「岡山県龍爪開拓団」 |
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2 龍爪開拓団 |
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龍爪(りゅうそう)開拓団は、佳木斯(チャムス)と牡丹江(ぼたんこう)の間で、 ロシア(ソ満国境)に向かう虎頭へとつながる鉄道が連結している林口(りんこう)駅から 一つ南に位置する駅(現在はない)付近にあった。当時の地名で言えば、東安省林口県 龍爪郷である。標高500メートルの龍爪溝嶺東側の緩傾斜地帯で「龍爪河」が近くを 流れている。
1937(昭和12)年の第6次開拓団である。拓務省の技師が軍の飛行機で調査し、良い土地と 牧場に適しているとしてこの地を選んだ。翌年本隊が入植した。龍爪開拓団(団長和田章蔵) には、『満州第六次龍爪開拓団の足跡』(以下『足跡』)によると、延べ1254人が入植した。 山形・近畿各県・中国地方14府県出身者で構成されている村で、開拓団本部(村役場)・ 国民学校・東亜緬羊牧場・畜産学校・種鶏場・加工場・国立種馬場・龍爪神社・青年塾・ 女塾などがあった。
岡山県出身者は、龍爪駅近くの日の出郷・春日郷・上岡山郷と林口駅近くの八幡郷に 居住していた。記録によれば、岡山県出身者は229人いた。1戸あたり、水田・畑を合わせて、 12町歩6反の土地配分を受けている。昭和14年5月、島木健作が龍爪開拓団を訪問したことを 『満州紀行』で書いている。1942(昭和17)年10月9日・10日、山陽新聞の前身である 合同新聞には、「満洲開拓団訪問記」を青本本社特派員の名で署名記事が出ている。
当時の様子が感じられるT家族の写真がある。この家族は、父親と長女が帰国し、 奥さんの次女・三女は現地の収容所で病死した。長男は現地召集・シベリア抑留後帰国して いる。
1945(昭和20)年5月から112人の男性が現地召集を受けた。いわゆる「根こそぎ動員」で ある。『足跡』の記録によれば、龍爪開拓団の帰還者575人、死亡者数637人、孤児・婦人等 未引揚者65人とある。生還率は約40%である。女性と子どもが一番の被害者だったことは 言うまでもない。
在籍 | 帰国 | 復員 | 死亡 | 戦死 | 不明 | 孤児 | 婦人 | |
岡山県 | 229 | 97 | 16 | 97 | 6 | 1 | 7 | 5 |
山口県 | 89 | 42 | 1 | 39 | 2 | 4 | 1 | |
鳥取県 | 178 | 96 | 7 | 51 | 1 | 19 | 16 | 4 |
島根県 | 177 | 58 | 8 | 68 | 11 | 23 | 6 | 3 |
和歌山県 | 46+α | 10 | 3 | 27 | 6 | |||
山形県 | 152 | 42 | 19 | 76 | 5 | 4 | 5 | 2 |
大阪府 | 44 | 18 | 4 | 11 | 9 | 1 | 1 | |
奈良県 | 19 | 6 | 1 | 9 | 3 | |||
兵庫県 | 146 | 56 | 13 | 64 | 6 | 1 | 10 | 2 |
京都府 | 97 | 39 | 5 | 29 | 2 | 21 | 1 | |
滋賀県 | 67 | 29 | 34 | 2 | 1 | 1 | ||
指導員・医師 | 10 | 5 | 5 | |||||
計 | 1254 | 98 | 77 | 505 | 35 | 97 | 47 | 18 |
生存者 575名 | 死亡者 637名 |