「緑の大地」 |
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「満飛と青春」 |
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現在も飛行機製造工場 |
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1999(平成11)年に、満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊6人の元隊員と彼らが義勇軍として 「満州」で2年余り送った青春の軌跡を訪ねる旅をした。
6年前の旅に参加された6人の内、小椋さん、竹中さん、村上さんと3人がすでに他界された。 今回は金本弘さんを中心に話をすすめていきたい。
金本さんたち101名の村上中隊が、「奉天市渾河区の満州飛行機製作所(満飛)」に移ったのは 1945(昭和20)年6月初めだった。村上中隊長自らが引率した。住まいは、4qほど離れた花園街大和寮で あった。隊員は、戦車壕を掘る仕事が中心だった。金本さんら4人は事務経理の仕事に就いた。 当時「満飛」では、戦闘機や輸送機や重爆撃機などを作っていた。日本人約8000人、中国人約12000人 が働いていたという。
8月9日にソ連機の「奉天空襲」があって、15日に玉音放送を聞いた。「現地人とのトラブルは 絶対おこすな。単独行動をするな。」と注意された後、村上中隊長は、「これから先は、各自で 生きていけ」と中隊を解散した。
「そもそも、金本さんは、長男で、十分な田畑もある家庭で育ったのにどうして義勇軍に 応募したのですか」と尋ねてみた。
「私は、昭和4年の生まれで、勝山国民学校高等科の生徒でした。学校へ先輩が来て帰国報告会や 映画もあったんですが、親戚の人が満州で成功していた話も聞いていた関係で、わしも満州に行って 一旗揚げようと思って手を挙げたんです。学校から7人が応募しました。校長先生や担任の先生も家に 説得に来ましてな。親は行かせたくなかったし、親戚も止めに来ました。」
1944(昭和19)年5月、村上中隊は内原訓練所から出発した。しかし、金本さんは、残留して 後輩の面倒をみた。勃利の大茄子訓練所に行ったのは、翌年2月だった。大隊本部付の大農具の 管理をしていた。「金本さんは、あまり厳しい仕事をしない、いわばエリートだったんですね」と 聞くと、「いやー、まあ、そうでしたかね」と照れた。「でも、戦後はそれでも苦労しました。 いろんな仕事をしました」と、遠い、昔を懐かしむような目をされた。60年の記憶の糸をたぐり 寄せるように話を始められた。
「終戦後、日本兵宿舎の警備兵をしていた佐藤伍長に出あったんです。もう軍服を脱いで いました。我が家へ来いと誘ってくれたものですから、花園街の佐藤さんの家に、友達5人 (のち3人に)と一緒に行って暮らし始めました。避難民を乗せた無蓋車が奉天駅に着いたら、 日本人会として食べ物や着る物を持って救援にも行きました。幽霊のような姿の女性や子どもたち でした。その中、大阪出身で5〜6歳の女をつれた久本さんと出会い、行きがかりで久本さんには 食事や洗濯をしてもらうということで一緒に暮らしました。私は、満飛を占領したソ連軍将校の ボーイとして4ヶ月間雇ってもらった後、今度は大東門の精米所で2ヶ月働き、次は大東門の銭湯の 掃除や三助さんのようなこともしました。最後は、満飛の滑走路や格納庫の修理もしました。 昭和21年7月末、帰国命令がでて、無蓋車で葫蘆島から仙崎港に着いたのは、8月20日でした。 勝山町に着いたら、私が帰ったことを聞いた父親が飛んで迎えに来てくれました」
戦後60年、何不自由のない暮らしをしている金本さんにも、義勇軍で体験した2年間ことは、 心の襞にしっかりと刻まれている。それは、「青春」という一時期にあった出来事だからか。