<熊本地裁判決の意義>
「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟は、2001年5月、原告側
(入所者、及び退所者)の全面勝訴判決が言い渡され、政府の控訴断
念により、熊本判決が確定しました。これまでの89年間という長き
に亘り、強制収容、終生隔離を基本とした「らい予防政策」、所内で
の強制労働、懲戒検束、結婚を前提とした断種や、中絶・堕胎強制な
ど、人権侵害の政策を続けてきた国際的にも例のないハンセン病政策
が断罪され、入所者、退所者の人権を回復させた判決であります。
この判決は、憲法にうたう人間の尊厳という崇高な精神を今一度
国民に問うものでもありました。
裁判によって、司法上の問題は決着がついていたことになりますが
法的責任に基づく行政問題では未だ解決していません。
今後に残されたハンセン病問題は、未だ根強く残されている偏見・
差別の払拭、社会復帰対策、在園保障、なぜ日本だけが国際的なハン
セン病対策を無視して人権侵害の政策が続行されてきたのかなどの
真相究明及び再び我々が被った国の過ちを繰り返させないための再発
防止の問題などであり、さらに全面解決に向けて、運動を強化しなけ
ればならないと考えています。
<今後の課題>
長島愛生園は、1930年(昭和5年)11月、国立第1号のハン
セン病療養所として、岡山県南東部の瀬戸内に浮かぶ周囲16kmの
小島、長島に設立されました。初代園長の光田健輔氏は、絶対隔離
政策を唱え、日本のハンセン病政策に大きな影響を与えてきた人物で
あります。その意味でも終生隔離政策の象徴的な施設でもあります。
抑圧された生活の中で、1936年の長島事件、1953年「らい予
防法」闘争、17年間も運動を続け、1988年「人間回復の橋」
邑久長島大橋の実現など人間として生きるための患者運動は継続され
てきました。
現在長島愛生園には、ハンセン病は完治していながらも療養所生活
を余儀なくされている者が、531人、その平均年齢75.6歳と
超高齢化し、後遺症としての身体障害を抱え、過去、絶望と過酷な
苦難の人生を歩まされてきた入所者にとって今後残されたわずかな
人生を安穏に生活できる確固とした裏付けをしていく事が、自治会
として今後の大きな課題であります。
また、開園以来72年間の療養所の歴史の中で、家族とも切り離さ
れ、社会から排除されたまま、本名も名乗れず無念の思いで亡く
なった療友も多い。
遺骨の引き取り手もなく納骨堂にひっそりと安置されている3346
人の遺骨。ここにも差別感は厳然として社会に存在している事を証明
している。
<歴史の教訓として>
具体的な名誉回復と啓蒙措置、恒久対策が急務であるとともに、
ハンセン病問題は時間の経過と共に決して風化させてはならない、
そのためにも開園以来の旧事務本館の保存と資料館としての活用、
その他監房、収容所など史跡として保存及び関連文献など史料を保管
し、歴史の教訓として後世に伝えていくことが責務であると考えて
います。
2002年8月19日
国立療養所長島愛生園入園者自治会会長
日野 三郎
