悲劇の青春21
「悲劇の青春」

旅順

203高地に建つ忠霊塔

 旅順は、1996年から外国人にも開放された。中国の海軍の軍港というのが、理由である。遼東半島の先端にあって、黄海と渤海との境に位置する旅順は、自然の地形を利用した港であり、「露天博物館」といわれるような歴史保存地区である。

 私たちは、大連周水子から北ル−トで旅順へ入った。約1時間、距離にして40キロぐらいか。まず、「水師営跡」へ立ち寄った。「くずれのこれる民屋に今ぞ相見る二将軍」と、唱歌で歌われた会見場である。

 しかし、この「水師営跡」は、本物ではなかった。史料に基づいて復元されたものだった。棗の木も植えられ、日本語の話せるおじいさんが、土産物店の手伝いをしている。

 乃木・ステッセル会見場へ入ってみた。真ん中に、土間があって、左側がロシア側、右側が日本側であった。どちらの部屋も、20畳ぐらいの広さであった。ロシア側で会見は開かれた。外の庭に、「関東都督府」と書かれた石碑が欠けた状態で横たわっていた。

 次に、203高地に登った。途中まで、バスで登る。その麓は、リンゴ園であった。映画で見たような岩肌の山かと思っていたら、松林の茂る緑の山であった。頂上に登ると小銃弾の形をした「爾霊山」と文字が刻まれた忠霊塔が建っていた。乃木将軍が、犠牲者の慰霊と戦勝を記念して無数の砲弾を鋳ぶし、建立した。ロシア軍の石垣で作られた堡塁跡も残存している。

 1904年8月19日から12月5日にかけて、多数の死傷者を出しながらも激戦の末占領した203高地である。頂上に登ってみて、初めてその価値を理解した。旅順口が一望できる。28榴弾砲による旅順港内の間接射撃でロシア艦隊は壊滅した。

 しかし、旅順を「日本人の勝手な郷愁」で訪問することを快く思わない「中国人の歴史観」があることを忘れないでほしい。

 旅順は、まだまだ開放されていない場所がある。伊藤博文を哈爾濱で暗殺した安重根が収容されていた旅順監獄跡などである。ここを開放・陳列博物館にしたら、日韓の観光客は増えるだろうと思う。

 旅順から大連に向かって帰る際は、海沿いにそって旅大南路を利用した。この地域は、ビニ−ルハウスで野菜を作り裕福な農家が多い。また、入江で養殖漁業をして成功した人も多いと聞いた。どの家も最近建てられた感じできれいだった。高級別荘地やホテルも建ち並らんでいた。中国は確実に「改革・開放」していると、感じた。 


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