ランタン・トレッキング(ネパール)
2008年10月7日〜18日
10月7日(火)
深夜、1:25発のTG673便に乗るためには、チケットを受け取る必要から、前夜の21:45までに関空へ着かねばならぬ。
関空には「高速バス」を利用すると決めていたが、最終が14:00発では。やむを得ずJRを使った。片道で「高速バス」の倍以上の料金。その上、乗り換えに大荷物を運ぶ手間。 22:00を過ぎると、関空の飲食街も閉店してしまい、開いている店はわずか。
3時間以上も待たされ、0:55、やっと搭乗。B777-200型機、55K席。空席多く、H,I席も空席。三席使えると、横にもなれる。
関空からバンコクまで5時間、その間、夜食と朝食が出る。夜食はおにぎりとサンドウィッチだが、機内食の間隔は短く、つい食べ過ぎ、しかも食事時間の間合いがずれ、体調を崩す原因となる。旅に出ると、便秘したり、下痢をするのも一因は…。
高度1200mを時速880〜890kmで飛ぶ。外気温は53〜58℃。揺れもなく、安定した飛行。予定より20分早く、4:55(日本時間6:55)にバンコク、スワンナプーム国際空港に着陸。新空港が開港されてからは初めて。
カトマンズ行のTG319は10:35。5時間以上のトランジット。
うわさ通り、立派なターミナルビルではあるが、トランジット客には不評を買っている。ショッピングセンターと紛うばかりの空間に、休む場所が余りにも少ない。プラスチックのイスが、所々に固定されているが、ほとんど満席。搭乗ゲートの待合席に入ればよいが、5時間前から入れず、ショッピングを楽しみながら休憩することも儘ならぬ有様。
2時間は、その硬いイスで、1時間は軽食堂(Eat-tion)。コーヒー一杯で粘る。残りは、広いショッピングセンター(?)を偵察。ブランド品ばかりが目立ち、一般客には無用。
トレッキング用にウイスキー1本、飴、干果など買っておく。
9:30、C4ゲートに。厳しいチェックが待っている。関空で買っていたペットボトルのお茶は取り上げられ、バックに入れていたウイスキーは、密封されているか否かまで確認、ボディチェックを受け、やっとゲートに。
こんなに乗れるのかと思うほど、待合室は人で溢れていた。チケットがなかなか手に入らなかったはず。
10:15、搭乗。関空〜バンコクと同じB777-200型機。以前はエアーバスを飛ばしていたが、KTM便も昇格したのか新型機が投入されている。通路側の53H席。隣は、タイ人夫婦。グループでネパール旅行の様子。ヒマラヤの一部が見え始めると、デジカメを取り出し、盛んにシャッターを切る。先進国の特権のごとく思われてきた海外旅行も、今や発展途上国や新興国の人々にもありふれたものになりつつある。ある意味、所得格差が一層進んでいるとの見方もできる。
飲み物、ランチと立て続けに出され、ビザ申請用紙、入国カードを記入している内に機体は着陸態勢に。丁度、3時間でカトマンズ(KTM)に。現地時間12:35。
以前はビザ申請に手間取っていたイミグレーションも、スピードアップ。共和制への移行効果を垣間見る思い。長蛇の列も、短時間で短くなる。
出口に出迎えの人やタクシードライバーの人山ができている光景は以前のまま。
その中に、Tさんを探す。探すまでもなくマリーゴールドの首飾りを持って飛び出してきた。「ナマステ」、「元気でしたか」、「待っていました」と口早に。そしてガッチリ握手。
ガソリンも、安定供給されるようになり、移動に支障はなさそう。しかし、リッター100Rsはきつい。物価高騰の火付け役になっている。
タメルのホテルは満室の上、宿泊費も大幅に値上げされているとかで、安い郊外のホテルに向かう。
突然、脇道から3人乗りのバイク。あっという間にぶつかってきた。左側のサイドミラーが崩れ落ちた。ドライバーが降りると、最初悪態をついていたが、分が悪いとみるや、乗せていた二人を残し、逃げていった。相手は小回りのきくバイク。後を追うが、直ぐ見失う。屯所のポリスに事情を話し、発進するや、間もなく、バイクが戻ってきた。また、追跡。しかし、またもや見失う。
バイクを乗り回す若者気質について話している内、ホテルに着いた。
コパンのShambhala Village Resort。一階はスーパーマーケットとガーデン・カフェになっている。ツインが2室とリビング、キチンがついた広々とした部屋に案内された。家族連れで長期滞在するにはいいかも知れぬが、一人には余りに広すぎる。
明日からのトレッキングに備え、Tさんは、TIMSのRegistration Cardを取りに行く。2008年1月からできた制度で、トレッカーはあらかじめ登録し、トレッキング中はカードの携帯が義務づけられている。
ホテルの前の空き地に青竹を組んで、ブランコが造られている。大人、子供が集まり、歓声をあげている。ダサインの伝統的な行事で、女の子はブランコ、男の子は凧揚げを楽しむそうだ。入れ替わりに乗るのは、確かに女の子。押しているのは男の子。歳に合わせて、手加減もしている。
その傍らの空き地では、凧揚げを楽しむ者も。こちらはすべて男の子。町中でも、残る昔ながらの遊び。薄れかけた記憶を呼び戻す光景。
5時過ぎ、Tさん、帰ってくる。ガーデン・カフェでコーヒーを一杯飲み、タメルに。6時過ぎには真っ暗。ここが一国の首都かと疑いたくなる酷い道。車の窓を開けると異臭が。 空港の銀行で両替するよりは、タメルの両替商の方が交換率がいいことは先刻承知。トレッキングに備え、5万円、両替する。100円が69.3Rs。34250Rsの大金だ。
「ふる里」で夕食をとる。麻婆豆腐定食が180Rs。
登山用具店でストックを一本850Rsで。昨年のトレッキングではジリのバッティで借りた杖(棒切れ)に助けられた。軽くて扱いやすいストックは必需品。
8時過ぎにはホテルに。Tさんには頼まれていた醤油2リットル、味噌2kg、奥さんへの土産の八つ橋、インスタントラーメンなど手渡す。
9時前シャワーを浴び、ポットで沸かした湯で紅茶を入れる。
9時半、就寝。しかし、ダサインの夜。酔っぱらいの大声、犬の鳴き声に何度も起こされる。
10月8日(水)
4時前に起床。洗面書の水が出ない。トイレも。断水。
貴重なミネラルウオーターで歯を磨き、顔を洗う。
荷物の詰め替え。4時半、Tさんやって来る。
5時、暗闇の中、出発。近所に住む知り合いというタクシー運転手。ポーターはジリ出身の若者。ブータンで育ったというS君。
リングロードを走り、スワヤンブナートの麓に。シャブルベンシ方面に行くためにはタクシーも許可書が必要らしい。ドライバーはガソリンスタンド脇の建物に。200Rs払ったそうだ。ついでに給油。11リッターで1100Rs。
カトマンズを見下ろす峠道のあたりで夜が明けてきた。王宮を追い出された元国王はこの近くの離宮に住んでいるそうだ。6時半、カカニ。ここまでは昨春、二度も来た。
最初のドライバー・チェックポスト。
6:45〜7:10、ラニバウラで朝食。チョウメンを食う。ガイド、ポーターの分を含め180Rsの支払い。道ばたのあちこちでは、大人や子供が麻雀台のようなものを囲み、歓声をあげている。中には険悪な雰囲気も。ダサインの期間中は許される賭博だ。子供が囲んでいるものを見ると、双六のような紙の上に、大きなサイコロを6個転がして遊んでいる。紙にはサイコロの6面と同じ絵がそれぞれ描かれている。紙の絵の上に掛け金を置き、転がしたサイコロの絵が2個以上同じだと勝ちになるそうだ。2個同じ目が出れば掛け金の2倍、3個同じだと3倍が戻る仕組み。
道沿いに魚を描いた看板が出ている。「日本の魚あり」と書いてあるという。どうやらニジマスの養殖をしているようだ。
8:10、トリスリ川の支流、ゴサインクンド付近に源流のあるタディ川を渡る。
トリスリまでは、まがりながらも、舗装されており、快適なドライブ。トリスリ川沿いは水田が広がり、色づき始めた稲穂が目にしみる。「ここのお米はおいしいです」とTさん。日本の米とネパールの米が話題に。「卵かけご飯は、日本のお米が一番です」、「日本のお米に似た米は安いですが、好きです」と。
河岸段丘の段丘崖を利用した水力発電所もある。
アーリア系の顔立ちをしたパルバテ・ヒンドゥーが多い。バナナやパパイヤ、ハイビスカスやブーゲンビリアの花。亜熱帯性の植物。
トリスリを抜けると、道路は一変。タクシーが走る道ではない。タクシーはマルチ・スズキの小型車。車高が低く、石ころだらけの凸凹道では床下を擦る。
ラムチェのチェックポストを過ぎると道はますます酷いものに。河原を走っているようだ。土砂崩れの跡も多くなり、S君が大きな石をよけながらの前進に。泥濘では三人がかりで車を押す。
12時過ぎ、ドゥンチェの手前10キロ余りの地点で、遂に前進できず。数日前の土砂崩れで通行止め。苦労している我々を追い越して行ったジープもここから先は無理。歩くしかない。予定より早くトレッキングが始まったと思えば苦にならぬ。ダサイン休暇がはじまり、しばらくは復旧工事も中断。バスさえ、三日間は休業とか。ネパールらしいと言えばそれまでだが、日本では考えられぬこと。
しかし、広範囲にわたっての土砂崩れ。二、三日で復旧できるとは思えない。日本なら安全確保のため数ヶ月は通行止めにするだろう。元々、何とか車や人が通れればよいので、安全とか走りやすさとかを考慮した構造にはなっていない道。崩れれば、「付け替えればよい」、埋まれば、「掘り出せばよい」ということか。
急斜面を切り開き、谷底から尾根まで、びっしりと棚田と段々畑が造られている。崩れた場所にも段々畑の痕跡が残っていた。犠牲者は出なかったのか?
霧がかかり、トリスリ川の谷は隠れ、晴れていれば見えるヒマラヤの峰々の姿もない。 ツクツクホウシに似た蝉の声を聞きながら黙々歩く。
ボカ・ジュンダのバッティで休憩。道ばたの長いすに腰を下ろし、ビスケットと熱い紅茶を。初老の男が竹の鞭で牛を追いながら近づいてきた。その仕草がおもしろいので、ビデオカメラを取り出し撮影。ビデオで撮られるのは初めてらしく、再生して見せると納得し喜んでいた。バッティの娘は、結婚してアメリカに住んでいるそうだ。現金収入を求め、都会に、さらには外国に向かう若者が多く、農山村では残された年寄りが目立つ。
歩き始めて3時間余り、ドゥンチェの入口にあるチェックポストまでたどり着いた。ここで1000Rs払い、ランタン・トレッキングのパーミットを取る。
土砂崩れの場所近くに止めていた運休中のはずのバスが追い越して行ったが、シンガポール人ツアーのチャーターした貸し切りバスだった。最近は日本人より中国系の人や韓国人が多くなったという。
15:40、ドゥンチェ着。
ランタン・ヴィユー・ホテル泊。道路側から見ると四階建てだが、傾斜を利用しているため、各階から外に出られるような構造。最上階の119号室に。
16:30頃、通りで見かけたSTDに行き、家にTEL。しかし、出ず。15分待ち、かけ直す。友人からの宅配以外、特に変わったこともなく一安心。
少し、冷え込んできた。ビールより熱燗が恋しい。
夕食のダルバート。待たされること2時間半。我慢強いガイドやポーターも怒っている。「二度とここには泊まらない」と。
トレッキングのシーズンに入ったのと、土砂崩れの影響でホテルは満室。客が多くて、料理が追いつかないのが原因か。
トレッキング帰りの一人の日本人女性。ネパール語も堪能。聞けば日本大使館勤務とか。最近のネパール情勢など会話がはずむ。我々がタクシーをチャーターし、4500Rsで来たことを話すと驚いていた。自分たちはランドクルーザーで9000Rsだったと。
明日はカトマンズに帰る予定とか。土砂崩れの場所までランドクルーザーを頼んだら3000Rs請求されたらしい。土砂崩れとダサイン(バス運休)を逆手に、うまいことをやっている。
9:30、就寝。
10月9日(木)
夜中、冷え込み、寒さで目覚める。寝袋のファスナーを閉め直す。
5:15、起床。
6時前、ベランダに出ると、眼前に、朝日に染まるランタン・ヒマールとチベットの雪峰が。雲一つない。幸先がよい。トレッキング日和になりそうだ。
散歩に出ていたのか、窓際でTさんの声。「山がきれいです」。
6時過ぎ、ドアがノックされ、ボーイがモーニングティを運んでくる。
7時、孫を抱いたホテルの主人に見送られ出発。
ブランコに興ずる子供たちの側を抜け、大きく迂回した自動車道にショートカットで出る。トゥロー・バルクーまではシャブル・ベシに向かう自動車道を歩く。歩いても歩いても谷の向こうにドゥンチェの町並みが見える。
今日は、ダサインでも重要な行事、「ティカの日」。ダサインの10日目に、年配者からティカ(眉間に赤く着色した米などつける)をつけてもらい大麦の芽(ジャマラ)をいただく日。出稼ぎに出かけている人も、この日は、実家に戻り、家長にティカをつけてもらうのだ。
道筋の民家の軒に干された肉片はティカの日に用意されたものだという。昨日、一昨日はアストミの日だった。阿修羅を一週間に及ぶ戦いで退治したドゥルガ(女神)に水牛、山羊、羊(全て雄)を生贄として捧げる日だ。捧げられたあとは食用に。大量の肉が振る舞われるが、残れば干し肉にして保存する。生乾きの肉片が多いのはそのため。
トゥロー・バルクーのバッティで朝食兼昼食。かまどの上に干していた腸詰め(水牛の血のソーセージ)をスライスし炒めてもらう。ビールのつまみに合いそうだが、ミルクティーで我慢。ガイドとポーターのダルバート代を含め270Rs。
バッティの子供たちはティカの時間が待ち遠しいのか落ち着かぬ様子。11時に主人がつけるそうだ。あと1時間後。子供たちの楽しみはティカではなく、お小遣い。お年玉をもらいに親戚巡りをする日本の子供たちと同じ。お小遣いとごちそうをもとめて親戚巡りをするそうだ。
小学校の下から山道に。牛糞に足をとられそうになりながら、急斜面を登る。日当たりのいい斜面は谷底から尾根まで段々畑に棚田。ピンクに見えるのは花盛りの蕎麦、黄緑に見えるのはロキシの原料のヒエ、濃い緑は大根やカリフラワー。
林の中でごそごそしているのは牛。
12:35、海抜2300m、ブラバルのバッティ、ガネッシュ・ヒマール・レストランで一休み。紅茶一杯35Rs。車道をはずれると、途端に何もかも高くなる。特に、トレッキングルートは外人価格に。雲がなければガネッシュが眺望できるのだが。この時期、なんとかヒマラヤの峰々を望めるのは9時頃まで。いつの間にか雲に隠れる。
庭先で孫の相手をしながら機織りをする老婆。マニ車を回す水車小屋。牛よりゾウ(ヤクと牛の間の子)が多くなる。
このあたりまで来るとほとんどがチベット仏教徒。ダサインとは無関係の日常生活が。 14:25、今日の目的地、海抜2210m、トゥロー・シャブルに着く。尾根筋に開けたテラスにロッジや民家など数十軒が集まる村落。小学校の裏は大きく崩れ、このままだと一度大雨でもあれば校舎まで飲み込まれそう。担夫、駄獣交通路の山道は崩れても簡単に付け替え可能だが校舎は。大事にならないうちに手を打って欲しい。無理か。
Tさん、早速、部屋探しに。
間もなく、トイレ付きの部屋のあるロッジを見つけてきた。
ホテル・ラマ。見晴らしのいい部屋。眼下にランタン川の深い谷が。
玄関先のオープンテラスで、早速、サンミゲルを一本。途中、何度も休みながらも7時間半、よく歩けたものと我が足に感謝しながら。好きなことをさせてもらっている妻に感謝しながら。熱いものがこみ上げてきたとたんパラパラと雨が。
5時、定刻、家に電話する。携帯は使えないが、宿の中国製と称する衛星電話(多分)は通じる。電波状態は今一だったが何とか連絡はとれた。
昨夜から停電がつづいているそうで、6時を過ぎると、ソーラー発電の設備のあるロッジ以外は、ローソクとランプの灯りが揺れるだけの暗闇に。
ローソクの明かりの下で夕食。オニオンスープと野菜モモ、紅茶とまことにシンプル。 Tさんとネパールの政情の話になった。「私は、ネパールが中国の一部になっても、インドの一部になってもいいです。平和な生活さえできれば」と、Tさん。長い内戦と政情不安の中で生きてきた彼の考えは現実的だった。ネパールという国の存在より、自分と家族の今日、明日が大切なのだ。民主的な方法で王制から共和制への道を選択したはずのネパール。国民の期待からはほど遠いままの現状。特権意識と保身、自分の利益しか考えぬ政治家や役人。何も変わらないどころか、負の変化が。年々、経済格差が広がり、貧困層が急増している。仕事がなく、やむを得ず外国へ出稼ぎに。
多民族国家のネパール。すでに、インド国境では、インド系のマデシが自治権を主張し、分離独立の動きさえあるという。民族の対立が、隣接国を巻き込み内戦に発展すれば、彼の言う通り、「隣国に分断される」恐れもある。
しかし、神にも国家にも裏切られ続けてきた者には愛国心が育たない。ネパール人であることもたいした問題ではないようだ。国を捨てることさえいとわない発言に驚かされる。 隣席の女性客三人、連れの客(75才のドイツ人)が歩いて30分余りのゴンパに出かけ、足を滑らし転倒、迎えに行った者も、4時間以上たっても帰ってこず焦っている様子。7時過ぎ、山の中腹で小さな灯りが動き始めた。どうやら無事下山してきたようだ。後で聞いたところ、女性客の一人はネパール人の奥さんらしい。国際結婚の多いのもネパール。
今回はランタン風の懐中電灯とヘッドランプを用意してきたが、早速、活躍。
寝袋に入り、ウィスキーの水割りをチビチビと。
懐中電灯を消すと窓から星明かりが差し込む。満天の星。懐かしい夜空。
流れ星が二つ、三つ。
10月10日(金)
夜明け前、暗闇の彼方に白いシルエットが。しだいにはっきりと。そして朝日を受け、薄ピンクに、肌色に、橙色に染まっていった。ランタンとそれに続く峰峰が。
朝は紅茶一杯と手持ちの干果。
7時、トゥロー・シャブルを立つ。ロッジへの支払いは2030Rs。
尾根から谷に向かって下り道がしばらく続く。段々畑や棚田の畦もトレッキングロードだ。道ばたの野草には見慣れたものが多い。ランタン川の支流に架かる吊り橋を渡るとガレ場。最近崩れたようだ。
8時、見晴らしのいい場所にバッティが一軒。「お茶を」と、声をかけられたが、出発して間もないことから素通りする。
バッティを過ぎると、密林の中、急坂が続く。後ろから来たポーターたちが追い越して行く。60kg以上の荷物を背負っていてもかなわぬ彼らの足。ましてや手ぶらの彼らには。あっという間に森の中に消えた。
10mほど先の木の枝が揺れ、何かが動いた。白い毛をした猿がこちらを見ている。インドの叙事詩「ラーマーヤナ」に出てくる半獣神「ハヌマーン」のモデルとされる猿。一匹だけではない。数匹の群れだ。カメラを向けると、あっという間に姿を眩ましてしまった。
ランタン谷から登ってきたトレッカーの一行とすれ違う。年配の女性連れ。フランス人のようだ。年配者や女性の健脚ぶりには驚く。
膝を痛めぬよう用心しながらゆっくり下る。
8:55、ランタン川の谷底近くまで下りた。左に、川沿いを下ればシャブル・ベシ。右に進めば、ランタン村。
9:20、ランドスライド・ロッジに着く。先行したポーターのS君はいない。休憩も取らず前に進んだらしい。
ランドスライド・ロッジの対岸に温泉があると知り、前から楽しみにしていた。一風呂浴びれると期待しながらたどり着いたが、見事に裏切られた。橋が流され対岸に渡れないそうだ。
紅茶(35RS)と干果で水分と糖分補給。
ランドスライド・ロッジは海抜1640m、トゥロー・シャブルから570m下ったことになる。 ここからは登る一方に。幸い、ランタン川に沿った道はアップダウンはあるものの急坂は少ない。
10:55、1時間20分ほどでバンブー(海抜1970m)に着いた。ロッジが三、四軒ある。ハングルの看板。S君はここで待っていた。二人はダルバード、私は谷を見下ろすテラスで紅茶(25Rs)と野菜ヌードル(120Rs)を。三人分で650Rs。
かつて、このあたりは密林に覆われ、所々に見事な竹林があったそうだ。竹は、建材や籠の材料として伐採されてしまい、今は、太い竹は全くなくなっている。
心配していた右足が痛み始めた。ストックで庇いながら歩いたが。膝、脹ら脛、足首。意識すれば余計に痛む。膝にサポーターを付け、TIGER BALMのMUSCLE RUBを塗る。 12:00、出発。
12:45、吊り橋を渡り、右岸に。橋の畔、大岩の下に、一軒、バッティがある。ここを通り過ぎるとガレ場に出る。頻繁に崩れているらしく、「来るたびに道が付け替えられている」とTさん。足下より、頭上の岩が気になる。
13:45〜14:00、レムチェのバッティ、ホテル・ランタン・ビューで一休み。
14:20、リムチェ(2440m)通過。
14:45、本日の目的地、ラマ・ホテル(2420m)着。いつ頃か、谷間のこの地に、一人のラマ僧が住み着いていたことから付けられた地名とか。
今は数軒のロッジが建てられ、ランタン・トレッキングの拠点の一つになっている。
初口のフレンドシップ・ゲストハウスに宿をとる。
アルコールを口にできるのも今日までと、早速サンミゲル。「シャワーが使える」とTさん。着替えを持って、階下におりると、すでに先客が。しばらく待たされ、シャワールームへ。板壁で仕切られたシャワールームは隣の客室と同じ広さ。奥に便器が一つ。シャワー、トイレ付きの客室ならともかく、共同のシャワールームに着替えさえ置く場所がない。釘一本もなく、掛ける場所もない。仕方なく、廊下の突き当たり、がらくたが積み上げられた僅かなスペースに置き、裸になって入る。
湯の出るシャワーはありがたい。頭まで洗い、さっぱり。
順番待ちをしていた女性客、裸(もちろんパンツは履いていた)に驚いていたが、「中に着替え置き場がない」と言えば納得。
トレッカーは朝早く出発し、午後3時前には目的地に着くのが基本。6時には暗くなるので、着いたらまず洗濯。風が当たる日向に干せば、3時間もたてば水気はなくなる。翌日、もう一度干せば完璧。
客引きのうまいフレンドシップ・ゲストハウスは満室に。隣のロッジは宿泊客なし。
昨夜から顔なじみのスイス人のカップル、フランス人も同じゲストハウスに。
他の客に先がけ、5時半に夕食。ダルバード(ダルスープ、ジャガイモの煮付け、漬け物、ライス)。
キャンジン・ゴンパから下山してきた初老の日本人夫婦と話す。ネパールでのトレッキングにはまっている様子。二十数回目のネパールとか。北海道在住で、今回は、ソウルを経由し、大韓航空でこられた由。
ドゥンチェで連れを待っていたトレッキング・ツアーの一行も到着。9人でヤラ・ピーク(5500m)の登頂を目指しているとか。彼らはロッジには泊まらずキャンプ。十数人のポーターがテント、大鍋、テーブル、イスから食糧まで運んでいる。
6時半には寝袋に。さすがに眠れず。
隣室の声や物音、トイレが近いのはよいが頻繁に出入りするドアの音と廊下が軋む足音に一晩悩まされることに。
2時には目が覚めてしまう。
10月11日(土)
4時半までは寝袋に。聞き慣れない野鳥の鳴き声が心地よい。
洗面施設のないロッジでは、表の水場で済ますしかない。
紅茶を一杯飲んで、7時前、出発。宿代三人分で1800Rs。
ランタン川右岸の森の中を進む。サルオガセが垂れ下がるジャングル。大木が残る原生林。年々、消滅するネパールのジャングル。何とか残る数少ない原生林だが。所々に見られる真新しい切り株が気がかり。
三十分ほど歩くと、樹間にランタンU(6581m)、ランタンリルン(7248m)が。残念ながら2/3は雲の中。一部でも見えれば満足しなければならぬ。ネパールでヒマラヤを望むときはいつもそうだった。
8:10、グムナチョク(2770m)を抜け、8:20、チュナチョクのバッティで休憩。ヤクチーズをかじりながら紅茶を。
9:50、ゴラタベラ(3008m)着。先行のソンズ君と合流。ダルバード(520Rs)。私は紅茶とヌードル。森を抜け、いよいよ高山帯に。山水画を思わすような風景。タルチョやルンタがはためいてなければ。
朝食抜きで、10時頃に、昼食を兼ねる食生活にも慣れてきた。
谷間とは言え、ランタン川ははるか下。テラス状の、高原を歩いている感覚。
7,8月であれば高山植物のお花畑になる場所。残念ながらすでに秋。それでもエーデルワイスの群落が可憐な花をつけ、アザミの仲間やツツジの仲間なども名残の花弁を見せてくれる。
アーミー・エリアの看板に物見台。銃を持った兵士。チェックポストに。
Registration Cardとパーミットの領収書を提出し、記録されたノートにサインすればよい。
バラ科の灌木が多く、赤い実をつけている。
サングシャプ(3200m)の外れ、大岩の側のバッティで30分余り、休憩。山から引かれた水場で女の子が二人、食器洗いをしている。紅茶を入れてくれた母親は片手がない。道ばたに棚を造り、毛編みの帽子やショール、ヤクの毛を織った帯、仏具やネックレス、ブレスレットなどチベットの民芸品を並べている。トレッカーに勧めるがなかなか買い手はつかない。
ヤラ・ピークに登るツアーの一行が追いついてくる。一行が休んでいる間に出発。
バッティやロッジが点在するのはありがたいが、中には客引きまがいに声をかけてくる者も。
「ヤクのヨーグルト」の看板を出すバッティ。これは一度挑戦する価値有り。
「Tさん。ヨーグルトを食べよう」と声をかける。
まるでそれが聞こえたかのように、「おいしいヤク・ヨーグルトがあるよ」と、声をかけられる。店番をしていたのは、珍しく若い男。茶碗一杯のヨーグルト。冷たくおいしい。Tさんと半分ずつ食べる。値段を聞いて、驚く。一杯100Rs。「カトマンズでも20Rsだ」とTさん。しかし、メニューにも100Rsと書かれている。仕方ない。しぶしぶ払う。
遙か前方にランタン村が見え始める。その向こう、山間に聳える先鋒は日本人の名がつけられた「モリモトピーク(6750m)」。
民族衣装のチベット女性と夫らしき男が、庭先でカブをより分けていた。石垣で囲った狭い畑で栽培したものだ。収穫の終わった蕎麦畑もある。羊を追う女性も、駐屯地のヘリポートに入って草刈りをしている女性も民族衣装を身につけている。
マニ石を積んだチョルテンや堤が増え、ここがチベット人居住地、チベット文化圏であることを教えてくれる。
Tさんは、当初、このあたりで引き返すことも考えていたらしいが、昨日の足の痛みも、今日はさほど気にならず、息苦しさや頭痛など高山病の症状もなく、14:30、ランタン村に着く。
シャングリラ・ホテルに宿をとる。別棟二階の3号室。トイレが近い部屋と選んでくれた。
ランタン村は7千メートル級のランタン・ヒマールと6千メートル足らずのカンジャラ・ヒマールに挟まれたランタン谷の段丘面に立地している。海抜3500m余り。両ヒマールから続く岩山は急峻で、岩がむき出しになっている。その急崖には氷河の融水が流れ落ちる滝が何本もある。また、その水が谷間を潤している。
崖垂から段丘にかけては放牧地、牧草地、畑に利用されている。家畜は羊、馬、ゾウ、ヤク。
刈り取りの終わった牧草地を横切って、チョルテンのある広場に向かって歩いていると、至る所に水たまりができている。それを避けながら歩いていたはずが、民家の裏で足を取られる。膝下までズブズブと。まるで底なし。その上、酷い悪臭。村を散策するどころではなくなった。
ロッジの前を流れる用水で靴、ズボン、ソックスを洗う。凍えそうに冷たい水。石けんを使ってもなかなか臭いは取れない。ズボンやソックスの替えはあっても登山靴の替えはない。替えの履き物はビーチサンダルのみ。明日の朝までに何とかしなければ。日のある内は天日で、後はストーブの側に置かせてもらうのみ。
このトラブルで意気消沈。
5時、日本に電話。電波状態良好。二分で300Rs。
村には小さな水力発電機があり、5時20分より通電するという。ありがたい。携帯とデジカメの充電ができる。
5時頃から濃い霧が流れ込み、急激に気温が下がる。
食堂のストーブにトレッカー、ガイド、ポーターが集まる。
夕食は、モモとガーリックスープ。ガーリックは高山病予防によいそうだ。
10月12日(日)
霧も晴れ、真っ青な空。靴も何とか乾いた。紅茶を一杯飲み、7時、ロッジを発つ。
宿代2050Rs。
毛糸の帽子、セーター、ウィンドブレーカー、手袋と防寒装備。
牧草地の畦道、昨日の二の舞にならぬよう慎重に。
階下を家畜舎と納屋にした木造二階建てのチベット人民家が集まった村の間を抜ける。狭い道だが、石畳。石積みの塀に囲まれた庭には刈り取られた牧草が山積みにされ、干し草作りに勢を出す村人の姿があった。ヒエなどの収穫物も並べられ、近づく冬への備えに勤しむ様子が窺えた。
樹皮で葺いた屋根を石で押さえる構造は、かつて日本でもよく見かけた。
何を思ったか、Tさんが一軒の店に入り、何やら尋ねている。缶詰が並べてあったので値段を聞いたそうだ。「カトマンズより安い」とびっくり顔。どうやら登山隊などが残った食料を処分、それが流れてきているようだ。
岩山の間にランタン・ヒマールの一部が真っ白な姿を見せている。
村が一望できるところまで登り一休み。ヤラ・ピーク登山のポーターがつぎつぎ追い越していく。昨日のポーターではない。ランタン村のチベット人が新たに雇われている。女性のポーターも混じる。
延々と道沿いにマニ石の壁が続く。平坦で歩きやすい。バッティも点在。
9:10、休憩をとる。紅茶(40Rsに)。
富士山ほどの高さにはなったはず。しかし、息苦しさはない。それどころか足の具合もよく、快調。
段丘はところどころでランタン川に注ぐ支流にえぐられ、その度に急斜面を下り、また登る。折角苦労して登ったのに、また下るのが腹立たしく思ったりする。
日が高くなるにつれ、毛糸の帽子も、セーターもじゃまに。
最高のトレッキング日和。
岩だらけの道ばたで、地面にはり付き可憐な姿で咲くリンドウを見つけた。ライトブルーの可憐な花。わずか15mmほどの花だが、枯れ草の中では際だった存在。足下に気を取られていたが、頭を上げると眼前には氷河を抱く雪山が。
ランタンリルンの先鋒とそれに続くキモシャング、キモシャング氷河だ。
手前のタルチョはキャンジンゴンパ。
11:00、ついに到着。キャンジンゴンパ。海抜3900m。
ランタン村で紹介されたいたロッジはすでに満室。はずれのホテル・ビュー・ポイントに宿をとる。高台に位置したロッジは名に違わずビュー・ポイント。村を一望に見下ろせ、ランタン谷を挟んでカンジャラ・ヒマールのナヤカンガ(5846m)やポンゲンドプク(5930m)が、谷の上流にはモリモトピークとランシサリ(6412m)が、振り返ればランタンリルン(7248m)とキモシャング(6745m)が。360度、絶景。
建物の中に入るのが勿体ない。
風も強く、冷えるが、テラスで昼食。ケチャップがついただけのスパゲティとガーリックスープ。口に運んでいる内に冷たくなる。
テラスの下には牧草地が広がり、馬とヤクが放たれている。民家に隣接する菜園には、家畜が侵入するのを防ぐため、石垣が巡らされている。その石垣にせっせとヤクの糞を貼り付ける女性がいた。1時間余りも続けていた。乾燥したヤクの糞は貴重な燃料になる。チベット人にとってヤクはまさに「宝」。重い荷物を運び、暖かい毛と乳を提供し、時に肉、毛皮も与えてくれる。
一休みし、キャンジンゴンパとヤクチーズの工房を見学に出かけた。
村の名にもなっているゴンパだが、常住する僧はいない。村人が管理している。
1000年以上の歴史があるというが、壁画はそんなに古いものではない。寺番の男の話によれば、村人が金を出し合い、カトマンズから絵師を招き、描いてもらったという。よく見ると、キャンバスに描いたものを壁に貼っている。キャンバスがはがれている部分があり、その下にかすかに残る壁画は、漆喰の上に描かれており、かなり古いもの。「1000年前のものです」と言う話は信じがたいが、二、三百年はたっているもの思われる。
ゴンパの周りにはチョルテンやマニ石の堤がいくつもあり、経文が書かれた赤、白、青、黄色の旗が無数に取り付けられている。村人が数人、チョルテンを背に座り、マニ車を回しながらおしゃべりを楽しんでいる。
ゴンパに近い、一見、普通の民家のような平屋の建物がヤクチーズの工房だった。中に入ると湯気がもうもうとたちこめ何も見えない。眼鏡を外し、近づくと、大釜でヤクの乳を煮立て、櫂のようなしゃもじでかき回していた。「チーズはある?」と声をかけると、別の男が隣室に案内、布に包んだ円形の大きなチーズを見せてくれた。
少し削って味見を。「旨い」。カトマンズで手に入れたチーズに比べ格段に旨い。
1キロ400Rs。取りあえず500g買った。
設営の終わったヤラ・ピークに登るツアーのキャンプで声をかけ、ロッジに戻る。部屋で早速、ヤクチーズを頬張る。
2時頃から一人で散策。
村が見渡せる尾根筋のチョルテンを目指す。放牧されたヤクが、胡散臭そうに道を譲ってくれる。黒いビニールのパイプは谷から水を引いたもの。要は簡易水道。
風は冷たいが、風さえ避ければポカポカと気持ちよい。ヤクの首に付けられたベルの音を聞きながら、しばらく、ぼんやり、雄大な風景を眺めていた。満たされていた。
ランタン川の上流を眺めているうち、少し先まで歩きたくなった。キャンジンゴンパから先にはロッジがない。モリモトピークBCまで20km余り。テントがないとトレッキングも無理。
放牧地に利用されている緩斜面に足を踏み入れる。灌木の間には可愛らしい花が一面に咲いている。リンドウとエーデルワイス以外は名を知らぬが、直径1センチにも満たない青い花やピンクの花が。枯れ草の中に、秋の花が可憐に咲いている。
ヒマラヤ鳩の群れが上昇気流に乗って山を越えていく。
小さな谷に面した岩の上に腰掛け休んでいると、キャンジン・リから下ってくるトレッカーの姿があった。ランタン・リルンはすでに雲の中。カンジャラ・ヒマール側は雲が少ない。カンジャラ・ヒマールの峠を越え、カトマンズに出るトレッキング・コースもあるそうだ。
村に戻り、再び、チーズ工房に。生徒と約束していたヤクチーズ。荷物にはなるがここで買って帰ることにした。1キロ追加購入。
5時、家に電話を入れる。なかなか出ない。一分ほど呼び出し。話したのは53秒。ところが電話機には1分53秒と記録されている。呼び出しの間もカウントされているのだ。「おかしい」と言っても、ロッジの女の子、聞き入れず。結局、2分分の320Rs支払う羽目に。
夕日に赤く染まるモリモト・ピーク。今日一日、ランタン谷の奥に、存在感を示してくれた雄姿。思わず手を合わせる。
6:40、夕食はモモとスープ、紅茶。
日没とともにぐんぐん気温が下がる。寝袋だけでは寒そうだ。それを察したテジさんが毛布を借りてきてくれた。
10月13日(月)
5時、目が覚めると直ぐカーテンを開けた。ベッドに横になったまま。暗闇に、青白く迫るランタンリルン。日が昇るまで、刻々変化する輝き、色、影…自然の造形に、見とれていた。その神々しさに感動。生きていることを実感。
暗闇のあちこちに足を折り曲げ寝そべっているヤク。白むにつれムクムクと起き上がり徘徊を始める。
寝袋から出るとゾクッとする。冷え込みが厳しい。
ヤクの寝そべっていた放牧地には霜柱が立っていた。
水場には氷が張り、ビニール管は凍結。食堂でカップ一杯の水をもらい、歯を磨き、顔を洗う。
朝は今日も紅茶。それにヤクチーズが加わった。
支払い(2240Rs)。
7時、ロッジの前で記念写真。荷物はS君に任せ、キャンジンゴンパの少し先まで登る。九官鳥が放牧地に群れている。
「少しでもランタン・リルンに近づきたい。氷河を間近に」と、登るが大岩を越えれば、また大岩が遮り、見通しは悪くなる。ゴンパから5、600mほど登ったところで諦める。海抜4000mほどか。ここからチベットまで直線距離なら20キロ足らず。よくぞ来た。満たされた思いで帰路につける。この歳で昂揚した気分を味わえるとは。不思議な感覚に襲われた。
8時、キャンジンゴンパに別れを告げた。
下りは早い。足も軽い。
足下の草花や水場のヤクをゆっくり観察する余裕も。
残念ながら草花の名はほとんど分からず。Tさんに尋ねても要領を得ない。白いコゴメバナのような小さな花は、「ブキフール」と言うそうだが。ブキは白、フールは花。「白い花」では植物名にはならぬ。
激流に洗われる谷底の岩に数人の男が立っている。川面をのぞき込んでいる者も。
昨夜、キャンジンゴンパでロッジを経営している男が、ランタン村に向かったまま行方不明だとか。酔っぱらっていたので、川に転落したのではと探しているらしい(後ほど村人に尋ねたところ、川岸に着衣の一部が流れ着いていたとのこと)。
ジャガイモを掘っている女性が四人。シャッターチャンスとばかりカメラを向けると、一斉に「何かくれ」と詰め寄られる。ポケットに残っていた飴を渡すが、不服そう。
チベット自治区での騒乱の後、ネパールではチベット人に対する対応が厳しさを増していると聞いていたが、もともとチベットと国境をなす地域ではチベット系のネパール人が多いし、チベット動乱以降の難民も多いネパール。多民族国家ネパールで、チベット系の人たちがどのような立場にいるのか関心があった。
マガル族のTさんはどう見ているのか。日頃から彼の言葉のはしはしには他民族に対する不満や敵愾心がでてくる。そのほとんどはガイド業に根ざすものだが。
開口一番、「チベット人はよくない。でも10%はいい人」。商売上手のチベット人。ランタンのロッジやバッティの経営者はほとんどチベット人。マナスルでも同様らしい。国境貿易で稼いでいるのも気に入らぬらしい。
ヤクの放牧も彼には環境破壊と映っている。「灯明にヤクバターを使う」。ゴンパでは毎日大量のバターが燃やされ、供えられる。チーズ、ヨーグルトとともに大切な食料でもあるが、バターの消費量の半分以上は仏前で消えている。そのためにヤクを増やし、ヒマラヤの高山地帯がヤクだらけになるのが許せないのだ。
トレッキング・コースに定着した人たちが切り出す木材や竹材も環境を壊すと不満噴出。
チベット人に対し、強硬なネパール政府の姿勢にも、「特に何とも思わない」と、冷めている。
10時半、ランタン村に着く。ホテル・シャングリラでダルバード・タイム。食堂の壁に貼られた無数の写真、ポスター。なぜかダライラマの写真とともに元国王一家の写真や統一共産党のポスターなども。三人分600Rs。おつりがないと100Rsサービス。
11時10分、ロッジを発つ。壊れていた村はずれのマニ水車小屋。老人が一人、修理している。カメラを向けると、経文の書かれたアクセサリーを取り出し、「買ってくれ」と。二人連れのインド人トレッカーと、しばらく抜きつ抜かれつに。
サングシャプのバッティで休憩。紅茶を頼む。ヤクの毛で帯を織っていた女が、思いがけぬ客に慌てて準備を始める。あえてトレッカーが居ない、客引きが居ないバッティを選んだのだが。それを話すと、喜んでいた。
帯は、二、三日で織れるとのこと。10ドルほどで売れるらしいが、手元にはないと。
チェックポストに立ち寄り、往路記帳したノートに、再度サインする。ノートによると、この三日間に、150人以上のトレッカーが入っている。
最初、順調だった歩みも、しだいと崩れ、少し歩いては休み、休んでは少し進むの繰り返しに。15時半には着く予定のラマホテル、16時15分にやっとたどり着く着。
トレッカー多く、ロッジのほとんどが満室状態。14時過ぎには着いていたS君のおかげで何とかジャングル・ビュー・ホテルの一室だけは確保できたが、TさんとS君は二階のベランダで寝ることに。
三日ぶりのビール。
日没まで、ブラブラとロッジやキャンプ場を見て回る。どこもトレッカーで溢れている。往路は一人も客がなかったロッジも。ロッジの家族はテント生活。自分たちの部屋まで客室にし、稼げるときに稼がなくてはと、なかなかのやり手。
日没前、樹間に真っ赤に染まったランタンが見えた。
早々に、夕食をとり、横になるが、なかなか寝付かれず。隣室の物音が気になる。
10月14日(火)
支払い。2020Rs。ベランダに二人泊まっての料金。トレッカーが増えると、足下を見て値を上げる。
5時半に起床。小鳥の鳴き声に心地よい目覚め。ウグイスの仲間?
トイレに近いのはよいが、臭いと物音にはうんざり。
早朝からポーターが登っていく。ダサイン明け、ロッジへの供給で多忙に。「仕事があることこそ喜び」とTさん。それにしても一人で60kg〜90kg担ぐ重労働。
7時10分、ラマホテル発。
8時20分〜40分、休憩。ヤクチーズを囓り紅茶を啜る。ヤクの毛で織った帯を土産に(500Rs)。
10時10分〜11時、ランドスライデでダルバード・タイム。紅茶、ヤクバター・トースト、野菜スープ。三人分520Rs。
ドメンにはバッティが一軒。橋のたもとに。
ランタン川の対岸に大麻畑。左岸からは渡れないが、急斜面に獣道のような小道がつけられている。道ばたで、雑草と共に生える大麻は、あちこちにあったが、こんなに大がかりな栽培ははじめて。もちろんネパールでも不法行為。それにしてもこんなに目立つところで。
13時50分、シャブルベシ着。
いかにもチベット風のポタラ・ホテルに。シャワーを浴び、ビールを飲み、寛ぐ。
心配していたが、「明日、カトマンズ行きのバスがあります」と、探しに行ったTさん。一人300Rs。早速、予約。
落ち着いたところで、散策。中国製品溢れているかと思っていたが、店の数も少なく、コダリ方面とは違う。チベットと結ぶ道路建設計画があり、中国人が滞在しているとか。街外れの川沿いに大量のゴミ。ゴミ処理この国の課題。
小型乗用トラックで、シンガポール人女性が一人、数軒先のホテルにやって来た。Tさんは、カトマンズに戻るというドライバーと交渉をはじめる。先ほど、そのホテルで、数人のトレッカーが同じような交渉をしていた。ランドクルーザーでカトマンズまで、20000Rsの値をつけられていた。長時間粘ってこの料金。普段なら9000Rsが相場。足下を見られたようだ。
ところが、Tさんの交渉では3000Rsで話がまとまる。普段の1/3の料金。ただし、ホテルに500Rs(ビール代含む)、バスのキャンセル料400Rs取られたが。
16時40分、シャブルベシ発。途中雨。
17時40分、ドウチェ着
8日に泊まったランタン・ヴィユー・ホテル、今日は客が居ない。しかし、接客の悪さに腹を立てていた我々には泊まる意思なし。隣のベーカリー兼食堂で交渉。ホテルの看板はない。要するにバッティ。
DOCOMOの携帯繋がらず、Tさんの携帯で家に電話。
ダサイン最終日。Tさんが知り合いから貰ったという干し肉を肴にビールを1本。ダルバードを食べ、寝袋に。
今日まで賭け事が許されているとかで、主人の話では四階が賭場になるという。「うるさくて申し訳ないので、宿を変わっては」と言われたが、面倒だし、一晩ぐらいとたかをくくっていた。ドライバーとS君は毛布を借りて車に逃げたが。
10月15日(水)
結局、1時頃まで一睡もできず。騒々しいこと。当然のことながら負けがこんでくるとイライラが爆発するのか、怒鳴り声さえ。興奮して床を叩く者も。その上、階段を上がり下りする足音や子どものわめき声も加わる。幸い、賭け事が許されるのは14日まで。午前0時で時間切れに。
やっと静かになり、ウトウトする間もなく5時起床。
6時前、まだ薄暗いドウチェの街を発つ。
酷い宿ではあったが、夕食代込みで700Rs。文句は言えない。
チェックポストに寄り、8日には歩いて来た道を車で戻る。しかし、大変な道。日本であれば、間違いなく通行止め。いつ落石や地滑り、土砂崩れが起こっても不思議でない。車が通れる幅だけ土砂を押し退けただけの道が2、300メートル続く。車に乗っているのが恐ろしい。それでも歩くよりは速い。3時間半かかった道を1時間足らずで戻る。
車高の高い車でないととても走れない。軽四のような小型のタクシーで走るなど無謀。よくもよくも無謀なことをしたものと今更ながら。
7:40〜8:00、カリカスザンで朝食。チョーメンと紅茶。紅茶は5Rs。ランタン村の1/9。四人分で120Rs。安い。
ガタガタ道もトリスリまで。
9:00、トリスリのバザールでバナナを一房買う。63Rs。モンキーバナナのような小さなバナナだが美味い。
11:40、カトマンズ着。リングロードでチャーターした車を降り、タクシーに乗り換える。今日、明日は利便さ優先と、タメルでホテルを探す。はたして手頃なホテルが見つかるかと心配したが、すぐに決まった。
フジ・ホテル。1日目は七階のスイートルーム、2日目は四階のシングルルームで70ドル。10月からホテル料金が一斉に値上げされたとの情報は得ていたが。
広いベランダ付きのスイートルームに納得。
「バス付きの部屋は今日はここだけです。明日はこの部屋も予約が入っています」。「今日はお風呂に入ってゆっくりしたいでしょう」。Tさんらしい心遣い。「この部屋、一泊70ドルと言われたけど、まけて貰った」と笑っている。
早速、洗濯。そして風呂。広いベッドで手足を伸ばす。
15:00、一度帰宅したTさんが、預けていたスーツケースを持ってやって来た。
ありがたい。
スーツケースに入れておいた電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを入れる。何日ぶりか。コーヒーは。旨い。疲れが…消える。元気回復。
タメルに。閑古鳥の鳴いていた通りも、観光客で溢れている。ここ数年のことを思えば嘘のような賑わい。カトマンズの空気(汚れているが)を味わいながら、ニューロードまで歩く。
アサンチョークのスパイス屋に立ち寄り、数種類のマサラとイラム茶を買う。毎回、この店で買うので、主人も顔を覚えている。「去年の3月、ここで祭りの写真をとっていたね」と。
5時過ぎ、タメルに戻り、「一太」で焼き肉定食を。小さなコンロに炭火を入れテーブルまで運ばれてくる。本格的な焼き肉。それで350Rsは安い。
スーパーに寄り、ミネラルウォーターなど仕入れ、ホテルに戻る。
二度目の風呂。そしてコーヒー。
8時には就寝。健康的な毎日。
100円が74.7Rsに。急激な円高。
10月16日(木)
5時半、起床。早速、紅茶を入れ、残っていたバナナで軽く腹ごしらえ。
6:30〜7:30、ウォーキング。コースはタメルのJyatha〜Tridevi Marg〜王宮前〜Durbar Marg〜Ratna Park〜アサンチョーク〜歩道橋〜Kanti Path〜ホテル。
路上生活者が目立つ通り、それを横目に、早朝から移動するバックパッカー達。
王宮前では、ポリスや兵士、やたらに多く、王制を排除しても、なお、不安定なネパールの現状をさらけ出している。
旧社会主義国の崩壊では、レーニン像が破壊されたが、ここネパールでは元国王像は全て健在。
ミニバスの集まるRatna Park前の雑踏を抜け、露店のひしめくアサンチョークへ。色とりどりの野菜、果物、香辛料。グァバを見つけ500g買う(25Rs)。
一度ホテルに戻り、コーヒーを入れ、買ってきたグァバと駄菓子で朝食。
9:20〜10:00、タメルを一回り、来年のカレンダーを7冊買い求める。
10:20〜15:30、Tさん迎えに。タクシーで国立博物館へ。タクシー代180Rs。入館料50Rs。ビデオカメラの持ち込み料100Rs。折角の収蔵品、もう少し展示に工夫があれば。管理、照明すべてお粗末。埃にまみれ、色あせ、説明板も欠落。蛍光灯も壊れたまま。
日本の援助で建てられた仏教関係の展示館も、一階は薄暗く、ほとんど何も見えない。見張り番も、隅に一人。居眠りをいていた。
国立と名のつく博物館でこの有様。まだまだ、「なさねばならぬ」ことが多そうだ。
博物館の入口近くの売店で一休み。売店は、館員食堂の役目も。ダルバードを頼むと、25Rs。安い。
博物館からパシュパティナートに向かう。タクシーに乗るが、タメルの雑踏に突っ込む無謀さに舌を巻く。タクシー代245Rs。
バグマティ川を渡ったところでタクシーを降り、川の左岸を歩く。土産物やお供え物を売る店が並ぶ。拝観料250Rs徴収される。ただし、外国人のみ。珍しく、真新しい石畳。最近、整備されたらしい。そういえばインドラチョーク付近もきれいになったところが。 パシュパティナートはシヴァ神を祀るネパール最大のヒンドゥー教寺院。ネパールだけでなく、インドからも多くの参拝者がやって来る、印ネの結びつきを象徴する寺院。寺院のトップは代々南インド出身者。四大ヒンドゥー教寺院の一つとも言う。
露店が途切れ、右手にトイレ、そしてラクシュミー・ナラヤン寺院が。その傍らに大きな空箱が二つ。Tさんの話では、ドバイかクエートから遺体を運んできた柩。対岸では赤々と燃える火が二カ所、すでに消えかかり白い煙をあげているのが二カ所、四カ所の火葬台で荼毘に付される遺体が。毎日のように出稼ぎ先から柩が届くという。安い賃金で命がけの出稼ぎ、ネパールの苦悩、その一端を見た。
火葬台から10メートルも離れていない下流で洗濯をしている女性が二人。こちら岸では手製の小舟で興ずる裸の少年、さらに水浴を楽しむ母子。清流とはほど遠い、異臭を放つ汚濁流バグマティ。しかし、聖なる川ガンジスに注ぐバグマティは輪廻転生の舞台。生と死を、これほど間近に、身近なものとして、見せつけられると、たじろいでしまう。
神も仏も信じられなくなったと言うテジさんだが、それでも一応ヒンドゥー教徒。そのTさんがパシュパティナートだけは自ら案内しようとは言い出さなかった。なぜなのか。彼は「ヒンドゥー教寺院は汚いから」と言ってきたが、それだけだろうか。荼毘を見つめる彼の目に、日頃見せないものを見た。寂しげで、悲しそうな目を。
ここは観光地ではない。
火葬台は橋を挟んで上流側、すなわちパシュパティナート寺院の河岸にも二カ所ある。一番上流が王族用、そして高官など社会的地位の高い人用。ここでも荼毘の白煙と、その傍らには黄色の衣に包まれた遺体が。遺体には最後の別れをする人たちが薄い衣を捧げていた。
カメラを構える観光客。自分もその一人であることに気づいたとき、来るべき所でないことを悟った。この河岸。ガート(火葬場)には。
パシュパティナート寺院の中には、非ヒンドゥー教徒は入れない。リンガの並ぶラジュラジェシュワリ寺院に寄り、西の参道を抜け、ゴウサラの五叉路にでる。
タクシーを拾い、ホテルに。タクシー代140Rs。留守中に、部屋は四階のシングルに。
16:00、再びタクシーで、Tさん宅に。最近、酒類の販売規制が行われているそうだ。値上げもあり、庶民は、ビールやラムは飲めなくなったそうだ。酒を止めたTさんには無関係の話だが。土産に買う予定のククリ・ラムも大幅に値上げされているらしい。そんな話をしていると、「私が買った方が安い。近くに酒屋があるから」と買いに走ってくれる。確かに、3割以上安い。激安ショップではなく、外国人相場とネパール人相場は違うのだ。酒まで外国人相場ありか。
五年前、彼の家を訪れたときは、田畑や空き地が多く残っていた場所も、宅地化が進み、自分のイメージと一致しない。無計画に、しかも猛スピードで都市化の進むカトマンズ郊外。しかし、酷い。インフラの整備が全くついてない。狭い道。曲がりくねった道。舗装など夢のまた夢。泥水の溜まった穴だらけの道。道沿いの溝は悪臭を放つゴミだめ。
高い塀に囲まれた彼の家は建設途上の五年前とは違い、カラフルにペインティングされ、三階まで完成していた。一階と三階は賃貸し、二階に住んでいる。
六年前、日本で二年間、がむしゃらに、しかも身体を壊しながら働き、手にした、200万円を元手に建てた家。しかし、その出稼ぎは悲劇をもたらした。彼の留守中、前妻と一人娘は送金される金で、派手な生活、あげくに男を連れ込み、家庭は滅茶滅茶に。家は建てたものの前妻と男に乗っ取られ、家財道具も、思い出の品も全て失った。裁判で、戻ってきたのは財産の半分。家を自分のものにするために100万円余りの、彼にとって途方もない金を支払わなくてはならなかった。家と宅地を担保に、銀行で借金し、前妻への手切れ金を渡し、建設途上の家を仕上げたそうだ。銀行の利子は年利10%。利子を払うだけでも大変だ。一階と三階を賃貸しすることで何とか利子を払っているようだが。
S君と奥さんのOさんが出迎えてくれる。奥さんの実家のあるジルから、今回はじめてポーターとして出てきたS君。彼と一緒に出てきた若者とTさん宅に泊まっている。ネパールでは地縁、血縁関係が強く、誰彼なくやって来て居候を決め込むらしいが。
息子のJ・N君も元気だ。ミドルネームのNは、昨年、お邪魔したとき命名した。
Oさん手作りの料理でもてなしていただく。ビールとロキシで酔いも回り、プレゼントしたデジカメでの撮影会も盛り上がり、あっという間の3時間。遅くならない内にと20:30、ホテルに。
タメルのスーパーでミネラルウォーターとソーダ水を。
10月17日(金)
最終日。5時半、起床。荷物の整理。
電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを入れる。
7:30〜9:00、ウォーキングに。
タメル〜アサンチョーク〜インドラチョーク〜シュクラ・パト〜ダハルマ・パト〜ジョッチェン〜ダルバール広場〜インドラチョーク〜タヒティチョーク〜タメル
クッションカバーと装飾用のククリを1本、土産に。
ホテルのレストラン、庭のテーブルでレモンティを。
9:40、Tさん来る。部屋で精算。ポーター一日10ドル、ガイド一日30ドルで計算。本来なら食費等差し引いてもよいのだが、自分流に。立て替えてもらっていた金もきっちりと。今日は100円が76.2Rs、1ドルが76Rs。円が急騰。円払いに大喜び。「こんなに円が高くなったことはない」と。
朝昼兼用で、モモスープを。「風の旅行社」の斜め向かい(少し離れているが)、ホテルUTSE一階レストランで。チベット系のホテル。1杯90Rs。あっさり味の美味いスープ。中に入っているモモもジューシー。
TG320便は13:50発。10:40ホテルを発つ。タクシー、1時間も待たせてしまった。到着時もホテルまで送ってくれたドライバー。壊れたバックミラーは修理していた。
30分程で空港。見送りの者は建物の中には入れない。入口でTさんともお別れ。真っ白なカタを首に掛けてくれる。再会を約して。
空港税1695Rsを銀行で払い、搭乗手続き。ANAのマイレージ、今回は忘れず。
二階待合室のスナックでバドワイザーを一缶。250Rs。スーパーでは40Rs。一気に物価高の世界に戻る。
搭乗待合室までのチェックはいつもながら徹底的。中身まで。ナップサックにぶら下げていた高野山のお守りに、「これは何か」と問われ、返答に窮す。「Japanese God」と答えると、首を傾げ、OK。
搭乗待合室で待つこと1時間。遅れること35分。14:25、満席のタイ航空B777型機離陸。37K席、窓際だがヒマラヤが見えぬ右側の席。残念。
カトマンズの上空を旋回し、南南西に向かう。
18:50、バンコク着。携帯で家に。1時間余り、フットマッサージ。足の疲れが癒され、気持ちよい。エスニック果物盛り合わせを食べ、ブランド品ばかり、庶民にはほど遠い存在のショップ街をぶらぶらしているうち搭乗時間に。
22:40、バンコク発、TG622にて、帰国の途に。
翌18日、6:10、関空着。