1989年(昭和63)、玉野光南高校社研部で生徒たちと「我が町玉野を考える」というテーマで、 戦時中の玉野市の様子を知る関係者とフィールドワークした。防空壕跡や戦前からの家屋や戦跡などを 調査研究して発表した。また、『玉野市史』を記述した著者にも聴き取りにいった。そこで、戦時中に「半島応徴士1500人」が三井造船所で働いていたことを知った。 次に、当時の三井造船所の社内報『産報龍骨』を所持している郷土史家に出会った。
その中で、「松原豊成」という「半島応徴士」の代表人物がその『産報龍骨』に手記を寄せていることを知った。 「松原豊成」とはどんな人物か、生きているのだろうか、玉野でどんな働きや暮らしをしていたか興味がわいた。
日本の高校生が「真実の歴史」を求めている、という形で韓国の東亜日報社に関係資料と手紙で送った。 1990年2月20日付の東亜日報に記事が掲載された。約1ヵ月後ロサンジェルスに住む金龍玉氏から反響があった。
金龍玉氏は、便箋16枚にもおよぶ「協和隊の思い出」を書いて送ってくれた。金氏と何度かの手紙のやり取りや こちら側の史料を提供しているうちに、「松原豊成」という人物は韓国産業銀行に勤務している「禹奎鎬」氏ではないかという情報を得た。
その年の8月、私は訪韓してその人物を訪ねた。
若き日の禹奎鎬氏 |
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