玉野造船入所式・玉野造船少年隊
<玉野造船入所式>

 玉野に着いて,身元確認のため氏名・本籍などを調査後,「どうして日本に来たか」という感想文を書かせた。敗戦後,関係資料は本社からの命令で全部三浦さんの手で焼かれてしまったとのことだが,写真を3枚だけ残しており,三浦さんの証言で全貌が明らかになった。表紙にある1枚の写真が,入所式のもので勤労重役・江尻氏,勤労部長・戸田氏そして教育部・三浦さんと写っている。あどけない顔がすべてを物語っている。

<玉野造船少年隊>

 少年隊員が住むことになったのは,玉野市の造船所の1番奥にある深井というところで,大阪や広島から来た少年隊260人と一緒に住ませた。

 当初72人が入所したが,入所した翌日の夜,協和隊員が「親戚です。面会させてほしい」といって来て一人連れ出したまま帰ってこなかった。要するに逃亡したのである。また,少年隊員の中に38歳の者がいることが判明した。この隊員は,弟の身代わりということでどこかで入れ代わったのだろう。「言葉(日本語)も全く話せず,頭が弱く,入所式の行進すらできない状態だった」ので,あとで帰国させた。

 こうして,少年隊員は71人でスタートすることになった。

 71人の組織は,隊長三浦雄治−副官日本人2人(その内の一人坪井年志春氏はすでに死亡)−小隊長(朝鮮の少年5〜6名)−各班長11名(腕に腕章をしている朝鮮の少年)−班員6名という構成になっていた。

 組織図

大阪少年隊 隊長 三浦氏(31歳)
 江口隊長

(教育部課長)

         副官 赤木・早瀬・大山・坪井
 吉野副隊長(45歳)広島少年隊 隊長 中藤初男(26歳)
(牧師・事務担当)

    ↓

         副官 坂井
(「宗教教師勤労動員令」朝鮮少年隊 隊長 三浦氏

19447 に基づいて)           副官 坪井氏(23歳)

 歓迎会では,食事を食べない。三浦氏が「なぜ食べないか」と聞くと,「唐辛子がない」というので,唐辛子は欠かせないものとして造船所から取り寄せた。

 写真でもわかるように,あどけなさの残る15〜16歳の子供たちのことだから,異国の地の夜に泣く子もいて,三浦さんが添い寝をしてあげたという。

 その後も,ホームシックになったら三浦さんのところへやってきた。

 少年隊員達は,山登りをしたり,食糧不足を補うために漁業組合から網を借りて魚を捕ったり,貯木場の蟹を取ったりして遊んだという。昭和20年の4月以降は,グラマンによる空襲がたびたびあり,休みの日に防空壕を掘り,そこに逃げたという。

 少年隊の隊員達は,初日から錬成中に,朝鮮を出る時,母親が服の中にお金を縫いこんでいたお金を使用して博打をした。お金(賃金)を渡すことは,「逃亡につながる」また,「博打をやめさせる」ためということで,三浦さんのほうで,各自のお金(賃金)を預かった。

 昭和20年7月10日発行の「産報・神州」には,献金欄に「深井寮半島應徴士71名」が,6月分として献金している記事がある。(三浦さんが少年隊の同意を得て渡した) 村田かし子さん−玉野市日比在住・1925年7月1日生まれ(68歳)−は,当時深井寮で賄いをしていた。朝鮮から来た少年たちの印象を次のように語った。

 「寮の中でも,仲よく,素直な少年たちで,朗らかでした。中でも,小隊長の子は,しっかりしていて,賢かった。当時の食事のことですか?朝は,麦が入ったご飯に味噌汁・漬け物,昼は南京カボチャだけ,晩ご飯は麦ご飯に魚とか何かおかずをつけました。おなかはすいていたと思う。日本人も皆なそんな食事でしたからね。でも,私は少しでもお腹がふくれるように一杯ご飯を盛るなど配慮しました。」

 三浦雄治さんの奥さんも次のように語った。

 「礼儀正しい,教育の行き届いた子どもたちでした。結婚していた子も2〜3人いたようです。その子には,朝鮮の風習に従って赤いふとんを縫ってあげたところ,一人いた38歳の年長者にあげるといってきかなかった。また,行進のときその年長者が出来ないで殴られそうになったとき,みんなでかばいあうんです。そういった年上のものを大事にする気風がありました。」 


目次へ戻る
次へ