2 南京から漢口へ
中支那方面軍は、1937(昭和12)年12月13日、蒋介石・国民政府のいた南京を占領した。しかし、日中戦争は終結しなかった。『図説日中戦争』森山康平著(河出書房新社)―以下『図説日中戦争』とのみ記述―にそって、経緯を述べてみたい。
トラウトマン(駐華ドイツ大使)を通じた工作に対して、日本が「満州国」の承認どころか、北支五省の経済的特殊権益や親日政権の承認、事変の賠償金まで要求したからだ。
蒋介石は、「屈服して滅ぶよりも、戦って滅ぶ方がましである」と徹底抗戦方針を打ち出し、首都を漢口に移した。近衛内閣は、1938(昭和13)年1月16日「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明をだした。
4月には、国家総動員法を公布し、総力戦体制を布いた。5月19日に徐州を陥落させ、6月15日には、大本営は御前会議で武漢作戦・広東作戦実施を決定した。
この作戦の目的は、「漢口をとれば歴史的にみて完全に中原を制したことになり、中国を支配できる」と、首都漢口陥落で蒋介石が降伏すると参謀本部が考えていたことと、もう1点は『戦史叢書』の武漢攻略作戦の記述にもあるように、「漢口作戦終了後広東作戦を実施す」と、北京―広東間の鉄道による大陸打通が目的だった。そうすれば、釜山から広東まで、物資・兵力を運ぶことができるようになることを意味していた。