「慟哭の大地」 |
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14 母(家族)の死と高見英夫さん |
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勝利公園で慟哭する高見英夫 |
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「おかあさん、おかあさん・・・・」といって、高見英夫さんは、泣き崩れた。勝利公園(当時は、児玉公園) の外、正門からいえば右手壁の所であった。
昭和20年11月初旬、母の高見コメさんは、この公園で息を引き取ったと、英夫さんは 記憶している。
私たちは、勝利公園の中で松の木の下で花束を捧げ、コメさんの慰霊に手を合わせた。
「おかあさん、おかあさん、大きな声でゆうた。追いかけていったが、母は遠ざかっていった。 どこへ行ったかわからない」
高見英夫さんの手記には、次のように書かれている。
「長春に着いて間もなく、母は長春に辿り着くまでの間に、最愛の3人の子どもを失い、 それと耐えきれないほどの空腹で、精神的にも肉体的にも強いダメージを受けていました。 私は、亡くなった母を強く抱きしめて『お母さん死なないで、ぼくはこれからどうすればいいの、 僕を置いていかないで』と叫びました。」
母のコメさんは、約3ヶ月にもわたる逃避行で、精神的にも肉体的にも弱り切っていた。 自分の食べるのを我慢して、わずかな食糧も子どもたちに優先した。それでも、3人の 愛する子を失った。逃避行中、子どもを背負い、さらに凍傷で夫が松葉杖をついていたので、 背負ったこともあった。そんな母に、ソ連兵の暴行があってから、生きる気力まで失った。
高見進さんの講演(『仲間のいぶき』29号)では、次のように述べている。
「ある日のことです。お母さんは、病気のせいもありましたが、痩せて痩せて骨だらけになり、 難民所を出てすぐの所で倒れ、亡くなってしまいました。人が僕に寄ってきて 『お母さんが死んでいるぞ』と教えてくれました。泣きながら近くの墓地に埋葬しました。」
兄の進さんも、母は新京で亡くなったと書いている。
しかし、コメさんの姉高見きしのさんや妹神原君恵さんは、春日小学校で高見敬市、 コメ、進、英夫さんの4人に出会った後、数日後コメさんが春日小学校の校庭で倒れて亡くなったと言う。