長島架橋


 わが国のハンセン病隔離のメッカと言われ、小川正子著「小島の春」によって世界的にも有名になった長島愛生園。この長島に橋が架かって十二年になる。
 十年ひと昔と言うが、この隔絶された海峡に橋が架かっていることが今や当たり前の風景となっている。
 架橋によって閉ざされていた離島の長島も虫明の岬と変わり、来訪者も年々増している。特に「らい予防法」が四年前(平成八年)に廃止となってからは、自治会を始め宗教団体
地方自治体の福祉関係者、看護学校、ほか趣味の団体など多彩な団体が来島するようになった。
 以前は職員が園内の案内をしていたが、最近は入所者に直接話を聞きたい、といった希望が多く、自治会では連日、日常業務の一環として、また啓発運動としてその対応に追われている。
 邑久光明園自治会と合同促進委員会を結成して架橋活動を始めたのは、患者給与金制度が確立し、療養所生活が安定の兆しを見せ始めた、昭和四十六年のことである。
 十七年間に及んだ粘り強い運動の積み重ねによって完成したのは、昭和六十三年、わが国の技術の粋を結集して完成した瀬戸大橋の完成と同じ年であった。
 「邑久長島大橋」は橋の長さわずか百三十五メートルという小さな橋である。しかし、世界の列国に比べて数十年の遅れをとっていたわが国のハンセン病事業の解放の象徴として、その意義の大きさから、ちっぽけな橋であるが、大橋の名称をつけたのであった。
 島の西側と対岸との最短距離は、二十二メートル(現在は架橋の漁業補償として四十四メートルに拡張)の、一見泳いで渡れそうな距離である。対岸には漁業者の家が立ち並び、すぐにでも手が届きそうに見えるため、満潮時には急流に豹変するということを知らずに逃亡を企てる者が後を絶たなかったが、たいてい次の日になって漁師の網に掛かり、冷たくなって引き上げられる羽目になった。
 この短い海峡が長島を社会から隔絶し、天然の要塞として入所者を隔離していたのである。

 昭和三十一年(一九五六)、ローマ国際会議において決議された、「らいに感染した患者には、どのような特別規則も設けず、結核などほかの伝染病の患者と同様に取り扱われること。したがって、全ての差別法は廃止されること」という一文や、「らい予防法」は隔離主義を貫いている、人権上からも速やかに廃止すべし、という日本政府への勧告は全国の療養所入所者の溜飲をさげさせた。
 長島愛生園も例外ではなく、一貫して隔離による救らい主義を貫いてきた光田健輔園長も、こうした世界的なハンセン病対策の情勢の変化と高齢(八十二歳)にともない、園長の座を退くこととなった。
 後任の高島重孝氏は、着任の条件として長島架橋実現を提案し、藤楓協会理事長浜野規矩雄氏(元厚生省予防課長)を通じて架橋案を大蔵省へ持ち込んだ。
 計算高い大蔵省は一つの島の中に二つの国立療養所があるのは不合理である、と両療養所の合併を条件に、認可の内諾を示した。
 邑久光明園は、外島保養院という大阪府の所管する近畿圏の療養所であったが、第一次室戸台風(昭和九年)によって壊滅、入所者は大阪府内に復興、入所を希望したが、用地買収まで終わった時点で、当時の政友会・民政党の政争の具となって患者の要望は入れられず、昭和一三年(一九三八)、長島の西端に邑久光明園として復興、昭和十六年(一九四一)、国立療養所に昇格した。
 当時の原田久作所長は光田隔離政策に反対し、患者自治制を早くから認めていたが、国策にそぐわぬという理由で更迭されている。その他、歴史的にも長島愛生園とは相容れぬ背景を持っていたため、光明園の職員からは合理化推進による職場の確保への不安、入所者からは愛生園への吸収合併は外島保養院の歴史と伝統が失われるという憂慮から、反対運動が起こり、結局、高島構想は立ち消えとなった。
 しかし、現実的な問題として、虫明から長島へのフェリーの定期便は二時間おきであり、特にマイカーの者は十八時の最終便が出ると、次の職員夜勤便の二一時まで待たねばならない。生活物資も民営のフェリーか定期便に積み、長島の桟橋で降ろして、また島内の車に積み換えて運んでおり、島の不便さを嫌というほど味わわされていた。
 火災が発生した際には、消防車が来るのに相当な時間が掛かっており、防災の意味からも架橋は切実な願いであったと言える。
 また、経済的な面や「島流し」というイメージの払拭という意味でも重要課題であるが、何より医療機関として機能が発揮できないということも言を待たないところである。
 こうして昭和四十三(一九六八)頃から、愛生、光明両園の自治会役員が顔を合わせると、架橋についての話が話題にのぼり始めていたが、看護問題、給与金制度の確立など、生きるための諸問題への運動に忙殺されており、架橋運動は後回しにされるのが常であった。
 しかし、職員看護、介護切り替え、患者給与金の受給の見通しもつき、残るは長島架橋運動となって、気運も徐々に盛り上がってきた。
 昭和四十五年(一九七〇)、邑久光明園が、前身の外島保養院創立六十周年の記念式典が行なわれ、来賓として出席した邑久町長嘉数郁衛氏がその祝辞の中で長島架橋の必要性を述べ、また同年十一月に行なわれた愛生園開園四十周年式典に於いても同様の趣旨を述べた。愛生園では既に長島架橋について全員からアンケートを採ったところ、九十八パーセントという高い支持率を得ていた。
 光明園では本土とわずかの距離にあるため、職員は手漕ぎの小船で通勤しており、風雨の日など傘を差しての運行などは危険極まりない。
 そこで光明園の自治会は、職員組合とともに、瀬溝に歩道橋のようなものでもいいから、船舶予算を削減してでも、二年計画で架橋してほしい、と岡山県議会に請願書を提出した。
 この要求は県議会で採択されることになり、長島架橋運動は動き始めたのである。
 同年六月二十五日に岡山市民会館で高松宮両殿下を迎えて開催された「らいを正しく理解する集い」のなかで、地元裳掛中学校の生徒、野崎やよいさんの詩が朗読された。
 この詩は地元山陽新聞にも発表され反響を呼んだが、架橋運動の精神の核心を伝えあまりあるものがある。

 虫明と長島の間には
 呼べば届くほどの
 狭い瀬戸内海の流れだけど
 でも
 虫明と長島の間には
 もっともっと大きなへだたりがある
 長島と大阪の学生より
 もっと距離がある

 なぜ長島に橋を架けないのだろう
 なぜ虫明に病人を住ませないのだろう
 病人の考えも聞かず
 島に病人をとじ込めたやり方

 私は疑問に思う
 虫明の地に心の病の人は住めばいい
 そうすれば
 あたたかい友情や愛情が結ばれるのに
                 
                   (以下略)
 
 こうして運動の気運は盛り上がり、両園の自治会は合同委員会を設けて、意志統一を図りながら運動を推進すべきである、と両園から五名ずつの委員を選出することとなった。
 そのうちの一員に私も推されることとなったが、運動を始めるにあたっては、忘れ難いエピソードがある。
 不自由者棟に入居している、障害が残ったかなりの高齢者に呼ばれたとき、その人がこう言った。
「私は入園以来一度も島の外に出たことはないし、この身体だからもう出ることもないだろう。しかし、長島に橋が架かるということで、何か心がひらけるような感じがする。是非、架橋実現に向けて頑張ってほしい」 この言葉に私は感動し、不便や経済性を超えた、なにか大きな意味をこの架橋運動に見る思いがした。

 ハンセン病の療養所は医療機関であると同時に生活の場であることは言うまでもない。島には職員、家族を含め三千人余の住民がおり、入所者は年々高齢化し、火災などの災害が起こると、島に居住する職員は僅かなため、船の通勤が主体であり、入所者の不安も募っていた。
 昭和四十六年(一九七一)五月十日、第一回長島架橋促進委員会が開催され、まず運動は地元邑久町岡山県から行動すること、架橋地点は島西端の瀬溝として、橋は大型バスの乗り入れのできる規模とすることで合意した。
 こうして第一回の邑久町陳情を行なったが、席上、嘉数郁衛町長らは「架橋について、両園の施設側からは何も聞いていない。よく聞いた上で善処します」といった返答で、我々としてはすっかり肩透かしを食った形で終わった。
 我々のこれまでの運動は、全患協を中心として厚生省へ直訴する方式をとっていたため、施設側の意見は二の次とする習慣がすっかり染みついていたが、架橋とは自治体が絡むものであり、施設ともども行動せねばならない。
 反省しきりの出だしであったが、気を取り直し、早速施設代表である愛生、光明両園の園長に架橋の要請を合同で行なうようお願いした。
 ことに高島園長に関しては、十四年も前に一度大蔵省の了解が取れていたのに今更、と言われるのではないかと懸念したが、「それはいいことを決めてくれた」と好反応で、「両園の架橋合同委員会には事務部長、庶務・会計両課長、施設管理班長、福祉室長にあたらせる、私が上京して厚生省医務局長、国立療養所課長(大谷藤郎現藤楓協会理事長)に報告、協力を要請しておく」と協力を惜しまない姿勢を示してくれた。
 また、「この運動は五、六年見なければ目途が立たないだろうから、急がず焦らず、粘り強く運動するように」との力強い助言もあった。
 こうして入所者、施設側が手を組んでの運動が開始された。
 同年七月、高島愛生園園長、守屋睦夫光明園園長は、両園事務部長と揃って岡山県土木部へ出向いて長島架橋の要請を行なった。
 県側の回答は、
「県として財政的援助はできないが、技術援助、アドバイスはする。町道を県道に格上げしなければならない。長島へのバス運行は、公道であることが条件となる(長島は全島国有地)」
 というものであった。
 数日後には土木部道路建設技官が現地視察をし、次のような「長島架橋計画書」が送られてきた。

設計条件
 橋架                           取り付け道路
  橋名    長島大橋                  本土側   四〇〇メートル
  橋長    一五〇メートル               島内道路 四〇〇〇メートル
  有効幅員 五メートル                  有効幅員 五メートル(三一五規格)
  橋格    T.L 二十トン               舗装    アスファルト舗装
  床板    鉄筋コンクリート               総工費   (調査費+工事費)
  橋脚高さ 八メートル(満潮時から)          概算    二億三千五百万円
  
  (注)工事費には用地買収費、立退きその他の保障費は含まれていない。

 この建設計画に基づいて、関係方面に向け、本格的に架橋運動に入ることになった。
 更に請願書を携えて、厚生省、地元選出議員への陳情を行なったが、厚生省は「地元の世論が盛り上がらねば」と取り付くしまもなく、議員は「主旨はよく分かるが、予算的には建設省サイドの問題にならないと進展は難しい。そのためには邑久町、岡山県が公共事業として要求することが必要である」との回答を示した。
 以後、幾度か両者のもとを訪ね、陳情を繰り返したが、答えは決まって「理解はするが、即刻着工というわけにはいかない、地元の盛り上がりがない限り実現は難しい」と判で押したようなものばかりであった。
 架橋事業はやはり自治体、地元民との協力、協調が不可欠であるということを痛感し、地元への陳情を強化することになった。
 結果、邑久町議会は、地方自治法に基づく「長島架橋特別委員会」を発足させ、地元の意向を反映させるため、特別委員会による厚生省整備課への陳情が実施されることとなった。
 ところが厚生省は今や習慣となった、「理解はするが〜」という例の常套句を繰り返した挙げ句、「家の雨漏りがするのにミンクのコートを買う馬鹿はいないでしょう」という暴言めいた発言まで出る始末であった。
 一方で促進委員会は、邑久郡選出元浜貫一県議を訪ね、岡山県への紹介議員になっていただくこと、長島架橋実現への協力をお願いしたところ、快く了承してくれた。
 元浜議員は土木専門家でもあり、「長島架橋は地元開発のため絶対必要です。だが私の経験から言えば、橋とは公道と公道を結ぶものです。しかし、長島には公道がないうえ、国有地で、本土側は民有地です。従って国有地と民有地を結ぶ橋となる。こうした場合、通例、橋が架かるのは運動が起こってから十五、六はかかります。急がれる気持ちはよく分かるが、お互い粘り強く実現に努力しましょう」と力強い所見を聞いた。
 十五、六年はかかる、と聞き、気の遠くなるような思いがして、内心大丈夫かな、と不安を抱いたが、さすがに専門家、実際、架橋は十七年後に実現している。元浜議員はその後も架橋運動の推進者として尽力、協力を惜しまず、大変感謝している。
 運動の中ではこんな失敗もあった。
 国会へ向けての運動は署名運動を興して請願することが有効である、との識者からのアドバイスがあり、早速入所者はもちろん、職員、その家族らから支持を集め、二万六千二百十八名もの署名を集め、これに関係資料を添え、衆参両議長宛てに提出することができた。
 署名は両院の厚生委員に出されているものと思い込んでいたが、両院事務局は架橋請願であるため、建設委員会に出されていた。我々がそのことに気づかないまま、国会閉会にあたって、請願書の処理の際、建設省道路開設局からの説明がなかったということで、本件は保留(不採択)となってしまった。
 手続きの不備というかこちらの不手際でせっかくの署名が無になってしまうという大失敗であり、署名に協力してもらった方々には大変申訳ないことをしたと、今でも汗顔の至りである。

 厚生省、岡山県、邑久町の責めぎ合いが続いていては問題の前進はない、と三者の協議会をもって対処することが実現することになった。
 この協議会の中で、邑久町は島内道路も公道として、公共事業での進展が望ましい、との意向を示したが厚生省は三分の一を町が負担するのであれば了解する、との返事であった。
 しかし、邑久町としては、負担は町の財政状況にかんがみて困難である、としたため、協議会の進展は難航した。
 昭和五十四年(一九七九)、岡山県選出の橋本龍太郎厚生大臣が誕生した。この絶好の機会を逃して長島架橋は実現しない、と入園者架橋促進委員会は意気込みを新たにし、元浜議員を通じて橋本厚相に直接陳情をお願いしたところ、厚生省大臣室で陳情を受ける、との回答が得られた。
 橋本厚相の計画は関係者を一堂に集めて架橋のゴーサインを出すというものであった。
 こうして陳情の日時、代表出席者も決定し、上京の準備をしていた矢先、元浜議員から緊急の連絡が入った。
 八月三十日に国会の解散が決定した、というものであった。当然厚相との直接陳情は中止である。いよいよ架橋運動のクライマックスか、と張り切っていた我々にとって幻の陳情に終わってしまい、促進委員会の落胆の色は隠せないものがあった。
 解散後、関係者があつまっての懇談会が開かれ、席上橋本元厚相は協力を惜しまぬ姿勢を示した。しかし、大臣の座を退くと権力は逆転し、昨日まで部下であった医務局長に頭を下げて懇願しているのである。
この橋本元厚相の姿に、政治情勢によって架橋のゴーサインを出すことすら可能であった地位も、国会の解散によってただの代議士に変貌してしまう様をまざまざと見せつけられ、架橋運動の前途に暗澹たるものを感じた。
 もはやこの運動を続行するのか中止するのか決着の時期に来ているのではないか、との悲観論も促進委員会内に出始め、にわかに架橋運動に暗雲が垂れ込み始めたのである。


 昭和五十五年(一九八〇)は、愛生園が国立第一号のハンセン病療養所として開設五十周年を迎える、意義深い年にあたっていた。しかし、過去八年の架橋運動を総括したが、橋本厚相への直接陳情が中止になったことの悪い影響で、全国の中に漂う諦めムードはいかんともしがたいものがあった。
 だがここで諦めてしまっては元も子もない。そもそも人間回復の橋を架けようという運動である。挫けることなく果敢に突き進み、本懐を遂げるべきである、と運動の立直しを図り、この記念すべき年を架橋運動の決着をつける年との方針を決めた。
 新たな運動方針として、マスコミに呼びかけ支援を求め、活発な文書活動をする、島内外に立て看板を立てる、厚生大臣への直接陳情の実現を図る、促進委員会の拡大などを決議、一致団結した運動の展開を図ろう、と意識を新たにした。
 促進委員会は島内外へ立て看板を設置し、更に地元住民に架橋を理解してもらうため、ビラ五千枚を作り、岡山市、備前市など街頭に出て通行人に配り、一部は厚生省への直接陳情の時に地下鉄霞が関駅で配布した。
 更に架橋運動拡大委員会を結成、全患協本部とともに国会陳情と同時に厚生大臣直接陳情を実施するこを決め、十月一九日、小泉孝之全患協会長とともに、代表が奥村厚生省整備課長に現地視察と地元邑久町への協力依頼を行なうこと、そして厚生大臣に直接陳情を行なうこと、という要請をもって、実に四時間三十分に渡る交渉をもった。
 課長は、海外出張視察があるからなどとこだわっていたが、粘り強い交渉の結果、ようやく受諾した。
 交渉後我々は、厚生省記者クラブで、長島架橋の意義についての記者会見を行なった。記者たちは「人間回復」という表現に強い興味をもったようで、我々としてもこの運動に是非マスコミの支援を受けたい、と願っていた。
 ところが、課長交渉を終えてロビーに降りてみると、「厚生大臣が更迭されたぞ!」と大騒ぎになっている。
 何事かと話を聞くと、昨日の国会で、八王寺富士見産婦人科病院で、帝王切開、腫瘍手術の折、患者本人の合意がないまま子宮を切除された人が数十名もいることが判明、斉藤邦吉厚相が国会で追及を受け、責任を取って辞任した、というのである。後任の厚生大臣は園田直氏(熊本県選出、衆)が新任し、現在記者会見を行なっているという。
 あまりに突然のことで、この事態が我々にとってプラスとなるのか、マイナスに作用するのかその時点ではまだ判じかねたが、とにかく毎日、地元選出議員を各議員会館に分担して訪ね、厚生大臣との直接交渉を斡旋していただくよう、陳情行動を重ねた。
 最後に秋山長造参議院副議長(岡山県選出、社会党)を訪ね、要請したところ、「昨日斉藤厚生大臣が更迭されたから、今日、新任の園田厚相が議会対策のためここに挨拶に来る。最近厚生省は黒星続きだが、長島架橋という福祉行政がある」と暗に政治的な配慮による架橋の可能性を示し、「皆さんの直接陳情の実現をお願いするよう、私から言います」と約束してくれた。
 長島に帰った後、大臣交渉の報を待った。
 数日後、大臣交渉十二月二日に決定との報がもたらされ、この知らせに会員はもちろん、委員一同飛び上がって喜んだ。
 早速拡大委員会を開き、今回の陳情を架橋実現の大行動として架橋促進委員だけでなく、園内各団体に参加を求め、バス一台五十名で上京し、決着が見られないときには厚生省前にて全員による座り込みを行なうこと、更にその経費は運動を盛り上げるため、一人五百円のカンパを集め、自治会も百万円の特別補正予算を組むことなどが決議された。
 長島架橋運動も、いよいよその佳境に差し掛かっていた。

 
昭和五十五年(一九八〇)十一月三十日、愛生園では日の出広場に約四百五十名が集まり、「長島架橋促進突破決起大会」が開かれた。
 加賀田自治会長、加川促進委員会による決意表明、友田園長ほか各団体代表による激励の言葉、病棟入院者からの激励メッセージも読み上げられ、夕刻、大会の横断幕を張り付けたバスに五十名が乗り込み、いざ東京へと出発した。
 私は自治会長として、また、架橋運動に取り組んできた者として、今回の直接陳情が失敗したら会長を辞し今考えると滑稽ではあるが、頭を丸め、園内放送で謝ろう、などと悲壮な決意を固めていた。
 情報では、今回の陳情による架橋への返答は、かなり好反応のものが見込めるだろう、ということであったが、これまで幾度となく失敗、中止を重ねており、更に入園者からの資金カンパや自治会の金を百万も使っての交渉である。不安は拭えず、これが最後、と否応なく緊張が高まっていった。
 
 十二月二日早朝。
 我々は日比谷公園に集結し、「強制隔離の島に橋を架けよ」「人間回復の橋を速やかに実現せよ」の横断幕を厚生省玄関横に張り巡らせ、全員団結の赤鉢巻を締め、「頑張ろう!」と叫びながら気勢を上げた。出勤してくる職員は我々を横目で見ながら省内に入っていく。
 園田厚相は午前十時から十分間、大臣室で交渉に応じることとなっていた。我々の代表は小泉全患協会長ほか二名、加賀田愛生園自治会長、高杉光明園自治会長ら計十五名と決まり、とうとうその時間がやってきた。
 私ははじめ、録音機を服の中に隠し持ち、会話内容の録音を、などと考え、近くの売店でわざわざ購入したが、いざとなってこれが発覚したことで交渉が失敗したら、と思い、結局は持ち込まなかった。
 大臣室に入った我々を待っていたのは、目も眩まんばかりのマスコミによるフラッシュであった。
 園田厚生大臣はすでに着席しており、厚生省側は田中医務局長、奥村整備課長、寺松国立療養所課長、議懇代表江田五月であり、写真撮影が終わると、報道代表二名を残して長島架橋交渉に入った。
 園田厚相による大臣言明は我々の予想を超えたものであった。
「大臣室で、こうして皆さんと会えることができて大変うれしい。まず、整備は年々増額できたが、この橋ができていなかったことを反省している」
 と断った上で、
「この橋は経済的、生活上の利便もあるが、この架橋を『強制隔離の必要のない証』として実施したい」
「工事は明年度(昭和五十六年)予算で着工できるようにしたい」
「公共事業で行なうよう進めており、事務当局もそのように進めている」
「建設大臣には私が責任をもって話をする」
「地元の分担金問題は自治大臣と話をして、地元もやろうと決断できるようにする」
「このことは早くやりたいので係官を現地に派遣して、三者協議会が早くまとまるようにする」
「架橋に付随する島内道路整備は盲人歩行などの配慮が必要なため厚生省が責任をもって実施する」
 と力強く言明した。
 また、カメラマンを大臣室に入れたのは、皆さんと話し合っていることを国民の皆さんに知ってもらいたかったからである、橋が完成すれば私も渡り初め式に行く。皆さんが遠路を再び上京しなくても良いようにしたい、とも告げた。
 それは、九年にも渡る長島架橋運動に、やっと明るい灯が灯った瞬間であった。
 交渉を終え、我々代表者たちはエレベーターから走り出ると、座り込みをしている陳情団に向かって口々に、
「大臣が隔離の必要のない橋を架けると言明したぞ!」
「来年度予算で着工予定だ!」
と大声で叫んだ。
 瞬間、五十名に及ぶ陳情団から天地がどよめかんばかりの歓声があがった。一斉に沸き上がった歓喜の「万歳三唱」が地を震わせ、私はもう無我の境地で、身体が震え、口も開けない状態であったが、やがて万感の思いが胸にこみあげてきた。

 昭和六十二年(一九八七)十月九日。
 先に完成していた橋脚に橋桁を架設する、いわば島と本土をつなげる工事が行なわれることとなり、その模様を見物しようと入所者は早くから丘や高台に上がって、今か今かとその時を待ち受けた。
 船によって運ばれた橋桁が橋脚の上に吊り上げられると、その橋桁を見て涙を浮かべている人、肩を抱き合う者、「ほう、大きな立派な橋だなあ」と感嘆の声を上げる者で、架橋現場は歓喜に包まれた。
 ついに架橋が完了、寸分の違いもなくボルトが締められると、一斉に拍手が沸き上がり、万歳、と叫ぶ者、肩を叩き合って喜ぶ者、記念写真のシャッターを切る者などで、しばらくは歓喜の波に、島が動いたように感じられた。
 上空には報道関係のヘリコプターが飛び交い、対岸の高台には地元の人たちもこの世紀の大事業を見守っていて、中には地元裳掛の幼稚園児、裳掛小学校の生徒児童が、課外活動の一環として見学の訪れていた。
 この少年少女たちは架橋工事をどのような気持ちで眺め、これからの人生にどのような影響を及ぼすか、と思うと、一層胸に込み上げてくるものがあった。
 園田厚相の大臣言明から七年の月日が過ぎていたが、無論、その間は建設に伴う諸問題の解決へと奔走する日々が続いた。
 懸案であった漁業補償問題については、最狭地点である西端の海幅二十二メートルを拡張、通常の運行が可能になるように補償することと、近年漁業者とトラブルの絶えなかった遊漁者の島への渡橋を制限することなどで組合の同意を得ることができた。
 こうして橋桁が架かって以来、架橋地点には毎日散策をかねて工事現場に来る者が多くなった。
 ところがその橋のたもとに大きな鉄筋コンクリートの建物が建ちかけていることが分かった。現場の人に聞いてみると、島に出入りする人間をチェックする検問ゲートであると答えたという。
 架橋促進委員会からも何も放送がないが、ゲートなどを設けては人間回復の橋という意義が失われるのではないか、と即座に問題になった。
 入所者側の代表委員会は施設側に対し、
「建設中の検問ゲートは患者の社会との交流を妨げ、人間回復の意義に全く反するものである。なぜ監視をするのか、有料道路料金所のように、ゲートには監視カメラを取り付け、愛生か光明のボタンを押すと福祉室にモニターで映り、バーが開くという、面会人、来訪者をも犯人扱いするような検問ゲートを誰が建設設計したのか。
予算はどこから支出しているのか、厚生省の指示で施行しているのか」と厳しい追求をした。
 答えは、
「施設整備費示達説明の時も愛生園側の遠隔操作ケーブルが入っていることは話してある。これは皆さんを守ることが目的である。架橋委員会とも合意の上であり、職員からも設置要望もある。邑久光明園側はゲートは必要と言っている。中四国地方医務局経理課長の指示で設計されたものである」
 というもので、説明を受けた執行委員は寮長会を緊急に召集、寮長会は工事の中止を申し入れ、建物の全面撤去を要求することで全員一致した。
 園長に対して執行委員は「検問ゲートは我々入園者の人権を認めていない、世界のハンセン病行政に逆行し社会との隔絶を象徴するものである。園田厚相の「隔離の必要のない橋」という意図はどこへ消えたのか。また検問ゲート前の看護婦宿舎のブロック塀上には有刺鉄線を張り巡らせ、解放のための架橋とは全く意味が違ったものとなっている。検問ゲート工事の中止と撤去を要求、もし設置を強行するならば開通式はボイコットする」と強硬に迫った。
 園長からは「ゲート問題で説明が遅れたことは遺憾である。療養所の出入りは何かのチェックが必要であり、ゲートに反対される心情は分かるが、現実的に考えるとイメージでは管理できない。光明園長と話し合って決めたものであり、予算は光明園に示達される。反対であっても工事は管理上進める」との返答がなされた。
 愛生園内は反対運動一色となり、治療室でも浴場でも、人が集るところではこの話題で持ちきりとなり、昭和二十八年(一九五三)の「らい予防法闘争」以来の深刻微妙な事態となってきた。
 ゲート工事は鉄骨組は全部終わり、支柱部分のコンクリート流しを行ない、上屋根コンクリート流しが残っている段階まで進んでいたが、一時中止となっていた。
 地元の山陽新聞が、長島愛生園入園者が橋のたもとに建設中の検問ゲートに強硬に反対して工事が一時中止されている、と報道。RSKテレビも一斉に「愛の橋に無情の門」「人間回復の橋に検問ゲート設置」などと、大きな見出しをつけて報道し始めた。
 これらの報道によると、大塚厚生省整備課長は「患者を守るために造っている施設ということで理解していただきたい。納得した上で工事は進めたい。設備が物々しいと言うのなら、それに変わるものを考えたい」と釈明した。
 一方、大阪大学医学部中川米造教授(環境医学)は、
「患者の社会復帰を促す架け橋なのに、これは自由の往来を制限する隔離の発想である。治安を守る行政上の理由ではおかしい。ハンセン病は特効薬で治り、ほとんど感染することはないという社会通念が確立している現在、時代錯誤もはなはだしい」と述べている。
 ついに中四国地方医務局次長が事態収拾のため来園、施設側と協議の末、「ゲートについては愛生園で施設と自治会が一致した代案を作ってほしい。できれば邑久町長、漁協などの了承取付交渉は今まで光明園で行なってきたが、愛生園でやっていただきたい」と下駄を預け、報道関係から叩かれた腹いせのような調停発言を残して帰っていった。
 愛生園施設当局は代案の検討に入り、次のような施設案を決議した。
「案内所による管理方式とする。信頼性及び効率性から警備会社に委託運営する。目的は、患者見舞い、ボランティア、医療援助ほか渡橋者への案内、および不審者、遊漁者、廃棄物不法投棄などの取り締まり等。位置については島内道路の入り口をロータリー方式として入口出口を表示し、ロータリー内の環境を公園化することによって守衛的イメージを緩和する」
 中四国地方医務局次長も、光明園も愛生園もこの案を了承し、厚生省も了解、三ヵ月に渡って紛糾した検問ゲート設置問題も解決し、建屋は解体撤去された。
 橋のたもとは施設案通りロータリー方式の入園者の「いこいの場」となるよう公園化して、案内所を設けることとなった。
 光明園が長島に移って五十二年、協力しあって長島架橋運動を進めて十七年、長年に渡る友好親善に、管理者側の感情や管理体制に振り回されて影響を受けるようなことがあってはならない、そう強く思わされた問題であった。


 橋の名称は、山口県に長島大橋があるということで、地名を入れ、「邑久長島大橋」と決定した。
 こうして紆余曲折、多難な道程を経て、昭和六十三年(一九八八)五月九日、長島大橋は無事開通式を迎えることができた。
 このよき日を迎えるにあたり、何より地元地権者、漁協関係者、邑久町議、ほか関係者の皆様には深い感謝を捧げたい。ここに至るまでには各方面の多数の方々から多大な支援と協力があった。
 特に地域の方々には先祖伝来の土地を譲っていただき、工事中には砂埃、騒音など日常生活に大変不快な思いをさせたと思われる。
 将来を展望して理解を示してくれた地元の方々へは、本当に感謝の言葉は尽くし切れない。
 諸々の事情により、長島架橋工事に着手する時期が遅れたため、一部週刊誌などから「無責任発言」「はったり屋の園田」等と痛烈な記事が出たりもしたが、園田厚相の「隔離の必要のない証」という名言が架橋の口火を切った形となった。
 しかし、「渡り初め式には必ず行く」と言っていたその園田厚相も、昭和五九年(一九八四)、急逝され、残念至極である。
 ほかにも柴田全患協国会議員懇談会事務局長や促進委員会の委員長を務めた加川一郎等、多くの人が橋の完成を見ることなく他界している。
 この架橋活動が始まったとき、どこに手掛かりを求めて進めばよいのか、どこにその糸口があるのか、五里霧中、ただ、関係のありそうなところに陳情を繰り返し、回答のあった一語一句を委員会で分析しては次の行動を起こす、というまったくの手探り的な運動であった。
 長島架橋を訴えて、これに正面を切って反対する人はいなかったが、消極的であり、一肌脱いでやろう、という積極的な人もなかった。
 それでも、「人間回復の橋」の位置づけ、訴え続けて、マスコミの好む表現を使ったことが大いに功を奏した。厚生省、岡山県、邑久町、国会が必要であるとしても、事務サイドではこの事業は難しく、政治家に超党派で推進してもらったことも一助であった。
 我々入所者が架橋運動を起こしてなかったら、果たして、この長島に橋が架かったであろうか。心密かに患者運動の成果を自負してよいと思う。