3 安新と白洋淀
琵琶湖の約2倍以上ある広さの白洋淀は、渤海湾に通ずる天津と保定を運河で結ぶ保津運河によって河北平原の東西が結ばれる。交通の要衝という点で、京漢線という鉄道と並ぶ大動脈であった。この地域を失うと食糧・武器など補給路を断たれるとことを意味し、重要な経済と軍事戦略上の地域であった。
その「治安維持」と「治安粛清」を岡山歩兵第110連隊が受け持った。また京漢線と保定などの「点と線」を支配していた日本軍に対して、延安を中心にした太行山脈と白洋淀の東や南側を支配根拠地とする八路軍の「冀西冀中を結ぶ中共補給ルートの遮断」という軍事的意味があった。
4 冀中作戦とは
冀中とは、河北省を地理的に冀東、冀西、冀北、冀南およびこれらに囲まれた中央部5地域に分け、その中央平原部を称したものである。
冀中地区ハ晋察冀辺区共産軍ノ培養地帯ニシテ各種多量ノ農産物カ冀西ノ辺区根拠地ニ搬出セラレアルモノト判断セラルという状況で、兵力約1万4千人で、聶榮臻(ニエ・ロンジェン)集団が支配していた。
中でも白洋淀付近は、冀中軍区第9分区劉少奇率いる300名の八路軍と対峙していた。安新は、当時未治安地区だった。
呂正操(冀中軍区司令)を司令とする冀中地区の共産軍主力に対し、急襲的包囲作戦を実施し、その根拠地を覆滅するとともに、政治・経済・思想等諸施策を併用して一挙に治安地区の実現をはかろうとした。(『戦史叢書』頁151〜頁157)
5 当時の河北省
『戦史叢書』によれば、当時北支那方面軍参謀本部は、河北省を冀東、冀西、冀北、冀南、冀中に分けていた。安新や白洋淀は、冀中に位置していた。
「北支ノ資源的価値トシテ、石炭(大東亜共栄圏内ニオケル唯一最大ノ供給)・塩(石炭ニ次グ重要資源)、将来ハ重化学工業基地ニナリウル」と書いている。その他、「綿花・羊毛・麻・皮革の衣料原料の供給地であり、農作物としては高粱・小麦・綿花・とうもろこし・粟が耕地面積の大半を占めている」という記述もある。地勢は、「殆ド起伏ナク村落点在スル大平原ナリ」とある。
6 河北省の対日協力者
当時の河北省は、盧溝橋事件以後日本の「カイライ政権」下であった。1940年以後は、汪兆銘政権を樹立し「新国民政府」下にあった。河北省の「カイライ政権」の委員長は王楫唐であった。
「大東亜戦争」が勃発すると「日本の戦争遂行に全面協力する決意」の声明を発表した。「華北の経済政策については、日本との連携をいっそう緊密にし、華北一億官民が一致団結する」とした。河北省の県長(村長)などは、表面的には日本軍に「恭順」している状態であった。
支配地域においては、青年の中から宣撫工作によって、日本軍に協力する「保安隊」を作った。帰順部隊のうち「素質の良好な者」を中心に「皇協軍」も作った。また、八路軍の出没に対して、「諜報」をもたらす村の者=「漢奸」(対日協力者)もいた。宣撫工作のキーワードなる言葉は、常に「共産主義の脅威」を説いた。