「緑の大地」6
「緑の大地」

緑の大地 その3 ― 伊漢通開拓団跡

伊漢通開拓団跡と高杉久治

 「松花江のほとり」 ― 伊漢通開拓団跡 ―

 ハルビンから東へ約180キロ離れた所へ方正という街がある。

 9年前にはガタガタ道を6時間かかったが、今では高速道路が走っていて2時間半で到着した。

 方正の水田の広がる郊外に「中日友好園林」がある。ここに日本人公墓が、1963(昭和38)年に 周恩来首相の許可を得て建立された。

 45年のソ連参戦後「北満」いた各地の開拓団員はハルビンを目指して歩いていた。

 ソ連軍に捕まり、方正付近の開拓団跡地で越冬した。凍土の地で食糧難から栄養失調になり、 発疹チフスが流行した。

 弱い身体の者から死んでいった。その数、4500人がこの付近に埋まっていた。約8500人近くいた 女性や子どもに容赦なく過酷な運命をもたらせた。髪を切り、顔に炭を塗った女性にもソ連兵が 襲ってきた。

 「いい薬あるよ、食べ物あるよ、子どもを預けないか」と中国人が近寄ってきた。病気の子を 助けるために残留婦人となった女性も多い。

 高杉久治さんと手を離れた母秋子は、悟君を連れて伊漢通収容所にいた。中日友好園林から 約6キロ離れた松花江のほとりに収容所跡があった。現在収容所跡は、洪水で松花江の中に流されたと 説明を受けた。

 45年10月に栄養失調の悟君が亡くなった。母秋子さんは、日本への帰国が可能になった翌年4月 この地で亡くなった。

 「私は母も弟も覚えていませんが、日本を目指しながら息絶えた母を思うと胸が張り裂けそうです。 この地に私が来たことは、父が一番喜ぶでしょう」

 高杉久治さんは、収容所跡に一番近い所で石を拾った。松花江のほとりには、もうコスモスが 咲いていた。

(山陽新聞夕刊8月20日付掲載)

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