「悲劇の青春」 |
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「はじめに」 |
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延吉捕虜収容所跡にて参加者全員 |
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「悲劇の青春を訪ねる旅」
昭和13年以後、国の要請に応えて、岡山県の満蒙開拓青少年義勇軍は、8次にも亘る総数2703名(『岡山県史』)を送出した。全国的にも第9位とベストテンに入る送出数の隊員が旧満州の地に送られた。(そのうち、死亡429名・未帰還者197名で23%が、帰国していない)
1937年の日中戦争勃発後、戦線は拡大し、多くの兵士が召集され始めた。開拓団員に代わって着目されたのが、青少年層だった。1937年12月に「満蒙開拓青少年義勇軍募集要綱」を定めて、募集が着手された。
満蒙開拓青少年義勇軍は、数え歳15〜18歳が対象年齢。18歳になれば志願兵の資格があるが、その下の年齢を狙ったものである。そこで尋常小学校(昭和16年以後は国民学校)高等科在学中の生徒が対象となった。そのため、地域や教員が盛んに勧め、煽り、数を競うような形で応募させた。そして、校長や教員が引率し、茨城県の内原訓練所で約3ヵ月の訓練後、満州に送り出した。
満蒙開拓青少年義勇軍の村上中隊は、ソ連参戦後、守ってくれると信じていた関東軍にも見棄てられ、中隊は解散し、艱難辛苦の末、自力で引き揚げてきた。しかし、隊員の4分の1が、ソ連から攻撃を受けて死亡したり、満州の厳しい越冬を乗り越えれず、発疹チフスや栄養失調などの病気で若い命を散らした。
戦後54年目を迎えるにあたって、満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊の生存者を中心に、「悲劇の青春を訪ねる旅」実行委員会を結成し、元隊員に現地を同行してもらい、その貴重な体験を聞き、歴史の教訓を学び、さらに、日中友好をはかる計画を企画した。
したがって、これまでのような元隊員が単に殉難者を慰霊すると言った旅の形ではなく、一般募集の希望者にも幅広く参加してもらった。日中戦争後の、戦地に青少年を駆り立てる教育のすさまじさを学び、満蒙開拓青少年義勇軍の歴史を心に刻み、逃避行の艱難辛苦を尋ね、あわせて中国の教育施設に教育基金を寄付するという21世紀に向かっての日中友好の架け橋を企画した。
なお、この旅行にあたっては、村上中隊の関係者及び岡山市日中友好協会の協力をいただいた。改めて感謝の意を表明したい。
岡山県立総社高等学校教諭 青木康嘉