4 戦場の流行性感冒

 最初に記述されるのは、安慶本部の2月3日の『陣中日誌』である。
 経過を追ってみたい。安慶本部隊員の在隊人数は125名だった。
 2月3日「衛生、感冒患者多く練兵休四名」
 2月5日「感冒流行の兆候あり」
 2月6日「感冒患者数激増、日朝点呼時十五名の患者あり日夕点呼時二十六名に増加する」
 2月7日「本日の診断患者三十五名にして練兵休二十七名」
 2月9日「本日の感冒患者五十二名」
 2月11日「本日の診断患者四十六名」「隊長師団軍医に出頭し河合大尉殿に感冒患者予防のため兵舎改造致度之件意見具申す」
 2月12日「本日の練兵休患者五十一名」
 2月13日「本日の練兵休五十一名なり何れもマラリアの再発患者大部分を占む」
 2月14日入院患者が出始める。小川(仮名)軍曹まで兵站治療所に入院した。

日時
昭和14年
感冒
患者数
2月4日4名
2月6日26名
2月7日36名
2月9日52名
2月11日46名
2月12日51名
2月15日36名
2月19日34名
2月21日37名
2月22日35名
3月1日24名

 前述の戦闘の件で、2月1日から5日まで渡部隊長や岡本(仮名)軍曹は彭澤へ出張していた。

 安慶本部の第2分隊・第3分隊は、病棟建築や飛行場兵舎補修などの作業をしていた。 いずれも「支那人大工を使用」していた。

 表で見ると、2月10日前後の時点が、感冒のピークで隊員数の4割こえる数が感冒にかかった。 その後、2月末まで、30台の数字が続いた。当時の安慶は、「治安」状況が良い。「治安」の 面で不安な彭澤、大通では、感冒の記録はない。淡々と作業報告と加給品としての甘味品、 タバコ、酒など配給のあったことが記述されているだけである。

 2月11日には、渡部中隊長は兵舎改造を意見具申する。14日から入院する兵が続出した。 2月末までに20名が入院している。

 気分の弛緩だけが原因とは思えない。3月には岡本(仮名)軍曹まで入院した。中隊の中心である 下士官までもが入院する現状をどうとらえたらいいか。むしろ、この感冒こそ「戦時性感冒」と 呼ぶのにふさわしいと思う。



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