9 地下軍事工場

 若い協和隊員の仕事に、地下軍事工場の掘削作業がある。1944年(昭和19)暮れから掘削作業が 始まった。本土空襲が始まり、造機と艦艇部付の隊員は、機械疎開のため地下壕作業に当たった。 合同新聞にも、11月29日付に「隧道式退避壕」という形で報道される。大きな地下軍事工場は2ヶ所 あった。1つは、研究所裏の地蔵山に縦横4メートルで長さ300〜400mの地下軍事工場があった。 中には池貝20尺旋盤を始め、若山6尺旋盤、フライス盤、研削機、ボール盤など大事な機械が格納された。 もう1つは、臥龍山の麓で三井造船所前にやはり縦横4メートルで長さ100mの地下軍事工場があった。 中には東洋8尺旋盤や若山6尺旋盤、歯切盤、セーパー、ボール盤などが格納されていた。ここで働いた 組長以下20名近くの氏名もわかっており、複数の証言も取れた。その他、葛島や中山隧道なども掘削している。

 こうした掘削作業で落盤事故がおきている。金命俊氏は、その被害者である。1991年私たちが 春川を訪ねて、彼に会った。大きな岩盤が落石して腰の骨を折った。彼はいまでも障害を負ったままであった。 日本政府からも三井造船所から1円も補償をうけていない。「一生歩くのが不自由です。歩けないから 働けない。働けないから貧しい。だれが私の責任を取ってくれますか」と泣かれた。

 三井造船地下軍事工場は、1945年(昭和20)3月から特殊潜航艇「蛟龍」をつくることになった。 『三井造船五十年史』によれば、60排水トンの4人乗り「人間魚雷」である。この「蛟龍」は、本土決戦に 備えて、小豆島の内海特攻隊基地に回航される予定であった。5月下旬に第1艇が完成し、24隻目で終戦を迎えた。 当時三井造船所は、「神州第8201工場」と呼ばれ、海軍の管理工場だった。そのため、憲兵が工場内を 監視した。特に、「蛟龍」の製造には神経を尖らせ、日本人従業員すら身元調査をして、機密保持を 厳守した。協和隊員は、三井造船所の向かいにある葛島に空襲から「蛟龍」を守るための格納する 隧道を掘削した。

 昭和20年の4月以後「山のようにあった鉄板も少なくなった」ので、協和隊員約500名が6月に 第4中隊金國鍾聲氏(創氏改名)の引率のもと、呉の造船所に出向した。


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