慟哭の大地12
「慟哭の大地」

12 長春(新京)の街 

長春公園

 「杜の都」長春であった。仙台と姉妹都市と聞いた。プラタナスやポプラの街路樹が、「塞外の春城」と 呼ばれるにふさわしい濃い緑を作っていた。勝利公園、児童公園、長春公園、動植物公園、南湖公園など 緑が多く、花壇に夏の花が咲いていた。伊通河を中心に「満州国」建国の中で人工的につくられた 都市であった。長春の街は、さわやかな風が吹き、日中の暑さも避暑地のような日差しであった。

 私たちの長春の旅はどん欲であった。15時間を超える夜行寝台列車の疲れにもかかわらず、 朝から精力的に動いた。高見英夫さんの顔が緊張している。バスの中で、現地ガイドの艾(アイ)さんが 持っていた戦前の「タウンマップ新京」が当時の様子を理解するのに役立った。中央大街を長春駅に 向かっていくと勝利公園(旧児玉公園)があった。英夫さんの慟哭があった後、公園内の松林に献花し、 冥福を祈った。

 室町小学校跡(現天津路小学校)に行った。高見英夫さん、高見(織田)エミ子さん、石原まさ子さんも 一時的に滞在した場所である。その後、まさ子さんが移ったと思われる満鉄社宅跡に行った。 「ここは、二階建ての社宅があった」と近くに住む老婆が教えてくれた。古い給水塔がある。 隣は、当時の新京商業学校だった。

 「城西衣貿交易市場」の近くと、船越さんに頂いた写真を手がかりに「東大房身」を探した。 軍官舎があった場所で、龍爪開拓団が室町小学校から移った場所である。緑園区遼静小学校側と 判断し、そこで花束を捧げ、慰霊をした。そこから近いこともあって、旧新京飛行場へ行った。 成田宣子さんの父上山重介陸軍中佐は、昭和19年7月から新京飛行場長であった。 長春公園に向かった。戦前は、植物公園と呼ばれ、約2万人の日本人が埋葬された場所、 東大房身の死者もここに埋められた。

 昼食後、私は旧関東軍司令部のあった中国共産党吉林省委員会内にある紀律検査委員会に行った。 吉林省档案館を訪れた。昭和20年8月9日のソ連参戦から8月19日の関東軍司令部降伏までの 文書が見たかった。しかし、昭和20年6月までの文書しかなかった。関東軍が文書を焼却したのか。 残念だった。

 最後に、偽満皇宮博物館に行き、溥儀の生涯を学んだ。


目 次 へ 戻 る
次へ