13 帰国船

 禹奎鎬氏は次のように証言している。「予定によれば、協和隊員の帰国船が出るのは、翌年3月であった。 しかし、隊員にとっては一刻も早く帰りたい。帰るから3日分の食糧をくれ、といってくる隊員もいました。 当時一人300円ぐらい払えば港にいる密航船をチャーターして、郡別単位で10人、20人と玉野を去っていきました」

 金龍玉氏も次のように手記を寄せている。「終戦後、確か降伏署名の翌日(9月3日)出発して 帰国しました。韓国から引揚者を乗せてきた密航船だった。」

 崔鐘曄氏も次のように証言している。「9月20日頃、118人が300円づつ出し合って宇野にいた 密航船をチャーターして帰国しました。途中台風にあいながらも、広島―若松―釜山―三陟と、 2〜3日でついたような記憶がします」

 栄豊丸という帰国船が宇野港を10月8日に出港した。この船には、協和隊員だけでなく、兵庫県の 播磨造船所に強制連行されていた朝鮮人や三井金属日比精錬所に強制連行されていた中国人捕虜も 乗っていた。禹奎鎬氏も乗船していた。しかし、機関故障という事でこの船は2日後引き返してきた。 中国人捕虜は、呉から米軍憲兵が来て列車で九州へと連れて行った。その後、協和隊員は死に物狂いで あちこちの密航船で帰国していったという。

 禹奎鎬氏の証言によれば、「10月15日頃に、出勤率が悪くて月給が少なかった者、また自分たちで 手配の出来ない、金遣いの悪かった者もいて、自分の自費で密航船に乗れない隊員143人が残った。 私も、本部の教官と交渉して、中隊長や教官がお餞別として15000円のお金を工面してくれ、三井造船所から 重油を現物支給してもらい、143人を連れて帰りました。帰国したのが、10月26日でした」

 もちろん、戦後も日本に在住した協和隊員もいると思う。しかし、帰国を希望した大半の協和隊員は こうして帰国した。


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