「悲劇の大地」 |
---|
「集団自決」 |
---|
大茄子訓練所跡 |
---|
中国東北部(旧満州)の勃利から東へ約50キロ。「大茄子訓練所」跡地は、どしゃ降りの冷たい雨が降っていた。ここが、大主上房開拓団の人たちが、最も悲惨を極めた場所だ。
「赤い煉瓦の囲みの中が訓練所の本部があった所です」と人民政府の主任が日本語で説明してくれる。500坪(16.5アール)ぐらいの敷地の本部跡には井戸が2つあった。敗戦に伴う開拓団員の逃避行。昭和20年8月16日朝、大茄子訓練所から約6キロ離れた万竜開拓団を北に向かって出発した後、ソ連軍の襲撃に遭い、5名の死者を出して引き返した。翌朝、今度は南に丘を越えて逃げる際、一斉攻撃を受けた。団長以下18名が犠牲になった。主な男性役員はここで死亡した。
生き残った男性5人はソ連軍収容所に、女性と子ども約60人は大茄子訓練所跡にと、分けて連行された。
この時を体験した唯一の生存証言者藤野初女さん(72歳)によると、悲劇はその夜おこった。
ソ連兵数人がマッチをすって、女性を求めに来た。リーダーを失い、「恐怖と絶望」が支配する中で、母親たちは愛する子どもたちの首を絞めた。そして、自ら井戸に飛び込む人、首を吊る人もいた。別のソ連兵に発見され、命を取り留めた女性たちは、勃利収容所に移された。
藤野さんら七人は夜陰にかくれて逃げたが、途中、連れていけない子を中国人に預け、2二人が残留孤児となった。逃避行全行程で、大主上房開拓団から生じた残留孤児は7人。うち、5人の所在は今も不明のままである。
中隊本部跡の井戸を見た途端、白髪真吾さん(76歳)が、声を上げた。「この井戸、この井戸。わしらが来たから、霊が引き合わせてくれたんじゃ」この場所で、母親の手によって子供が17人が命を絶った。その後、井戸に飛び込み自決した母親九人、精神障害に陥った母と子が一人ずつ、ソ連兵に射殺された人3人、行方不明になった2人。合計33人が犠牲になった。
私は、犠牲者一人ひとりの名前を読み上げた。降りしきる雨は、涙雨のように思われた。「おい、これでわしはもう来れんけど成仏せいよ」。当時1歳だった長女をここで失った白髪さんは、絞り出すような声で、つぶやいた。