6 協和隊の生活 

 3500人の協和隊員は、軍隊式に管理されていた。協和隊長は堀川元中佐、協和副隊長は正畑元中尉で あった。14中隊で構成され、各中隊長は日本人で元下士官出身の予備役であった。各部屋単位の内務班は 12人で班長がいて、4班ごとに小隊長、各中隊に4名の副官で構成された。副官や小隊長には日本語を 理解するものが選ばれ、中学校など高等教育を受けた者が多い。中隊長を通じて直接隊員を管理する 副隊長とは別に、協和隊員の事務的なことをする本部役員室があった。本部役員は三井造船所から 派遣された職員で、食糧・給与・空襲情報・三井造船の生産現場との連絡や配置などを担当した。 ここにも、本部代表副官として、禹奎鎬氏ら4〜5名の協和隊員が配属されていた。

 日程表が、写真に残されている。5時起床、5時5分点呼、5時15分作業、5時30分朝食、5時50分集合、 6時出発、7時30分勤務、18時勤務終了、18時15分帰隊、19時20分点呼、19時30分夕食、19時40分入浴、 21時点呼、22時消灯と黒板に書かれている。食事が10分という時間に注目してもらいたい。

 「食事は、杉の木箱に薩摩芋が中心を占め、海草の塩汁にタクワン数切れだけだった。 これは、年中同一だった」と金龍玉氏の証言だが、多くの隊員がいつも腹がすいていたと異口同音に 語る。ただ、食糧事情に関しては当時の学徒動員の学生も同じような証言がある。

 協和隊員には給与が出た。『産報龍骨』に36歳で家族8名の工員が267円である。30歳の勤務年数 6年、二等工員で150円となっている。当時の朝日新聞に新規応徴士の給与が統一定額化した。 この基準で計算すると、協和隊員53円である。食費を差し引いて40数円もらったのではないか。 この額は証言とも一致する。副官は、80数円だった。 


玉野三井協和隊で
歩哨にたつ呉善福氏


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