らい予防法改正


 新憲法の制定や草津の「特別病室事件」によって、全国のハンセン病療養所の入所者の人権意識は急速に高まりを見せ、かねてより入所者やその家族を苦しめてきた、「らい予防法」への関心が寄せらるようになった。
 当時のハンセン病患者数は、全国で約一万二千六百名、療養所への入所者一万百名であり、「らい予防法」の厳しい隔離政策をうかがうことができる。
 しかし、民主主義国家への転換期にあってこうした人権蹂躙の実態が看過されようはずもなく、昭和二十七年、衆議院議員長谷川保代代議士は国会に「らい予防法と治療に関する質問趣意書」を提出した。
 その質問書は「政府は改正の用意があるとすれば、その予定はいつ頃になるのか」といった内容であった。
 しかしこれに対する時の内閣総理大臣吉田茂の回答は「らい予防法」は憲法に抵触しない、予防法を改正する予定もない、というにべもないものであった。
 ところが昭和二十八年政府は唐突に改正法案を提出するが、運用によっては現行法(法律第五十八号、昭和六年制定)と変わりのない人権無視の施策につながる恐れのあるものであった。また、文中にやたらと患者が触れた物への消毒が強調されており「らいに関する正しい知識の普及」とはおよそかけ離れた内容であった。
これが同年三月、国会に上程されたが、俗に言う吉田首相の「バカヤロー解散」によって、不信任案が可決され、法案は流れてしまった。
 しかし、総選挙後、第五次吉田内閣が誕生し、この案が再び提出され、無修正で可決、参議院に回されることになった。
 この政府案の内容は、プロミンによって菌陰性者が続出し、従って当然社会復帰への扉が開かれることを期待していた全国の患者の期待を大きく裏切る形となり、猛烈な反対運動が巻き起こることになる。
 この反対運動の母体となったのが、全国国立らい(ハンセン病)療養所患者協議会(以下、全患協)である。
 全患協は昭和二十六年一月十一日に発足したが、発足当初は患者の外出に厳しい制限があったため、各療養所の自治会代表が一同に会しての議論をすることはできず、書面の郵送による書面会議の形をとっていた。
 同年の発足会では「強制収容反対」「退園を認めよ」「懲戒検束規程の廃止」などをスローガンとして掲げ、本格的な運動が始まっている。
 同年十一月八日、参議院厚生委員会は参考人として愛生園園長光田健輔以下五名を招集、証言を求めた。
 その証言内容は、プロミン出現によって著しい効果が挙がり、社会復帰を熱望している患者たちの気持ちをおおいに逆なでし、入所者を激昂させるものであった。
 光田園長の証言内容は、「(患者の療養所収容について)手錠でもはめてから捕まえて強制的に入ればいい」「(罹患者も)知識階級になると何とかかんとか逃げるので、強制のもう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。」「幼児の感染を防ぐためにはらい家族の不妊手術を勧めるべき」「(療養所からの患者の逃走について)逃走罪というような罰則が一つ欲しいのであります。」
 といった、予防法改正、人権回復といった、時代や全患協の動きに逆行し、人権蹂躙もはなはだしいものであった。
 全国の患者に知れ渡ったこの証言内容により、入所者達の憤激は頂点に達した。
 全患協は昭和二十七年二月、予防法改正問題について支部長会議の開催を提案した。開催地は多磨全生園に決定したが、医務局長通牒によって各園長宛に「絶対に外出許可を出さないよう」公文書が発送され、林多磨全生園園長から、支部長会議の開催は許可しない、と各代表者に退去命令が出されたが、全患協はこれを拒否、会議を強行した。
 この会議の中で、「らい予防法は保護的性格を持ったものである」ことを基本として、 一、生活保護金の法制化、二、家族の生活保障、三、強制収容条項の削除、四、全快者の退所の法制化、五、外出制限の緩和、六、秘密保持の厳守、等を要求することを決定
した。
 
三園長証言の、あくまで隔離至上主義を貫いた、患者を犯罪者扱いし、逃走罪を作れ、などという発言は到底難しく、全患協は長島と菊池支部に対して、園長証言の撤回要求を求めることを通告した。
 菊池恵風園、宮崎園長からは撤回に応じる旨の回答があったが、長島では入所者を礼拝堂に集め、光田園長にその真意と撤回を求める集会が開かれた。

 
園長は「誰でも彼でも患者というだけで強制収容するかのような解釈がされているが、多少の知識階級や社会的地位のある村会議員の罹患者などは威張って逃げて回ったりする。また、逃走罪については、入所中の者でも排菌者で病毒伝播の恐れのある者が逃走したときのことを言ったものである」との回答が得られた。
 この回答に対して長島支部は評議委員会を開き「手錠をかけて云々」は患者を犯罪者扱いしたもので、人権を甚だしく無視した暴言であるが、光田園長の科学者としての信念に基づいた発言でもあり、撤回要求は光田個人の言論の自由を抑圧、否定するものである。仮に撤回したとしても、覆水盆に帰らずで消えてしまうことではない。これ以上の要求は辞職勧告である、という結論に達し、長島支部は全患協の基本方針に基づいて、関係方面に速やかに経過報告を行なった。
 長島支部も三名の代表を上京させ、厚生省前の座り込み抗議に参加し、園内では作業放棄、ハンストの可否についての投票が行なわれた。ところが、これは過半数に達せず、納得のいかない強硬派十名がハンストに突入した。
 厚生省は警察を導入し、バリケードを張って、患者の声に耳を傾けようとはしなかった。
 長島支部も中央行動強化のため更に中央二十名の強化動員の派遣を決め、厚生省前に座り込み抗議を続行、愛生園内では光田園長の上京を求め約三百名が本館前に座り込みを続けた。
 こうした混乱のさなか、七月三日の夜に、礼拝堂横の小公園に建てられていた光田園長の胸像が、無残に叩き壊されているのが発見された、これは岡山在住地名人の集い「長島友の会」が光田園長の「古希」を祝って建てた備前焼の立派なものであったが、騒ぎに乗じて破壊されたこの事件は、事態の火に油を注ぐ結果となった。
 慎重論を唱えていた約三百名は、壊された胸像の周りに集合し、これは強行派の仕事であるとして、常務委員長と施設に対し、その究明と処分を要求して、壊れた胸像の前での座り込みを開始した。
 一方、事務本館には光田園長証言の撤回、改正反対要求のための上京を要求しての座り込みがあり、二つの集団の座り込みに園内は騒然たる雰囲気に包まれた。
 施設側は二十名の警察官を導入して警戒態勢に入り、胸像破壊の犯人捜しの捜索が始まったが、誰が何の目的で破壊したのか、色々と噂は飛び交ったものの、結局判明しなかった。

 結局、参議院厚生委員会は、付帯の九項目の決議をして、「らい予防法」の改正法案は通過してしまった 入所者の運動の成果としては、法案の最後の項に「この法律は近い将来改正する」という決議を残したことであろう。
 「らい」という名のもとに社会の片隅に追いやられ、家族とともに古い因習による差別偏見に晒されながらも、国会、厚生省に赴き、人間の存在をアピールできたことは、患者の人権意識を高めることに大いに役立った。また、療養所の実態を世間に明らかにし、社会的にハンセン病患者についての認識を広めた異議も大きい。翌年からは定期的に厚生省へ代表者が出向して陳情を重ねられるようになったことも、人権意識の顕著な表れといえよう。

 参議院の附帯九項目の決議によって、予防法改正運動は決着したが、運動の波紋は療養生活の至る所に破綻を生じさせ、にわかに入所者たちの団結に亀裂が入り始めた。
 はじめに、一部の強行派が、光田園長の国会証言が改正運動の障害になったとして「光田園長辞職要求対策委員会」の名のもとに、全国の友園自治会に檄文を送りつけた。
 この文書の存在は愛生園の自治会には知らされておらず、常務委員長は檄文を送ったこの対策委員会に詰め寄り、「光田園長辞職要求は絶対にしない」旨を各支部宛に文書で送付し、自治会の真意を伝えるとともに、この経緯を園内放送で報告した。
 この問題に入所者は敏感に反応し、一部有志は「光田園長を守る会」を結成、自治会に対し対策委員会の実態調査を要求するとともに、園長を守る、という会の趣旨に賛同する署名活動を行い、八百五十名を越す署名を集めた。評議委員会も、光田園長の辞職要求はしないことを議決した。
 自治会は対策委員会の調査にあたったが、「会員の氏名を公表することは、人権侵害でもあり、同志会との対立構造ができあがった以上、彼らの日常生活が圧迫する恐れがある。組織は連帯合議制で、檄文は私信であり、自治会への届け出の必要はない」自治会はこういった内容の声明書を発表し、対策委員会も解散した。
 それでも同志会は納得せず、なおも強硬な処分要求を重ねたため、今度は解散した対策委員会のメンバーを中心に「人権を守る会」が発足し、五十三名が署名して団体届けが出された。
 こうして同志会、人権を守る会、更には平和懇談会など十余りの団体が雨後の竹の子のように次々、結成され、園内は感情的対立が複雑に絡み合い、次第に険悪な雰囲気に包まれていった。
 予防法問題が起こるまでは日常生活において、親しげに言葉を交わし相互扶助の精神で育まれてきた厚い友情に支えられていた入所者同士が、治療室や浴場で会っても口もきかず、陰では相手の悪口を言い合い、議論が始まれば感情剥き出しのいがみ合いを起こすような、険悪な間柄になってしまったのである。
 自治会もこの園内の紛争で解散し、業務を一時停止してしまった。
 この事態を憂慮した庶務課長は各団体に折衝を重ね、園内秩序の回復へ向けた調停工作に乗り出した。
 結果、各団体は解散して、全ての団体活動を白紙に戻し、自治会の役員選挙を実施する、という勧告を告示、投票により入所者の支持を得た。
 この総選挙にあたっては激しい選挙運動が展開され、一時沈静化しかけていた園内に、再び票獲得のための、骨肉の争いが展開されることとなった。
 選挙の結果はわずか一票差で穏健派(園長を守る会)が擁立した候補が当選して、常務委員会、評議会も発足を見るにいたったが、選挙運動中の対立感情は激化して、日常会話のなかで相手をなじる様子がしばしば見受けられた。
 当時私は評議会の末席にいたが、議長宛に早くから辞表届けを提出し、できる限り紛争に巻き込まれないよう留意して、推移を見守る態度に終始した。

 総選挙によって自治会の機能は回復したが、園内秩序や入所者の団結のためには、自治体自体のあり方を考え直す必要があった。
 自治会規約を改正し、組織目標は「人権を守り、相互の親睦と文化的生活向上を図る」とした。
 対立の厳しさが残存する中での改正であり、入所者の関心も高く、特に「人権を守り」の字句を挿入するか削除するかの議論が闘わされたが、人権意識はこれによって高まった。
 こうして自治会が再建され、ようやく本格的な自治会活動が始まった。
 そしてその活動は、「らい予防法改正」は勿論のこと、我々入所者の低劣な生活環境を改善する、人権闘争へと発展していったのである。

 昭和三十一年、カトリック・マルタ騎士会の主催する「ハンセン病患者の救済及び社会復帰に関する国際会議」が、世界五十一カ国の代表二百五十名を集めて、ローマで開催された。
 会議は三日間にわたって開かれ、最終日にはおおよそ次のような決議がなされた。
○らいに感染した患者にはどのような特別規則をも設けず、結核などほかの伝染病の患者と同様に取り扱われること。従ってすべての差別法は廃止さるべきこと。
○らいが問題となっている国においては公衆に真の性質を理解させ、この病気に結びついている偏見及び迷信を除去するような啓蒙手段を講ずること。
○患者は、その病気の状況が、家族などに危険を及ぼさない場合には、その家に留めておくべきこと。他。
この国際決議文によって世界のハンセン病対策は大きな変化を遂げた。
 世界各国はこの国際決議によって経済力のある菌陰性患者は療養所から退所させ、ハンセン病の治療を在宅治療に切り替え始めた。ハンセン病先進国のノルウェーでは、当時既に患者の絶対数が七名にまで減少していたが、即座に隔離政策を廃止、社会看護法に切り替え、長年の隔離に対して誤った対処をした補償として、国が、医療・生活も最後の一人まで看取っている。
 また、会議の中で、日本の長年に渡る隔離政策および「らい予防法」に対し、厳しい非難が寄せられ、人権上からも速やかに廃止すべきである、と日本政府は強い勧告を受けた。
 このローマ国際会議は全国の患者にとってまさに福音であった。国際的にも隔離の誤りが認められ、社会復帰への道が拓けたかのように思われた。
 ところが厚生省がその重い腰を挙げ、菌陰性者の軽快退所基準を示したのは、それから二年も過ぎた昭和三十三年のことである。この退所基準も当初は入所者には知らされず、施設職員にのみ流布するという陰険なやり口であった。
 一部希望者には藤楓協会を通じて退所支度金三万円、技能取得金四万五千円を支給したが、「らい予防法」が現存する限り、ハンセン病患者は国民健康保険を始め、あらゆる保健から除外されており、社会生活を営む上で必要な措置は講じられていなかった。
 これはハンセン病療養所が国費で賄われていることに起因するものらしいが、つまるところ、本格的な社会復帰は初めから考慮されていなかったのである。
 それでも、愛生園のなかにも希望者がおり、この制度の適用を受け、退所する者が続出した。また、藤楓協会の支度金、技能習得金を受けないで、一時帰省を申請し、そのまま社会復帰する者も多く見られるようになった。
 ところが、復帰した者の実際の社会生活は悲惨であった。後遺症が残る者は常に人々の視線に晒され、根強い偏見が残っていることを考えると、家族の元に帰ることははばかられた。したがって多くの者が都会に潜行し、底辺労働に従事するようになった。しかし長期に渡る療養生活のため、健康や体力に自信がもてず、肉体労働で肉体を酷使して身体を壊すと、今度は国民健康保険が使用できないため一般病院での診察を断られてしまう。
 こうして、せっかく社会復帰を果たしても、何か病気にかかると、たちまち療養所に舞い戻るという、その繰り返しの生活を送る者が多く見受けられるようになった。
 一方で、軽快退所者が増えたことによる、療養生活への弊害も出てきた。
 愛生園は設立当初から、光田園長による「同病相愛」「相互扶助」「一大家族主義」という方針により、軽症患者が重症患者、不自由者の介護を行なうことで、看護婦、看護助手の仕事を補ってきた。
 しかし、ここにきて軽症者の退所数が増え、重病棟、不自由者の看護介護をする者がいなくなり、施設全般の運営に大きく支障を来たすようになった。
 こうして看護介護の職員切り替え運動が起こることになったが、そもそも療養所というのは看護婦や看護助手が患者の看護介護をするのが本来の姿であるのだから、我々入所者はここに来て初めて真っ当な患者としての意識を獲得したともいえる。
 こうした事態を受け、施設側は療養所をコロニー化して、菌陰性者と治療を必要とする者とを所内で区別することなどを課題とし、一方で昭和三十六年には高島重孝園長を会長に所長連盟を組織、療養所再編成の研究に取り組み始めた。
 我々全患協でも将来の療養所の在り方について充分研究を進める必要がある、と各支部に研究会を設け、全国的な研究会を開催することとなった。
 この当時、私は目の紅彩手術を受け、社会復帰は諦めざるを得ない状態であったため、療養所の将来は自らの将来の問題として切実な問題であり、長島支部の委員長として、研究に参加した。
 厚生省は全患協の不自由者切り替え要求に押され、昭和三五年度より「看護切り替え五ヵ年計画」を立て同年十月、多磨全生園で最初の切り替えを実施したが、実情に遠く及ぶものではなく、全患協中央交渉団は多磨、駿河支部の病友とともに切り替え完全実施を求めて厚生省に座り込んだ。
 愛生園では昭和三十八年から不自由者棟の切り替えが始まり、以後、徐々に改善を重ね、昭和四十七年に西部不自由者棟が開設したことによって、開園以来四十二年続いた患者作業による「患者が患者を看取る患者付き添い」は終わった。
 患者付き添いの歴史は日本のハンセン病政策そのものであったと言えよう。

 患者の個室獲得運動は、長期療養のストレスを解消する上でも、ぜひとも実現せねばならない運動の一つであった。
 不自由者棟のなかには雑居生活のストレスによって病状が進むという訴えが多く、昭和三十八年、最初管理棟(職員)と不自由者棟一棟で切り替えがようやく予算化され、一棟八室で六畳に二人が居住する第一不自由者センターができた。
 この同型の棟が五棟出来、開園以来の十二.五畳六人制からは一歩進んだものであったが、逆に二人制ゆえの弊害も生じてきた。
 一室六人雑居の時には自分を捨て、我慢というよりは諦めから、妥協しての共同生活が営まれていたものであるが、個室に二人だと、一度気まずくなると取り返しのつかないところがある。毎日を気まずい雑居生活で送るほど辛いものはなく、昭和四十年、私が自治会長に推された時のは不自由者たちから是非とも個室にしてほしい、という強い要望が出された。
 私自身も長期療養には個室制が必要であると感じていたこともあって、早速運動を開始した。不自由者の方々の応援を得て、園との交渉を重ねたが、本省は、個室は公共施設では認めていない、との回答である。しかし、不自由者の中には社会復帰はおろか、家族の元へ帰ることもできず、生涯をこの愛生園で過ごす決意を固めた者も多い。プライバシーを守る上でも、精神衛生の面からも、長期療養には個室が必要であると懇々と説いた結果、我々の四.五畳の要求から一歩譲った形で、三.七畳の個室で、中を木戸で仕切った棟の建設の確約がなされ、不自由者の個室を確保する足がかりを得た。
 その後も改善に改善を重ね、本格的な個室化は軽症者にも及び、療養生活も雑居の煩わしさから解放され、気持ちの上でも安定した生活へと進んでいった。

 昭和三十四年、老齢福祉年金、昭和三十六年、拠出制国民年金が発足し、開園以来、慰安会の援助や市からの慰安金に収入を得られることになった。
 ところがこれは作業に従事している者の方が受給額が低かったり、外国人入園者には年金が支払われないなどの問題点も多く、しばし事態は紛糾した。作業賃の増額、外国人特別慰安金という特別措置などにより、不自由者との年金の差額を是正し、ようやく事態は収拾に向かった。
 ところが高度成長期にあったわが国の物価は急速に上昇し、国民の生活水準が上昇する中で、ハンセン病療養所の生活は次第にひっぱくしていったのである。
 昭和三十二年に、国立早島療養所に入院中の朝日茂が国を相手取り、国立療養所の処遇は憲法第二十五条、国民は健康で文化的な生活を営む権利がある、という条項に違反している、といういわゆる「朝日訴訟」を起こしたことがきっかけで、我々ハンセン病療養所の処遇も同じであることが判明した。
 昭和四十二年この裁判が勝訴したことで政府も生活保護基準に引き上げざるを得なくなり、昭和四十六年には月額千二百円であった慰安金は、一級障害者一万円、二級以下八千円が支給されるようになり、翌年に二万五千円となった。
 しかし、これによって作業をする軽症者より不自由者の収入が多く、作業に対する意欲が失われ、労務外出や内職が持ち込まれ、特に一日も疎かにできないはずの、不自由者の介護要員が確保できない状態が生じてきた。
 自治会としては全患協を通じて現物支給されている日用品費の現金化によって生活の合理化を図ると共に、岡山県の生活扶助金より、国が行なった強制隔離に対する代償として、拠出制の国民年金の適用を求める運動を起こした。

 その後、「らい予防法」は、平成六年にようやく厚生省に予防法見直し検討会が発足し、平成七年には所長連盟が「医学的判断によれば感染症治療ないし予防の立場からは、らい予防法に定める如き強制隔離収容を必要とする理由はない」という統一見解を発表するにいたった。
 しかし、平成八年、ようやく廃止に関する法律の制定が国会で可決されるまで、「らい予防法」は厳然として我々入所者の頭上に君臨し続けたのである。
 この悪法が廃止に追い込まれたのは、言うまでもなく全患協や支援団体の熱心な運動にるものである。
 この四十年間、政府が国際会議の勧告にすら背を向け、この予防法の継続に固執したのはなぜであろうか。
 まずは厚生省の中間管理職である所長連盟がこれを国に進言しなかったことは、治癒した者を法によって長年拘束してきたことは、冤罪と言わねばなるまい。
 次は厚生省の官僚も皆ドクターであるから、当然ハンセン病については熟知していたはずである。二年間の在職期間中にこの難題に着手し、取り組もうとした者はいなかった。これは自らの身分地位保持のため触れるべからずの精神であり、怠慢、恐ろしく重い意味を持つ怠慢である。
 国会においても、議論を起こそうとしたものは長谷川代議士一人であったが、新憲法発布以降、質問書を提出し、議員立法まで提案するほどの勇気がなかった。
 十七年前、まだ耳慣れぬ病気であったエイズが問題になったとき、政府はまたも隔離政策をもって臨もうとしたが、薬害問題も引き起こし正しい知識の普及によって再び過ちを犯すことはしなかった。
 「らい予防法」のように、無知と根拠の無い恐怖心から生まれ、罪の無い人々を苦しめるような悪法が、この教訓を踏まえ、これ以上制定されないよう願わずにいられない。