悲劇の青春18
「悲劇の青春」

瀋陽−その3

元花園街跡にて当時を語る金本弘さん

 瀋陽故宮博物館は、城内に囲まれた所にある。清朝建国の太祖ヌルハチと太宗ホンタイジが住んだところである。

 そこを見学した後、金本弘さんは、バスの中から体を乗り出してきた。

 「ここが、大東門じゃ。私ら、ここを歩いて行ったもんじゃ。そうそう、あそこに塀が見えて来たろう。あれが、飛行機の部品を作っていた兵器工廠。右側の運河は当時なかったがな。運転手さんその先を左に折れてください。ああ、あれ、あれが満飛の正門に当たる所じゃ」

 53年という歳月を感じさせない記憶力である。当時満飛は、約2万人が働いていた。その内、日本人は8千名。工員のほか、義勇隊と女子挺身隊や徴用工に学徒動員もいた。昭和20年8月上旬から満飛工場の周囲に戦車濠を掘り始めた。

 金本弘さんは、昭和4年勝山で生まれた。国民学校高等科の時、担任の先生に勧められて満蒙開拓青少年義勇軍に入った。金本さんは、内原で残留部隊に残り、翌年に後輩が入所するまでの内原の管理や所外訓練所に行っていた。昭和20年2月20日に、大茄子訓練所に向かった。内原でも大茄子訓練所でも、大隊本部付きの仕事をしている。

 玉音放送の後、村上中隊長は「引き揚げまで、自力でがんばれ。現地の人とトラブルをおこすな」が言われた。満飛では働いた給料は、1円ももらわなかった。大茄子訓練所で幹部に預けたお金もどこへ行ったのかわからない。無一文で異国の空へ放り出された。百名いた隊員の「生きていく才覚」には、それぞれ違いがある。

 金本さんは、浅尾・菱川・本多という友人と4名で、以前から知り合いだった関東軍下士官の兵隊佐藤さんを頼って、5名で暮らすことができ越冬できた。しかし、路頭に迷い、着ている服やシャツをマントウと交換し、放浪・飢餓状態になって、街の中で拾い食いをし、寒さに震える「どん底」の生活を送った隊員も多い。そうした中、旧奉天市内で、越冬できず死亡した鳩場君・梶井君・岡馬君・浮田君・林田君・内田君・佐々木君・河島君・松本君ら9名の隊員がいた。

 旧花園街で慰霊をし、冥福を祈った。

 また、中国人に助けられて、住み込みで働いた隊員もいる。幾多の混乱と飢餓から助けてもらった養父母の愛情と命の恩人に対して残留を決心した隊員もいた。様々な「悲劇の青春」が旧奉天市内でおこった。 


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