再発とプロミン治療


 私が肋膜炎を患ってj重病棟に入院していた頃、入所者の若い娘さんたちが数人ずつのグループを組んで、定期的に入室者の病棟見舞いを行なっていた。
 その中に、入所させられたのは何かの間違いとしか思えない、背は低いが色白で、顔立ちの可愛らしい娘さんがいた。
 親切に、ねぎらうような声を掛けてくれたことがいつまでも心に残り、その子と出会う度に親しさを覚えるようになった。
 そんな私の心を知る人が仲を取り持ってくれることになり、二年程のつきあいの期間を経て、私達は結婚を誓いあうことになった。
 そして、昭和十四年五月二十二日、私たちは籍を入れ、晴れて夫婦となったのである。園内では古くから結婚のことを「おしるこ」と呼んでいた。これは結婚披露宴を挙げる際にお汁粉やラクガンなどが招待客に振舞われることから来た隠語である。
 しかし、私には、結婚するにあたって、男子として屈辱的な事態が待ち構えていた。
 それは男子の精管を切除することで妊娠を不可能にする、ワゼクトミーと呼ばれる断種手術の義務であった。
 手術は非常に簡単で、出血も痛みもないうえ術後の性交渉や性欲に何の支障も来さず、子供ができない以外は従来通りの働きを示すため、断種手術は全国の療養所で奨励、規則化されていた。
 その理由のひとつとして、生まれたばかりの赤ん坊を排菌の恐れのある患者の膝元で保育し、スキンシップを重ねることで、伝染の可能性が高くなるということが挙げられる。また、この園内で生まれた子供が、当時の世間の偏見、差別の目にさらされながら、幸福な人生が送れたのか、教育をどのようにして行なうのか、等の問題もあった。
 くわえて、女子は妊娠・分娩すると病状が悪化し、重症に陥ったりもするので、母体を守るという一面があったのも事実である。
 しかし、ある人は手術によって不能になった、などという話を聞くと、私は大いに不安であった。
 手術自体は簡単に済むものであるが、術後、患者は股を開いた格好で寮まで歩いて帰らねばならない。誰が見ても、何の手術をうけたかは明らかであり、狭い園内には瞬く間に広がっていくのである。
なかには冷やかしたりする輩もいて、恥ずかしさも手伝い、一様に二,三日は外出しないのが通例となっていた。
 事務所に戸籍謄本を提出すると、その翌々日には手術室に呼び出された。これで自分の子孫は絶えることになるのである。覚悟してきたとはいえ、手術台に乗ったとき、限りない淋しさが込上げてきた。
 私が受けたこの優生手術は、戦後昭和二十三年十月、優生保護法が制定され、その対象者の中に「らい」が挿入されたことで合法となったが(強制ではない)、私が受けた昭和十四年の段階では、違法行為であった。
 所内にはこの手術を回避し、妊娠する者もあったが、当然のように中絶、堕胎させられた。また、妊娠した状態で入園した者も、同じく堕胎させられた。
 病棟と病棟の間にあった外気室という二坪ほどの個室の中で、これらの手術は行なわれていた。
私はここで、既に八ヶ月を過ぎて産声をあげている子供を、婦長がガーゼに包んで試験室に持ち帰る姿を見たことがある。
 こうして無理に命を絶たれた子供は試験室でホルマリン漬けにされ、実験や医学の教材として使用された。
 明らかに殺人であり、犯罪行為であったが、当時の園内ではこのような光景がごく日常的に見られたのである。
 後に、園は水子地蔵を立て、祀っている。自治会でも周辺を整理し、霊を慰めている。

 将来については、現在の病状であれば、郷里にある空家となったままの自宅に戻り、夫婦の生活はできる。と踏んでいたのであるが、米が配給制で、米穀通帳を作らなければ米の配給が受けられない。
もちろん、高騰を続ける闇米だけでは生活ができない。愛生園からは転出届けは出してもらえないし、仮に出たとしても周囲にハンセン病療養所にいたことがばれてしまう。
 こうして、仕方なく従来通りの療養生活を続けることにしたが、園の夫婦寮は一杯で入ることができなかった。
 夫婦寮は、法的に結婚が認められた者は順次入居することができるが、宅数が少ないため、私たちは六畳二組の部屋で空室となるのを待たねばならなかった。
 島で夫婦生活を送るには、ほかにいくつかの手段があった。
 ひとつは民間から寄付された、十坪住宅という建物に五百円を支払うことである。ここに金を払う事で夫婦は勿論、独身者でも個室に入居することができた。
 もっとも寄付するような金はなく、たとえ田舎の自分の家を売りに出したとしても、五百円という金が用意できるかどうかわからなかった。
 もうひとつは、農畜産部の作業に就けば、夫婦一組での生活ができるのだが、重労働が課せられる生活になるため、これも避けた。
 結局、入籍は済ませたものの六畳に夫婦二組の生活を余儀なくされることとなり、これが三年余りも続いたのである。結婚はしたものの、新婚気分など無く、全く動物以下の結婚生活の始まりであった。
 
 新婚生活が始まり、気持ちには安らぎを得たものの、我が国は戦争の泥沼に足を突っ込み、抜き差しならない状況に陥っていた。
 瀬戸内海の孤島での隔離生活とはいえ、戦禍と無縁でいられようはずもなく、戦争が深刻化するにつれ、療養所の食料は不足し、入所者は栄養不足に加えて、勤労奉仕という無償の重労働が半強制的に課せられていた。
 職員がまず召集され、山を伐採し、枯れ木を焼いて畑を耕作し、その労力の不足を患者に依存することになった。
 食料不足のため、比較的軽症の者には、山を越えた高台の荒れ地を、抽選によって一人二十坪与え報国農園と名づけられた開墾が許可された。
 重労働をしない、という私の養生訓もこの状況では避けられず、友人に手伝ってもらって、ここで必死にさつま芋や馬鈴薯を供出させ生命を繋ぐのであったが、糞尿が貴重な肥料で、これを巡っての喧嘩は絶えなかった。
 塩が不足して、園作業による塩田もできたが、炊事に搬入するため、どうしても足りない分は個人で舎の霜よけのトタンをめくって塩炊き用の釜を作り、連日海水を煮詰めて塩をとるようになった。
 不自由者は自分でこうした作業ができないため、湯飲み一杯いくらかで軽症者から買うようになったが、金の無い者は海水を汲み上げて、そのまま軒先に自生する菜っ葉などを炊いて食べるため、海水のにがりのせいで腎臓や肝臓を冒され、多くの人が顔を腫らして死んでいった。
 職員も次々出征していき、これまで以上に人手不足に見舞われ、全ての負担が患者に背負わされるようになった。
 燃料の石炭が船で運ばれてきて、陸揚げ作業が始まったが、これは余程屈強な者でないとできない作業であった。
 しかし、この手の重労働は、握り飯が出るなど食料面で優遇されたため、希望者も多く、軽症で健康であった者も、次第に病症を悪化させていった。
 軍の航空用の油が不足しているということで、長島にも松根油の製油工場ができ、採油が始まった。入所者は長島だけでなく、近くの鹿久居島や鴻島などに出掛け、松を伐採し、その一トンも二トンもあるような古い松の根っ子を掘っては島の中に運び入れ、その根っ子を斧で割って釜に入れて炊くと、松根油と呼ばれる油が出てくるのである。
 これらすべては大変な重労働であったが、戦地の兵隊さんを思い、銃後の我々はこうした作業に協力することこそが自分たちの使命である、と入所者はすっかり洗脳されていた。病気を忘れて働いた結果は、戦後にハンセン病の悪化という形で我々を襲うことになった。
 ほかにも防空壕堀り、溜め池や道路の工事など、今から考えると、とても療養所とは思えないような重労働の数々であった。
 昭和二十年の終戦の年は、この重労働と栄養失調で三百三十二名、翌二十一年には三十二名もの入所者がバタバタと死んでいった。
 昭和二十年二月のある朝、事務所の当直にあたっている人に呼び出され、重病棟に行くと、病室の布団の中で一人の患者さんがうずくまって死んでいた。
 軽症の患者付き添いに聞いてみると、朝がきて、おい、洗面だよ、と布団をめくってみると、既に冷たくなっていた、という。
 我々はなす術もなく、遺体の前に立って看護婦の来るのを待っていたが、医者や看護婦に脈ひとつ取ってもらえる訳でなく、家族はもちろん、療友に看取られるわけでもなく、この人は眠ったまま一人で死んでいったのである。
 憂鬱な一日の始まりであったが、この日はほかに四人もの死者があり、更には昨日の二体が解剖室に積み上げたままになっていた。
 一体は火葬場へ運んだが、解剖室の氷が十分ではなく、遺体が腐食してしまう、ということで、残りは万霊山の下の畑で野焼き処分されることになった。
 結局六体の遺体を運搬し、焼却することに一日中追い回されて、療養生活の残酷さをいやというほど味わわされた一日となった。

 昭和二十年八月十五日。この日は恐ろしく暑い日であった。
 この頃私は、戦中に施設に返還させられた自治会の、代用的な役割を果たしていた「入園者事務所」のなかの配給部長を務めており、何やら正午に「玉音放送」があるということで、伝声館から引かれたパイプの前に、購買部長とともに立って耳をすませていた。
 伝声館というのは稀少品であるラジオを置いてある寮の建物のことで、元ブリキ職人の療友が、お菓子の空缶を伝声館から十二,三メートルも繋げて各寮に引いており、皆がラジオを聞くことができる仕組みになっていた。
 正午に天皇陛下による放送は始まったが、聞き取れるのは「朕は、朕は」という謎めいた言葉だけであり、意味不明であったが、どうやら戦争が終わったらしい、ということだけは理解できた。
 終戦を迎えてまず初めに思ったのは、あと十年もすれば飯が食えるだろうか、という切実な感慨であった。
 そしてそれを裏付けるように、我々入所者にとって戦後や復興は、遠い陽炎のような言葉に過ぎなかったのである。
 終戦を迎え、食料や物資の貧窮は相変わらずであったものの、徐々にではあるが入所者の処遇も向上していった。
 はじめに、終戦直後の十月一日、入所者の公民権が復活した。戦中戦後と、人権意識などよりはその日その日をいかに凌ぐかで汲々としていた状態であったが、翌年六月の衆議院補欠選挙で、入所以来初めて選挙権を行使することができ、多少なりとも私も日本国民として生きているのだ、という実感がが心をかすめたものである。
 昭和二十二年五月には昭和十六年に自助会が解散して以来、六年ぶりに入園者の自治組織、敬和会が発足した。
 昭和二十一年に公布され、翌二十二年から実施された日本国憲法は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重がうたわれており、この新憲法によって、作業賞与金がようやく正式に予算化され、長島事件勃発の火種ともなったこの問題にも一応の終止符が打たれた。しかし、この「作業賞与金」という呼称は刑務所で受刑者の所内作業に対して支払われるものと同じ名称であり、ほかでは使用しないものである。
 昭和二十三年には生活保護法に基づき、生活援護金として患者慰安金一人あたり月額百五十円が支給されるようになり、更に二百円、五百円と上昇していった。
 また、長年我々を地域社会と区別し、隔絶することの象徴ともいうべき存在であった園内通用票も、同年廃止となった。
 この年の暮れにはアメリカMLTからミルク、砂糖、オードブル、毛布、軍払い下げの作業着などのララ物資(LARA−アジア救済連盟)も届き、療養生活はようやく長かった飢餓状態から抜け出すことが出来たのであった。
 この頃から園内生活も徐々に落ち着きを取り戻し、愛生座や音楽団などの文化活動、機関誌「愛生」の復活など、文芸活動も復興するようになった。
 同年は群馬県草津の栗生楽泉園において、入所者により戦中戦後の「草津カンゴク」の凄惨な実態が暴かれ、社会的にも大きな問題となった年であった。これに触発された形で愛生園内でもさまざまな政党支部ができ、政治活動が活発に行なわれるようになった。
 昭和二十六年には全国らい患者協議会(後の全患協)が結成され、いよいよ本格的な人権回復運動、厚生省への要求活動が始まったのである。
 衣食足りて人権を知った、というところであろうか。
 ところが、こうした愛生園の転換期にあって、私はこれまでの人生でもっとも抜き差しならない状態に陥っていた。
 ハンセン病の悪化である。

 昭和二十四年頃、戦中の無理がたたり、私は病状の悪化が深刻な段階を迎えていた。
 髪の毛が抜け、耳たぶが落ち、鼻骨も腐食してしまい、鼻孔の奥には鼻汁が固形化してこびりつき、息をするのも苦しい状況である。毎晩、息苦しさのため眠れなくなると、火鉢にかけてあるやかんの残り湯をさげて寒い屋外の共同洗面所へ出て、洗面器の湯を鼻に吸い込むのである。しばらく吸い込んだまま浸していると、固形化した鼻汁が軟化してストンストンと出、少し呼吸が楽になり、ようやく眠ることができるといった有り様であった。
 一方、咽喉には結節が出て気管を圧迫しており、私はいつ咽喉切開手術を受け、かつて重病棟で私が付き添いしたあの患者さんのように、カニューレを入れての呼吸となるのかと、不安でならなかった。
 私は、いわゆるハンセン病の末期症状となっていたのである。
 だから、一刻も早くプロミン治療を受けたいと願っていた。
 診察は犀川一夫(後の沖縄愛楽園園長)先生に受けた。先生もプロミン治療は初めてで、まだ試行錯誤の段階にあった。
 当時私は、体重が六十八キロ、身長が百六十九センチであった。ここから計算して、午前に3cc、午後2ccの合計5ccの静脈注射を受けることになった。
 毎日注射を受ける際に、看護婦さんが注射器にプロミンを入れ、空気を抜くため、四、五滴消毒綿の上に落とすのを見て、勿体無い、その落ちた一滴でも多く体内に入れてほしい、と切に願ったものである。
 とにかくこれで病気は快方に向かい、将来が明るく拓けてくるのだ、と思うと毎日注射に出かけるのが楽しくて仕方なかった。浮き浮きした気分で医局に通い、希望を持って注射に励んだのである。
 ところが、治療を始めて一週間が過ぎたとき、背中に悪寒が走り、顔は一面紫色となって腫れ上がり、結節が一杯出てきた。十日も過ぎると、その結節は全身に広がり、化膿して、身体中が傷だらけになってしまったのである。
 犀川先生の診断では、プロミンの一時的副作用とも考えられるので、一時休薬してみるか、と言われた。
 他の人は赤い斑紋は消え、結節も治っていくのに、どうして私だけには効果がないのか、これが私の運命なのか、と随分と悩んだが、このまま治療を止めても死に近づくだけだ、死んだつもりで治療を継続してください、と先生にお願いした。
 しかし、症状の悪化は一向に衰える気配を見せなかった。結節の化膿のためか四十度近い発熱があり、一日中悪寒が身体を駆け抜けた。身体のあちこちから膿が出るため、支給の包帯だけでは足りず、家内が次々洗濯し、再生しなければ間に合わなかった。
 私は、日々自分の身体が衰弱していくのが自覚できるようになった。
 衰弱が極まり、午前中、気分の良い時間に家内の肩を借りて治療に出掛けるが、午後は床に臥せったままで、距離にして二百メートルほどしかない注射室にすら出掛けることができなくなっていた。従って注射は午前中の3ccだけになってしまった。
 プロミンの量も減り、あとは死ぬだけだと毎日絶望的な気持ちで過ごした。
 ところが、それから二週間も過ぎると、目に見えて全身の潰瘍が治り始め、四年ほど前に再発したときにできた、手の甲の潰瘍までもが治っていく。あれよあれよという間に傷が癒え、熱が引き、悪寒も治まっていく。
 驚いたことに、こうして私のハンセン病の症状は、1ヶ月後には治ってしまったのである。
 ハンセン病が治癒すると、髪の毛や眉毛も元通りに生え、潰瘍の跡はケロイド状になって残ったものの、二度と見られない程ではなかった。
 後年、園に整形外科が入り、後遺症を残した者の整形にあたったが、このときに私も、鼻骨の落ちた鼻を少し治してもらった。
 後に、症状が悪化したのは、注射するプロミンの量を誤ったことによる副作用であることがわかった。私の適量は午前中に打つ3ccであり、午後発熱によって注射に出られないことが幸いしたのである。
 犀川先生も初めて使う薬で、テストの意味合いもあって、患者の身長体重を基本に考えたのであろうが、人間は個々に体質が違って一律ではないことを後述しており、私自身にとっても貴重な人生経験であった。

 更に、このことが自分でも思いも寄らなかった行動に駆り立てた。
 病状が悪化を極め、もうここまでか、と考えたとき、母との約束を破り、偽名を使って最後の手紙を書いたのである。
 内容は、病気が進み、もう長くない、さようなら、という別れを綴ったものであったが、二、三日もしないうちに、床に臥せっていた私に、面会人の通知があった。
 家内の肩にすがって面会室へおもむいたが、まさか愛生園に母がやってこようとは、考えてみもしないことであった。
 母は面会室の椅子に腰掛けていたが、部屋に私が入っていってもそ知らぬ顔をするのである。それもそのはずで、私は顔一面に包帯を巻いており、別れた時の面影など確かめる術が無い。「お母さん、よく訪ねてきてくれたね」と声をかけると、母は私をしばらく怪訝な顔で見つめていたが、声で気付いたらしく、「おまえ、はじめか!」と声をあげ、そうか、そうか、と泣き崩れた。
 しばらく私は言葉も出ず、お互い泣き通しであった。
 これが母との一三年ぶりの再会であった。
 やがて、「これが十年前に結婚した綾子です」と妻を紹介すると、よくこんな重症になった者の嫁に来てくださった、大変に苦労をおかけします、有難うございます、と深々と頭をさげ、初対面の挨拶を済ませた。
 私の寮でゆっくり話しでもしようと母を連れてきたが、突然の来園のため、玄関や廊下には泥まみれの馬鈴薯が乾かしてあり、洗濯した包帯が、何本も乾燥のために竿にぶら下がっているような有り様で、実に酷いところを見せてしまった。
 母は干からびた馬鈴薯を見るなり、家が近いところであればこんな苦労はかけないのに、と言いながら、着物を脱ぎ始めた。見ると、着物の下に巻いた帯のなかから、目の覚めるような輝きを放つ白米の袋を取り出すのである。
 唖然と見つめる我々に母は、今はインフレでお金では何も買えないが、お米さえあればどんな品物でも求めることができると思い、隠し持ってきた、と言った。
 当時は農家も自家用以外の白米の持ち出しは禁じられており、十分に検束を受ける行為である。女であるから裸にされることはなかろうと帯に米を縫いこんでまで持参してくれた、この母の思いやりの心は、私の生涯を通じ、今日まで忘れ難い出来事である。

 それから十年もして、心配をかけてしまったことでもあるし、病気が治癒し、元気に回復した姿を見せてあげたくて、偽名を使って母に連絡を取った。
 母を呼ぶと、長島で一泊せねばならないので、私が岡山駅まで出迎えて、静かな後楽園で会うことになった。
 母は治癒した私の姿を見て、涙を流して喜んでくれた。「長島でお前を見た瞬間は、お前とは思えなかった泣く泣く帰ったが、いつ死亡の連絡があるかと思い、また、葬儀はどうしよう、療養所で死んだことが分かれば親族にも迷惑をかけてしまう、などなど心配事が募り、一週間は眠れぬ夜が続いた」と心のうちを話してくれた。
 ともあれ、私はプロミンと白米のおかげで、奇跡的に元気に回復したことを感謝し、二人で喜びあったのである。