発病から入園まで


 大阪の商社に勤務していたある日、上司から「君の顔は右側が少し腫れているのと違うか」と指摘された。自分でも毎朝顔を洗う度に、洗面器の水面にまつげか眉毛か四、五本ずつ浮き沈みしている事に気づいており、気分の重いものを感じていたのである。
 上司の勧めもあって、休みを貰い、次の日に大阪日赤病院に赴いた。 皮膚科の診察を受けたところ、担当医に、貴方は精密な検査が必要ですから、午後検査室のほうへおいでください、といわれた。さすがにいやな予感が募り、午後になって検査室に入ると、白衣の医師や検査の助手とおぼしき人達が数人、ずらりと並んで私を待っている。
 不安な気持ちで丸椅子に腰掛けると、彼らは私の周りをぐるりと取り囲み、目を閉じさせた。麻痺を調べるためだろう、毛筆と針を使って顔面に触りながら、「わかりますか」と訪ねてきた。平常な箇所はチクリと刺す痛みや筆の毛触りを感じたが、赤く腫れた部分は分かるときと分からないときがある。
 やがて、主治医と思われる者が、おもむろにこう告げた。
「貴方はレプラです。レプラという病気がわかりますか」
 その瞬間、私は何か杵の様なもので頭をガンと殴られたような気がした。目の前が真っ白となり、一切の感覚が消えたようになって、それに続く医者の言葉も耳に入らなかった。呆然自失となり、それからどうやって病院をでたのか、どこをどういう風に歩いたのかも、その行動はまったく記憶がない。
 子供の頃、近所にレプラ(ハンセン病)を病んだ、重病の人が住んでいた。顔や手足の潰瘍が結節となって化膿し、衣服にはその膿が滲みついていた。手の指は曲がり、醜いお化けのような顔であったが、大人たちは、レプラは遺伝病だから伝染はしない、と言って、恐れる人も避ける人もいなかった。しかし、その人の妹は嫁ぎ先から離縁され、長男のほうは結婚相手に恵まれず、困り果てていたようであった。話相手がいないのか、私が通ると呼び止めて、菓子を食べていけ、とか、遊んでいけ、などと可愛がってくれたものである。その人は徐々に姿が変わっていき、やがて亡くなってしまった。
 また、大阪四天王寺の参道でも、醜い手足を出して物乞いしている人を大勢見たことがあった。それを見たときは気の毒に、と思っただけであったが、今、自分の将来としてあの重症になった姿が瞼に浮かぶと、私はもう完全に生きる気力を失い、深い絶望の淵へと落ち込んでいくのであった。

 翌日、診断のショックで投薬の受け取りすら忘れていたことを思い出し、再び病院を訪れた。受付の者はちょっとまってください、と一度姿を消したが、すぐに顔を覗かせ「裏門へ廻ってください」といった。
 裏門へ廻ってみると、出てきた病院職員が「貴方の病気はこの病院では治療できません」と診療の拒否を告げた。かわりに「岡山に、長島愛生園という専門の国立病院がありますから、身辺を整理して早くそちらで治療をうけてください。差し当たって二週間分のお薬をお渡ししておきます」と、油の匂いのする、大風子油(だいふうしゆ)という丸薬を渡された。
 帰途、レプラは不治の病と聞いていたが、国立の病院があるということは、医学の進歩を証明するものではないか、入所すれば、専門的な治療によって治ることもあるのではないか、などと淡い希望もわいてきた。
 しかし、古くから天刑病だ、業病だ、遺伝病だ、と言われていたことでもあり、その「長島愛生園」が島であることを聞いて一抹の不安が頭をよぎった。何より、職員の「身辺の整理をしてください」という言葉が不吉でならなかった。いずれにせよ病気である以上は、治療しなければ生き延びることができない。
 悩み抜いた末、私は長島愛生園に入所する決心をした。
 昭和11年(1936年)、2月。19歳の時の事である。

 その頃、私は大阪の経理専門学校の夜間部に通いながら、昼間はさる商社で働いていた。 宣告を受けた翌々日、私は会社の上司の部屋に呼び出された。
 上司は「診断書が届いた。君はどうやら脚気らしいな。しばらく郷里に帰って療養したらどうだ」と、二つの封筒が載った盆を私に差し出した。一つは給料袋だったが、もう一つの封筒には「お見舞い」と書いてある。すぐに私は、それが退職金だな、とわかった。後で知ったことだが、当時医者はハンセン病の患者を診察した場合、その旨県知事に届け出を出さねばならない、という法律があったのである。「らい予防法」である。それで通知が会社にも届いていたもののようであった。
 長島愛生園への入所は決意したものの、このまま岡山へ直行し、誰にも病気のことを告げぬまま療養所へ入所すべきか、それとも母だけには打ち明けておくべきかでずいぶんと悩んだ。
 一度入所してしまえば、いつ帰郷できるか分からないうえ、蒸発や行方不明を装うと、母に生涯、精神的苦痛を負わせることになる。幼少期、家の事情のため別れて暮らしてきたとはいえ、あの母の深い愛情に背くことなどできるものではなかった。やはり母にだけは病気にかかったことを打ち明けた上で、療養所に行くことにした。

 私の帰郷が突然だったため、祖父母や叔父夫婦はずいぶん驚いた様子であった。出張で鳥取へ来たので、母に会っていこうと思って立ち寄ったと告げて、母に連絡を取ると、翌朝生家を訪ねてきてくれた。
 よく顔を見せに帰ってきてくれた、元気で頑張っているか、と私に抱きついた母の腕は、喜びのあまり小刻みに震えていた。その腕の震えは今でも忘れられない。こんなにうれしそうに喜ぶ姿に接していると、病気にかかったことを告げるために帰ったとは、どうしても言い出せなかった。近況や積もる話を聞かされたりしても、頭の中は病気のことでいっぱいで、上の空で返事をしているだけであった。
 その夜何年ぶりかで親子が枕を並べて寝ることが出来たが、これが母との最後の別れになるのではないかという思いが脳裏をよぎる度、胸が締め付けられるようで、私は瞼が熱くなるのを押さえきれなかった。
 やがて母が、「久々におまえの元気な顔を見て安心した。明日には所用があって、どうしても帰らなければならない。これからも一生懸命働いて、人様に可愛がられるような人間になってくれよな」と言ったところで、ようやく病気にかかったことを打ち明ける勇気が涌いてきた。
 「・・・実は先日、病院で診察を受けたところ、らい病(ハンセン病)だという診断宣告を受けた。不治の病といわれているが、岡山に長島愛生園という専門の国立病院があると聞いて、私はそこへ行ってしばらく治療してみることにした。医学の進歩もあって、もしかしたら治るようになったかもしれない。今回はお母さんにだけ行く先を知らせるために帰ってきた」と、やっとの思いで言えた。
 薄明かりの中でも、母の表情がさっとかわり、蒼白な顔色になったことが分かった。しばらく沈黙が続いていたが、母は大きなため息をふっと吐き、声を震わせながら「そんな病気はご先祖様から聞いたことが無い。それは何かの間違いだ。こちらでよく診てもらえ」と言った。私が、大阪の大きな病院で多くの医者が一日掛かりで診察した結果だ、と言ってもなかなか納得できない様子だった。
 沈痛なムードのまま時間が過ぎて行き、いつしか夜が白々と明けかけてきた。母の頬にも涙が光っているのが見えた。そして一晩中、二人とも一睡もすることなく、親子で泣き明かしたのであった。 
 夜明けになって母は、ようやく諦めがついたのか、 「・・・この病気は親族血縁の者に、一生精神的な不幸を負わせてしまうものだ。一族の中からこの病気にかかったものが出たと分かれば、その一族の他の者は、結婚もできず、家は破綻に追い込まれ、どんなに理解しあった夫婦でも、生涯負い目を持っての生活を強いられる。つまりお前一人の苦しみで済む病気ではない。お前は家や家族のため、犠牲となって、行方不明ということにしてくれ。そして外の者には絶対口外しないでくれ。これは二人だけの秘密にしておいてくれ、頼む、頼むよ。親族に迷惑をかけることはできない、それが人の道というものだ。これは私の一生のお願いだ、ぜひとも守ってくれ」と涙を流しながら告げるのである。
 切々と訴える母の言葉には、わが子と再び、そして永遠に別れねばならない苦悩が滲み出ており、私も胸が詰まり、ただ黙って頷くことしかできなかった。「岡山へ行っても便りは一切しなくてよい。便りが無いことは元気でやっていることだと思うようにする。お前も辛いことがあろう、しかし病は気からという。病気に負けるな、どんな病気でも治らぬものではない。どんなことがあろうと、生きて生きて生き抜いてくれ。生き抜いてこそ人としての価値がある。そして、人間として生まれた以上、人様に迷惑をかけず、社会に少しでも役に立つことをしなければいけない。ただ、今度のことも、働きながら夜学に通うなどの無理をするから、病気になったんだ。だから身体には絶対無理をかけてはいけない。また笑って会える日が、必ず来ることを信じてそのことを楽しみにお互いの心を通わせながら生きよう。頼む、生き抜いてくれ」
 これが別れの最後の言葉であった。

 長島愛生園の関係者と連絡を取った結果、岡山駅の待合室で待ち合わせることになった。 駅に着いてすぐに食事をとり、待合室の椅子に腰掛けていると、ハンチング帽を目深に被った男がつかつかと近づいてきて、私の肩を、ポン、と叩き、手招きしながら待合室を出て行く。私服刑事のように見え、何か尋問でも受けるのかと後をついていくと、男は駅から随分と離れた場所まで歩いていく。やがて一台の停められた車の前まで来て止まると、「長島愛生園からお迎えに来ました。この車に乗ってください」と言った。
 車の色はグレーで、後ろの乗降口は観音開きになっている。窓に鉄格子や金網が張られていないだけで、他は小型の囚人護送車そっくりであった。暗然たる気分で私は車に乗り込んだ。
 同乗者はなく、その後方の扉が、ガチャン、と音を立てて閉められたときには、一瞬心臓が止まる思いがしたものである。
 岡山市内で運転手は、銀行に立ち寄っていくので、暫くここで待っていて下さい、と言って私を車内に残し、路上駐車のままどこかへ行ってしまった。ふと窓から外を見ると、小学校の児童が、長島愛生園の車だと知っているのか、鼻をつまみ、ハンカチを口に押し当てて、一生懸命走り去っていく。その姿を見て、自分も小学校の通学路の途中に、道路から50メートルも離れている山袖に、伝染病隔離病棟があったことを思い出した。
 私もあの頃、同じように鼻をつまみ、口にハンカチを押し当て、逃げるように走り去ったものである。今や自分が逆の立場になったことを、逃げ去る小学生の背中から痛烈に感じ、悪寒が身体を走り抜けた。
 鳥取を出発するときは大雪であったが、岡山は抜けるような晴天で、舗装されていない砂利道からは埃がもうもうと立ち上がった。島だと聞いていたのに、車は、熊笹が車窓を擦るような深い山路へと入っていく。
 道中一度、気分は悪くないですか、と聞かれたきり、運転手とは他に会話もなく、岡山駅を出発してから約二時間で、夕陽の射す虫明港に着いた。「あれが長島愛生園です」と、向こうに見える島影を指差されたが、それは「島流し」という先入観を抱いていた私にしてみれば、思った以上に大きな島に見えた。
 虫明港には愛生園の職員がすでに出迎えに来ており、指示されて、桟橋に着けてあった貧相な小船に足をかけた。
 この船に乗れば、私は完全に療養所の人になるのである。小船に乗り込んだとき、ああ、これで私の人生は終わった、短い人生だった、と胸が張り裂けるような思いがした。
 すぐに小船は長島に向けて、波頭を切って走り始めた。
 後方に、白い航跡が、泡となっては消えていく。その航路をじっと見ていると、母の悲しそうな顔や幼友達、働きながら共に学んだ同僚たちの顔が、その白い泡のなかに交互に浮かんでは消えた。深い思いに沈むうち、船は長島に着いた。
 当時、島にはまだ患者用の桟橋はなく、立派な職員用の桟橋だけがあった。後で分かったことだが陸との交通に使われる小船も、職員のものは大きく、頑丈な造りのものであったが、患者を運搬する船は、今で言うボート程度の粗末なものであった。
 これが、島からの患者の脱走を防ぐための防止策の一環であることなど、その時の私は知る由もない。
 昭和十一年(一九三六)、二月十五日。
 私は、松林の下の砂浜に敷かれた、患者用の約三,四メートルほどの道板を渡って、長島愛生園に第一歩を踏み入れた。