入所、療養生活


 上陸して最初に目についたのは、「収容所」という表札を掲げられたコンクリートの建物である。何か奇妙な感じがしたが、促されて人影もまばらな夕暮れの山の坂道を上っていった。
 島の中ほどにある医局に連れていかれると、着衣はすべて脱がされ、外からの蚤、南海虫疥癬などの持ち込みを防ぐための消毒風呂へと入浴させられた。
 風呂から出ると、脱衣所に置いてあったはずの、私の着物や所持品が無くなっている。
 替わりに、待っていた男性職員が、これを着てください、と縞の着物、モモ引き、下着を差し出すのである。
 私の服はどこですか、と尋ねると、「あなたの洋服は消毒して、明日返却します」と言う。
所持金は、と尋ねると、「保管金通帳に記入して、明日、園内通用票としてお返しします」と言うのである。
 園内通用票という聞き慣れぬ言葉もさることながら、人の所持金を勝手にどこかへ持ち出すとは何事であろうか。
 不信感が募り、「預かり証はありますか」と聞くと、間違いはないですから、と面倒くさそうに突っぱねられた。
 頭に血がのぼり、「あなたの名前はなんというんですか、人の財布を勝手にに開けるとは不作行為ではないですか。それでいて預かり証も出さないと言うのなら、警察を呼んでください」と詰め寄った。すると彼は「生意気を言うな」と大声で怒鳴るのである。
 まさに一触即発の事態であったが、側にいた看護婦さんが、「ここでは普通の貨幣は使わないことになっています。どうか私が証人になりますから」と親切に説明をしてくれ、その場は矛を納めた。
 この男性職員の高圧的な態度に驚くと共に、これが国立療養所の患者の取り扱いか、と非常に悪い印象を持った。
 しかし、これは洗礼にすぎなかったのである。
 消毒などの手続きを終えて、上陸した際に見た「収容所」の表札のかかった建物で夜を過ごすことになった。
 すでに消灯時間は過ぎ、殆どの者が休んでいたので、隣のベッドで寝ている人にだけ、小声で「よろしくお願いします」と告げ、黄色みを帯びた木綿のシーツのベッドに潜り込んだ。
 翌日は、近くを通る患者たちに新患がきたぞ、とじろじろ見られるなか、事務所での身元調査が行なわれた。
 療養所で生活する患者たちは、一様に男は縞、女は矢絣の着物を着ることとなっていた。
 午前中は殆どの者が作業に就き、霜降りの作業着を着ていて、やはり想起するのは刑務所である。
 昨日没収された所持金は、園内保管金通帳に記入され、代わりに、今月分として「園内通用票」と刻まれた、真鍮製の小判型の子供のおもちゃのような金を、三円、手渡された。
 係の人はこれ以上必要なら、理由を書いて願書を提出しなさい、月五円までは出せます、などと言う。
 自分の所持金が自由に使えないとは、一体なんという制度だと驚いていたが、現金を入
園者に持たせず、園内の売店以外では通用しない貨幣を使用させることによって、患者の逃走を資金面から防止しようという手段でもあったようだ。
 人事係からは、ここでは秘密を守るために、偽名を使っても良いのですよ、どうしますか、と尋ねられた。
 一瞬何のことだか理解ができず、私は犯罪を犯して逃亡している者ではありません、と憮然として答えた。しかし、すぐに母と別れるときに言った、この病気にかかったことは二人だけの秘密にしてくれ、おまえ一人で済む病気ではないのだから、と強く頼まれたことを思い出した。
 多少の葛藤はあったものの、故郷とは便りすら断つ覚悟である。また、自分の本名を病気になったことで変えることは、良心が許さなかった。
 療養所に入所してはじめの1週間は、光田レプロン反応と呼ばれるハンセン病の予診のため私は「収容所」の表札のかかった建物ですごすことになった。私は収容所のベッドの上で、故郷のこと、同僚のことなどを考えながら過ごした。
 なかにはどこで知るのか、同郷の人が親しそうに訪ねてきて、病気の事など、先輩として親切に話してくれることもあった。
「この病気は治らないよ。今の治療は大風子油を皮下注射するだけで、一時的には病気は沈静化しても、五,六年もすれば、再発して合併症を起こして死んでいくよ」
 不治の病と覚悟はしていても、先輩病友からこうもあっさりと言われると、よくもこんなところに5年間も辛抱して生きているものだと、逆に感心してしまった。
 予診を終えると、患者それぞれの病状によって、軽症者と不自由者棟、重病棟へ振り分けられての寮生活となる。
 予診の結果、私はL型と診断され、十九歳から二十五歳までの軽症青年寮へ移ることになった。 
 十二・五畳の部屋に六人の雑居生活で、私物を入れる押入れも既に満杯であり、新入居者にとっては不便で窮屈な面もあったが、ここにいる者は収容所と違ってみんな元気で病状が軽く、なんといっても活気があった。
 先輩療友は皆、朝食が済むと一斉にそれぞれの作業に出かけていくが、私は入所したてで自分の作業が決まっておらず、入寮当初は部屋に一人で残されていた。
 そんなある日、隣室を覗くと、比嘉君という人が一人残って、読書などしている。「あなたは作業はしないのですか」と尋ねると、「僕は監房の付き添いですから」という。
 園内でしか通用しないお金や職員の横暴にも驚いたが、まさか監房まであるとは、と衝撃を受けた。好奇心も手伝い、私は比嘉君に頼んで、監房に連れていってもらう事にした。
 監房の付き添いという作業は、監禁者の食事を一日三回、中央炊事から運ぶだけの仕事であるという。さあ行こう、と促され、私は彼に続いた。見ると、私が初めて上陸した砂浜の向こうに、高さ四メートルもほどもある鉄筋コンクリートの塀を巡らせた建物が、目に入った。
 建物は谷間の湿地帯という悪条件の場所に建てられており、中へ入る塀の入り口には人一人がようやくくぐれるくらいの鉄の扉があった。これを開くと、ぎぃー、と身の毛もよだつような無気味な音を立てた。
 それはまさに牢獄であった。扉には大きな鉄の鍵が掛かっており、室内は汚い煎餅蒲団が一枚敷かれてあるだけで、便器は外から丸見えである。
 壁には、血で書かれたのか、真っ黒く変色した文字で、おぞましい恨みつらみが累々と書き殴られている。
 比嘉君は十センチほどの小さな窓から食事を差し出したが、これは米麦半々の握り飯1個にたくあん一切れ、それに梅干し一個を付け加えただけの実に粗末なものである。
 当時まだ厚生省はなく、内務省が国立療養所を管轄しており、併せて警察庁も所轄されていたため、療養所には警察からの天下りの職員が多かった。彼らは患者や病人に対しては、「おい、こら」といういかにも官憲的な物言いをし、接する態度もとても患者に対するそれとは思えない、きわめて傲慢なものであった。
 とくに戦時中の職員は、懲戒検束規定を最大限に利用し、入所者の人権を蹂躙した行為は数限りない。
 職員の横暴や特殊な制度に驚かされながらも、同じ苦悩や道程を歩んできた者たちと供に寝起きしていると、入所前の孤独は癒され、私はここで暮らしていくのだという気持ちが次第に固まっていくのを感じていた。

 この当時の入所者の一日の流れは、まず朝は六時前後に起床し、七時に朝食となる。食事は三度とも園の中央にある中央炊事場から運んできて、自室でとることになっていた。
 食後、自分達で飯ごうや器を洗い、中央炊事場に返却、八時半から昼まで、それぞれ自分で選んだ作業に従事する。
 療養所で作業とは、とはじめはいぶかしみ、いやな気もしたが、皆疑問を持たず作業に精を出している。聞くと、わずかばかりの作業賃が出るということであった。
 ここの粗末な食事ではとても腹が満たされず、若いために四六時中食うことばかり考えているような状態である。故郷との繋がりを絶った私に送金などあるわけもなく、持参してきた金は、園内の売店で夜食のうどんや小豆等を購入するうち、すでに底をついてしまっていた。
 仕方なく私も作業に従事することにしたが、一日午前午後と働いて、最高でも十銭にしかならない。当時、両切りのゴールデンバット十本入りが七銭の時代であるから、まさに煙草銭である。
 重労働をした人は病気の進行が早まる、と聞かされたことで、私は重労働には従事しないことを自らの養生訓に決めていた。そこで、商社勤めの経験を活かし、作業センターや職員補助の事務仕事慰安会売店の簿記などの作業についた。
 園内での作業は、入所者の病症及び性能に応じたものとなっており、土木、木工などの力仕事から畜産、農芸など多岐に渡っている。作業内容によって賃金は異なるが、大まかにいって当時の一般社会における労働賃金の八分の一、乃至十分の一程度のものであった。