5 武漢(漢口)陥落
1938年(昭和13年)10月26日に武漢(漢口)は陥落した。『陣中日誌』にも、以下のように記述されている。
「本朝漢口一部陥落の確報入り前線部隊将士の労苦を謝しつ戦友将兵の武運長久を祈り戦死者の英霊に対しては忌心より冥福を祈る」
九江にいた第3部隊に対して、中支派遣軍司令官から26日に、「第五師団第一建築輸卒隊第三分隊ハ其ノ半ケ分隊ヲ明二十七日漢口ニ向ヒ出発スベキ畑部隊軍司令部大田大尉ノ指揮ヲ受ケシメ之ニ随行乗船出発セシムヘシ」と命令がきた。
雨田伍長以下45名が、先遣隊として漢口へ向かった。九江から武漢までは269キロあった。
そして、南京にいた渡部中隊長ら第1分隊の中から、先遣隊として11名が派遣される命令が11月2日に出た。11月4日には、大量の薬を受給する。そして、翌5日に南京に残っていた第1分隊50名が、「近江丸ニ乗船漢口ニ進発スヘシ」と命令を受けた。近江丸には自動車をはじめ、積込個数449個と物資輸送が目的だったようである。11月6日に南京を出発し、13日に漢口に上陸した。ここでは、襲撃を受けていない。漢口の陸揚げでは、兵力不足のため募集した苦力を、連日200〜300名前後使用したと記述がある。
渡部隊長等先遣隊はすでに11月7日に漢口へ到着していて、合流することとなった。第2分隊は安慶、第3分隊の一部は九江と分散したが、漢口が第五師団第一建築輸卒隊の本部となった。漢口の地図は残っていない。11月17日から作業に入った。水野部隊本部の設営、煉瓦の集積、浴槽の設置などを作っている。募集した苦力・中国人大工を使用している。11月20日から22日の『陣中日誌』に記述がみられる
「本日徴用せる支那人大工十三名左官三名苦力一七五名なり。何れも昼食を現地米にて支給する」(11月20日)
「本日徴用せる支那人大工二○名、左官四名、苦力二三二名にして自隊に使用せる他は揚陸作業、小野崎隊、金田隊、原隊、材料等に於て使用す。何れも昼食を給す」(11月22日)
これは、漢口を占領し、現地米を徴用し、それを支払う形で苦力など現地の一般人を使用したものと考えられる。
11月22日「第三分隊九江分遣隊山田伍長以下四十五名十六時漢水付近に上陸、本隊に合す」
11月24日「セレべス丸にて小林軍曹以下三十名本日漢口沖に到着す」
第2分隊は安慶に残留したものの、本隊179名は漢口に集合した。