朝鮮から来た少年造船隊は,1945年8月15日を,玉野で迎え「戦争がすんだ,帰国できる。」と喜びあった。
『三井造船75年史』によると,9月末までの臨時休業が決まっている。「新規応徴士の解雇,半島応徴士の本国送還など終戦処理業務を進めた」とある。
仕事は無くなったが,毎日点呼の時,「今帰国の交渉をしているから,心配しないように」といって三浦さんは励ました。10月上旬に帰国船が出ることに決まり,「預かっていた給与,お米,おにぎり・軍服2枚・毛布1枚を渡した上,少年たちが使用していたふとんの生地をきっと役に立つといっておみやげに持たせたあげた」と三浦さんはいう。一番印象に残った少年として,入所式の写真で一番上の列の右から4番目の小隊長の少年のことを,三浦さんは指さした。木浦(モッポ)出身の少年で「この子は日本語がわからなかったし,反抗的で,扱いにくい少年だった。しかし,別れのとき1番大粒の涙を流して泣いたのを昨日のことのように思い出す」と,三浦さんは語る。
また,「帰国後は,日本と仲良くするために一生を生きたい」といっていた少年もいたそうだ。
三井造船で当時建造された戦時標準船「栄豊丸」という船が送還船として使用されることとなり,10月8日に乗船し,10日に玉港を出航したのであるが,栄豊丸は運悪く故障して玉港に引き返した 『玉野市史』P764 |
この栄豊丸には,中国人強制連行者・協和隊員・全国各地から帰国を望む朝鮮人強制連行者約3500人が乗船していた。もちろん玉野造船少年隊の70人も乗っていた。
「栄豊丸が韓国に着いたら,船が接収されることはもちろん,私自身の生命も危ないことはわかっていたが,連れてきた以上送っていくという決意であった」と,三浦さんは語る。玉野造船側としても送っていく人の希望者を募ったところ,三浦さんと勤労課長の後藤氏と兵庫県から強制連行の朝鮮人を引率していた播磨造船の係長水野氏が名乗りを上げた。余談だが,禹奎鎬さんも協和隊員の一人として乗船していた。禹さんの証言と三浦さんの証言で一致することは多い。
船の中で持っていたお米を賭けての博打がもとで朝鮮人同士の喧嘩があったりした。出港後,伊予灘あたりの来島海峡の潮の流れは早く,この船のエンジンの調子では座礁するしかない状態で,玉港に引き返した。
この時,せっかく帰国できると思っていたのに,出発した後引き返すことになった栄豊丸に怒った朝鮮人強制連行者の間で責任を追求する声が上がって,多くの朝鮮人に日本側の代表者三浦さんが担ぎあげられ海へ放り投げられそうになった。その時,玉野造船少年隊が「隊長を殺すな!」といって助けに来てくれた。このことは,7ヵ月間で少年たちと三浦さんとの間で心が通い合っていたことを示すエピソードの一つであろう。
玉野造船少年隊は玉野市深井寮に入って待っていたが,10月20日頃エンジンを直した栄豊丸に2度目の乗船となった。乗船後,アンカーをあげて汽笛が鳴りいざ出港ということになって,進駐軍が乗り込んできた。玉港からは出発できなかった。外国にむけて出航できる港は日本で6ヵ所のみとなったという。この時のことを,村田かし子さんは「朝鮮の少年たちが帰国するというので2度も3度もたくさんご飯を炊いておにぎりをいっぱい作った」と,懐かしげに語ってくれた。
三浦さんは,この時のエピソードを2つ語ってくれた。
2度目に乗船した栄豊丸の中で換気のためデッキの蓋が開いていた。「金田」という少年が,ハッチの縁を歩いていて約30メートル下へ落下した。「もう助かっていないだろう」と思いながらも三浦さんは無我夢中でロープに伝って降りていくと,下にシートカバーがありそこへ落ちて助かっていた。九死に一生を得て,「ホット」したのと同時に抱き合って泣いたと言う。
夜,栄豊丸に乗船した三浦さんらは朝鮮人強制連行代表者12〜13名を玉野市の西本町にある料亭「吉野屋」で接待した。この時,協和隊員もいたように思う,という。
結局,関釜連絡船と接続している特別列車が10月末に神戸から出るという話があって三浦さんは送っていった。三浦さんは神戸で玉野造船少年隊と別れて,50年間別れたままだ。列車で下関に行き関釜連絡船で帰ったのではなかろうか。帰国できたのは,中国人強制連行者が送還船の中で11月3日に一人死亡したことが「外務省報告」の中にあることから,帰国したのは11月上旬と見てよい。