「岡山県龍爪開拓団」 |
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15 撫順と中国残留孤児 |
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1975(昭和50)年、今岡泰子(中国名=王桂蘭)は、お兄さんによって遼寧省撫順で 見つけられた。翌年、一時帰国をし、1985(昭和60)年に永住帰国した。泰子は、岡山県苫田郡 上加茂村で1937(昭和12)年に生まれた。彼女が2歳の時、一家9人で林口県八幡郷へ開拓団と して移民した。高見慎家族とは八幡郷の四軒隣で、エミ子とは小学校の同級生だった。
泰子の家族は当初9人で、八幡郷で妹と弟が2人生まれた。1945(昭和20)年8月9日、ソ連機 による林口の街が空襲にあった。そして、その後逃避行が始まった。一番下の弟が横道河子に 近い山中で死亡した。新京の東大房身収容所に着いたときは、家族全員が病気になっていた。 翌年、飢えと寒さで次男と四女が相次いで死亡する。お母さんも倒れ、今にも家族全員が死に そうな状態になった。
そんな時、家族を救ったのは長女であった。「家族を援助してもらう」という条件で 12歳上の中国人と結婚した。泰子は、姉の結婚相手の妹の家に、養女に行くことになった。 1946(昭和21)年7月、姉の結婚や泰子が養女に行くことで援助を受け元気になった父、母、 残りの兄弟4人は、帰国した。父母は私を残して日本に帰るということを言い出せず、 「さようなら」も言わずにいなくなった。
「私は姉から家族が日本に引揚げたことを聞かされ、気も狂わんばかりに泣きました。」 (今岡泰子第一回原告意見陳述)
養父は、農業と馬車タクシーを運転する仕事をしていた。泰子は、体の弱かった養母に 代わって家事を手伝い、夜間学校に2〜3年間通っただけで、それも休みがちであった。満足な 教育を受けさせてもらっていない。さらに同級生から「小日本」「日本鬼子」といじめられた。
1953(昭和28)年、心の支えだった姉が亡くなり、両親との連絡方法もわからなくなり、 中国で一人ぼっちになった。1958(昭和33)年、泰子は撫順の工場に就職した。4年後、楊克禎 (今岡禎一)と結婚し、二人の子どもを授かった。
泰子のことをいつも気にかけていた父の遺言で、兄が泰子を捜し出し、手紙が来た。
「家族が私のことを忘れていなかったと思うと、嬉しくて涙が止まりませんでした。」 (今岡泰子第一回原告意見陳述より)
一時帰国したものの、中国人の夫は、日本に連れて帰れない。夫の父母もいて、一時は 永住帰国を諦めた。しかし、「私の日本に帰りたい思いはますます強くなりました。」夫の 両親が亡くなった。1985(昭和60)年、兄に身元保証人になってもらって、一家4人で永住帰国 した。
泰子、48歳だった。「必死で、日本語を勉強したがいまだに片言しか話せない。泰子も 夫も、働いたが、病気になり、今は年金をあわせても6万円余、あとは生活保護に頼る。 それでも、泰子は、心の支えだった姉の子や孫を日本に呼び寄せた。
泰子に、7月に会った際「今年の夏、龍爪開拓団の跡地に行って来ます」と、伝えた。 耳が遠くなっている。しかし、小柄な泰子は、嬉しそうに「ありがとう」といって頭を下げて くれた。