『ムグンファの季節』 第6章


翌日の朝、私は九時にはホテルのロビーで待っていた。コーヒーの香りがたまらなく、一杯注文をした。

「おはようございます」

期せずして、佐藤久子先生と木村さんが、ロビーに顔を見せてくれた。再会を喜び、握手をして、ソフアーに座るよう勧めた。

「おはようございます」

高木先生と藤原さんが、ロビーに現れた。「キムさん、高木先生、鈴木綾さんのことが分かりました。やっぱり、ラムネ屋さんに下宿していた人でした」

木村さんが、気色顔面にうれしさを漂わせながら話した。

「鈴木綾さんは、邑久の女学校から来た挺身隊の人で、玉野高等女学校に近くで親戚の沖田というラムネ屋さんに下宿していたから、キムさんの記憶が間違えていたと思うの。ラムネ屋さんのおばあさんがまだ生きていて、綾さんが協和隊に勤めていたことも確かめてみたわ。綾さんは、戦後ラムネ屋さんを手伝っていたけど、昭和二十二年頃児島の繊維会社で働いている多田さんという人と結婚したらしいの。しかし、綾さんは、昭和二十七年に結核で亡くなったそうです。その後ラムネ屋さんのおばあさんと多田さんとの付き合いはなくなったらしいの。その後、多田さんは再婚したというけど、綾さんのお墓は琴浦の多田さんの家のお墓に一人祭られるいることもわかったわ。一応、多田さんの住所と電話番号も聞いてきたから」

「琴浦だったら、今日これから行く火葬場跡のお寺と同じ方向だし、そう時間がかかるわけでないのでついでに行きましょう」

高木先生は、多田さんの住所と電話番号を書いた紙をもって、ホテル内の電話に向かった。五分ほどして高木先生は、戻ってきた。

「今、多田真吾さんと連絡がつきました。お墓に案内してくれるそうです。ただ、午前中しかあいてないので、これからすぐに行こうかと思います。キムさんよろしいか。協和隊員のお墓参りが午後になっても」

私たちは、高木先生の車に乗って、綾さんのお墓に参ることになった。途中、お供えのお花も買った。

多田真吾さんに、案内されたお墓は、瀬戸内海が一望できる小高い山裾にあった。

「キムさん、あれが瀬戸大橋です。坂出の町が見えます」

「ええ・・・」

藤原さんが、指差してくれたけど、私は生返事しかできなかった。綾さんに会える、もちろんお墓だけど胸がつぶれる思いだった。

「お彼岸以来ですから、草ぼうぼうですいません」

多田真吾さんは、小柄で、痩せた老人だった。七十五歳と聞いた。多田家の先祖墓がある中で、隅に小さなお墓があった。

「十字架と多田綾の墓、と書いてありますが、綾さんはクリスチャンだったのですか」

「そうです。綾は私と結婚して、三年目に結核になり、二年間患いました。その間信仰するようになったんです」

佐藤先生がお花を供え、藤原さんが線香を焚き、木村さんが、お墓の回りの草を抜いた。私は、皆さんの準備が出来た後、ひざまづいて、お祈りをささげた。

「キムさんは、プロテスタントですか」

「いや、私は、カトリックです」

高木先生が、お墓と、お花に水をかけ、お線香を指した。藤原さん、木村さん、佐藤先生、そして、最後に多田真吾さんが、同じようにして拝んだ。

私は、お墓参りの日本人の風習を見たのは初めてのような気がした。韓国では、お墓の前に蓙をひき、ご馳走を並べ、土まんじゅうのようなお墓に三回お酒を撒き、立ったり、伏せたりして拝む。そんな、文化の違いを感じていた。

「綾さんは、私の命の恩人なんです」

私は、綾さんのお墓の前で、帰国の時の綾さんにお世話になった話を始めた。


九月二十三日。前日、瀬戸内を大型台風が通り過ぎていった。横殴りの雨と風がたたきつけるように激しく襲った。しかし、今日は空には雲一つなく、街路の埃も塵もきれいに掃いたのかと思われるほどであった。

協和隊員の大半が、漁船をチャーターして帰って行った。東奎ら約五百人ぐらいが協和寮に残っていた。東奎には隊員の誰からも漁船の乗り合わせに誘われなかった。ただ、本部副官として全員が帰るのを最期まで見届けようという気持ちだけが東奎を支えていた。東奎は、玉野市に来て丁度一年の歳月が過ぎた。あの時はあの赤ふんどしの中隊長に殴られ、隊員が袋叩きにあったなあ、という感慨に耽っていた。

その朝、造船所の方から耳よりな情報を得た。それは、日本政府が宇野港から帰国船を出すという話である。当初、来年の三月という噂がたって、隊員の多くがお金を払い、先を争って漁船に乗り込んだが、この度出る政府の帰国船は無料ということもあり、早速協和寮に残っている隊員を集めて連絡した。十月八日、宇野港から帰国船栄豊丸が出ることになった。協和隊員だけでなく、日本に強制連行されいた朝鮮人や中国人がこの船に乗ろうと、何処からともなく玉野に集まって来ていた。

「金本さん、本部にいた人たちからのお餞別と船で食べてもらおうとおむすびやお芋を持って来ました。受け取って下さい」

「いや、それは・・・すいません」

「お体を大事にしてください。どうぞご無事でお帰りください」

鈴木綾は、そう言うとおむすびやお芋を包んでいた新聞紙の上にポトポトと涙を落とした。

「綾さん、ありがとう。綾さんの好意は一生忘れません」

栄豊丸出発の前日だった。東奎も新聞紙の包みを受取ながら今生の別れになると思うと、涙が溢れてくるのを止めようがなかった。 十月八日。栄豊丸が宇野港を出港した。ともかく一年間以上過ごした玉野市を去る時が来た。この間十五名の協和隊員が亡くなった。中でも四月以後亡くなった七人の隊員は、関釜連絡船が危険になって、この玉野の寺に預けたままになっていることに後ろ髪を引かれる思いであった。

「いつの日か七人の隊員の遺骨を取りに来て、故郷に連れて帰ろう」

と、東奎は心に決めていた。

栄豊丸には、全国各地から集まった朝鮮人や中国人が三千人近く乗っていた。船の中での先陣争いの喧嘩や博打が直ぐに始まるなど、荒んだ心が形相に表れていた。出発した夜、予想外のことが起こった。来島の手前で船は突然大きく右に傾いた。右に傾いたので乗組員が左に移ったりしたが、栄豊丸は停まり、このエンジンでは、海峡を越えられないという。十月十日、とうとう船をユータンして全員宇野に戻った。乗船していた者は市役所に押しかけた。市役所では、一人五日分一升五合の米と下関までの国鉄の切符を渡すことで混乱を収拾していった。

東奎ら協和隊員は、また協和寮に戻った。中には列車に乗って下関に向かった者や、漁船を再びチャーターした者もいたようだった。ガランとなった協和寮の中で、各隊員が鍋でご飯を炊いて食べていた。今残っている者といえば、金遣いが荒かった者・賃金を博打で擦った者・仲間はずれの者などであった。

東奎が、十一日の昼頃一人でご飯を炊いている時だった。

「金本さん、ああ、やっぱりいた」

鈴木綾だった。息を切らせて走ってきた。東奎は、元気なく綾を見た。

「金本さん、元気を出して下さい。金本さんが、残った協和隊員を連れて帰らなくてどうするんですか。元気出して下さい」

「私も下関行きの列車に乗ろうと思ったのですが、ここに残っている隊員はお金のない隊員ばかりです。彼らをおいて一人帰るわけにも行きません」

「私が下宿している近所の人が石炭運搬船の船長さんなんです。先日帰ってこられたんですが、朝鮮まで連れて帰って下さいと頼みました」

「すいません。綾さんには何から何までお世話になって・・・」

東奎は、力無く答えた。栄豊丸の故障以来気持ちの張りを失っていた。

「ただ、船長さんが言うのに、燃料の重油がないそうです。品不足で手に入らないそうです。でも、金本さんなら造船所と掛け合えばどうにかなると思って・・・」

「はい・・・」

「整列。敬礼。ただ今より金本副官は、協和隊員を帰国さすために奮励努力します」

鈴木綾は、東奎が本部副官として活躍していた頃の真似をしておどけて見せた。東奎も綾も顔を見合わせて笑った。久しぶりの笑いだった。

それから東奎は、最後の力を振り絞った。まず協和寮に残っている隊員の数を確かめ、故郷朝鮮に必ず連れて帰ってやるから軽はずみな行動をとらないよういい聞かせた。隊員は百四十三人残っていた。東奎の有り金全部とみんなの有り金を出しても五千円にもならなかった。これでは漁船にも乗れなかったはずだし下関に行っても心もとなかったろうと思った。

戦後の玉野市の治安は乱れていた。雨後の竹の子のように宇野駅の前には闇市が出来ていたし、力の有る者がはびこっていた。栄豊丸が故障したあと朝鮮人や中国人による米屋への襲撃があったという噂すらあった。

田井に住む正田副隊長を訪ねた。正田副隊長はこのとき既に造船所も止め、協和隊とかかわりはなかった。しかし、彼しか頼るものはいなかった。正田元副隊長を訪ねて経過を話した。そして、造船所に一緒に行ってもらい交渉を重ねた。この時、庭瀬副所長は、戦犯容疑で連行されていなかった。対応した総務部長とは対面したこともない人だったが、

「百四十三人の協和隊員を残していたら造船所としても困るであろう。食料五日分と釜山までの輸送船の重油を造船所で用意してもらいたい」

と、東奎は要求した。

造船所側はしぶしぶ要求を飲んで、二日後渡されることになった。正田元副隊長は、元協和隊で働いていた人を訪ねて餞別を集めてくれた。一万円の大金を手渡された時、日本人の親切に感謝して東奎は涙がこぼれた。東奎は早速鈴木綾の下宿を訪ねて、近所の船長に釜山まで運んでくれるように頼んだ。

昭和二十年十月十四日。石炭を運ぶ貨物船は、早朝に出発することになった。台風が近づいているような横殴りの風雨が襲っていた。波は荒れ、船は大きく左右に揺れていた。しかし、もはや出発を一刻も遅らすわけにはいかなかった。玉港には、風雨にもかかわらず正田元副隊長、石本第五中隊元中隊長、鈴木綾など協和隊関係者が見送りに来ていた。

「金本君、お元気で」

「ありがとうございます。ありがとうございます・・・」

「金本副官、気をつけて」

「あなた方の親切は一生忘れません・・・」

「金本さん、さようなら。気をつけて帰って下さい・・・」

「綾さん、本当にありがとう。綾さんのおかげです。何とお礼を言って良いやら」

「何をおっしゃいます」

「ありがとう。さようなら・・・」

一人一人と固い握手をして涙のうちに別れをいい合った。 雨雲が低く垂れ落ち、いつもは見える玉野のハゲ山が白い靄で隠れていた。雨は激しさを増していた。木造の船は大きく左右上下に揺れた。ボーボーという汽笛で船は出た。見送りの人が見えなくなるまで、東奎は大きく手を振った。


「そうなんです。綾は、誰にも親切で、人のお世話が好きな優しい人でした。そうですか。そんなことがあったのですか」 多田真吾さんが、涙ぐみ目頭にハンカチをあてた。


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