悲劇の青春10
「悲劇の青春」

延吉と捕虜収容所

延吉捕虜収容所跡での慰霊

 延吉は、延辺朝鮮族自治州の中心都市である。延辺朝鮮族自治州の4割が朝鮮人と言われている。延吉市の朝鮮人割合は、6割にも及ぶ。どこへ行ってもハングルが併用である。

 延吉の街には、フルハト河が静かに流れている。かって、旧満州国時代には、間島市と呼ばれていて、関東軍第3軍司令部があり、日本人居住区があった。

 延吉の市内から一望できる山並みの麓に、捕虜収容所があった。バラックが並んでいた。約1万人もの日本軍の捕虜が、ここへ収容され、数ヵ月後にはシベリアの強制労働へと送られた。

 東京城から歩いて来た義勇軍も最初ここにいた。しかし、1ヵ月後まだ年齢が小さいということで、延吉の日本軍が管理していた刑務所跡(現在の延辺芸術劇場)へ移された。

 板場に、破れたドンゴロス(麻袋)を纏って寝た。1日2回湯飲み茶碗1杯ほどの高梁粥が支給されただけだった。

 藤島武明さんは、収容所を脱走して延吉市内の野上さんという老夫妻の家に住ませてもらった。収容所の元日本兵との物々交換をして暮らして越冬した。「その時、日本兵に近づいただけで、ソ連兵に何度も撃たれそうになったんじゃ」と、言う。

 坪根孝さんや厨子琢之さんは、刑務所跡の収容所にいた。「そこは、義勇軍の仲間内での弱肉強食の世界だった。ネズミを取り合って食べたり喧嘩もした。栄養失調、発疹チフスにもなった。この収容所内で、越冬できなくて、森元君、矢吹君、三浦君、青山君、国米君、唐内君の6名が、昭和20年の11月から12月頃にかけて亡くなった」と、言う。

 亡くなった仲間を、延吉の南側の山裾斜面まで運んで埋めた。藤島さんに、そこへ連れていってもらった。しかし、山裾には赤煉瓦の住宅が建ち並んでいた。近くで手を合わす事ぐらいしかできなかった。

 国民党と八路軍の内戦が始まり、食べていくために軍隊に入った義勇隊員も多くいる。 厨子さんは、八路軍の炊事夫として働いた。

 坪根さんは、昭和21年の正月から満電の官舎に住んでいた斉藤さんにお世話になった。そして、タバコを売ったり、使役にも出た。3月には、王さんという中国人の家に行き、農業の手伝いをしながら、体力の回復を待った。

 こうして、延吉の厳しい越冬の末、葫蘆島から帰国したのは、昭和21年の9月から10月頃だった。 


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