3 上海から南京まで

 『陣中日誌』による第五師団第一建築輸卒隊の上海上陸から南京攻略への戦いの進路を見ていきたい。

 ここに1枚の地図がある。渡部隊長が所持していたもので,『陣中日誌』とともにお借りすることができた。

 『最新南京地図』とあって,上海・杭州から南京付近までの広域地図と南京の市内図である。 縦74cm,横55cmの長方形の地図である。昭和13年6月10日発行のもので, 至誠堂(上海)が 発行所,著作権者は小山吉三氏,印刷所は日本名所図絵社となっている。

 ありがたいことに,渡部隊長自ら赤鉛筆と青鉛筆で第一建築輸卒隊の進路や舎営地などや 敵のいる地区を印を付けている。『陣中日誌』とともに,第一次資料となるものだ。中国の地名 を現在の地図で捜すことは,今日かなり不可能なことだが,それも可能にしてくれる。

 『戦史叢書』にある南京攻略作戦と南京までの第一建築輸卒隊の進路に注目してみる。

 南京攻略は,11月15日頃から現地軍で特に第10軍では南京への追撃態勢が押し進められていた。 11月24日に制令線廃止し,12月1日に大陸命第8号により,「敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」との大命が 下った。

 南京には,8ヵ所から攻略した。

 上海派遣軍は,12月3日,第16師団と第9師団を南京に向かい追撃した。天谷支隊は鎮江に向かい 前進した。また,同4日には第13師団は揚子江左岸から追撃した。

 一方,第10軍の方は,南京攻略に関する方面軍命令を受領し,第114師団をりつ(さんずいに栗)水北方地区から, 第6師団を藍水西地区から,第18師団を小丹陽付近に進出させた。敵の退路を遮断するように國崎支隊 を揚子江を渡河させ浦口付近に配置した。

経緯表
1937年(昭和12年)
10月28日隊長宇品港出港
11月5日 杭州湾内碇泊
11月21日呉淞桟橋上陸=上海
11月26日南市大同大学宿営
11月30日金山到着
12月1日嘉興に至る
12月2日湖州に至る
12月4日泗安に至る
12月5日廣徳に至る
12月7日十字舖に至る
12月8日建平に至る
12月9日東覇に至る
12月10日蒲塘橋に至る
12月11日 新庄よりりつ(さんずいに栗)水に至る
12月14日南京へ先遣隊
12月17日秣陵関
12月20日南京へ
12月30日南京から列車で上海
1938年(昭和13年)
1月1日上海
1月14日杭州へ
8月5日上海へ
8月9日南京へ
9月11日九江へ


『戦史叢書』にある「南京攻略作戦経過図」(第3章 47頁)及び渡部隊長の地図



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