9 戦闘・捕虜・軍規違反

 『戦史叢書』によれば、「呂集団武漢攻略ニ於ケル戦果並我損害ノ大要」は、1938年11月11日までで、日本軍戦死者4,506名、戦傷14,380名がでた。中国側の遺棄死体数約143,493名、捕虜約9,581名とある。武漢攻略は、第二軍・第十一軍総兵力約50万人で戦った信陽・田家鎮など大激戦の戦闘があった。武漢を占領することは、国民党政府の首都を陥落させることであり、同時に占領した広東と漢口を結べば大陸打通鉄道が確保できることを意味した。

 第五師団第一建築輸卒隊は、「後方支援」が主の部隊であるから、原則的には戦闘はしない。この間、死者はひとりもでていない。しかし、日本軍の軍服を着ている限り、中国側にとっては「敵」であった。また渡部中隊の隊員による敗残兵か一般市民か見分けがつかない状態での中国人通行人の「虐殺」行為もあった。渡部中隊の隊員の中に「問題行動」をおこすこともおきている。それらをこの『陣中日誌』から拾っていきたい。

 *9・18警戒態勢

 9・18事変は、満州事変のきっかけとなる柳条湖事件のあった日である。いわゆる15年戦争のはじまりである。中国側がこの日を「国恥」として重視していることがわかる。

 「南京警備司令部命令ニ依ル九・一八紀念日ニ対スル隊ノ警備警戒ハ内務規定並ニ特別守則ニ拠ル外左記ノ通リ実施ス」「不寝番」を置き、「各班備付ノ弾薬及兵器ハ直ニ使用」出来るようにし、「付近通行支那人ノ取調ヘヲ厳ニシ不審ト認ムル時ハ直ニ捕縛又ハ適宜処置ヲナスモノトス」「九月十五日ヨリ十九日マデ公用以外ノ外出ヲ禁止ス」
 しかし、この時は結局何も表面に見える形ではおこっていない。

 *10・10国慶節記念日警戒態勢

 国民党国慶節は10月10日であった。南京司令部から以下のような命令がでた。
 「本職十月十日国慶記念日ニ於ケル敵側ノ策動ヲ封スル目的ヲ以テ自十月七日12:00時至十月十一日7:00時間南京駐屯地ノ特別警戒実施要領ニ基キ行動スヘシ」

 「南京城外30km内外地点にして危険を考慮し、武装を厳にし警戒裡に作業を実施す」
 と言う状態で、南京の郊外は「治安地区」という状態ではなかった。

 しかし、この時も結局何もおこっていない。10月12日には以下の記述さえ見える。
 「本日を以つて我隊動員下令以来満一年を迎ふ。隊員益々志気旺盛なり、今日南支上陸作戦成功の報あり、一同歓喜す」

 *戦闘

 第2分隊の安慶報告書に、敵襲のために戦闘した場面が出てくる。この時近藤上等兵以下13名は、10月25日自動車道補修のため露営していた。

 「七時十分朝食時刻敵襲ノ警報ト同時ニ騎兵隊本部ニ集合シ騎兵隊中隊長ノ指揮下ニ入リ騎兵工兵歩兵ノ聯合ニテ野砲ノ援護射撃ニ依リ約百米迄前進シ墜ニ敵ヲ退却セシメ本部裏禿山ヲ占領ス。調査依レバ敵ノ遺棄死体十六、占領兵器軽機弾薬六〇〇発其他手榴弾小銃数個」

 *第三分隊漢口先遣隊の通行人殺傷事件

 漢口が陥落したのは、10月26日であった。第三分隊の先遣隊が漢口へ到着したのが10月30日であった。陸揚げして畑部隊宿舎に到着したその日のことである。まだ治安もよくなかったと思われる。

 「十八時三十分立哨中の橋川××通行中の支那人を誰何せし處逃走せんとするを見、銃剣にて此れを突く(重傷)憲兵隊へ直ちに通報す。」

 *憲兵隊出頭

 この件も第三分隊先遣隊でおこった事件である。11月9日のことである。

 「十一時二十分久保上等兵漢口憲兵分隊本部へ拘引さる」

 11月11日の記述には以下のことが記述されている。

 「久保上等兵本日私物整理のため帰隊」
 「十三時より箕浦××証人として憲兵隊へ出頭十八時帰隊」

 11月12日

 「十一時三十分箕浦××憲兵隊に拘引さる。」

 これは、記述がないので、推測の域でしかないが、治安が不安定な中で、警備班長であった久保上等兵と、随行した箕浦特務一等兵と二人でおこした事件である。前述の通行人殺傷事件を憲兵隊に通報しても、あとでお咎めがなかった点を考えても、してはいけないことをしたのではないか。「警備班長」として、漢口陥落2週間後の時期に考えられることは、民間の家に「掃討」に行って、女性への性暴力や略奪・殺害などが推測される。

 12月10日

 「第二軍法会議法廷より久保××に対する判決書を受領せり」
 この事件の責任は上官の久保上等兵だけが取った形になっている。



目次へ戻る
次へ