「緑の大地」10
「緑の大地」

大呉家村と高杉久治さん

大呉家村と高杉久治家族

 大呉家村は、張家屯から約6キロ離れていた。周囲は、とうもろこし畑と大豆畑の続く小さな 集落であった。集落の入り口に、高杉さんの義弟が出迎えてくれていた。高杉さんは、一人バスを 降り弟さんの車でどこか行った。私たちも集落の中心部でバスを降り、大呉家村を散策した。 荒武さん夫妻と、高杉さんの家を探した。村の人に案内してもらった。

 板葺きに土や石を載せた屋根には草が生えていた。土壁のしっかりした家であった。石垣で 囲まれ、庭では茶色の地鶏が歩き回っていた。高杉さんは、義弟や義妹に混じって親戚や近所の人に 囲まれ、楽しそうに積もる話をしていた。養母の葬儀を再び行う準備が整って、一同12人が出発する ことになった。私も、その車に乗せてもらった。

 このあと、養母の葬儀が行われたわけだが、少し高杉さんの戦後を振り返ってみたい。

 1941(昭和16)年11月6日に、高杉久治さんは「満州国」三江省七虎力村吉備津郷で生まれた。 父の高杉方一は2年前に七虎力開拓団に入植した26歳、母の高杉秋子は、その年「大陸の花嫁」として 結婚した21歳であった。開拓団では、9町歩の畑と1町歩の水田、5反の野菜畑や馬3頭いて、畑を 手伝う中国人苦力も雇っていた。1944(昭和19)年には、弟の悟君も生まれた。父の方一は、45年の 5月に現地召集を受け東寧工兵隊に配属された。

 ソ連参戦後、逃避行が始まって2日後、張家屯で七虎力開拓団は襲撃にあった。団長以下撃たれて 亡くなり、その後絶望の中で集団自決がおこっている。母の手を離れた高杉久治さん(3歳9九ヶ月) は、翌朝橋のたもとの麻畑で泣いていたところを、芦日新さんに拾われた。芦日新さんは、奥さんに 反対されたので、子どものいなかった妹夫妻の艾景堂さん(34歳)と芦恵新さん(22歳)にもらわれた。 高杉さんは、艾樹章(高杉久治)として育った。

 養父は、15畝の畑を持つ農民だった。1951年9月大呉家村小学校に入学させてもらった。 小学校のとき「日本鬼子(リーベンクイズ)」といじめられた。そんな時も養母はかばってくれた。 小学校を卒業した年、養父の艾景堂さんが肺病で死亡した。農業を手伝っていた艾樹章さんを 林業専門学校へ行かせてくれた。養母は、翌年李生財さんと再婚し、学費は李生財さんが出して くれた。李生財さんと養母芦恵新さんの間に、義弟と義妹2人が生まれた。艾樹章さんは、 林業専門学校を卒業し、19歳のとき中国籍をとり、閻家公社林業站へ就職した。専門学校を 卒業していたから工程師として指導できる地位にも立つことができた。1961年2月李鳳珍さんと 結婚して3人の男の子に恵まれた。

 幼いとき拾ってくれ育ててくれた養母への感謝。優しく、実の子以上の愛情を注いで育ててくれた 養母への感謝。上級の専門学校へ行かせてくれエリートとして仕事につけたことの養母への感謝。 養母に対して「海よりも深く、山よりも高い」感謝の思いがありつつも、養母に相談し、実父の 思いと望郷の念を告げると、帰国を許してくれた。その養母が亡くなっても、すぐには飛んで葬儀へ 行けなかった。そこには、「日本での生活保護法の壁」があった。

 大呉家村には、愛情と涙いっぱいの歴史があった。


紙銭を燃やす中国式の葬儀

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