監房は開園から昭和28年まで使用されました。この監
房は東西に長いものであったのですが、昭和39年、精神
病棟改築のために埋められ現在は西側のコンクリート壁
だけ見ることができます。
造りは塀を巡らせた中に板敷き6室、畳敷き2室の監禁
室が設けられ塀と監禁室の2重に鍵がかけられていまし
た。
大正5年、所長に療養所内の秩序維持を目的に「懲戒
検束権」が与えられ、所内の取り締まりが行なわれるよう
になりました。そして、昭和6年、国立療養所設立にあたっ
て「らい予防法」が改正、強化されたことにより、「懲戒検
束規程」が制定されました。
ここに、逃走防止のため通常貨幣は使用させない。逃走
補助、賭博行為、職員に暴言、暴力を振るうものを30日
以内の謹慎、収監、減食の処分が行える等の法律が規
定されました。この法律により、療養所内に監房が置かれ
ることになったのです。
入所者は監房に収監されると、食事は1日2食で、1食
がおにぎり1つと沢庵漬2切れ、コップ半分の水だけでひ
もじい思いをしました。
当時逃走で監房に入れられる人が最も多く、逃走の場
合は約10日位入るということになっていました。そして、
入所者は懲戒権が園長にあった為、何の裁判も行なわ
れることもなく収監されました。
また、昭和11年の長島事件の影響から、各療養所の園
長より「らい刑務所」の設置要求が出され栗生楽泉園に
「特別病室」(重監房)が造られました。この「特別病室」に
入れられたら最後、入浴も治療も行なわれず、夏は湿気、
冬はマイナス15度にも達し、22名の獄死者を出していま
す。
こうして、戦後新憲法が制定されるまで、入所者の監房
への感情は和らぐことはありませんでした。
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