患者収容桟橋
 昭和6年3月全生病院(現多磨全生園)から船で収容された患
者以降はこの内白間(うちしらま)から上陸しました。そして、
昭和14年9月以降はこの患者収容桟橋より上陸しました。(そ
れまでは桟橋はありませんでした)
 収容される者の多くはお召し列車といわれる一般の乗客とは
区別された患者専用車両で岡山駅まで運ばれ、さらに岡山駅
から虫明港までは護送車(後部の乗車口は観音開きで囚人護
送車そっくりであったのでそう呼ばれた)で運ばれ、さらに患者
専用船によって収容されました。
 収容桟橋は島の裏側にあり、桟橋に近づくにしたがって収容
される者たちは鉄の扉をもった収容所やコンクリート塀に囲ま
れた厳めしい監房の姿を否応なく見せつけられ、ただならぬ
行く末を暗示させるのに効果的な場所と建物の配置となってい
ます。
 家族に連れてこられて収容された者は、この場所から家族が
帰っていくのを見送りました。この場所は家族との別離の場所
であり、多くの収容者が故郷を思ってはこの場所で涙しました。
収容された者達は数ヶ月で帰ってこれるからとの言葉を信じて
連れてこられました。しかし、収容生活の中で終生隔離の場で
あることを知り絶望の淵に追いやられたのです。
 この桟橋は患者専用で、職員等の利用する桟橋は別の桟橋
で、桟橋も入所者と非入所者とは厳しくと区別されており、島内
においても感染者と非感染者との隔離は徹底されていました。




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