はじめに
ハンセン病については、1996(平成8)年4月、90年間続いた「らい予防法」は廃止になりました。その後起こされた国家違憲賠償訴訟は2001(平成13)年5月、熊本地裁において「国のハンセン病政策は国会の不作為(怠慢)によるハンセン病患者への人権侵害であり、その謝罪と賠償を命ずる」という判決が下り、国はこの判決を控訴断念せざるを得ませんでした。そして小泉総理、坂口厚労相、衆参両院議長の謝罪表明の発表となり、国民からは「ハンセン病ってなぁーに?」「我が国にはそんな隔離法が存続していたの?」という驚嘆の声がかけ抜けたのでした。
近年、島や僻地に隔離したまま放置していたため、国民からすっかり忘れさられていたハンセン病が新聞報道などによって急速に関心が高まってきました。
私の生まれ育った鳥取県では、1996(平成8)年「らい予防法」が廃止されたとき、鳥取県西尾知事は率先して、生存者への謝罪と療養所に身分を隠したまま納骨堂に埋葬されている方々への鎮魂の献花を捧げるために園を訪れました。また、県民との交流会によって啓発活動が実施されました。熊本地裁判決直後、片山善博知事は、「この問題は人権問題として謝って謝りきれる問題ではない」と、県下39の市町村長を招集されて、切れて久しい家族との絆の復活を図ること、所内の納骨堂に眠る遺骨の引取り促進とともに、各地において人権フォーラムを開催し、知事自ら進行を努めるほど力を入れられ、県下の中学校高等学校へはハンセン病を患った者を派遣して、体験と正しい知識の普及運動を進めておられます。
私のような浅学非才の身で、将来ある若者に教えるとか、講演を行うということは誠におこがましい限りですが、自分自身の体験にもとづいて学校PTAなどへの県当局からの派遣、招待があれば出掛けており、私の拙い体験講演を聴いた中高大学生から多く感想文を頂いております。21世紀を担う若者がどう受け止めているのか不安いっぱいでしたが、この若者達の感想文によって、過去の誤ったハンセン病政策が再び繰り返されないことを願っている者として、原文のまま感想文集にまとめてみました。
一校で150枚を超える学校もあり、紙面の関係で寄せて頂いた文章を全部掲載することができませんでした。私の偏見と独断で一校につき数枚となりましたが、ご了承ください。
なお、長島愛生園を訪ねられた学生さんへの講演、フィールドワークへの感想も一部掲載させて頂きました。講演の内容の中から学校によって適切な部分と思われる部分を行っております。
加齢とともに講演に出ることができなくなったときも考え、語り部講演の内容も冒頭に記述してみました。
体験講演
1 ハンセン病の起因
ハンセン病の政策と私の体験もお話させて頂きます。ハンセン病は、我が国では古くから「らい病」医学では「レプラ」と呼ばれ、病状が重くなると顔面が変貌し、手の指は歪み、欠落して足首も切断するという不治の病であり、因習にまつわる偏見・差別の強い、忌み嫌われる恐れられた病気でした。
日本では、推古奈良朝時代の悲田院(病院)や興福寺の施薬院の中に白癩の患者がいたと、日本書記の22巻に記述があるものが最も古く、聖徳太子が四天王寺を建て仏教を広め、社会事業として盛んに救済が行いました。
経典の中では、ハンセン病は「因果応報」であり、前世の悪行の報いで顔手足が腐蝕し変形し見苦しい姿になる業病、即ち天刑病であるとされました。また家族の中に複数の患者がいることは遺伝病であると、患者とその家族までも苦悩のどん底へ追い込みました。
キリスト教でも旧約聖書レビ13章の中に患者を発見した者は司祭に連れて行き、着衣を脱がせ裂いて焼き捨て汚れた者と呼び、離れて住まなければならない、とありこのような宗教思想が今日もなお根強く残っております。これは総べて科学的解明が遅れたことがその起因であります。
1996(平成8)年「らい予防法」が廃止されたとき真宗大谷派では謝罪声明が発表され、キリスト教でもスキン新聞に誤りを認め「重い皮膚病」であったと報じられております。
2 らい菌の発見
1873(明治6)年、ノルウェーの細菌学者アルマウェル・ハンセンが「らい菌」の発見を発表され、世界の学者は競って研究に没頭しました。しかし、あまりにも菌が弱いために試験管による純粋培養も試験動物へも移すことができず、130年を過ぎた今日も未だ培養に成功していません。菌の発見者、ハンセン博士の著書(東大皮膚科教授土肥慶蔵翻訳)によると「らい菌」は産物の中には必ず存在する、患者から菌を摘出することは容易であるが純粋培養が成功しないことは私の力の及ばないところである、と反省の一節があり、キルヒナー博士の「蔓延と予防」という著書によると、試験管から試験管に移すと菌は急速に死滅すると記述されています。当時の細菌学の最高権威者であったナイセル博士はハンセン病は「らい菌」による発症に間違いないと1897(明治30)年、ベルリンで開催された第1回の国際らい会議において発表し、遺伝病でなく伝染病であることが確認されました。その時、ノルウェーで大流行したとき隔離を実施したところ鎮静した事例から、適切な治療薬ができるまでは隔離することが安全であるという国際決議がなされております。その会議に我が国からは国立予防研究所長(現北里大学)北里柴三郎博士、東大皮膚科教授土肥慶造、全生病院長光田健輔氏が同学会へ出席されております。
3 救済と予防施策
我が国では1907年(明治40)年、癩予防に関する法律第11号を制定し、翌年全国を5ブロックに分け青森・東京・大阪・香川・熊本の周辺に府県連合の公立療養所を設立して隔離に乗り出しました。
1902(明治35)年、内務省が発表した登録患者数は3万359人となっており、診察を受けていない者や家の中に隠れている者は5万人とも10万人ともいわれ、家や古里を追われて浮浪徘徊する者も多数いました。しかし、府県立連合の貧しい地方自治体の財政では5ヶ所の総病床数はわずか1450床に過ぎず、家族に見放され故郷を追われた患者の生きる道は、神社仏閣にたむろして慈悲の物乞いをするか、四国遍路に出て喜捨を受ける以外にはなく、街や村には患者が溢れ行き倒れの死者が出る状態でした。私も大阪の四天王寺の参道に足を切断し、傷口に包帯を巻いた醜い姿の方がずらりと並んでいる姿をみたことがあります。
明治維新以後、外国の宣教師の方が続々と入国されてこの現状を見て、静岡復生病院・熊本回春病院・草津聖バルナバ・東京目黒慰廃園など、20人程度の小収容施設を私財を投じて救済事業が行われておりました。
4 らい予防法制定
日本は日清日露戦争に勝利して、世界の大国・文化国家になったと自負し、街にハンセン病患者が溢れていることは国家の恥、即ち国辱病であると、1931(昭和6)年、政府は国の事業として1万床計画をたて、祖国浄化を掲げて患者の終生隔離撲滅政策を貫いた「らい予防法」を制定しました。その中で国立療養所の設置を決め、その第1号こそ私が入所した長島愛生園でした。
この「らい予防法」は公共福祉と国民の保健を目的に掲げているものの、患者の人権を全く無視し蹂躙した、国民に恐怖心を与え偏見差別を増幅させるものでした。
法を平易に申しますと、医師が患者を発見したときは都道府県知事への届出を義務づけ、知事は療養所への入所勧奨し、応じないときは命令をする、更に応じないときは警察力を駆使して強制入所をさせることができる。患者の衣類住居は厳重な消毒、従業は禁止、入所者の外出も禁止。所内の秩序については予防法施行規則の懲戒検束規定によって、所長に警察権を附与して、療養所内には監房を設置して、30日以内の謹慎投獄、7日以内の減食という厳しい罰則取締りができるというものであり、更に改心の状のないとか凶悪であると決めつけた者は、群馬県草津町に設置された特別重監房へ送られました。ここは海抜1000mを越える高地で冬期は零下20度にも及ぶ酷寒であったため、投獄された94人のうち22人が凍死しています。戦後社会問題となり国会で取り上げられたが弁明の余地もなく、裁判の判決があったわけでもなく、治外法権の中で起きた残酷極まりないことでありました。
5 無らい県運動
この厳しい「らい予防法」の制定によって、各都道府県は一斉に「無らい県運動」を展開しました。一過性で自然治癒している者、ハンセン病に酷似した症状のある者、隠れ住む者も密告や警察によって一網打尽に強制収容がおこなわれました。
私の出身地鳥取県では当時の資料によると立田清辰知事を筆頭に県内の名士、知識人、医師を網羅して、らい予防協会を設立し「無らい県運動」を起こしました。
当時、鳥取県が長島愛生園へ登録患者305人の受け入れを依頼したところ、定床が満床である、居住棟の寄付をして頂ければ受け入れ可能であるとの返答があり、県内全戸から愛の募金として6万円を集め、2万5千円を投じて2階建て5棟(12畳半×8室)240床、少年少女寮1棟、面会人舎を愛生園に寄付しました。
こうして、警察力を駆使して法に基づく強制収容が始まりました。患者の衣類は焼き捨て、家は真っ白に消毒をされ、近隣の住民には恐怖心をあおり、児童は登校停止などのため生まれ育った故郷を捨てて他府県へ移住を余儀なくされた事例も数例を聞きました。愛生園に送られた患者は「病気は治る」とだまされたうえ、入ってみると食事や居住は劣悪である上、家族の苦悩を聞かされて自殺者も出る状況であり、ついには22名が集団脱走する事件にまで発展してしまいました。
6 私のハンセン病宣告
私は1936(昭和11)年、19歳のとき大阪の商社で勤務中に、右顔面上に赤く斑紋が出ました。赤十字病院皮膚科の診察を受けたところ、「貴方の病気はレプラです解りますか」と、ハンセン病の宣告を受けました。その瞬間、木刀か何かで頭を殴られた気がして眼の前は真っ白となりました。
病院を出たときも、どこをどう歩いたのか覚えておらず、自失呆然となっていました。交差点に止まっていた路面電車にぶつかり、運転手に怒鳴られたことだけは覚えています。そして、真夜中築港の桟橋でしゃがんでいるところを巡回中の警官に肩をぽんとたたかれて、はっと気がつき不審尋問を受けました。その時、自分の人生はこれで終わりだと自殺を図ろうとしていたのです。
翌日診察を受けながら投薬を受けていないことに気づき病院を訪ねますと「裏門に廻ってください、貴方の病気はここでは診察できません」と診察拒否を受け、「岡山に国立長島愛生園という専門病院がありますから、身辺をよく整理してそちらで治療を受けてください」と教えられました。「専門病院ができているということは医学の進歩もあって、不治の病も治癒するようになったのか」とあわい希望を抱いた反面、「島流し」という思いと交錯しましたが、悩みぬいたすえに一度訪ねてみる決心をしました。
7 母へ病気告白
しかし、愛しみ育ててくれた古里の母にだけは打ち明けて自分の身を隠したいと考え、故郷の鳥取へ向かいました。 母は息子の突然の帰郷に「よく帰った、元気で頑張っているか」と、興奮し、抱きしめてくれる手もふるえていました。そんな母と一晩枕を並べて寝るのも、これが最後であり今生の別れになるかもしれないと想像をめぐらすと、病気の宣告を受けたことはなかなか言い出せませんでした。
夜中寝静まったとき「実はこんどの帰省はお母さんにだけ病気に罹ったことを知らせに帰った」と告げると、母の顔色が一面蒼白となり、「そんな病気のことはご先祖さまから聞いたことがない、それは何かの間違いだ、お前は働きながら夜間部へ通学など過酷ことをするから疲れているんだ、こちらへ帰ってゆっくりと静養すればよくなる」と、言葉は途切れて聞こえるのは溜息ばかり。薄暗い中で見えるのは頬をつたう涙だけでした。
お互いに言葉もなく眠れぬまま夜明けを迎え、母は諦めたのか「病気に治らん病気はない、治らんことは自身が病気に負けているんだ、島で隠れて生きることは辛いこと寂しいことが多いだろう、人間として生まれてきた以上、生きて生きて生き抜いてこそ人の価値がある。家族は助け合って共生することが本来の姿であるが、この病気はご親族の方や血族の方々に大変ご迷惑をかけることになる。それはひいては家系を汚すことにもなる。このことは二人だけの秘密にしてくれ、頼む、頼むよ。私は絶対に口外をしない、生きて生きて生き抜いてくれ、必ず笑って暮らせる日がくることを信じ、便りはしなくてもいい、便りのないことは元気でいると思っている」と励まされて、単身、長島愛生園へ向かいました。
8 長島愛生園へ入所
岡山駅に出迎えられた車を見て驚きました。色はグレーの小型囚人護送車にそっくりの車で後方は観音開き、金網や鉄棒が窓にはないだけのものでした。その車に乗せられ、ガチャンとドアを閉められたときには私の心臓は止まった想いがしました。市内で30分ほど路上駐車をされて、運転手は所用に出かけました。車窓から外を見ると下校の児童が口にハンカチを当て、鼻を摘んで走り去る姿が見えました。それを見ると背筋が凍る想いがして、いよいよ自分も社会から排除され、嫌がられ、恐れられる病気に罹ってしまった、私の人生も終焉かと、身の凍るような寂しさに襲われました。これは岡山駅へ患者が特別列車やコンテナに詰め込まれたまま輸送されてきたとき、車への乗り換えのため歩いたプラットホームを真っ白になる程に誇大な消毒が行なわれたことにより、市民の皆さんに恐ろしい急性伝染病であるかの如く、徹底的に意識させてしまった結果であることが後に判りました。
対岸の虫明へ着き、退庁船が出航するのに乗せてもらえず、折返し来た迎えの小舟に乗りました。ぐらっと傾いたとき奈落の底に落ち込んだという気持ちは、未だに私の体に染みついております。
長島に着き、上陸して最初眼に入った鉄筋コンクリートの建物の表札には「収容所」とあり、何の収容所かなと奇異に感じながらも医局へ連行されて、消毒風呂へ入浴させられました。
出てみると着衣も所持金もなく不安でなりません。「これを着てください」と縞の着物を差し出されたのですが、あたりに私の荷物は見当たりません。不信に思い「縞の着物より私の財布は」と訊ねると、「明日通帳にしてお渡しします」と言います。さらに「預かり証はありますか」と言うと「間違いはない」と語尾を強めて言われ、不安はつのるばかり。「人の財布を無断で開けて預かり証も出さないのは犯罪ではないですか」と言った瞬間「生意気なことを言うな」と高圧的に怒鳴られ、側にいた看護婦さんが「ここでは普通の通貨は使わないのですよ、金額は私が証人になりますから」となだめられ、私はしぶしぶ引き下がりました。
これも後に知ったのですが、療養所内では園内通用票という子供のおもちゃのような園内通貨があって、日本銀行発行通貨は使用が禁止されていました。これは逃走防止のためでした。
消毒が終わると連れて行かれたところは、上陸したとき見た収容所でした。室内には13ベットが入っていました。満床の病室は異状な悪臭が充満しており、配膳された夕食までもが米麦半々の蒸気むしのためかプンと臭うのです。刑務所や拘置所の臭い飯というのはこれのことではと感じて箸はつけられませんでした。
翌日は医局で上半身裸の写真をとられ、入園番号1507番をつけられました。身元調査があり、事務官からは「貴方はここで偽名を使ってもいいですよ」と教えられました。しかし偽名と言うのは犯罪者が逃走時にデタラメな名前を使うものと思い「私は犯罪を犯してきたわけではなくその必要はありません」と言ったものの、母と別れるとき二人の秘密にしようと誓ったことを思うと必要なのかとの考えも少しよぎりました。しかし、どのみち便りはしないのだからという自尊心もあって、本名で過ごすことにしました。
園内を歩いてみると男性は縞の着物、女性は矢絣の着物、作業に従事している人は霜降りの服と、何か刑務所を想像させる雰囲気で、私服を着ているのが気恥ずかしい気がしました。
一週間の病状の診査が終えると、歩行困難な者、結核など合併症のある者は重病等(一室13ベット)へ、肢体、視力障害があって自活のできないものは不自由者病棟(12畳半、6人雑居生活)へ、軽症で作業のできる者は軽症者棟(12畳半6人雑居生活)へ、いずれも男女別棟へ移され、軽症者は各々作業に従事しながら治療に通うとのことでした。
当時、適確な治療薬はなく南方で採集される大風子油が唯一の治療薬であり、臀部と二の腕の筋肉の多い部位に5cc皮下注射をしました。L型(結節)の患者は一時的に病状の進行が鎮静するものの、数年を待たず再発、そして重症になりました。また、早く治ろうと痛い皮下注射を我慢し注射を2ヶ所で一日2本も射って逆に化膿して切開手術を受ける人もいました。
9 重傷者と看護師
職員の定員は極端に少なく、看護師の例をみると開園当初患者定員400人に対し、看護師定員は12名であり、入所者が1450人となったときようやく24名にまで増員されました。重病棟(結核など)140床、不自由者棟(失明、重度障害)120床の看護・介護は、資格のない軽症者が作業として看とりをしており、欠員が生じたときは他の作業に従事している者が随時に召集されて、6日間づつ勤務することが義務づけられていました。また、医師の証明のない者以外は拒否することは許されませんでした。
この異様な雰囲気の中で衝撃的に目に映ったのは、全身潰瘍でやせ衰え包帯にくるまった重症者を抱きかかえて、治療をする看護師の姿でした。彼女らに接したとき、これぞナイチンゲールの権化だと感動を覚え、若い身空で、娯楽も福祉厚生施設もないこんな島里で病んで苦しむ人々を助けるということは何と神聖な仕事であろうかと、地獄の中の一服の清涼剤であると感じました。私も既に肋膜炎を患い長寿は望めず、この人達の手伝いをしてあげたいと、結核病棟の看護作業を申し込み、しばらく従事してみました。深夜勤務の翌日は充分休養をとることができず、非常に重労働だったため一年余りで転職しましたが、いくつか印象に残る出来事があります。
当直の日に53歳の男性が咽の結節肥大のため窒息状態となりました。医師に連絡すると「すぐ手術室へ担架で運んでこい」といわれたので運び込み、患者を手術台へ乗せるやいなや医師は赤チンを塗って咽へメスを十文字に入れました。すると、痰が天井へ向かって飛び散り、私達にも全身に血痰をかぶるほど飛んできました。しかし本人はすうすうと気持ちよさそうに呼吸をしており、見ると咽にはカニューレが差し込まれていました。それを見て心底ほっとしました。また、ある日手術室の前を通りかかったとき、医師が飛び出してきて「ちょっと手伝ってくれ」と呼び込まれました。見ると敗血症のため足の切断手術の途中で、足首の肉は切り開かれ、上部側には止血の金具がいっぱいぶら下がって骨が露出していました。これを見た若い看護師が失神して倒れ、他の看護師を呼びに行ったところで私に出くわし、急遽手伝いをするようにということだったのです。「足を持っていて」と言われたので持っていると、鋸でゴリゴリと骨を切り始め、足を切断し始めました。そして、切断された足を持った瞬間、足はずしりと重くあやうく落としそうになりました。このような、資格のない者は体験することが出来ない貴重な体験をすることができました。
また、この手術のお手伝いをした方が92歳と83歳の長寿を全うされたことは心の安らぎでありました。
10 長島事件
当時、施設の運営は総て軽症患者の作業に委ねられており、大工・左官・土木・理髪・治療手伝い・裁縫・ミシン・売店・作業賃の計算支払い・炊事給食・農畜産・児童の保育教育・洗濯・火葬まで、ひとつの地域社会が形成されていました。光田園長は同病相愛・相互扶助・職員入所者一大家族、この長島を世界に誇るユートピア建設も目指して、道路・宅地造成・十坪住宅(民間寄付金に依る)の建設開拓を全員の勤労奉仕によって推進されておりました。
私が入所して半年が過ぎたとき、長島事件という紛争が勃発しました。当時の愛生園は定員890人の予算示達に対して、1216人、326人(36%)も超過人員をかかえてこれを賄っておりました。一方、施設運営に不可欠であった患者作業の賃金は示達されておらず、食料費・被服費・営繕費・治療費などから捻出されていたために、処遇は著しく低下しており、食費は一人一日20銭の予算は15銭以下となって、古々米の払下げの米に麦半々に馬鈴薯の商品価値のないものの煮付などで、食べても栄養不足となる食事となっていました。さらに、780人の作業賃は月額1900円が2200円に膨張してきて、これを削減するために早朝作業(5時〜7時まで)中、出勤簿に不正があるとのことで職員の抜き打ち総点検が行なわれました。新良田開発のため山を掘削しての道路工事(一朗道)に従事した者に土木・塗工・金工部などの屈強な者40数人はこの抜き打ち点検に対し「充分な食事も与えないで、安い賃金で働かせることは我々を奴隷扱いしている、この制度を改めさせよ」と、園内をデモ行進するようになり、作業センターでは「抜き打ち点検は我々に対する背信行為である」と、作業放棄をしました。そして作業主任21人は会合を持って、この抜き打ち総点検に抗議し、安い賃金の増額を要求するために、翌日作業従事者全員が作業放棄ゼネスト決行を決めました。
さらに、唯一園長から辞令が出されていた入所者41人と顧問7人が独自に会議を持って、差し当たっては予算示達員と同数になるまで、新入所の停止を要請することを決め、予算の公開と処遇の改善を要求するため、作業主任会の決定を是認するとともに、自治制を確立して制度を改めさすことを決定しました。
光田園長はゼネストの中止を要請するため、会議場へ出向かれ直接交渉に応じられ、交渉に入りましたが園長の持論の「救らい」の精神とのくい違いから、交渉は平行線のまま進展はなく時間は過ぎるばかりでした。その時、天井から一本の鉛筆が落ちてきました。これを見た入所者は「盗聴者がおる、捕まえろ」と叫び、傍聴者が一斉に外へ出ました。しかし、建物西側の天井から事務本館へ電話線が敷設されていて、勢いよく飛び出た者はこの線に引っかかって将棋倒しになっていました。何人かは、その線を切断して「この卑劣極まる行為は何事か」と園長にせまりました。
そうこうしているうちに、東の入り口から一人の職員を捕まえて入ってきました。「この職員は逃走未遂のため監房へ投獄されている4人を解放しない限り引き渡さない」と言うと、園長も職務執行中危険を感じられたのか、監房の鍵が入所者側に渡されました。開放のため3、40人が監房へ向かっていく途中、本館下まで来たとき突然放水と目つぶしが投げられました。先頭の水を浴びせられた者は激昂して、逃げる青山看護長を追って坂道をかけ登り、本館の窓硝子を割りました。辺りには暴力は駄目だと羽交締めで止める者、放水ホースを放して園長の前へ突き出す者など大混乱していました。ようやく監房に辿り着き鍵を開けると、投獄者は真夜中何が起こったのかと驚いていました。そのとき開放された4人うち1人はよろよろと歩行が困難で療友の肩をかりて部屋へと帰っていきました。コンクリートの建物で酷暑の中、にぎり飯1コと梅干、沢庵一切では衰弱も激しいことは当然だと思いました。
翌日、園内には岡山県警から40人、地元消防団260人が導入され物々しいムードとなり、職員の家族も本土へ移住されたことを聞きました。夜は2基のサーチライトが照らされてさらに異様な光景となりました。
内務省から奥村理事官、岡山県警岡本部長、堀部特高課長が来園されて内務省からの回答がありましたがその内容は、自治制は認められない、辞任を求めていた園長以下4名の職員の辞任勧告は、国の行政干渉でこれも答えられない、というものでありました。諸遇については11月より310名の予算増額が認められましたが、制度改善のための自治制について認められなかったため、全員が要求貫徹のため光ヶ丘に登り、無期限のハンストに突入することとなったのです。
2日後に堀部特高課長から仲介斡旋策である、本事件の責任者の責任追及はしない、自治会は認められないが自助会として選挙による役員選出の組織が認められるということを条件にハンストは中止され、17日間に及んだ前代未聞紛争は解決しました。
しかし、その後待ち受けていたのは入所者に対する厳しい弾圧でした。代表者の木元巌さんは疲れのため病棟入院され、厳しい神経痛に襲われていました。あまりの激痛に耐えかね鎮痛剤の注射を頼んだところ、医務課長がベットサイドへ来て「あなたはあれ程頑張ったんだからそれ位の痛みは我慢できんことはないでしょう」と彼をなじりました。彼は腹をたて布団をかついで寮へ帰りました。さらに事件のリーダー・首謀者と思われる人は一人ひとり呼び出されて始末書・誓約書を書けと強要され、書いた人、書かなかった人さまざまですが、気の弱い二人は首吊り自殺をしました。
そして、10月1、2日には東京神田のキリスト教青年会館に全所長を招集して、長島事件の報告が行なわれました。その席で多くの所長からは「懲戒検束規定(らい予防法施行細則)の30日間の謹慎7日間の減食では所内の秩序の責任は持てない。従って刑事犯については癩刑務所を早急に設置してほしい」という決議がなされ、国会でも取り上げられ、次に設立予定である国立療養所栗生楽泉園内に「特別病室」という呼称で、あの忌まわしい22名の凍死者を出した施設の建設につながっていきました。
11 優生手術(断種)と遺体解剖
入所者のプライイバシーが守られない雑居生活の中で羨望の的であったのは、民間の寄付による十坪住宅(4.5畳2室、トイレ、キッチン共用)の夫婦寮でした。所内結婚が認められていて、入籍を済ませて届出をすませば順次入居できたのですが、ワゼクトミー(優生手術、断種)の手術を受けることが条件となっていました。人間として子孫を断つということは自らの尊厳を抹殺することであり、手術を受ける者はこの苦悩を乗り越えなければなりませんでした。しかし不治の病で、さらに隔離された中でわずかな自由を求めるためには権力に屈するしかありませんでした。しかもその場合、戸籍抄本を添えて届け出ても、配偶者を失って夫婦としての条件を失った人が退室する場合までの順番待ちであったため、それまでは6畳の間に2組の夫婦が同居し、3年位待たなければならなりませんでした。また、古里に妻がいて重婚になる人は通い婚と言って、女子寮(12畳6人)へ宿泊が認められ、6組夫婦が1部屋に寝るといった動物以下の生活を強いられていました。
優生手術を終えないうちに妊娠した人、妊娠中に発病して入所した人は、掻爬中絶が強制され、胎児はホルマリンかアルコール漬けとなり、ガラス瓶に入れられて教材にとされていました。また、中絶が遅れたときは出産をさせ、産声をあげる嬰児を婦長がガーゼに包んで試験室に入るのを私は見たことがあります。
戦後、水子地蔵を建てて祭ってはあるものの殺人的行為が行なわれていたのであります。また、遺体解剖も無断でかたっぱしから行なわれていたため、尋ねてみると、「国費患者にはその必要はない」と説明されましたが、二件とも明らかに違法行為でした。
12 戦争突入
戦争は刻々と進展し、国家総動員法の発令となり、全員で闘いとった自助会も返還、解散に追い込まれ、物資不足と食料の欠乏で栄養失調者が続出して、数少ない職員は招集されていきました。軽症者は石炭の陸揚げ、島内松の木の伐採搬出、さらには軍需用松根油製造工場が園内に設置されました。
島内は勿論近隣の島からも1トン以上もある松の根を掘り、船で運搬陸揚げし、斧で割って釜で炊くと松根油と呼ばれる油ができ、これが航空機の油に使われたそうです。当時これを聞いて、戦争は勝てるのかと疑いを持ちながらも皆重労働に耐えていました。
また、これらの重労働に従事する者には、にぎり飯2個の特別配食があったため、重労働によって病状が悪化することを承知しながらも、自ら進んで参加する者もありました。食料の配給米は職員の不正横流しなどもあって、代用食すいとん・さつまいも2個であり、1日1度の食事を取るのが精一杯となったため、不足の食料を補うため山の上の荒地を一人20坪(66u)の開拓耕作が許されましたが、空腹を抱えての開墾は重労働でした。荒地で肥料もなく、作物(さつまいも)の収穫は少ない。しかし隔離の島の中に他に食べるものは全くなく、そのまま何もしないでいると餓死するか栄養失調で死を待つだけだったので、植物学に卓越した人に毒の有無を聞き、あらゆる野草も食べるようになり、空き地という空き地には作物を植えました。当時、さつまいもや南瓜の蔓は絶好の食物でした。
労働と栄養不足で各々病状は悪化して、終戦の年には332人(入所者の23%)、翌年には221人の死亡者がでました。寒い時期には遺体安置室には4体も5体も重ねてあり、火葬場だけでは処理できないため野原での火葬が始まりました。また当時は葬式と言っても棺桶をリヤカーに乗せて運び、火葬する場所で仏教信者は患者の中でお経を読める人が一巻あげ、キリスト教では賛美歌を歌って荼毘に伏すだけでした。さらに棺桶は次の遺体に使うため外して、裸のまま火葬するという残酷極まるものでもありました。死亡時も患者付き添いが朝「洗面だよ」と布団をめくってみれば、栄養失調で看護師や医師に脈をとってもらったわけでもなく、勿論家族や友人に見守られたわけでもなく、一人寂しく息を引き取っている人が多く、亡くなったあとも、家族に遺骨を引き取ってもらえないで、島の納骨堂へ偽名のまま眠るという人々が多数でした。これが一人ひとりの人間の最後として地獄でなければ何でありましょう。
13 公民権の復権とプロミン出現
終戦を迎え、剥奪されていた公民権が復権し、選挙権を行使でき、失われた患者の人権が復活しはじめました。懲戒検束規定も廃止され、新しい憲法の発布によって園内通用票も日本政府発行の通常紙幣に代わり、自治会も構成され、優生保護法(この中に始めてハンセン病が加えられたのであり、これより以前の断種は違法)も成立しました。しかし、情報公開が遅れたため、監房の使用や優生手術はその後数年も続きました。
活気的な情報はアメリカのカービル療養所で、1941(昭和16)年、スルホン剤から精製された新薬プロミンが治療薬として使用され、翌年には菌陰性(医学的治癒)となってマイカーで退院したことが伝わってきました。日本でも東大の石館守三博士(プロミンは静脈注射であり、患者さんが辛かろうと経口投与であるDDSを開発された方)が精製されて、東京全生病院、長島愛生園の各々10名づつ試験的治療が始まりました。翌年の鹿児島で開かれた「らい学会」でその薬効が顕著であることが認められ、新聞は菌陰性者続出と大々的な報道を行ないました。
全員がプロミン治療を受けられるよう、期せずして一斉に各療養所内で予算獲得運動へ発展し、これがハンセン病療養所入所者の全国組織である全患協・全療協の結成につながっていきました。またこの運動で5000万円の予算を獲得することができ、入所者全員が受診療できるようになりました。
14 私のプロミン治療
私は戦中、戦後の生きるための重労働によって鎮静していた病症が悪化、さらに終戦の前年激しい虹彩炎を起こし、一週間の痛みと炎症によって失明状態となりました。奇跡的に失明は免れたものの、斑紋結節とハンセン病の症状は重症となっており、そうした中、新薬プロミンの出現は神仏の救いと歓喜雀躍と治療を受けることができました。担当医師も始めて使用する薬の適正な基準が不明で、体重、身長を基準に私は午前3cc午後2ccの一日5ccの静脈注射と決まりました。看護師さんが注射器のエアーを抜くため、消毒綿の上に落とされる4,5滴が無駄に思え、1滴でも多く体内に入れて欲しいと念じながら注射を受けていました。しかし、1週間を過ぎると顔面が紫色に張れあがって、10日後には全身が潰瘍となって、頭髪は抜けて瀬戸内海のような島模様となり、全身包帯に包まれました。とてもその姿が自分の姿とは思えないくらい変貌してしまったのです。療友は日一日と快方へ向かっているのに、何故私だけ効薬がなく重症になるのか、私もいよいよ神仏にも見放されたのかと焦燥の毎日でした。40度近い高熱で食事は摂れず、日に日に体は衰弱していきました。寝ていて思い出されるのは同室であった友達を病棟に見舞ったとき「俺は今晩6時に死ぬ」と言っていたこと。その場は「冗談を言うな」と別れたが、彼は数時間後の午後6時に死亡したことが思い出され、やはり衰弱すると死期まで判るのだ、私も余命1週間か10日位かなと感じるようになりました。
死期が近づいてくるのを実感すると、どうしても母と連絡を取りたくなり、堅い約束を13年目で破って、これが始めの最後と便りを書き送りました。そうすると母はどこからどうして訪ねたのか、戦後のインフレで貨幣価値は低下し、厳しい食管法により米の搬出は統制されている中、また米さえあれば何でも入手できる時代、女性だから裸にされることはないだろうと、お米を帯にいっぱい入れ、両手に提げて来てくれました。途中県境で警察に行き先をたずねられ検問され「米を置いていけ」と没収されそうになりながらも「これは息子が臨終で病院に行くところで、自分の食べる米です。どうか見逃して下さい」と哀願して、沢山のお米を持参してくれました。しかし私の姿、病状の変貌に驚き、ようやく声で確認できたと言っていました。母はそのとき余命もあと数日と思ったのでしょう「お前をこのままにして親として帰れない、看取りをしなければ」と言い出しました。しかし母が行き先も告げずに家を出て帰らないと、長年秘密に隠してきたことが無駄になる。「家内もいることであり、私は大丈夫だ。死なない。生き抜いてみせるから帰ってくれ」と今度は私が哀願すると母は後ろ髪を引かれる想いで帰っていきました。
持参して頂いた白米は早速お粥にして食べました。長い間食べたことのない真っ白な粥の味は感動で胸にこみ上げてくるものがありました。また、竹の子生活と言われ、衣類と魚を交換して栄養補給につとめていた時代、お米がこんなに強力のある食べ物とは初めて身をもって知りました。
一方治療は、プロミン注射は午前3ccを射っていたが、午後は衰弱のために治療棟まで注射に出られなくなったため2ccは射てなくなりました。しかし、そうこうしていると、体力の回復と相まって潰瘍は1ヶ月過ぎないうちに治癒しました。私には3ccのプロミンが適量であったのです。そのようなこともあって私は菌陰性になるまでに3年もかかりました。古い諺に「過ぎたるはなお及ばざる如し」とありますが、身をもって覚えさせられました。
15 らい予防法改正と人権闘争
1953(昭和28)年政府は新憲法にそぐわなくなった「らい予防法」の改正案が国会へ提出されました。ハンセン病は特効薬となったプロミン治療によって、入所者の80%を越える者が菌陰性(医学的治療)となっているにもかかわらず、改正案の内容は旧法の終生隔離撲滅政策が踏襲されており、片仮名が平仮名に代わっただけ、近代的医学の進歩を無視したものでありました。全患協(療養所入所者の全国組織)は一斉にこの改悪の反対運動にたちあがり、全国の療養所から入所者代表を上京させ、厚生省前に座り込みを行い、抗議行動を起こしました。しかし、厚生省は警察を導入し、バリケードを張って患者の要求を一切聞き入れようとはしませんでした。一方所内でも作業放棄、ハンスト、本館前への座り込み、「患者の囚人扱いをやめろ」「人間尊重の治療を行え」「菌陰性者は正式退所を法制化せよ」などのプラカードを掲げての園内行進などあらゆる抗議を行いましたが、衆議院では賛成演説が行われただけで質疑応答もなく可決されました。参議院はさすが良識の府といわれるだけあって、家族擁護の強化、国立ハンセン病研究所の設置、教育の機会均等による高校の所内設置などとともに「この法律は近い将来改正を期す」という付帯決議をつけて成立しました。全患協はこの付帯決議に期待して、全国の入所者全員が団結して闘った歴史に残る人権闘争は一応の終結となりました。
16 ローマ国際会議
1956(昭和31)年4月にはマルタ騎士会が開催され、ローマに世界51カ国250名の出席のもとに「らい患者の救済と社会復帰に関する国際決議」が採択されました。我が国からも療養所長林芳信・野島泰治、藤楓協会理事長浜野規矩雄らが出席しています。これは、らいは伝染力が低い疾病であり、特別規則を設けず、総ての差別法は廃止し、この病気にまつわる偏見及び迷信を除去する啓蒙手段を講ずるべきである。各国政府は彼等に対して保護及び社会復帰に関し、必要な道徳的社会的且つ医学的援助を与えるよう奨励するというものでした。この国際決議に従って世界各国は、一斉に治療によって菌陰性になった者は速やかに退院をさせ、隔離をやめ、家族のもとで治療を行いました。しかし日本の「らい予防法」は終生隔離を定めており、速やかに廃止すべきであるとの勧告を受けながらも存続しつづけました。この会議の後もWHOハンセン病部会は、再三再四勧告をしていますが、政府は世界の学説に背を向けて改廃に着手しようとしませんでした。さらに国際らい学会は1933(昭和33)年には東京で学会を開催して「らい予防法」の廃止促進を図ったのですが、政府は頑固に隔離を1996(平成8)年まで継続しました。
17 国際決議による所内の変化
この国際決議によって療養所の外出制限は緩和され、誇大で不必要な消毒は行われなくなり、所内ではひそかな変化が起きていました。軽症で後遺症の少ない者は一時帰省のまま都会に潜入し、職を求めて社会生活を営む者が出てきました。正式退所ではないため履歴、住居転出届といった困難なこともありましたが、我が国の高度経済成長が追い風となって多くの者は社会復帰が成功しました。そうした中、唯一困難を極めたのは医療費の問題でした。国民健康保険の細則の第6条にハンセン病療養者の「適用除外」条項があったため、正式退所でない者は、一部保険加入に障害が生じ、医療費全額負担をしなければならず、これに耐えられず療養所へUターンしてくるケースも多々ありました。そっと息をひそめて社会生活を送っていかなければならない法的差別の実態がそこにはあったのです。
一方、療養所ではそれまで軽症者に委ねていた病棟の看護・重度障害者への介護要員が不足し、患者が患者を看取るという制度が崩壊していきました。看護・介護は職員への切替えの運動が成果をあげ、病棟は看護師へ、障害者棟は年次計画によって職員へ切替えられていきました。しかし、職員切替棟には掃除機、瞬間湯沸器と近代的設備が整い、快適な職場になっていくのですが、軽症患者が介護している未切替棟では、冷たい水であかぎれを切らして血を流しながら食器を洗う患者の姿がありました。まさにそれは差別の象徴でした。
18 らい予防法改正要望書提出
1963(昭和38)年、全患協は「近い将来この法律は改正を期す」という国会決議が行われて10年、この決議を遵守して速やかに改正すべきであると、改正要望書を厚生大臣宛に提出しました。改正に当たっては世界の学説に準じ隔離政策をやめる、伝染力の弱いハンセン病は一般病院で診察ができるため在宅治療の実施、指定医制度を確立して治療に万全を期する、治療薬プロミン・DDSが療養所以外では使用できない不合理な制度を改める、治癒者の正式退所の法制化、隔離によって受けた損失の補償など19項目の要望を書類にまとめ、以後の厚生省交渉のときは必ず冒頭に行いました。厚生省は、隔離による損失の補償要求には頷くばかりでしたが、隙間だらけの居住棟の整備や、生活向上のための要求には真剣に取り組む態度が伺われました。しかし肝心の法改正については全くその意思がないことがはっきりと感じられました。中には隔離は間違っているという人もいましたが、先輩が施行していることを正面切って「間違っているから改めよう」と、勇気をもって発言する人はいませんでした。
19 朝日訴訟
1957(昭和32)年8月、早島結核療養所の入院治療中の朝日茂さんが、国立療養所の処遇は国民の生存権を保障した憲法第25条国民は健康で文化的生活を営む権利を有する、という最低限度の生活保護基準に達していない。という理由から違憲行政訴訟を起こしました。裁判は10年後の1967(昭和42)年5月、最高裁において勝利しましたが、療養所の処遇は生活保護基準まで引上げられたに過ぎません。この時いかに処遇が劣悪であったかが証明されました。この朝日訴訟が我が国の社会福祉制度の確立の礎となり、療養所の処遇も除々に改善へ向かって進みました。私もこの運動に応援参加した関係でひとしお感慨深い想いがいたしました。
20 長島架橋運動
長島と本土を隔てている海峡は実測わずか22メートル、隔離のための天然の塞壁となっていて、近代学術的にも世界の趨勢から伝染力は弱いとされるハンセン病に対し偏見差別を助長し、国民に恐怖心を与える存在となっていました。この海峡に橋を架け、医療の充実のためのスタッフの確保、入所者の高齢にともなう災害時の救護、生活物資・施設整備機材の運搬などのあらゆる悪条件を克服するため、地元邑久町、岡山県、厚生省、地元選出国会議員へ長島架橋の陳情を行いました。誰も正面きっての反対はなかったのですが、必要は認めるものの、積極的に架橋のためにひと肌脱いでやろうという人は見当たりませんでした。地元邑久町・岡山県は「協力は惜しまないが経費負担はできない、島は全島国有地であり、一般住民がいないことは当然国の事業である」とし、厚生省は「経費の問題もあるが架橋事業を厚生省で行ったことはなく、必要であれば地元が公共事業として実現を固めるべく盛り上がりをみせなければ困難である」と、国と地元のせめぎ合いに終始して、運動は一向に進展がありませんでした。
私たちはこの局面を打開するためにこの架橋を「人間回復の橋」と位置づけ、世論に訴えマスコミの支援を受けるよう運動の転換を図ったところ、国会議員の協力が得られ、ついには厚生大臣へ直接陳情が実現しました。ときの厚生大臣園田直氏は大臣室にマスコミを招き入れ、我々もその中で陳情することができました。その場で大臣からは「ハンセン病は隔離する必要のない証として長島架橋は実現します」と、力強い回答を得られ、紆余曲折はあったものの1988年(昭和63)年5月、邑久長島大橋は完成しました。
このとき既に治療薬は一段と進歩し、多剤併用療法が確立されていました。リファンピシンを中心にニューキヤロン・DDS・B663などを併用することによって、数回の投与でハンセン病は数日のうちに伝染力を失い、短期間で治癒し、後遺症を残すことなく完治するまでになっていましたが、「らい予防法」はこのときも改廃は政府・国会では行われませんでした。
この小さな橋は瀬戸大橋と同時に開通しました。瀬戸大橋は赤字となり現在は大きな課題を抱えていますが、邑久長島大橋は隔離からの開放と社会との交流の橋として人権回復、福祉向上など暗かった島に明るい光を注いでいます。
21 所長連盟と日本らい学会の統一見解
1991(平成3)年、全患協は各療養所自治会の意見をまとめ、再度「らい予防法」の改正要請書を下條厚生大臣に提出しました。厚生省はこれに応えて翌年4月に「ハンセン病予防対策委員会」を発足させました。座長に藤楓協会理事長大谷藤郎(元厚生省医務局長)を任命して活動を始めました。この予防対策委員会の発足によってにわかに情勢が動こうとしてきました。
1994(平成6)年11月、全国ハンセン病療養所所長連盟と日本らい学会は相次いで「らい予防法見直しを求める意見書」を統一見解として発表しました。その内容は「登録患者6000人中菌陽性者は3%程度と推定され、新規発生は10名(沖縄と外国からの労働者)前後と激減しており、医学的判断によれば強制収容する必要は全くない。らい予防法は医学的根拠を欠きながら、入所者の尊厳と基本的人権を著しく侵害し制限をした悪法と呼んで差し支えない。隔離はハンセン病に対するいわれない差別と偏見を助長した原因となったことも否定できない。法は理念において悪法であったが、療養所の存続の根拠となり、医療・福祉の向上により一般国民水準に達した。これは強制隔離の代償措置と位置づけられる。この法律は廃止することが理想であるが、現在の入所者は重度障害・無資産・家族、地域社会との断絶・強制的不妊手術によって子孫の喪失などの事情により、通常社会福祉施設以上の処遇を代替立法によって保障すべきである」というものでした。予防事業対策委員長の大谷藤郎氏も、改正は矛盾が多いため廃止して、現在の医療福祉を代替立法によって存続できることが不可欠であるという私思を発表しました。これによりいよいよ「らい予防法廃止」の気運が高まり、全患協も現在の療養所の存続と福祉生活の継続を法制化することに合意し、90年間続いた予防法の廃止が確定に向けて大きく前進したのでした。
22 らい予防法廃止に関する法律第58号
政府は以上の情勢を踏まえての経過措置として1996年(平成8)年4月、らい予防法廃止に関する法律第58号を制定して、らい予防法の廃止に踏みきりました。ローマ国際会議が行われたとき、ノルウェイでは予防法を即時廃棄し、社会看護法を制定し隔離の補償として、医療費の全額を国庫負担とましたが、我が国ではそれを踏まえながら、世界の施策から半世紀近く遅れたことによって高齢重度障害者となっている療養者に対し、希望する者は療養所の引続き居住を認め、医療生活を現在の水準で補償し、社会復帰を希望する者にはそれ相応の補償をし、退所者であって正当な理由のある者には再入所を認めるという内容のものでした。人間の自由を奪ったにもかかわらず、また学術的にも博愛の精神からも長年の隔離の償いとしては充分なものとは言えないまでも、廃止の経過措置として決定しました。
厚生省は廃止と同時に社会復帰希望者を募集しましたが、希望者は全国で118人に過ぎませんでした。当時すでに入所者の平均年齢が74歳を越えており、法廃止がいかに遅かったかをこの数字が表しています。そして、時の厚生大臣管直人氏は入所者及びその家族に対して長年の苦労を謝罪しました。
23 違憲国家賠償請求訴訟
1998(平成10)年10月、鹿児島星塚敬愛園入所者13人によってらい予防法違憲国家賠償請求訴訟が熊本地裁に提訴されました。これは「らい予防法」によって、日本国憲法に守られるべき患者とその家族の人権が著しく侵害されたことに対し、国家賠償と謝罪を要求するというものでした。多数の弁護士と支援者の応援のもと、訴訟は続々と全国に広がり、熊本・岡山・東京地裁の3ヶ所の集団訴訟となりました。原告団も初期は779人でしたが、判決の出た頃には1700人を超えるほど大きくなっていました。さらに、支援者及び支援団体も続々と増え、その動きは全国的な広がりを見せていきました。
原告の意見書陳述から始まり、証人として大谷藤郎藤楓協会理事長、元療養所長犀川一夫・成田稔、専門医和泉真蔵、が証言を行い、被告厚生省から岩尾総一郎、鹿大教授後藤正道、元奄美和光園長瀧沢英氏などの反対証言尋問が行なわれました。
原告にとって法廷における供述とは、自身の発病によって親族肉親者にまで与えてしまったいわれのない偏見差別を思うために、多大な精神的苦痛を負うものでありました。さらに今でも家族に生活上の迷惑をかけてはならないと、療養所へ身を潜め隠れて生活している中で、忘れようとしても忘れられない自身の棘を、勇気を振り起して涙ながらに吐露・供述しなければならないというもので、非常に過酷なものでした。
しかし、勇気をふりしぼっての証言が行われ、その中には、妊娠9ヶ月のえい児をタライに水を入れられ、母親の目の前で窒息死させられ、さらにガラス瓶に入れられホルマリン漬けにして教材にされたこと。逃走を図り海で溺死した遺体を首に縄をつけて桟橋まで引っ張り運ぶといった残酷極まる行為があったこと。栗生楽生園特別重監房における凍死事件、遺体無断解剖、懲戒検束規定による非人間的な扱いなど思わず目を背けたくなるようなものがあり、それらの証言は法廷で裁判長をはじめ傍聴者に強烈な印象を与えたのです。
弁護団は入所者の加齢もあることから、3年以内の決着に努力された結果、異例のスピードで、2001(平成13)年5月11日、熊本地裁から原告団勝訴の判決が下りました。その判決は「隔離は人権侵害であり、国は謝罪とともに賠償を命ずる」といった画期的なものでした。その判決文の内容は、1953(昭和28)年の立法時には伝染力は低下しており、立法の必要性が無かった。1960(昭和35)年には新発患者は激減していてその必要性は全くなかった。厚生省が隔離を継続したことは、患者とその家族の人権侵害にあたる。国会は人権侵害に当たるらい予防法を改正廃止しなかったことは立法上の不作為(怠慢)である。というものであり、異例の国会をも断罪したものでありました。この判決を受けて、小泉総理は控訴断念という大英断を下し判決は確定し、さらに小泉総理大臣・坂口厚生労働大臣・衆参両院議長4名の謝罪声明文が全国121社の新聞紙上に掲載されたことによって国民をアッと驚かせました。こうして我が国の人権問題の歴史に一頁を飾ることとなりました。その後、賠償についても国とは和解が成立しました。
24 環境衛生病ではなかったか
有史以来続いたハンセン病は医学的には多剤併用療法によって数日で伝染力を失い、恐れられた後遺症を残すこともなく、短期間の経口投与によって完治する病気となりました。裁判の判決文にも明記されているように1960年(昭和35)年以降、日本では新発患者が少なく、ほぼ皆無となっております。無くなって隔離に必要はなくなったとあり、40数年にわたって新発生のないことは、遺伝病ではないことは実証されました。
「らい菌」の発見以来、伝染病として1909(明治42)年から療養所へ強制隔離政策が推進されました。それから療養所で働いた職員は、延何百万人に達するかも知れませんが、その中でハンセン病に感染・発病された方は一人も聞きません。法定伝染病ではよく職員が感染・発病した方を聞きます。そのことからも、私自身が栄養的に問題があったこと、また、免疫力の弱い体質であったかもしれません。どこで感染し発病したのかその経緯は医学的に解明されてなく疑問の残るところであります。
ハンセン病は欧米では早く終息し、我が国も高度経済成長期から新発生が少なくなりました。しかし、東南アジア・インド・アフリカなど後進国といわれる諸国では800万人とも1000万人ともいわれる患者があり、さらにミャンマーやバングラデシュでは年間6000人から10000人もの新発生があり、我が国の専門医が医療援助に出掛けられています。また、インドには学生ボランティアの皆さんが井戸掘りに出掛けられていることも聞きます。いかに飲料水が人間が生きるため、さらには病気の予防のために必要であるかが分かります。
ノルウェーで開かれた第2回の国際らい会議の決議文の第1項には、この病気は一般清潔法の普及により予防できる、とあることに符合すれば、私は衛生環境に原因があったのではと考えます。免疫力の弱い時期、幼児感染といわれる理由はそこにあるのではないでしょうか。
私も農家で育ちましたが、入所者の90%を超える者が農漁村の出身であります。大正、昭和初期、戦後の生活は、家のひと隅には役牛がわらや青草を踏んで堆肥が作られ、縁側の床下には鶏が飼育されて採卵、人糞は肥貯で醗酵させ畑の肥料として素手で使用されていました。さらに人が死亡すれば土葬にしており、腐蝕した肉は地下に浸透して川に流れ、その水を飲料水にしておりました。我が国の上水道が完備されたのは1960(昭和35)年頃であり、裁判の判決文にあるように新発生がなくなり隔離の必要は全くなくなったとある時期と一致します。国民の栄養の向上とともに免疫力も強化され、幼児感染も急速に減少したものと考えられます。ちなみに内務省の患者登録調査表によると、
1902(明治35)年 30,539人
1940(昭和15)年 15,763人
1950(昭和25)年 11,094人
となっております。この年代には科学的治療薬は無かったにもかかわらず減少していることは生活水準が除々に向上して、生活環境も改善されたことでも実証できます。
以上の事柄から、私は医学の知識は全くありませんが、環境衛生病ではなかったかと信じています。
25 再び過ちを起こさないために
人間は生物である以上いろいろなウィルスに襲われ病気に罹ることは避けられません。ハンセン病は1897(明治6)年、ベルリンで開催された第1回国際らい会議において遺伝病ではなく、らい菌による伝染病であると確認されています。それに伴い、ハンセン病がノルウェーで大流行したとき隔離を実施して鎮静した事例があり、隔離することが安全であるという決議が行なわれました。その後世界各国の学者が競って研究したのですが、らい菌は人体の病巣からしか摘出できず、純粋培養や試験動物へ移すことは発見より130年過ぎた今日でも成功していません。らい菌が結核菌に類似していることからズルホン剤から精製されたプロミンを注射したところ、菌陰性者となったという結果オーライの形であるため、治癒にいたった経緯をみても正常ではなく、不可解な事項は数多く残されたままです。
衛生行政に携わる厚生労働省の官僚、療養所長の方々は、学説に従って行政を推進されるわけですが、法律が人間を隔離し尊厳を奪ってしまうような重大な過ちが生じているときは、勇気を持って間違いを指摘して頂きたいと希望します。学説に不透明な点があったかもしれませんが、プロミンが出現して以来、伝染力は急速に失い隔離の必要は全く無くなっていることは熟知していたはずです。しかし、先輩が進めてきた隔離行政を批判し、間違っていると指摘すれば、自らの地位・身分の保全に影響してエリートコースを外され、ライフスタイルが崩れることを懸念して、誰も間違っていると発言する者がいなかったことが、患者とその家族の人権侵害を起こした原因であったことを充分反省して、再びこのような行政が行なわれないことを切に願いたいものであります。
21世紀を担う若い皆さんは間違っていると思えばご両親にも先生にでも間違っていると、はっきり申し上げてよく話し合ってみて、お互いに間違い・誤りを正せるような社会を築いて頂きたいと思います。
ご清聴有難うございました。
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