岡山県龍爪開拓団7
「岡山県龍爪開拓団」

7 頭道河子(トウダオフーズ)

 まず、高見英夫家族の逃避行の様子を描きたい。

 1945(昭和20)年8月9日、ソ連が侵攻し、未明から林口の街へ連日空襲が始まった。 父の敬市はリュウマチや凍傷があり、足が悪かった英夫の家族は先に南下した。今回の旅で 逃避行の様子を証言してくれた英夫の記憶と当時10歳だった兄の進が1996年備南地区地域交流 学習(注G)で講演をした話を総合して、史実に迫りたい。

 「最初は、着る物、食べる物、飲み物などたくさん持っていたのですが、日にちがたつに つれ、なくなってしまいました。要所々で戦闘をしているから、戦闘に巻き込まれないように 深い山の中に逃げていきました。」(高見進「私の歩んだ戦争の歳月」)

 英夫の家族は、父敬市、母コメ、長男の進(10歳)、次男の英夫(8歳)、長女の貞子 (不明)、三男敬信(5歳)、四男の政志(3歳)、次女の〇子(1歳)の8人家族であった。

 頭道河子までは、「着る物、食べる物、飲み物などたくさん持っていた」と思われる。 しかし、そこで牡丹江を渡る時にすべてを失った。その後、進の記憶では、「この時ソ連軍と 日本軍の戦闘をみて、ソ連軍の武器の精度が圧倒的に違うと感じた」と述べている。

 「山に入ってから、2か月間食糧がなく、毎日山菜や木の皮を食べながら過ごした」(高見英夫「私の経歴」)

 兄の進は、食糧を捜しに出かけて家族とはぐれた。父の敬市は、歩けなくなり、母親の コメが夫の面倒を見ながら逃避行を続けなければならなかった。

 「仕方なく、お母さんは背負っていた幼い弟と妹を山の中に生きたまま放置し、4人で山を 出ようと思いました。しかし、何日間か歩き回って、また弟と妹を捨てたところへ舞い戻って きました。そこには、弟と妹の姿はなく血跡しかありませんでした。二人は、多分山の中の 動物に食べられたと思います。」(高見英夫「私の経歴」)

 横道河子の収容所と思われる場所で、英夫の家族は兄の進とも再会した。

 次に、八幡郷にいた高見エミ子の家族の逃避行の様子を叔母の君恵の証言によって描きたい。

 1945(昭和20)年8月9日の昼過ぎ、林口駅付近に空襲があった。急いで防空壕(地下 野菜室)に逃げ込んだ。「本部に集合せよ」との連絡を受けて、馬車に荷物を積んで集まった。 そこでは、「自害するか、牡丹江へ行くか」議論の末、後者を選択することが決まった。

 8月12日、高見きしの家族は、本部を出発した。夜になるとソ連軍機が飛んできて、照明弾 を撃ち、パァーと一面が明るくなり、その都度畑に逃げた。七星手前で湿地地帯に入り、牡丹江 河に出た。「河を渡ったら食べようね、といっていた弁当が河に流れてしまった」ことを、 よく覚えているという。八番線(鉄線)を伝って渡る時、弁当は流れたのだ。そして、頭道河子を 過ぎてから、食糧難が深刻になってきた。

 母きしのが雪子(2歳)を背負った。君恵(14歳)が幸成(6ヶ月)を背負った。エミ子 (7歳)、弓子(4歳)は、手を引かれて歩いた。

 幸成は、牡丹江河を渡る前に君恵の背中で冷たくなり、草の中に埋葬した。食糧がないので、 畑のジャガイモやトウモロコシを生でかじって飢えをしのいだという。途中雨が降ってきた。 きしのの乳も出なくなったし、次に雪子が栄養失調で亡くなった。弓子は足が腫れ、生の トウモロコシを食べたら下痢が続き、日に日に弱っていった。野宿していた時に息を引き取った。

 ソ連軍からの攻撃や地元農民の襲撃は受けなかったが、激しい戦闘後らしく、日本の兵隊が 河に浮かび、また山中で手を合わせて亡くなっていた人も見たという。谷川に日本兵が浮かんで いるのに、その河の水を飲んだ。日本兵とは時に出会ったり、離れたりした。日本兵の中には、 赤ん坊の泣き声が敵に知られると言って、殺すよう命じたこともあった。白系ロシア人 (ロシア革命後中国に逃げたロシア人)が、食糧を分けてくれたこともあった。

 降伏して下山し、ソ連軍の捕虜となった。龍爪開拓団員の高見きしののグループは200名 ぐらいになっていた。横道河子の畜舎に入れられた。その時、家族は母と君恵とエミ子の3人に なっていた。

         

 日の出郷にいた小林軍治の家族の逃避行の様子を両親の証言を聞いた軍治の証言で描いていく。

 8月9日、ソ連軍が参戦し、林口駅付近を空爆した。団本部に集合がかかり、「自決か牡丹江 方面に逃げるか」が話し合われ、逃避行することに決定した。8月12日、老人、女性、子ども 約1000人の団員が、約250台の馬車に荷物を載せて出発した。湿地地帯もあって、馬車を捨て、 馬の背に実用的な物を残し、進んだ。七星までは、線路沿いに歩いていた。8月13日、ソ連軍は 虎頭方面から林口に侵攻したと情報が入った。ソ連軍が何度も照明弾を撃ってきたので、 頭道河子に向かった。頭道河子の前には立ちはだかる牡丹江河が流れていた。その中に、母の 静恵と軍治母子が歩いていた。このとき母の静恵は出産間近だった。

 一本の八番線(鉄線)を頼りに、身重の母が、軍治を背負って渡った。それから約1ヶ月間、 山中を彷徨した。「団長がキャランスキー製材所で団を解散し、自由行動する」と宣言した ため、逃避行は艱難辛苦を極めた。軍治(3歳)の母は、山の中で赤ちゃん(光静)を出産した。 しかし、「赤ん坊を殺すか、軍ちゃんを殺すか」と同行の人につめよられたという。乳も出ない 中で、赤ちゃんに生きていける道はなかった。

 龍爪開拓団員は、岡山県関係者だけでも、子ども中心に13人犠牲者を出した。

 『足跡』の記録によると頭道河子を越えた後の山の中で、森本、近藤、平野、手島、岡田、 今岡、そして高見英夫の弟や妹、高見エミ子の妹や弟など、13人死亡した。多い兄弟姉妹の中で も一番幼い方から亡くなっている。大人では、船越美智子の祖母の松や森本と2人亡くなっている。

 9月半ば、「どうも様子がおかしい」「野たれ死にするよりはまし」と、ソ連軍の捕虜に なる事を覚悟で下山した。

 軍治は母と横道河子で捕虜となり、海林、拉古と収容所を転々とした。

 その後、無蓋列車でハルビンへ送られた。花園小学校(収容所)で暮らしていたところ、 召集解除された父と再会した。ハルビンの日本人街で、飴や食べ物を売ったりして一年間暮らした。 翌年引揚げたが、3歳以下の子どもが帰国できたケースは珍しい。「父と再会出来たから、 生きて帰れたのです」と、軍治は語る。

 注G 高生部研備南地区集会とは、岡山県高校生部落問題研究会に集う備南地区高校生 集会である。この岡山県高生部研は、1973(昭和48)年に結成し、部落問題を中心に障がい者 問題、民族問題など地域の中での平和や人権問題を取り上げた。1996(平成8)年、高見進は 備南地区の高校生の集いで「中国残留孤児問題」を講演した。この講演の記録は『仲間のいぶき』 28号に掲載された。高校生は、「帰ってきた子どもたち」と題して構成劇で上演した。 高生部研は、2002(平成14)年から高校生社会問題研究会(高社研)と改称された。


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