東日本大地震 いわき市の被災状況報告

2011年 3月11日 金曜日 午後2時46分 東日本大地震発生

いわき市は、地震被害、津波被害、原発問題と過酷な試練が立ちはだかりました。

3月11日 金曜日
震源地 宮城県沖 マグニチュウド9.0 宮城栗原震度7
福島県震度6強(いわき市震度6弱) 巨大津波発生。引き続き震源地 宮城県沖、岩手県沖、福島県沖、茨城県沖。
下宿生は全員ご実家に帰省致しました。下宿建物はさほどの被害はありませんでした。
断水が続いており、回復に時間がかかるとのこと。固定電話、インターネット回線が回復しておりません。 下宿周辺の海岸沿いは巨大津波で壊滅状態です。

     
実家近くの高台まで81歳の母や弟家族は必死で走ったと言います。高台に避難して15分後に津波。この写真で写っている家はすべて流されました。 皆、我が家が流されていくのを呆然と眺めていたと・・・   一波4~5m、2波8~10mだったそうです。
      
  5人家族のKさん。
  2人の我が子をこの高台に避難させてから、夫婦で家に残っていた年寄りを迎えに・・・
  3人が子供達のもとへ戻ることはありませんでした。
                 
 3月12日 土曜日
午後3時半頃、福島第一原子力発電所1号機建屋で水素爆発。
20km県内10市町村の住民に避難指示出される。
 3月13日 日曜日
福島第一原子力発電所1号機から6号機まで問題発生。放射能汚染が心配。
震度4~震度5の余震が頻繫で船酔い気分になり最悪。
 3月14日 月曜日
福島第一原子力発電所3号機建屋で午後11時ごろ水素爆発。
いわき市は放射能に汚染されているとの情報が広がり、支援物資やタンクローリー車がいわきに入るのを嫌い日立から引き返してしまうとのこと。避難所に救援物資が届かない所が出ている様子。ガソリン入手が出来なくなり車での移動が出来ない人が続出。
 3月15日 火曜日
福島第一原子力発電所4号機で午前6時頃水素爆発、10分後2号機で爆発。4号機で火災発生。20㎞~30㎞圏内9市町村は屋内退避指示が出る。
下宿場所の中神谷、東日本国際大学は屋内退避指示が出ている地域ではありません。にもかかわらず、県外に脱出する人が後を絶たず周辺はまるでゴーストタウンのようです。残っているのは1人暮らしの老人や津波で家を失い避難場所での生活者や、ガソリンが無く移動したくても動きの取れない人だけでしょうか。
           
  3月16日 水曜日
4号機で火災、3号機から白煙。
郵便物、宅急便、新聞は12日から全く届きません。放射能の恐怖もあり、県外に住む姉から避難するよう何度となく声がかかりますが、隣組長になっていることや、ここは1人暮らしの老人も多いので、主人と私は家を離れ他県へ避難するつもりは全くありません。毎日お年寄りの家に顔を見せ、困ったことが無いかどうか確認しています。
1人の老人が、「昼夜余震が続く中、夜になると大橋さん家の明かりがついているのを見るだけで安心できる」と言ってくれました。こんな時の1人暮らしは心細いですものね。
 3月17日 木曜日
原子力発電所近くの病院から、県立光洋高校の体育館に一時避難した老人十数人が死亡。
原子力発電所の問題全く解決の見通し無し。インターネット回線、固定電話は依然不通。
近くから井戸水を頂きやっと入浴できました。
3月18日 金曜日
私の実家(住まい)は運よく津波をまぬがれる事が出来ましたが、実家のお店セブンイレブンは津波で壊滅状態になり、周辺に住む多くの知り合いが津波で亡くなりました。
大きな余震が続くため、12日から実家の母や弟家族が私の家で生活。昼間は実家周辺の漂流物の片付けにおわれる。
               
         
 お店の中に軽自動車1台が流されて入り込み、1名の遺体確認される。
 3月19日 土曜日
隣組の1人暮らしのお年寄りの人達にに温かいそうめんを食べて頂きました。避難所で配られる非常食はパンと飲料水でしたので、とても喜んで頂けました。なにせ下宿には食材だけはたっぷりストックされていましたので役に立ってます。
震災以来、初めて今日明日と近くのの小学校に自衛隊のお風呂が用意されましたが、小学校に出かけてみると入浴待ちの人と車で大変なことに(。>_<。) 2時間から3時間待ちとのこと。
 3月20日 日曜日 余震の恐怖で寝不足。 疲れた
 3月21日 月曜日
実際のいわき海岸通りの津波の被害は、皆さんの想像を超えていると思います。

下宿からは海岸まで直線で約4km。実家周辺の状況です。壊滅状態です。
         
 3月22日 火曜日
やっと電話が回復しました!ご心配おかけしました。
我が家は光回線でしたので、今までインターネットが出来ずにいましたが今日やっとホームページを更新できました。
すさまじい数の余震です。今もゆれていま~す。これから毎日周辺の状況をご報告します。

        
 3月23日 水曜日
朝7時代で5回の余震。内2回が震度5強。再び余震活動が活発になっているのでしょうか。

地震発生翌日の12日に、原子力発電所が大きな損傷を受け放射能漏れを起こしているとの話が伝わり、いわきに住む私達は一気に不安が増大。
その頃から周囲の人たちがあわただしく戸締りをしてどこかへ・・・同時に、近くの区長さん一家もしっかり戸締りがされて突然姿が消えました。市の職員の方が連絡事項に困って組長の私のところに・・・そこで初めて区長さんが避難してしまったことを知りました。それほど原発事故は福島県民に恐怖を与えたのです。
今、汚染の心配がないと伝わるにつれ、いわきに残って活動していた人達が「避難指示も出ていないにもかかわらず我が身大事といち早くいわきを脱出した」と、県外に避難した人達に対して軽蔑した言葉が飛び交っています。 でも、それって違いますよね

私の弟夫婦も地区の役目があるためにいわきに残りましたが小学生と中学生の子だけは遠くに住む安全な姉の家に預けました。我が身大事ではなく将来ある子供達の被曝を恐れたのです。私は、このような考えから家族でいわきを離れた人達が多いのではないかと思っています。
 3月24日 木曜日
3号機で作業員3人が被爆。やっとゴミ収集車が来て家庭の燃やすゴミを回収してくれました。
ガソリン不足のため当面の間は週1回の回収です。郵便物が震災後初めて今日届きました!
新聞は市役所や避難所だけに配達されているようです。水道はいわき駅周辺まで回復したようです。スーパーは現在どこも開いていません。1日おきに各公民館で午後4時から6時までの間、おにぎりとミネラルウォーター1本が配られることになったようです。でも、いわき市の広報車がこんなことを・・・「数に限りがありますのでご理解ください」と・・・

特に悲惨だった塩屋崎灯台下の地域。(薄磯)
現在、がれきの下やテトラポットの間から遺体70体ほど確認。でも、まだ100体位は入り込んでいるだろうと・・・ 
私の母校豊間中学校です。目の前は海。地震のあった11日は卒業式で子供達は12時で皆さん帰宅していたそうです。姪も命拾いしました。堤防が津波で決壊。3階建ての1階が津波で流されて空洞。

         
 3月25日 金曜日 
今日、20km~30km圏内の屋内退避とされていた地域に住む人達の生活に、支障がきたしていることなどを考え、自主避難指示が出されました。改めて、いわき明星大学、東日本国際大学、下宿周辺はこの圏内には入っておりません。
今朝やっと各家庭に新聞が配達されました。本日水道が復旧しました。電気、ガス、水道のライフライン問題なし。食料の流通がスムーズになれば生活に支障がなくなります。いわき駅周辺のスーパー(マルト)が2~3時間程度お店を開いてくれていますが、入荷が少ない状況。
海岸沿いの津波被害地域の人達は行政の支援を待っていても復旧が遅れるだけと、自力でがれき撤去始める。

 3月27日 日曜日
行政が、2、3日中に被害を受けた家の撤去を始めるとのことで、被災者が流された自分の家を探し当て、思い出の品を集めていました。本来道を挟んで両方に家が密集していた場所です。
       

  3月28日 月曜日

 
地震後、弟は自身の経営するセブンイレブンに駆け込み従業員に、「津波が来るぞ!逃げろ!
望洋荘に走れ!」と叫んだと言います。 望洋荘とは高台にある老人ホームです。
しかし!従業員のY君が、「家に母ちゃんがいる!」と言うと、皆が高台に逃げる中、弟の制止を振り切り、海岸沿いにある自分の家に走ったのです!

津波が去った後は、がれきの山と遺体があちらこちらに・・・まるで地獄を見ているようだったと。
Y君は津波に巻き込まれたと思い込み、弟はあちこちに流れ着いている遺体からY君を探したそうです。しかし、遺体は損傷がひどく確認が出来る状態のものは少なかったと言います。
ところが、Y君もお母さんも助かっていたのです!

Y君の話 「母ちゃんと逃げる時に、後ろからバリバリ!ガラガラ!とがれきとともに津波が近づいてくるのが分かり、恐怖で足がすくむ思いだったと・・・
2人で胸まで水につかり津波に押し流されながらも母親の手をしっかりつかみ、ここで母ちゃんの手を離したら母ちゃんは死んでしまう!と、Y君は木の枝につかまり必死に踏ん張ったと・・・
 3月29日 火曜日 

YKちゃんのお父さんが埼玉県からいろいろなお野菜をたくさん持って来てくれました!
早速、ご近所にどんなお野菜が欲しいのかを聞いて歩き、皆さんに少しづつ振り分けて差し上げました。
地震直後、自宅で避難していた人が食料やお水に困り近くの避難所にいただきに行くと、避難所にいる人達の数しかないと言われ、何も頂けなかった人達が多くいます。まさに自宅難民です。仕方なく、1日1人1個のカップ麺で3日間飢えをしのいだ家族までいたのです。
今は自宅にいる人達も頂ける様になりましたが、支給されるのは水とパンやおにぎりでしたので今日のお野菜はとても喜んでいただけました。
昨日、ヨーカドーやスーパーが数時間だけお店を開けてくれたり、駅近くのコンビニが1件営業しているのを見かけました。ライフラインが回復した今、いわきも動き始めました。
地震後建物や瓦の修理をしたい人が多くいるのですが、職人さん達が県外に避難していてしまい仕事を引き受けられない工務店さんばかりです。原発の問題はいわきのさまざまな業界に影響しているのですね。

 3月30日 水曜日
4号機で東京電力社員2人の遺体発見。福島第二原発クレーン作業で作業員2人死亡。

いわきのスーパー、コンビニ、医療機関が少しの時間でも営業してくれるようになりました。
滞っていたものが少しづつ動き始めました。一部の小、中学校も4月から始まります。

先の見通しが立たず絶望の淵にいる人、大切な家族を失い悲しみから立ち直れないでいる人、
でも、どんな人にも未来はあるのです。    歩き始めなければ・・・

           東日本大地震 いわきの被災報告は終了します。



東日本大震災がもたらした悲しみ 

 瓦職人のAさん
目の前が海岸と言う立地にある久ノ浜幼稚園にお孫さんのMちゃんを預けていました。
震度6強という大きな揺れだけでも恐怖だったであろう園児達に津波が襲ったのです!
津波が来ることを知った保母さん達は、必死で年少組みの子供達から順に離れた場所へ避難。しかし、年長組だったMちゃんは一番最後に避難させられたようです。その間、ただならぬ状況の中に置かれたMちゃんはどれほどの恐怖だったことでしょう。避難直後から言葉を失ってしまったのです。そして、今でも・・・

 浪江で小鳥のペットショップを経営している友人のKさん
津波が来るとの警報に、慌てて何も持たずに高台に避難。その後自宅に戻ると、今度は原発で直ぐに避難指示。あわただしく身の回りのものだけをもって一時避難。
しかし、一時的な避難ではなかったのです。 いつまで待っても原発問題は収まらず、3週間後にやっと1時間だけ許可を頂き荷物を取りに家に戻ってみると、可愛がっていた小鳥すべてが死んでいたそうです。その惨状を目の当たりにしてからは、何日も眠れずに涙ばかりがでたと・・・

知り合いのHさん
市役所内にいた私を見つけ駆け寄ってきたHさん、いっきに胸の内を涙ながらに話し始めたのです。「家も津波で流され、両親も兄も死んだの 残されたのはこの二人の子供と私だけ。お金もないし仕事もなくなってしまったの 今小学校の体育館で避難所生活をしているけど、いわき市で用意した住宅を申込に来たら優先順位があっていつ入れるか分からないの 住宅が決まっても親戚や頼る人がいない私が必要なものすら揃えることが出来ない。これからの現実が見えてくるようになり、そんなことを考えると胸が苦しくて眠れない」と・・・
誰かに聞いてもらいたい、不安で胸がつぶれそうな今の気持ちを知ってもらいたい!
Hさんの追い詰められた心境が痛いほど分かり涙でした。




 2011年 8月31日 追伸
※原発事故直後から、政府の発表は実際の状況とはかけ離れた指示が住民に対して出されていたことが後に分かりました。公表が遅れたのは住民のパニックを恐れたためと開き直る政府。
人命重視を無視した政府の対応に怒りを覚えます。


3月11日、午後2時46分地震発生、地震直後には原発でメルトダウンしている可能性があることを知った東電職員家族や一部の行政職員家族、状況がすばやく入手出来た一部の住民が、いち早く福島県を脱出。そのために国道は通常30分~1時間の所、3時間~7時間かかるほどの渋滞だったそうです。
午後9時半、3㌔圏内住民に避難指示、10㌔圏内住民に屋内退避指示。

3月12日、午後3時半頃、1号機建屋で水素爆発。午後6時半頃20km圏内10市町村の住民に避難指示が出される。
枝野官房長官はこの日、放射能洩れの心配はないとテレビで報じています。後にこれをメデイアに追及されると、住民のパニックを防ぐためだったと。本末転倒の言い訳に呆れる。

3月14日午前11時頃、3号機建屋で水素爆発。

3月15日、午前6時頃、4号機建屋で水素爆発。10分後、2号機建屋で爆発。
午前11時頃、20㎞~30㎞圏内9市町村は屋内退避指示が出る。
爆発直後、いわき市(30㌔~50㌔圏内)の放射線量は23.72マイクロシーベルト。
住民が直ちに県外に避難しなければならないほどの非常に高い放射線量だったことが7月号のいわき広報誌で知りました。避難指示が全く出されることのなかったことで、いわき市に留まっていた住民全てが大量被ばくの可能性があります。
枝野官房長官は直ちに健康に害が及ぶものではありませんと発表。


3月16日 いわき市の放射線量は18.78マイクロシーベルトでした。

3月21日。いわき市の空間放射線量は21日の時点でも6マイクロシーベルトもありました。雨により空間放射線量が下がり始めたのは4月半ば頃からです。それまでの間、全くいわき市住民に対して避難指示が出されることはありませんでした。そして、これから土壌汚染の始まりです。

次第に5月頃空間線量が0.24マイクロシーベルトを推移。しかし、この時初めて放射線を測定している場所が、地上から20㍍もある合同庁舎の屋上だということが分かりました。
私はいわき市に抗議。その結果、福島県全域で地上1㍍と50㌢の場所での測定になりました。

8月1日現在。雨どい、下水側溝、高い木の多い公園などは放射線量の高い場所も点在します。


8月18日。福島県内の子ども達(いわき市、飯館村、川俣市)1、080人の46㌫から、甲状腺被ばくが確認されました。これに対し政府は、問題のない被曝量と発表。

原発事故当初から、政府、原子力安全保安委員、東電は隠蔽を繰り返し保身に終始したのです福島の原発事故は、半減期約30年と言われている放射性物質セシウム137が広島原爆投下時の168個分飛散した可能性があるそうです。
政府の偽の情報を信じた福島県民は、チエルノブイリ原発事故の住民と同じく、これから多発するであろう、あらゆる病気に苦しむことになるのです。
そして・・・国土の狭い日本も旧ソビエト政府と同じように、白血病、甲状腺がんで亡くなる人々の数を世に過少報告するのでしょうか・・・


                                         
 
 
 

2012年 3月11日 日曜日 犠牲者の冥福を祈り、海岸近くでは追悼法要が行われました。
昨年の3月11日で時間が止ったままの人も多くいる中で、さまざまな思いをかみしめ2時46分、
その時刻をむかえ黙祷をささげました。
 

     
原発事故発生の5日間。建屋に残った作業員は誰もが「生きて帰れない!」と思った。
「心配するな」と、一言でいいから家族に伝えたい。携帯電話から自宅へかけたがつながらない。
ふと周囲を見ると、同僚たちが泣きながら電話をしていた。 「放射性物質が広がって、自分の命だけじゃなく日本がだめになるかもしれない、自分達は最悪の事態を防ぐための“決死隊”なのだと。」作業員の1人原子さんは事故現場に残ることを決意した。
 

            
   追悼式で語られました。
 久ノ浜に住む老夫婦、助けを呼ぶにも電話が通じなかったあの時、津波の到来を知った夫は
体が不自由な80歳の妻を動かすことができず、流されないように自分の体と妻の体をお互いにロープで結び備えた。しかし、津波の中でロープは外れ85歳の夫だけが残された。



                                 BGM巡礼