日本の植民地であった朝鮮半島は,日本の労働不足を補うために国家総動員法・国民徴用令により1939年から募集・官斡旋方式で強制連行があった。
さらに1943年9月30日,朝鮮総督府令第305号国民徴用令施行規則が改正し,国民徴用令は朝鮮の道知事の権限で実施を可能となった。また,1944年8月「半島人労務者の移入に関する件」閣議決定された。それをうけて,1944年8月28日,臨時道知事会議で阿部信行総督が訓示し,1944年9月「国民徴用令七条の二」により「一般徴用」を発令した。
玉野造船所は海軍の監督下にあり,協和隊3500人は,江原道・咸鏡南道・咸鏡北道出身者から,1922年12月2日〜1923年12月1日生まれを対象として,徴用発令された。1944年9月14日郡庁前集合に集合せよ,との命令を受けて,軍用列車に乗って行く宛も知らされる事なく,強制連行され,1944年9月22日玉野へ到着した。
9月27日,第1次徴用1500人が三井グランドで入所式に臨んだ。加藤海軍大臣代理・村田県知事代理挨拶があいさつしている点からも,国や県の責任は逃れることはできない。1944年10月28日,第2次徴用2000人が強制徴用された。計3500名の協和隊は,現在の宇野中学校の建てられた協和寮で,1中隊250人ずづ14中隊からなるの軍隊組織によって運営された。堀川隊長(元中佐)−正畑副隊長(元中尉)−中隊長(日本人の予備役下士官)−副官(中学校出の朝鮮人各3名)−小隊長−隊員という構成であった。協和隊員は,三井造船各職場と地下軍事工場(特殊潜航艇製造)掘削などに従事した。多くの強制連行が炭坑や鉱山・地下軍事工場の掘削といった苛酷な強制労働であったのに比べて,リベット打ちなど一部を除き造船所の仕事は厳しいとはいえない。
賃金は手取り40数円(一般隊員)副官は80円弱ではなかったかと考えられる。朝5時起床,6時出発,7時30分から午後6時まで勤務した。8月は結局賃金は未払い,退職金も一切支払われていない。
問題は,当時の日本人に「鮮人,鮮人」と朝鮮人を差別し,軽蔑の風潮があったことである。中隊長の一部・本部役員・特高・憲兵の中には何かにつけて民族差別やスパイ扱いをし,暴行を働いた者がいたと証言されている。「特高月報」には,協和隊員68名の脱走者(それも一部といわれる)が記録されている。また,玉野光南高校社研部の調査で,死者16名がでたことが玉野市の火葬許可書により判明した。8月9日には,協和隊員約200名がが憲兵によって予備拘束された。敗戦に伴う混乱や流言飛語を避けるためと言われる。8月の末から当てにできない帰国船を見限って,協和隊員3500名は玉港に停泊する漁船をチャターし,100名〜300名単位で帰国していった。一人当たり300円ぐらいが相場で帰国して家に着いたときは20〜30円ぐらいしか残ってなかったという協和隊員の証言は一致する。