させるため、現在入園者数に相当する予算示達を要求する。
一、作業賃金の増額を要求する。
一、患者の自治制を要求する。
一、光田園長以下3名の辞任を要求する。
八月十六日、内務省奥村理事官、岡山県警察部長、堀部特高課長、警察課長らが来園し、入所者千百六十名(少年少女除く)の血判を交えた署名嘆願書に基づいて、園の実態調査が行なわれた。
翌十七日には入園者代表との本格的な交渉が、十時から十八時二十分まで続行された。しかし、回答は次のようなものであった。
一、入園者の自治制は認めない。
一、入退園、処罰策を含む人事権関与は園長権限に属することで、認められない。
一、入園者の役員の自主的選出の推薦は認めるが、決定権は従来通り園長にある。
一、処遇改善については本年度十一月から定員を三百十名増員して千二百名とする。
一、光田園長以下職員の辞職の要求は、国の行政に対する干渉だから、回答できない。
長い厳しい折衝であったが、奥村理事官の回答は、園長の答弁とまるで同じであった。三百十名の増員は現在の入園者数に達しておらず、入園者の要求は全面否定も同然である。
会談終了と同時に、日出広場に入所者全員が集合しての患者大会が開かれ、入園者総代は事務机を演台として、「我々の生活は窮乏のどん底となって、餓死寸前まで来ているが、内務省は我々の嘆願を無視し、要求は全面否定の態度をとった。我々は要求貫徹のため、全員光ヶ丘に登り、ハンストによる死をもって光田園長に抗議する!」と絶叫した。
病友の間からは「ハンストって何だろう」との囁き声が聞こえてきた。代表の一人が演台に登って「ハンストとは即ち、飯を食わないことである」と大声で怒鳴ると、一瞬、日出広場はしん、と静まり返ってしまった。
それでも夕食後のことであり、「ただ今から光ヶ丘へ行進を起こす」との声がかかると、皆はあらかじめ用意してあった青竹の上にムシロを掲げた百姓一揆のムシロ旗を先頭に、紙や布に思い思いの要求を書いたプラカードを掲げ、出発!という号令と共に、八百人がぞろぞろと光ヶ丘のある南海岸にむけて行進を開始した。
治療病棟の間まで来ると、重病棟の窓から白衣姿の患者が「お互いに頑張ろう、我々もハンストに入るぞ」と手を振って、激励のエールを送ってきた。
光ヶ丘に登ってみると、治療病棟の前を、脚から包帯を引きずりながらよろよろと歩く者、松葉杖をつく者、病友の肩にすがりながら列に加わっている盲人の入所者などの姿が見え、実に痛々しい光景であった。
この延々と続く行進を見ると、愛生園にはこんなに大勢の人間がいたのかと驚嘆すると同時に、園の行政職員の横暴な態度、定員追加による食料の粗悪さが、こんな強固な団結を生んだのだと痛感した。
光ヶ丘に登ると、代表委員は鐘楼堂の「恵みの鐘」を乱打しはじめたが、それから二十四時間、餅つき用の杵まで持ち込んで、鐘は間断なく打ち鳴らされ続けた。
事務本館に接続する試験室のところには望遠鏡が備え付けてあり、警察官の姿と消防団員が警備について、天幕を張り、サーチライトが備え付けているのが見え、相手側にも対決体勢ができていることがうかがわれた。
この頃、長島には牛窓署をはじめ、西大寺、岡山東署から四十一名、裳掛消防団員二百五十四名が応援に来ており、島は厳戒体制に入り、職員宿舎の家族は地元虫明に疎開させられていた。
一方、入所者側も臨戦体制として、実行委員の者が警察力によって逮捕された場合にリーダーを失うことを憂慮して、作業センターの押入れにリーダー数名の者を待機させ、代表者が逮捕されたときに直ちに取って代われるよう準備を整えていた。
私もこの光ヶ丘の山で寝る用意のため、一度寮に帰って、冬オーバーを持って帰ってきた。
光ヶ丘には登り口が数箇所もあって、この登り口の警備に一人一時間交替で立たねばならず、それぞれが色んな話をするため、その話声でほとんどその晩は眠れなかった。
やがて、東の荒磯から明るくなり始め、真赤な太陽が海上に浮き上がってきた。島が厳戒態勢にあるというこの異常な事態の中、私はこれが有名な「瀬戸の曙」か、と見とれていた。この日の出の美しさは、昔の歌人が好んでこの地を訪れ、作歌を残しているが、この緊迫した雰囲気の前で、それは一層際立った美しさをみせているのであった。
下を見ると、白衣を着た医師や看護婦が、昨日まで軽症患者に運ばせていた重病棟の食事を、炊事場から不慣れな格好で運んでいるのが見えた。
昼食近くになると、日照りも激しくなり、皆、松の木の下木陰を求めて歩きまわった。正午には汽缶場の汽笛が鳴って配食時間を知らせるようになっており、この汽笛を聞くと、現金なことに私のお腹はきゅうきゅうと音を鳴らした。
ところが、下から登ってきた人の話では、重病棟や不自由者棟の寝たきりで身動きすら取れない患者たちも目の前に食事を出され、看護婦や医師から、衰弱するから食べなさい、代表や患者の皆さんには内緒にするから、と言われても、誰一人食べ物に口をつけようとしなかったという。
しかも、いつもは真っ黒な蒸気炊きの貧しい食事を出すくせに、今回に限っては真っ白な白米を出し、見せつけるように半日そのまま置き去りにしておき、次の食事時間が来ると再び贅沢な食事を運んでくるというのである。
枕元の食献台に匂うような白いご飯を置かれて、半日下膳されないとは、寝たきりの患者にとっては凄絶な我慢との戦いである。
この職員の嫌がらせ行為の中で、空腹に耐える、その意志の強さを伝えるこの話に、これが団結力か、これが人間の尊厳というものか、と私は強い感動を覚えた。
途中、前外島保養院長村田正太先生とキリスト宣教師が争議の仲介をとってなんとか事態の収拾を図ろうとしたものの、果たせなかった。
第二夜も同じ場所で寝ることになった。やはり二日目ともなると空腹で寝る人も少なくなった。
話題はこそこそと食べ物の話ばかりである。若い青年寮の者でも、腹が減っても歩けない、と寝込む者もでてきた。
夫婦寮の者は、飯ごうを洗うときろ過器に残った飯粒を干して作った、干飯(ほしい)といったものや、買いだめしたうどんなどを持参しており、密かに食べていたようだが、私たち若者は突然のハンスト突入で、食べるものは全くない。
誰かが、噂によると今晩夜陰に乗じて売店が襲われるそうだと話しており、我々もこれに遅れをとってはならない、と早速謀議が始まった。日暮れまで売店の裏山の木陰に潜み、一人が店内に侵入したら、機を逃すことなく裏の倉庫を襲い、うどんや缶詰の箱入りを盗み、中に入って窓から出す者、外にいて受け取る者、など二班に別れ、円滑に事を進めよう、などという計画が密かに立てられた。
再度光ヶ丘に登ってみると、人は随分減っていた。疲労が蓄積して口を開く人も少なかったが、何やらハンストだけは止めて、代表委員による交渉が再開されるのでは、という噂がささやかれていた。
午後六時、ハンストの突入以来、二日間休むことなく打ち続けられていた鐘音がやんで、一同、鐘楼堂周辺に集るよう指示があった。
入園者総代から、「我々は今日まで全員ハンストという抗議を続けてきたが、堀部特高課長が仲介斡旋に入る条件として、本事件の責任追及は代表委員も含めて問わないことを指示した。我々は堀部特高課長を信頼して、ハンストを停止して、交渉を再開することとなった」という報告があり、二昼夜に渡るハンストも一応中止されることとなった。
疲労のやめ発熱した者、光ヶ丘の登り下りに足を痛めて倒れ、寝込んだ者などもいたが、ひとまず各自寮に帰って配食を待つことになった。我々はゴザや座布団を抱えて、疲弊した身体を引きずるようにしながら下山していった。
二時間後の八時に、ようやくお粥一杯に梅干一つの食事をとったが、空腹を満たすようなものではなかった。
翌十九日から、堀部特高課長の斡旋による交渉が始まった。
連日、交渉は作業ゼネストを背景続けられた。二十三日に至り内務大臣宛嘆願書第四項の光田園長以下職員の辞任勧告の撤回については結論にいたらず、その可否は、少年少女・精神病者を除く全員投票によることに決まった。
投票結果は実行委員の意に反して、第四項の撤回となった。
そこで、要求を入所者の自治制の確立にのみ絞り、討議が重ねられた結果、堀部課長の提案で自治制は「自助会」として認められることとなった。
十日間に渡る交渉結果は、二十八日午後四時に、礼拝堂に入所者約六百名、国からは内務省奥村理事官、岡村県警務課長、堀辺特高課長、施設からは光田園長以下幹部職員などが出席し、事件解決に際し園長よりの示達事項として、次のような文書が手渡された。
一、入園者全員をもってする自助会組織を認め、嘆願書事項中自助会をして委譲しえる部分は、自助会をして自治的経営をせしむること
一、前項委譲事項は奥村内務理事官の提示せる骨子として、事件解決後少数代表者と園当局と
協議決定すること。
一、嘆願書記載中希望事項と認められる部分は、経費その他の事情を考査し、実現可能なものは速やかに実施すること。(注)定員三百十名増員を十一月から示達する。
この会談によって、幾多の問題を残しながらも、入所者は作業ゼネストを解除し、十七日に渡る長島事件が終結をみることになった。
しかし、この事件は完全な円満解決となったわけではない。
事件後、全職員は対策会議を開き、本事件の主謀患者の責任追及と処罰を要求する嘆願書を園長に提出した。彼らはもしこれが容れられなければ、職員全員が総辞職するという強行会議を行なって対抗した。
光田園長はこれに対して、「愛生園は患者の療養施設である。職員から責められても、患者を追放することはできない」と突っぱねた。堀部特高課長の説得で職員たちはいやいや要求を取り下げたものの、このことから患者と職員の間には、「恵みの鐘」が乱打のためにひび割れができたように、深い溝が生じることになった。
事件の表面上の責任追及は行なわれなかったが、日常の療養生活では、憤懣やるかたない職員が暴力的首謀者のブラックリストを作り、常に警戒を怠らず、厳しい弾圧、嫌がらせ行為が随所に見られるようになった。
しかも、あろうことか、これが医療行為にも及んだのである。
入園者代表は事件後、過労が祟って神経痛を起こし、毎夜激しい痛みに襲われるようになったため重病棟に入院していた。
ある夜、痛みに耐えかねて鎮痛剤注射を頼んだところ、医務課長が枕元に来て「お前はあれほど頑張ったんだから、それくらいの痛みは我慢できんことはないだろう」と、病院中聞こえるような大声で彼をなじった。彼は怒って直ちに蒲団をかついで自寮へ帰ったという。
自助会も出来たばかりであり、これに対抗する手段がとれないことをいいことに、代表委員であった者には随分な嫌がらせがあったようである。園長宛に改心の情を表す詫び状や誓約書を入れた者もおり、弾圧や嫌がらせに抗議しきれず、自殺に追い込まれた者も多い。
この年は、私が入園した十日後に二・二六事件が起こるなど、既にわが国は戦争への道を突き進んでる時期であった。
国家総動員法の発令によって、罹病者や反戦を掲げる者は非国民呼ばわりされていた。この軍国主義一色の時代にあって、三百十人の定員増をさせ、作業賃の予算化、自治権の擁立を獲得した、入所者たちの身を挺した戦いは、高く評価されるべきであろう。
昭和十一年十二月一日、「自助会」は発足したが、昭和十六年四月一日、わずか三年五ヶ月で、国家総動員法による国家統制の煽りを食って、患者が血涙を絞って戦い取った「自助会」も施設に返還することとなった。
長島事件の後遺症として、その年の十月、全国療養所の所長会議が開かれ、討議の結果、次のような決議が行なわれた。
一、らい患者の懲戒に関する件。
刑法に触れる犯罪行為者のための、らい刑務所の設置、不良患者の特殊療養所の設置を要求する。
これは長島事件を教訓に再発防止から行なわれたものであるが、この要求は連鎖的発生を恐れる他園園長から、積極的な発言があったと記録されている。
所長会議の陳情を受け取った内務、司法両省は、特別刑務所「特別病室」を群馬県草津町に設置することを決定した。
ハンセン病療養所栗生楽泉園の正面両側丘陵地に建てられた「特別病室」(重監房)は、建坪七十二・六平方メートル(二十二坪)周囲を三メートルの高さのコンクリートで二重にめぐらし、内部は八房に仕切られ、各房ともくぐり戸式トイレも含めて四・五畳、採光窓は一三センチ×十七センチしかないという半暗室で、十五センチの頑丈な鉄鍵が掛けられ、食事の差し入れ口は、やっと汁椀が入る程度の厳重さであったと記録されている。
ここに放りこまれたら最後、入浴も治療も行なわれず、死ぬほかに道はない。夏季は湿気、冬期は零下十五度にもなるこの部屋に、雪混りの寒風が吹き込み、蒲団は凍りついてしまったという。
特別病室とは名ばかりで、昭和十四年から昭和二十二年七月の間に九十六名が非合法な処置で投獄され、そのうち二十二名の獄死者を出している。
職員は態度の悪い入所者を監獄に入れるぞ、と脅し、「草津カンゴク」「草津行き」という言葉まで生まれた。
こうして戦後、新憲法が制定されるまで、全国のハンセン病療養所の入所者に対する思想の弾圧は激しく加速することになる。 |