愛生園の医療が拓けた


 昭和三十一年のローマ国際会議の決議や、度重なる全患協の改正運動に圧されるかたちで、厚生省が昭和三十二年にやむなく示した軽快退所基準により、菌陰性者は正式に退所できるようになった。
 所内でも藤楓協会を通じてラジオの組み立てや運転免許取得、簿記など、さまざまな更生指導が始まり、私も期待に胸躍らせ、嬉々として指導を受けたものである。
 療養所から社会復帰することで、これまでの隔離生活の分を取りかえし、新たな人生が始まる、と私は希望に満ちた日々を送っていた。
 入所者の社会復帰は昭和三五年頃、最も活発に行なわれ、一説によると二千五百から三千人の退所があったという。
 もっとも、切望して社会復帰ができたとしても、我々入所者はあらゆる障害が待ち構えていた。
 一般社会における偏見の最たるものは、菌陰性になった者でも、後遺症で指が曲がっていたり、顔にケロイドがあったりすると、「何だ治っていないじゃないか」と判断され、そばに近づくことすら嫌がられるといったものである。
 こうした身体の障害や家庭の受け入れ態勢の不備、根強く残る偏見、差別は言うに及ばず、退所者も既に中年の域にたっしている者が殆どであり、職を探そうにもせいぜい肉体労働しかなかった。
 「らい予防法」は国民健康保険をハンセン病患者に適用することを認めておらず、例えば風邪をひいたとしてもハンセン病療養所にいたことが知れると、診療を拒否された。特効薬プロミンも療養所以外での一般病棟での扱いを許されず、したがって、労務外出する者も相当数いたが、こうした底辺労働で体を酷使することで病気が再発し、結局療養所に逆戻りする者も多くいた。
 私は更生指導を済ませ、社会復帰へのゴーサインが出た、まさにその時点で、戦中に起こした目の光彩炎を再発させてしまった。
 早速手術をしたが、僅かな視力が回復したのみで、社会復帰は断念せざるを得なくなってしまったのである。
 このことで私は激しく落ち込み、生きる気力を失ってしまったが、こうなったら覚悟を決めるしかない。
 私は残りの生涯を、自治会活動を通して、ハンセン病が治る病気になったことを世の中に訴え、社会に残る偏見差別と戦うことに捧げよう、そう決意を固めたのである。


 
そんなある日、故郷からの便りなどあったためしのない私に、一通の手紙が届いた。差出人は私を育ててくれた叔父である。
 開封してみると、「おまえも病気が治って母と岡山で密会しているそうだが、母は鳥取の家の近くまできて泊まっていけ、と言うことができないのが辛いから、岡山まで出かけて会っているということだ。おまえもご先祖様や父親のお墓参りをしたかろう。現在、息子夫婦とも仕事の関係で嫁の実家で暮している。家には私達老夫婦だけしかいないから遠慮せずに帰ってこい」といった内容のものであった。
 こうして昭和三十八年、私の里帰りが実現することになった。
 考えてみれば、大阪の商社で働いていた頃にハンセン病の宣告をうけ、母にだけは打ち明けようと生家に訪れ、喜ぶ母に、身を切る思いで病気のことを告げた、あの母子して眠れなかった夜から、既に二十七年の月日が過ぎていた。
 当時十九歳だった私も、もう四十六歳になっていた。
 二十七年もの歳月を長島愛生園という療養所で暮してきたのか、と思いを新たにしつつ、私は故郷の小さな駅へと降り立ったが、どこか現実のことと思えず、足もともおぼつかなかった。

 
念願であった父の墓参りも済ませ、母とも水いらずでゆっくりと話もでき、生まれ育った家で一週間を過ごした。
 
村の墓地には天をつくような立派な墓標が建てられており、近づいて見てみると、小学校を一緒に通学した同級生や幼なじみの名前が皆、「戦死」と刻まれている。彼らは私とはまた違った地獄を見たのであろう。私は自分でも気付かぬ内に、自然と手を合わせていた。
 故郷の風景も様変わりしており、道路は拡張され、橋は立派なものが架けられ、懐かしい校舎は都会から進出した工場に変わっており、戦後の高度経済成長をうかがわせるものとなっていた。
 こうして一週間は瞬く間に過ぎ、友達や知人と語ることはなかったものの、私の人生の中で、忘れ難い日々となった。
 そして、この里帰りを自分だけの幸福に終わらせたくない、と考えながら帰園した。
 是非ともまずは「無らい県運動」を活発に行なった地方自治体のわが故郷鳥取県が、人権を無視して強制収容した代償として里帰りを実施し、受け入れ困難な入所者の家族の理解を取りつけ、彼らの長年の苦労に報いるべきである、と考えた。
 私は、里帰りの請願を、鳥取県厚生部長、加倉井氏に県人会代表として行なうことにした。
 鳥取県の「無らい県運動」を引き合いにしながら、まず菌陰性者で、入園以来一度も故郷の土を踏んだことの無い者から里帰りを実施していただきたい、どうか存命している入所者の里帰り願望を満たしてやってほしい、と申し入れた。
 加倉井氏は熱心に耳を傾けて聞いていたが、現在のハンセン病の状況から見て当然である、ぜひ実現に向けて努力しましょう、と即答した。

 
この予想以上の快諾に私は飛び上がって喜んだが、実現に至るには加倉井氏の骨折りが必要であった 長年に渡り厚生省が「らい予防法」によって隔離政策を遂行しているのに、地方自治体が独自に入所者の里帰りを実施することは法律違反であり、社会問題になりかねなかったのである。
 そこで加倉井氏は厚生省の上司である医務局長に了解を取りつけ、療養所入所者の里帰りを実施すると通告した。

 
選ばれた四人の者はそれぞれ両義足、手の指はすべて欠落、または屈曲した後遺症をもっていた。
二十数年に渡る厳しい隔離生活で精神的にも異常を来しており、かつて自分が発病したとき、強制的に連行され、村民に恐怖の眼差しで見られた悪夢のような経験から、自分たちだけでは帰れない、県人会会長のあなたが同行しなければ、と態度を硬化させてしまった。
 入園以来一度も郷里に帰ったことの無い者、というのが部長に要請したときの条件のようなものであるから、私はメンバーに入ることはできない。加倉井部長は自分の立場を危うくしてまで、隔離から開放への推進として、里帰りの実施を決定したのに、これに応えられないようでは自分たちの悲願達成もできない。
 あなた方はこれから里帰りをする者にとっての先駆けとなる人たちだ、解放と県の好意に応えるためにも先駆者として行っていただきたい、と二、三日説得に説得を重ね、懇願した結果、ようやく踏ん切りをつけてくれた


 彼らによると、鳥取駅には担当官に車で出迎えられて、県庁へ到着すると、厚生部長室の応接間へ通されたが、この里帰りをスクープしていた朝日新聞の記者が入っており、「よく帰ってきてくれた」と部長のねぎらいの言葉とともに、フラッシュがたかれたという。秘書から出されたお茶には、指が無いために手がつけられず、初めて入った県庁の中で身体がこちこちになって、何を言われたか覚えていない、との報告であった。
 部長室を退室すると、疲れもあろうと浅津温泉(今は羽合)の湖畔荘に向かい、県の配慮で家族風呂に入り、食事は部屋で摂り、翌日は県内を一周、四人の希望通りそれぞれの墓参りや家族との面会も済ませ無事帰路についた。
 この里帰りをスクープした、朝日新聞記者が掲載した記事は、人の心に迫るドラマ仕立てになっており、偏見の壁に風穴を開け、大きな反響を呼ぶこととなった。
 このおかげで翌年から各都道府県が競って里帰りを実施するようになり、なお今も続いているが、これは逆に家族の受け入れがいかに困難であるかを示している。

 この里帰り運動は春秋二回続けられたが、幾つか忘れられないエピソードがある。
 ある盲人となった入所者が里帰りすることになり、私がその付き添いをした時のことである。我々が彼の故郷を車で廻っていると、そこを真っ直ぐ行って最初の角を右に曲がってください、などと我々に道案内をするのである。そこに大きな石があるでしょう、かたわらに生えていた木はもう大きくなりましたか、と見えないはずの風景が彼には手にとるように分かるのである。
 このことから眼が見えなくとも、ふるさとというものは心の中ではっきりと生き続けているのだな、と感銘を受けた。
 また、ある人は予告せずに家へ帰ったため家人は留守にしており、仕方なく墓参りを先に済ませることにしたが、行ってみると墓は草が茂り、荒れ果てている。
 彼はぶつぶつ文句を言いながら一旦家に戻ると、勝手に鎌を持ち出してきて墓の手入れを始めた。
しかしよく考えてみると彼は数十年に渡って家を留守にしていたのである。にも関わらず、彼には鎌を置いてある場所がちゃんと分かるということが、私には感動的であった。
 もうひとつは病状が悪化し、両足を切断し、両義足となっている人の話である。
 広大な田園風景が広がる彼の故郷を、車で走らせていたときのことである。遠くに、田んぼの中で一人、ぽつんと働いている人の姿が見えたとき、彼が停めてください、というので道路脇に車を寄せて停車した。
 その人は彼のお兄さんであった。車の中から何十年も会えなかった兄の姿を見つめる彼に、我々は「会ってこいよ、私たちが手伝うから」と勧めたが、彼は車内から動こうとしないのである。
 いくら我々がそのための里帰りじゃないか、と説得しても彼は断固として断るのである。そして一言、こう言った。
「誰が見ているか分からないじゃないか!」
 見渡す限りの田園のなかに、他に人の気配など無く、またいたとしてもこの距離では見分けなどつかない。それでも彼はただ、遠くに見える働く兄の姿を、車の中から涙を流しながら見ているだけであった。
 涙を流しながら見ている彼の姿は、いまだに私の脳裏から離れない。


 昭和三十二年、光田園長から高島重孝園長に交替したときの就任の挨拶で、高島新園長は「木に竹を継いだような交替だ」と言われたが、これは絶対隔離主義の光田イズムから入所者を解放に導こうという意欲を表わした発言でもあった。
 光田園長が開拓者ならば、高島園長は改革者である、との誉れがあるように、予防法改正後の山積みとなった園内の諸問題に積極的に取り組み、施設整備、職員の充実、ハンセン病を正しく理解してもらうための一般への啓発活動など、精力的な活動を見せた。
 また、整形専門医による、入所者の顔や手足の手術を受けられるような道を拓いたのもこの人物である。
 この当時私は自治会の文教委員長をしており、菌陰性者で人に病毒伝播の恐れが無く、且つ入園以来一度も島から出たことの無い者たちで、岡山へ一日バスレクレーションを計画している、と新園長に話すと「それはいいことを考えてくれた」と早速実施するよう快諾してくれた。
 このバスレクには、ちょっとした遠足のような形で園外の戦後の復興を見学するとともに、戦中戦後の、厳しい苦難の生活を生き抜いてきた者への、ねぎらいの気持ちもあった。
 ところが、相当日数が過ぎても、一向に具体的な実施の回答が無い。ある日たまりかねて園長に問いただすと、船舶部が命令を聞こうとしない、人事係に任せてあるから、そちらに要求してほしい、との返事であった。
 そこで船舶部の人事係になぜ園長の命令を聞こうとしないのか、と尋ねたが、要は長きに渡る隔離政策が職員の骨の髄までしみ込んでおり、光田園長から一転して解放的な施策をとっている高島園長の方針が売名行為のように思われ、協力をしたくないという態度であった。
 ローマ会議によって人権が復活し、特効薬の出現によって菌陰性者が増え、他人へ伝染する恐れが無くなっているというのに、未だ当の施設職員の間では、そうした意識改革ができていない証左であり、私はしばし呆れてものが言えなかった。
 それでもなんとか実施に漕ぎ着け、第一回日帰りバスレクの行き先は、岡山市の池田藩、曹源寺と決まった。
 曹源寺は由緒ある立派な古寺で、池を中心にした回廊式庭園は昔日のままの情趣に溢れており、しばし一同時を忘れて往時の面影をしのび、お茶をいただいて帰園したが、十年も二十年も療養所の外に出たことの無い者が殆どのこの外遊は、彼らにとって感慨もひとしおであったようだ。
 私も満足し、大いに楽しんだが、この頃から社会見学という言葉が園内で使われ始めた。
 昭和四十七年には、旅行好きな者四名が集って春秋旅行をする計画を立てた。
 今回の旅行は日帰り旅行と違い、宿泊を含めた本格的なものなのである。
 それからこのトラベルサークルは毎年旅行を計画し、北は北海道、南は沖縄まで、日本国内を次々と訪れ、これを聞いた旅行会社が今度はセールスに来園するようにもなった。
 私が小学生の時、念願であった京都への修学旅行に行くことが許されず、悔しさに涙を飲んだこともあったが、こうして全国どこでも好きなところへ行くことができるようになった。療養所の入所者が旅を楽しむことができるようになったこととともに、感慨深いものがあった。


 先の里帰り運動でも痛感したことであるが、長年の不当な隔離生活が、入所者の精神状態に及ぼす影響には、計り知れないものがある。
 そのことに気づかせ、教えてくれたのが、精神科医の神谷美恵子先生である。「生きがいについて」「医学的心理史」「人間を見つめて」等、多数の著作がある神谷先生は、昭和十九年、東京女子医専の在学中に長島愛生園に来園、十二日間の実習に参加している。
 この滞在の中で、先生は将来ここの役に立ちたい、と若い情熱を持ったということをご主人の神谷宣郎先生(大阪大学名誉教授・国立基礎生物学研究所教授)は述壊している。
 長島愛生園にはハンセン病を病み、そのうえ精神に異状を来した者もおり、その扱いは、私が入所した昭和十一年当時は、園内監房の一室に押し込めるという方法をとっていた。
 時代の流れとともにその処遇は改善され、現在では瀬戸内三園の精神病棟として本格的なものになったが、神谷先生がハンセン病の精神病者に強くひかれたのは、島に隔離されたうえ、園内でも監房に幽閉され、同病者の中でも忌み嫌われる、という、当時の精神病患者の取り扱いに強い衝撃を受けたからではなかろうか。
 元文部大臣の前田多聞を父に持つという名門に生まれ、留学、結婚、子育て、津田塾大学教授と多忙な生活の中にありながら、神谷先生は愛生園の精神病患者のことが頭から離れることは無く、芦屋の自宅から足繁く、愛生園を訪ねてきた。
 昭和三十三年から十四年間、精神科医長として愛生園に勤務し、患者の診療にあたったが、そのかたわら付属准看護学校の講師もしており、大変な生活であったことが察せられる。
 私が神谷先生と話をする機会に恵まれたのは、昭和四十年のことである。
 園内でアンケートを実施したいため、自治会長である私に協力をお願いしたいという申し出がであり、患者事務所にお迎えしたが、畳はひどく汚れており、木箱の中にトタンを張った火鉢の縁は真っ黒で、実に気恥ずかしい思いがした。
 しかし、神谷先生は一向に気にすることなく、アンケート用紙を広げ、その趣意を丁寧に説明してくれた。
内容には、門外漢ゆえ意味の分からないところもあったが、要望どおり不自由者棟、病棟、軽症者棟と棟別に配布し、回答を得て先生に渡した。
 一ヶ月ほど過ぎて、その結果を先生に聞くことにした。
 先生は、「本当は公表できないのですが、会長さんに依頼したことですから、お答えします」と前置きしたうえで、「アンケートの結果では、入所者の七十パーセントが異常です」と言った。
 驚いて、思わず「私も精神病でしょうか」と聞いてしまったが、「そうではなく、異常というのは社会的異常ということです」との返事が返ってきた。
 当時すでにプロミンの薬効も医学的に十分認められ、厚生省も退所基準を示し、相当数の退所者も出ていたが、未だ罹病者は在宅治療が許されず、療養所に隔離する施策がとられていた。
 長島という狭い島の中にあっては、職員地域と患者地域は区別され、上陸する桟橋も別という園内の差別があり、園外では家族に及ぼす影響を恐れて身元を隠し、偽名を使い、戸籍抹消の手続きをとる人もいる、といった具合で、入所者はどこへ行っても、差別と偏見の眼差しにおびえながらの生活を余儀なくされていた。
 こうした精神状態での療養生活では、入所者の精神は萎縮し、精神構造も卑屈にならざるを得ない。何十年もの間、毎日同じ人とだけしか接触がないという日常も、特殊な社会を築き上げてしまった一因であろう。
 また、国立療養所は一種の治外法権の場である。愛生園の生活はすべて税金によって賄われており、入所者は普通の奥さん方がもっとも頭を悩ませる米や肉の価格を知らないのである。一般的な経済観念の欠如は、社会的異常と指摘されても仕方ないところがあるような気がした。
 新憲法以来人権意識は高まりを見せたが、毎日が生活向上の要求に終始していることも入所者の社会性を失わせる一つの要因であると思われ、私も少し反省するところがあった。
 昭和五十四年、十一月二十二日。
 再び自治会長を務めているときに、突然神谷先生の訃報に接した。もともと循環器系の障害があり、入退院を繰り返していたことは知っていたが、こんなにも早く亡くなられようとは、思いもよらぬことであった。
 葬儀の前夜、葬儀委員長を務める高橋先生から明日の葬儀には弔詞をいただきたいという要請があり、突然のことで考える暇もなかったが、神谷先生は詩が好きで、病床にあっても詩作を続けていたことは知っていたので、園内の詩話会長の島田ひとし氏に話したところ、「私に作らせてくれ、翌朝には届けるから」と快諾を得た。
 葬儀は大阪千里会館で行なわれ、各界著名人が多数出席し、会場に入りきれないほどの参列者であった。
 私は遺族席に座らされ、詩の朗読などしたこともなく、いささか緊張したが、同行した庶務課長、自治会医療委員長らに、終わった後、なかなか落ち着いた立派な朗読だった、周囲の人も涙を流しておられたよ、と聞かされほっとした。

         神谷先生に捧ぐ

      そこに一人の医者がいた
       五十年の入院生活を続けている私たちにとって
       記憶に残るほどの医者に恵まれてきたわけではないが
      めぐみは数ではない

      そこに一人の医者がいた
       「なぜ私たちでなくて、あなたが?」
       「私の“初めの愛“」ともあなたはいう
      代わることのできない私たちとのへだたりをあなたはいつもみずから負い目とされた

      そこにはたしかに一人の医師がいた
      私たちは、いまとなっては真実にめぐり会うために痛み

       病むことによってあなたにめぐりあい
      あなたのはげましを生きることで
      こうして
      あなたとお別れする日を迎えねばならない
 
      さようなら
      神谷美恵子

      さようなら

 葬儀が終わり、出棺のため式場を霊柩車が巡回する前、高橋葬儀委員長から、「謹んで御参列の皆様に申し上げます。御遺族の意思によって、本日の皆様方の御香典は故人がこよなく愛された長島愛生園にご寄付させていただきます。ご了承ください」と挨拶があった。
 友田園長から使い道は君に任す、と言われ、種々検討した結果、愛生編集部が建物の老朽化で手狭となっており、ここに神谷書庫を建てて先生の遺徳を偲ぶ出版物、所縁の品々を保存することに決定した。
 神谷書庫は、五百平方メートルあまりの小さく瀟洒な建物として完成し、その落成式にはご主人の神谷宣郎先生も来園してくださり、「こんな立派な建物を残していただいて、故人もあれほど愛生園で役に立ちたいという固い意志を持っていたので本望でありましょう」とその謝辞の中で述べた。
 神谷書庫は現在も訪れる人が多く、神谷先生の遺徳を偲ぶに格好のものとなっていることを、私もその建設に関わったものとして喜んでいる。
 神谷美恵子先生は、隔離が人間性を奪うことを教えていただいた恩人である。


 藤楓協会が、啓蒙活動の一環として「ハンセン病を正しく理解する集い」という催しを、東京を始め各都道府県の主要都市で順次開催することとなり、昭和五十四年、長島愛生園、邑久光明園が主体となった大阪府での集いが、大阪市森の宮青少年会館で行なわれた。
 例年通り高松宮寛仁殿下ご夫妻をお迎えして、岸昌大阪府知事の開会の挨拶の辞に続き、第一部として医学的側面についての講演を原田光明園園長、入所者からは私が、自治会長の立場から体験談を語った。第二部は長島盲人会の「青い鳥楽団」の演奏会が行なわれ、満員の聴衆を集め、会は盛況のうちに幕を閉じた。
 この会で、高島前園長が私を白髪の紳士に引き合わせてくれたが、この人物こそ、初めて日本でのプロミン合成を成功させ、後にはプロミンの静脈注射の煩雑を避けるため、錠剤であるD.D.S(経口投与)を開発した、日本のハンセン病患者を救った真の功労者、東大の石館守三教授であった。
 教授は、自分の開発した薬で命を救われた患者が目の前に現れて感激したのか、私の両手を握りしめ、よく頑張ってくれたね、と涙を流して喜んでくれた。私も、この先生によって私を含む全国のハンセン病患者が命を救われたのかと、殆ど背筋がぞっとせんばかりの感動を覚え、ありがとうございました、これからも啓発に努力します、と述べたが、こうした偉人にお礼を言う機会にも恵まれ、私にとって実りの多い会となった。
 しかし、この会の終了後のパーティには、主役である筈の入所者たちは、体験談を発表した私を含め、一人も招待されていなかった。
 パーティなど勿論どうでもいいことだが、府当局、藤楓協会の、入所者に展示品の出品、出席を依頼しておきながら、その後のパーティには呼ばない、という姿勢は、結局は未だに自ら古い体制の変わらぬ官僚たちの体制だけを繕った会であることが露見されたものであり、私は苦々しく思った。
 しかし、逆に思い出に残ることもあった。
 私の体験談終了後、皇室関係者は金屏風の裏の控室へ入っていくのが通例であるが、高松宮御夫妻はすっと立ち上がると、わざわざ観覧席まで降りてきて、私に「長い間ご苦労だったね。これからも頑張って元気に過ごしてください」と握手しながらねぎらいの言葉をかけてくださった。
 殿下はそのまま中央通路から退席したが、これは通例皇室関係者の行動には無いことであり、高松宮様の自由且つ国際的な発想から来たものであろう。
 高松宮殿下は、この翌年開かれた長島愛生園開園五十周年記念式典にも来園され、私が自治会長として桟橋まで出迎えたところ、去年大阪でお会いしましたね、と覚えていてくれ、恐縮したが、唐突に「ところで橋は架かりましたか」と尋ねられた。
 その頃、我々が起こした長島架橋運動は九年目に突入、微妙な時期にさしかかっており、つい先頃園田厚相に確約を取り付けたばかりであった。
 殿下は今船で渡ってきたばかりではないか、奇異なことを聞く人だな、と思ったが、よくよく考えてみると、宮様は政治行政に関わることに口出しはできない。
 しかし、来園にあたっては県知事、国会議員、厚生省の官僚たちが殿下の取り巻きで連れ立って来ており暗に架橋の早期実現を進めてほしい、と彼らに伝えているのだと分かり、有り難く感じると同時に、殿下の思いやりに感服した。
 高松宮殿下は、昭和二十六年、らい予防協会が発足させた財団法人藤楓協会の総裁でる。
 高松宮殿下は、昭和二十三年、初めて愛生園に来園した時から既に国際性豊かな見識を持った方であった。
 来園目的は園内視察であったが、当時は職員ですら白衣にマスクで「伝染」に備えていた時代であった。にもかかわらず殿下は差し出された消毒用白衣や長靴は一切着用せず、施設当局が予め定めておいたコースを離れ、病棟や不自由者棟を中心に視察し、夜は皇室関係者としては開園以来初めて、園長官舎の応接室にベッドを運び込んで宿泊した。
 また、愛生園開園四十周年の記念式典にも高松宮殿下は来園されたが、そのとき、こんなことがあった。
 入所者一同整列してお出迎えする中、関爺さんという韓国人の高齢入所者が、腰にピース缶を紐で通してぶら下げているのが殿下の目に留まった。
 関爺さんは他にも外科用の大きなピンセットやらキセルやらをごちゃごちゃと腰にぶら下げており、歩く度にがちゃがちゃ音を立てるので、それが目に留まったものらしい。
 関爺さんは韓国人ゆえ、日本の敬語という概念が無く、殿下が「これは何をするものなのですか」と尋ねると、「これけえ?これは私の生活にゃあ欠かせねぇものなんだよ。これがねぇと煙草一本吸ねぇんだよ」といつものように答えた。「どのようにして吸うんですか、やってみていただけますか」と殿下が興味深そうに頼むと、関爺さんは得意気に、まず、ピースの缶から両切り煙草を更に半分に切ったものをピンセットでつまみ出し、くわえたキセルの先に差し込み、片手で腰に当て、マッチ箱からマッチを取り出すと、火をつけ、そこにキセルを寄せて火を点した。
 うまそうに煙草を吹かす関爺さんに、「どうもありがとう」と殿下はにこやかに告げて立ち去った。
 このような情景に触れていると、かつて朝香宮鳩彦殿下来園の折、殿下の不揃いな足跡を隠すために、無償の勤労奉仕で砂利を敷きつめさせられた時代からかんがえてみて、私は感心することしきりであった。
 高松宮殿下は昭和六十二年の惜しくも逝去されたが、わが国のハンセン病事業や長島架橋における数々の功労功績に、今も頭が下がる思いである。


 昭和五十二年、私は全患協中央委員として年数回の上京があったが、暮れの十二月二十日から約十日間に渡り、来年度予算での予算復活交渉要求行動を、東京多磨全生園を基地にして厚生省及び大蔵省へ行なうことになっていた。
 この間に、翌年三月で定年退職が決まっている所長連盟の高島先生と、小泉全患協会長との三人で夕食のお別れ会を持つことにしていたのだが、なかなか時間がとれずに実現しなかった。
 高島先生は愛生園の光田隔離政策を解放に導いた人で、在職二十年の功績はわが国のハンセン病行政を変革した人と言っても過言ではない。そして何より「らい予防法」を形骸化させた張本人というべきであろう。
 高島先生は岡山ロータリークラブに入り、岡山の著名人に隔離の必要の無いことを粘り強く説いて廻り、このことが、岡山市内での市民の患者への態度を変えさせてしまった。
 デパート天満屋では、毎週火曜日に入所者がショッピングに出掛ける際、店員は「患者さん」とも呼べず、「愛生園の人」と言うのも気がひける、そこで「火曜さん」と呼んでもらうことになり、店員も親しみが沸き、接しやすくなったと評判であった。
 また喫茶店などでは、手に知覚障害が残った入所者に、店員が「熱いですよ」とひと声かけてからお茶を出してくれるようになり、心が温まる思いがした、と喜ぶ入所者の声もあった。
 こうした日常的な些細な接点から、市民の意識を変えていったことも高島先生の啓蒙活動の一端である。 あるとき、真言宗の総本山、金剛峯寺に入所者たちで参拝に出掛けた折、高島先生は出張があるとのことで同行し、夜には三宝院の宿坊で接待を受けた。
 旅の疲れを癒そうと風呂に入ったところ、高島先生は「ようよう、早く入れ、背中を流してやろう」と言い、躊躇した私は「先生、それでは光明皇后みたいになりますから」と冗談を飛ばしながら入浴した。 夜、就寝前にトイレに行こうと廊下を通ると、ある部屋から若い僧が雑談する声が聞こえてきた。
 内容は「あの園長さんは患者さんと一緒に風呂に入っていたぞ」という驚きの混じったものであったが、身をもってハンセン病への偏見を無くそうとする努力は、こんなところでも見られ、私は畏敬の念を新たにしたものである。

 東京で実現しなかったお別れ会は、小泉氏(全患協会長)を呼んで愛生園の高島園長官舎で行なわれることになった。
 高島夫人は足が不自由で、車椅子生活を送っているとは聞いていたが、先生が単身赴任であったため、初対面であった。先生は「うちの婆さんも第三不自由者棟へ入れてくれよ」などと冗談を飛ばし、和やかに歓談が始まった。
 施設側からは上田婦長が接待に来ていたが、他に園の幹部も招待してあったらしく、婦長が度々電話を入れるのだが、仕事が残っていて遅れます、などと答え、定刻を一時間半過ぎても誰一人来宅者がないため、先に会食を始めることにした。
 八時を過ぎても幹部の来宅が無いため、我々はあまり遅くなっても、と退宅することになり、車で帰る途中に幹部連中と出会った。
 愛生園開園以来、職員官舎はもちろん、職員地区に入所者が足を踏み入れることは許されていなかった園長官舎において入所者と共に会食などもっての外である、と副園長以下打ち合わせていたことは間違いなく、この島に残る幹部連中の旧態依然とした差別には心底情けない思いがした。
 高島先生はその年の叙勲で勲一等瑞宝章を受勲し、入所者も祝賀会を開き、喜びを分かち合った。先生は出席した入所者にこれが天皇の字だ、だが勲一等は副賞が無いのが残念だ、などと冗談で皆を沸かしていた。
 岡山市のホテルで祝賀会が開かれ、入所者から三名の出席者の要請があったため、自治会会長経験者三名が職員のバスで同行することになった。道中、何のつもりか友田園長から「あなたたちが出席していることは誰にも言わないからね」と気を使ったのか皮肉のつもりか分からぬ発言があり、戸惑った。
 式場の受付で式次第と参列者席の表を渡されてみると、ちゃんと三名とも名前と席次が記載されている。療養所生え抜きの人には患者という意識が抜け切れないのだな、と強く感じ、一瞬不愉快になった。しかし、式が始まってすぐ、高島園長は挨拶の冒頭に、「私はこの勲章を受けたことより何より、本席に入所者の代表がお祝いに出席していることが一番嬉しい」と発言して、一同を唖然とさせた。
 この発言を聞いた岡山ロータリークラブのある名士が、入所者はどの席かと探し回っており、我々の席を見つけると、一杯気分も手伝ったのか破顔一笑、近づいてくる。
 この人こそ我々入所者のバス乗車拒否を行い、療友に岡山から三十五キロの道を歩かせて愛生園に辿り着かせた、両備バス社長松田基氏であった。
 松田氏はよく出席してくれた、と早速杯の汲み交わしが始まり、肩を組んでは返杯し、早くあけろ、などと上機嫌であった。我々は苦笑して酒を飲んだ。
 この社長の豹変ぶりも、高島先生の長きに渡る努力、意識変革の賜物であり、その後、席には岡大の学長他、多数名士が訪ねてきてお祝いを述べたが、同席した各婦長さんたちも陶然として喜びあったことは忘れられない。

 この時から八年後の昭和六十年、一月二十三日、高島重孝先生は逝去された。享年七十七歳。
 高島重孝先生こそ長島を変革し、島を動かした大人物である。