邑久長島大橋

 長島と対岸の虫明を隔てる海はわずか30メートルしか
ありません。昭和6年3月、愛生園に初めての患者が収
容されてからはこの水路は人間差別の障壁となりました。
ハンセン病に決定的な治療方法が無かった頃の療養所
は絶対隔離を鉄則としており、個々に事情がある者も外
出が許可されなかった為逃走するものは後を絶ちません
でした。その経路として、夜陰密かに監視の目をくぐり、こ
の水路を越えていった者は少なくありません。しかし、潮
の流れが非常に速い為、何人かはここで命を落としまし
た。
 この水路に橋を架けることを愛生・光明、両園の自治会
で話し合われるようになったのは昭和43年頃でありまし
た。そして、昭和47年には架橋促進委員会が組織され、
架橋への積極的な運動がはじまりました。その後、各関係
機関への陳情を繰り返し、さまざまな問題を乗り越え、約
17年間の活動の後昭和63年5月9日、隔離の必要のな
い証としての「人間回復の橋・邑久長島大橋」が開通しま
した。
 その後、平成元年11月に乗り入れられた民間バスは職
員の通勤用にも利用されていて、入園者も自由に島外に
出掛けています。
また、国賠訴訟での和解以降はさまざまな団体が来園さ
れています。





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