平成八年(一九九六)年、三月二十六日。
八十九年間続けられた「らい予防法」の廃止が、廃止に関する法律の制定とともに国会で可決された。
こうして世界各国から四十年も遅れて罹病者、またその家族の人権を蹂躙してきた悪法がようやく廃止された訳だが、プロミン以降、次々開発された特効薬により、医学的にも伝染の恐れがまったく無くなっていたにも関わらず、為行者の怠慢や保身からか、一向に法廃止への行動を起こさず、事なかれ主義に終始した政府の責任は重い。
また、日本らい学会、所長連盟が、隔離の必要がないことを熟知していながら、それを放置してきたことは、冤罪と言わねばなるまい。
わが国はハンセン病患者を地域社会から隔絶したため、一般、特に若い人には病気への知識もなければ関心も薄く、法の廃止がすなわち差別偏見を根こそぎ払拭したとは言えまい。
厚生省は廃止後、在所者の社会復帰についてのアンケートを行なった。在所平均四十五年、平均年齢は七十四歳に達する全国五千人余りの在所者のうち、社会復帰を希望した者は百十名で、全体の五パーセント強であったが、廃止後四年近く経た今日、社会に復帰できたも者はわずか十一名に過ぎない。
これは当初の退所支度金百万円が、全療協(元・全患協)の運動によって二百五十万円にまで引き上げられたものの、誤った政策によって長年の強制隔離をした代償としては、余りにも少額過ぎる、ということが一つの原因としてあげられる。
条項によって職や故郷を奪われ、七十四歳という高齢者が、住む家さえないのに、生きていかれるとでも思っているのであろうか。それともその終末期の時まで療養所生活を送れ、とでも言いたいのであろうか。
全国で何万人という人間の一生を、確たる理由もなく隔離し、あまつさえ断種手術や重労働を課し、人の誇りや尊厳を踏みにじった挙げ句、二百五十万の金をポン、と渡しておしまいにしようというのである。
私はたとえ二千三十五年頃にハンセン病患者が日本の地から消滅しようとも、この政府の罪は決してそして永遠に消えることはない、と思う。
在所者の中で、療養所を終の住処として選んだ者たちの、その理由としては、まずは高齢で職もないということ、家族の受け入れが円滑に進まないこと、更には療養所内で築き上げた友情や人間関係を捨てて郷里へ帰ることもできず、このまま老後を安穏に過ごし、ここで人生を終えたい、という気持ちが働いていること、などが挙げられる。
発病当時、日本古来からの遺伝病という概念や、誇張されて喧伝され、民間に深く浸透するに至った伝染病という偏見の眼差しから家族や親族の幸福を守るため、墓場までそれを秘密として持ち込むことを自己の信条として守り抜き、生きてきた者も多い。
現在、政府がハンセン病を隠蔽してきたことで、残してきた家族や親族の苦悩も薄れ、和らいでいるというときに、今更寝た子を起こすことはしたくない、と考えている者が多数である。
「らい予防法」が廃止されたとき、入所者へ多く寄せられた家族からの問い合わせは、「病気は治っているそうだが、あなたも家に帰らなければいけないのか、帰ってくるのか」というものであった。
せっかく悪法が廃止になり、喜んでいた者へのこの質問は、まさに冷水を浴びせられたようなものであっただろう。入所者の多くがこのまま療養所で余生を送りたいと考えており、自分は今更帰郷するつもりはない、と答え、家族の者もそれで一安心という構図は、はたして人間として幸福な人生であると言えるだろうか。
しかし、年代世相の大きな変化により、かつて親族の中にハンセン病患者が出たことも忘れ去られ、人知れぬ苦悩もようやく過去のものとなったのに、法が廃止になったことで、再びあの精神的苦痛が再現されるのかと、故郷の人たちが不安を覚えることを責めることはできない。
こうしたまったく無意味な杞憂を根底から払拭せねば、口を閉ざし、療養所の中で死んでいこうとしている者の生涯は報われまい。
ところが一方では、法が廃止になったら入所者には家に帰ってもらい、家の中で家族に囲まれて死んでもらいたい、という人たちもいる。
これは、ハンセン病の療養所で死亡すると、たとえ死因が生活習慣病や高齢による衰弱死であったとしても、周囲の者に、ハンセン病で死んだのだと思われてしまう、という懸念に起因したものである。
いまだ年配層や、かつての強制収容や偏見に満ち満ちていた時代の苦悩を覚えている家族の者は、親族から一人でも罹病者が出ると、結婚や近所付き合いに支障をきたすと考えているのである。従って余命いくばくもない老人を、無理にでも家で引き取りたい、と主張し、こうした悲劇が生まれたこともある。
これは入所者の、八十五歳になるおばあさんの話であるが、らい予防法廃止後、彼女は療養所への残留を希望していたが、家族の強い要望に応える形で、家族のもとへ帰宅した。療友の皆からは、これからは家族の者に囲まれ、安定した老後生活が送れそうだね、と随分と羨ましがられたものであるが、しばらくしておばあさんから一通の手紙が届けられた。
その手紙によると、家族に囲まれて暮しているものの、日中はみな働きに出るため、家に一人になる。
近所の人は知らない者ばかりであるし、療養所のことを話すわけにはいかない。幼なじみの友達はみな亡くなっており、テレビなど見て時間を潰すものの退屈で仕方がない、家族の皆さんとも話が噛み合わない、と切々と一般社会の中での淋しさ孤独を綴った内容であり、療養所の中で培われた人間関係の中へ帰りたい、気心の知れた仲間達とともに晩年を過ごしたい、と愛生園への慕情がにじむ、痛切なものであった。
結局、四十数年を過ぎての社会復帰は、家族のために、おばあさんを孤独に追いやるものでしかなかったのである。
わが国が、四十年も前にローマ国際会議が決議した「すべての差別法は廃止されること」という条項に従い、「らい予防法」を速やかに廃止していれば、このおばあさんも何の気兼ねもなく、血のつながった家族に囲まれての、幸福な晩年を送ることができたのである。
この一人の老婆の小さな幸福を奪った責任は、わが国の行政者のほか一体誰にあるというのだろう。
私が入所して間もない頃、同部屋の療友が、レントゲン検査の結果胃潰瘍と診断されたため、帰省の願書を提出してきた、と言った。
そんな無理をせずに、愛生園で治療を受ければいいのに、と言ったが、いや、事情があってどうしても帰らねばならない、と彼は言い張り、帰郷後二ヶ月で、家で亡くなってしまったという話であった。
私はそれを聞いて、彼が病身を抱えてまで帰宅したのは、ハンセン病療養所で死んでしまえば、たとえ胃潰瘍で死んだとしても周囲からはハンセン病で死んだ、と誤解され、一族が偏見の眼差しに晒されることを恐れたからではないか、と思った。
実際はハンセン病自体で死ぬことはなく、大半は合併症の結核や栄養失調、その他の疾患が原因で亡くなるのであるが、こうした周囲の差別偏見をはばかり、家族のために身を殉じる入所者は多い。
これはSさんという、ハンセン病に罹患していることを子供に隠しつづけた人の話である。
Sさんは関西の人であったが、東京の多磨全生園に入所し、奥さん以外の周囲には、東京に出稼ぎで単身赴任していると偽って治療に励んでいた。既に特効薬も出ていた頃で、治療は順調に進み、時々帰郷もできるので、近所の人も不審を抱くようなことはなかったようである。
病状も良くなったことであり、退所して故郷に帰り、数年間は奥さんと子供三人の暖かい家庭生活を営んでいたが、治療をおろそかにし、身体に無理して働いたため、やがて再発してしまった。
ところが村の人も昭和初期から政府がとった隔離政策のためにハンセン病の症状をしらず、Sさんの病状が悪化しても誰もそうだと気づかない。本人は治療の必要性をいやというほど知っていたはずだが、周囲も気づかないうえ、プロミンの静脈注射は「らい予防法」のため、ハンセン病療養所か特定の大学病院でしか受けることができない。
しかし東京への定期的な通院は容易ではなく、近くの愛生園に通って、D・D・Sの経口投与と投薬を受けることにした。診療には数日かかるため、その間は愛生園の宿舎に泊まり込んでの生活となる。こうして私はSさんと知り合うこととなった。
ところが、愛生園に通い始めて二年ほど過ぎた頃、Sさんの顔が浅黒く、というよりは真っ黒に変色してきた。
息子は学校を出て一流企業に就職、娘は嫁いで孫ができた、と喜んでいた最中であったが、医師の診断ではSさんは肝臓ガンだということであった。
ここでも「らい予防法」の弊害が顔をもたげてくるのである。
ハンセン病患者は国民健康保険の適用を除外されているため、一般病棟ではたとえ風邪であろうと、診察を拒否される場合が多い。また、医者は罹病者を県知事に届け出を出すことが義務づけられており、仮に入院できたとしても、いつハンセン病であることがばれるかという恐怖心もある。
Sさんのように肝臓ガンになった場合、一番いい方法は、療養所に関係のある病院で手術を受け、愛生園で療養生活を送ることである。
しかし、Sさんは自宅に帰り、息子や娘のため、ここでは絶対に死にたくない、と洩らし、以後姿を見せなくなり、音信も跡絶えた。
それから八ヶ月も過ぎたある日、私への面会の連絡を受けて面会室へ行ってみると、見知らぬ女性が二人と、若い男性が一人、それに子供二人が座っており、年配の女性が「加賀田さんですか」と聞いてきた。
女性は、私はSの妻で、こちらが息子と娘と子供です、と紹介したあと、「夫は郷里の病院で肝臓ガンのため亡くなりました。夫はあなたのことをよく話しておりましたが、生前から親しくしていただき、治療から将来の生活のことについてまでご相談に乗っていただいたということで、今日は是非お伺いしてお礼を申し上げたくて出掛けて参りました。夫がハンセン病であることは子供たちに話したことはありません。夫は愛生園で死ねば、肝臓ガンで死んだとしてもハンセン病で死んだことになる、何があっても家で死にたい、と口癖のように言っておりました」と涙ながらに語った。
息子さんも、「加賀田さんの勧めを聞いて、手術を受ければ、まだ四,五年は生き続けられたのに」と男泣きに泣いて、家族そろって泣き伏せた。
お父さんは家族を偏見差別の因習から守るために、自分を犠牲にされたのです、一家の中からハンセン病患者が出たことを後世に残さないために、命を縮めてでも、秘密を守る必要があったのでしょう、と説いて、生前Sさんが過ごした宿舎に案内し、思い出の品を形見に持ち帰って貰ったが、同じ苦しみを味わってきた者として、悔しい思いがなかなか消えなかった。
私の親友であるKさんは、所内結婚をし、四十数年間を平穏に愛生園の中で過ごしてきた人物であるがある日、突然奥さんに痴呆症状が出て、毎日介護に追われる日々となった。
彼の献身的な看護には敬服させられることしきりであったが、あるとき彼は、実は奥さんが、痴呆の上に肺ガンであることを医師から宣告された、と告白した。
彼は弟だけには療養所にいることを知らせ、財産分与も辞退し、家督もその弟に譲っていたが、ほかの家族には道楽三昧で家に寄りつかないのだと偽っていた。それでも兄弟や親族の冠婚葬祭には必ず出席し、長男としての責務を果たしていたようである。
現在は弟が棟続きの家を建ててくれており、奥さんが亡くなったら、老後はそこで暮すことに相談がまとまったんだ、とKさんは話してくれた。これも、Kさんが療養所で死んでしまったら、これまで半世紀近く周囲にハンセン病であることを伏せていたことが水の泡になってしまう、という危惧から出たものらしい。
家族のためにも兄弟のためにもハンセン病の療養所で死ぬことはできないが、家で死ぬことができるのは、予防法廃止の効果だ、と二人して喜び合ったものだが、それから間もなく、彼は脳梗塞で倒れ、痴呆となった奥さんを残したまま帰らぬ人となってしまった。
私たちは彼の遺骨を遺族に手渡すため、駅のプラットホームで落ち合い、近くの食堂で話をすることにしたが、遺族の方は会ったときから目を合わすこともなく、人目を気にして、逃げるように食堂の個室へ入った。
Kさんの遺骨を納めた箱の証書には、日蓮宗身延山久遠時本願人と記された額縁とともに「東京都」、という文字が刻まれており、遺族の方はこれでKさんが東京で暮していたことの証になる、と喜んでいた。
遺族の方は、駅ではいつ知り合いに会うとも知れない、と戦々恐々として一度も後ろを振り返らずに去っていった。
Kさんの家で死にたい、という望は叶わなかったが、弟さんのほかに療養所生活が知られずには済んだ。遺族の方にとっては、これが唯一の救いであった、とも言えようが、果たして安穏と喜ぶべき事であろうか。
ハンセン病に罹患した者の悲劇としか言いようがない。
3千年の昔から続く因習が、ひとつの法の廃止によって消滅することはない、と重々承知しているが、罹病者全員がこの法律の廃止を望んできた。
廃止という一大転換を戦い取った以上、残る入所者たちはこの廃止を機会に、偏見差別の解消に立ち上がり、勇気をもって望むべきではなかろうか。
私は菌陰性者が続出したとき、直接強制収容に手を貸した都道府県が費用を負担して、家族の受け入れが困難な者の里帰りを実現させるべきであると、里帰り運動を起こした。
里帰り運動は普及したが、これはいつのまにか観光旅行に移行し、それはそれで結構であるが、これによって地域の偏見差別への啓発、家族の絆を取り戻すことが可能になったとは言えまい。
時の厚生大臣菅直人氏は、「罹病された皆さんは勿論のこと、ご家族の皆さんに大変ご苦労をおかけしました」と、通り一編当の謝罪をしたが、これでもって法制定から九十年、ローマ国際決議から四十年に渡る療養所への不条理な拘束隔離の罪が消えることはない。
私の出身地鳥取県では、法廃止の平成八年(一九九六)、「人権を尊重する社会づくり条例」が制定されたことにともない、長谷川稔県議が私宅を訪れ、かつて「無らい県運動」を起こし、全国に先がけてハンセン病患者の強制収容にあたった罪について謝罪するにはどうすればいいだろうか、という相談があった。
生きている者にとっては、過ぎ去った歳月は帰ってくるものではなく、今更の感は拭えない。
私は、島に隔離され、家族や友人へ思いを馳せ、それでも生涯故郷の土を踏むことなく無念の死を遂げた、数知れぬ療友たちのために、直接鎮魂の献花をされる以外ないでしょう、と答えた。
それが具申されたのか、同年八月、西尾邑次鳥取県知事が愛生園を訪れ、谷口園長以下幹部職員ともども、私たち県人会の立ち会いのもと、納骨堂への献花が行なわれた。
これは政府や自治体による、長きに渡った強制隔離政策の、ひとつの区切りではあった。しかし、納骨堂に眠る、物言わぬ療友たちは、いかなる気持ちでこれを見守ったことであろう。
予防法が廃止された経過措置による「らい予防法廃止に関する法律」であるが、これによって、われわれの療養生活になんら変化がもたらされるわけではない。
しかし、やはり誰しも故郷は恋しいものであろう。家族と再会する喜びはひとしおのものがあるはずであるこの相互の思いを近づけるには、国や自治体のレベルから、一歩踏み込んで町村、近隣の方々が入所者の出向かえをすることによって、より身近で幅広い理解が得られるのではなかろうか。
家族や親類による入所者への恐怖心を取り除き、こだわりなくいつでも故郷に出迎え、入所者と肉親たちとの絆が取り戻されることで、法廃止もようやくその効果を現すと言えよう。
私の故郷である山陰の小さな町、用瀬(もちがせ)町の町長以下、町当局の人権文化センター、同推協などの方々の理解と尽力により、町民をあげて私を町に迎え入れようという計画が立てられ、平成十二年(二〇〇〇)三月四日、用瀬町民会館で、すべての差別を無くすための町民大会が開催される運びとなった。
「ハンセン病の差別から学ぼう」が今年の課題となり、私は講演の要請を受けた。入所以来、親族の方々に迷惑の及ばぬことばかり考えて生きてきたが、幸いにして私の親族は、これらハンセン病対策の理不尽と人権無視の実態に対し、深い理解を示してくれている。
この機会は、私がこの世に生を受けてきたことの意味を問う、またとないチャンスであり、社会に根強く残るハンセン病への偏見差別を除去する一端にもなろう、と快く引き受けることにした。
当日、会場の階下ロビーには、療養所の風景、私の辿った人生の歴史の、その時々の写真が飾られ、場内の演台の正面には、「お帰りなさい加賀田一さん」と大書きされ、右側に演題として、「近くて遠かった故郷」、左手には「ハンセン病差別の現実から学ぶ」「あらゆる差別をなくすために」との垂れ幕がかけられていた。
昼に親族の方々との会食の席をもうけてもらい、長年の心労に感謝するとともに、苦難の日々を生き抜いてきたことで得られた、この和やかな食事のひとときに、感慨もひとしおであった。
大会は、第一部が歌の合唱に始まり、徳永進先生(日赤内科部長)の講演、私の体験談を交えた先生との対談形式によって進み、第二部は聴衆との対話の形をとった。
私が最も感動を覚えたのは、この対話の最中、小学校の同級生であった森良一君が、最前列から声をかけてくださったことである。彼も歳を取り、家族に付き添われ、杖をつくような状態であったが、訥々と、加賀田一君はどこへいったろうか、いや墓参りに帰っていたようだ、等色々聞いたが、こんな元気な姿で帰ってくれた、こんなに嬉しいことはない、と話かけてくれた。
また、その後同じく奥さんと娘さんに身体を支えられた、近所に住んでいた、幼馴染みの岸本実さんも声をかけてくれた。
昭和三十八年(一九六三)、私が二十七年ぶりにお墓参りに帰った際に、この岸本さんのお父さんから、加賀田さんですか、と呼び止められたことがあった。しかし、この時私は「違います」と言ってコートの襟を立て、他人の振りをして通り過ぎたのである。
会場で岸本さんに声を掛けられたとき、不意にそのことが思い起こされた。あの時、私は友達の厚意を無にし、偏見差別に自らが負けていたのである。
今更ながらそのことが恥ずかしく思い出されたが、ともあれ、こうした六十数年を超えた温かい友情に、私は目頭が熱くなり、万感胸に迫る思いであった。
その後、出席の方々とビールを交わしながら、「人間回復」を掲げ、架橋運動、県の里帰り運動などで私が繰り返し訴え続けたことが、いまこうして現実のものとなり、「人間・加賀田一」という普通の人間に帰ることができたのだ、との実感が沸々と沸いてきた。
会場の定席は二百五十ということであったが、立ち見の方も出る盛況ぶりで、入り切れない聴衆は階下のロビー、控室に溢れ、モニターテレビで聴取してくださる盛況であったと伺った。僅か人口四千五百人の小さな町の、一大イベントであった。
私は自治会運動(患者運動)で鳥取県の里帰り運動、長島架橋運動、予防法改廃の運動などに関わってきたが、やはりこの故郷の方々の温かさに勝るものはない。
町村の身近なところから県の出身者を温かく迎えることが、長年切れていた家族との絆を取り戻す一つの方法ではないかと常々考えてきたが、わが故郷用瀬町が、こうした会を県全国に先駆けて実現していただいたことは、実に意義深いことである。
この日は一日、わが故郷の温かさに情の厚さをしみじみ感じ、長い人生を、生きて、生き抜いて、本当に良かったと心から思った。
この日を含む数日間の模様は、NHK鳥取放送局が取材をしてくれ、「自分に帰った日」と題されたドキュメンタリー作品として、まず我々の地元で放映され、追々各局でも放映された。
このような喜びが私に留まらず、全国の入所者に波及し、遅きに失した「らい予防法」廃止を問うことにつながってほしい、そう願わずにはいられない。
「おわりに」
八十二歳の人生の終焉を迎え、わが人生に悔いはなかったか、と振り返ってみると、若くしてハンセン病という、当時は不治の病にかかり、楽しいはずの青春を奪われ、やはり苦悩の一生であったと思う。
しかし、私は逆境に負けることなく生きてきたつもりである。
特効薬の出現と国民の皆さんの勤労と技術の向上、世界を驚嘆させた経済成長により、わが国の栄養・環境状態は改善され、欧米に次いでハンセン病の新発生患者も皆無となった。
この病気が、かつて遺伝病、伝染病と恐れられたことは嘘のように思えるが、やはり根強く残る偏見差別は消えていない。また、わが国では罹患者の強制隔離を続行したことによって、病気の実態が国民から隠蔽され、若い人のなかにはハンセン病(らい病)といっても知らない方が多くなっている。
最近のエイズ薬害問題、原因不明の筋ジストロフィー、エボラ発熱、イギリスの豚に発生したウイルスなど人間も生物である以上、何が起こるか分からない。
二十一世紀を迎えるにあたり、こうした未知の病気が発生した場合に、文化人としての正しい理解と対処によって、差別や偏見の繰り返されない、幸福な世界が広がっていくことを願い、拙文を綴った次第である なお、本書の執筆にあたり、ご協力を賜った長島愛生園自治会、出版を引き受けてくださった文芸社に、心から感謝申し上げます。
二〇〇〇年 五月
加賀田 一
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