ラダックの旅
               2001年8月17日〜30日
 
[8月17日(金)
  関空11時45分のタイ航空TG623便に乗るため、岡山7時35分発の「ひかりレールスター350号」に乗る。昨日の甲子園での2回戦、光南と日南学園の対戦記事が満載の「山陽新聞」を1部、手に。新大阪からは「はるか11号」。
  ゲームに夢中の小学生、携帯電話にかかりっきりの若者、大声でしゃべりまくる中年の男女。車内は公共の場であることをすっかり忘れておられる。何時の時代でも見られてきた光景かも知れないが、時々いやになる。逃げ出したくなる。日本人でありながら日本人がいやに、人間でありながら人間がいやになる。大きく変わっていく学校教育、いや、そうではなく、変えられていく学校教育にも嫌気がさしてきた。ともあれ、ひとまず日常生活から離脱。もしかして逃避。厳しい自然と静寂の中に身を置いてこよう。いつものことながら家族(特に、妻)には迷惑のかけっぱなし。
 関空、中央団体受付でチケットを受け取り、Hカウンターで搭乗手続き。
 出入国カードが省略されたためイミグレーションも楽に。
 土産の焼酎とタバコを買い、40番ゲートに向かう。
 タイ航空、TG623便、B777型機。35−D席。11時10分、搭乗。11時50分、離陸。
 欲張って、朝日とスポニチの2紙を拝借。寺原に挑む光南ナインの活躍が大きく載っている。
 13時、ランチ。ビールとワインですっかり気分が好くなり、1時間半ばかり眠る。17時2分(現地時間15時2分)、バンコク国際空港着。飛行時間5時間10分。
 デリー行きのTG315便は19時50分発。乗り継ぎの待ち合わせ5時間余り。
 100ドル両替すると、4,413バーツ。スナックでビールを飲んだり、葉書を書いたりで時間をつぶす。
 18時50分、6番ゲートへ。このゲートは空港バスで搭乗機まで移動するゲート。
 待合室の売店で、マンゴスチンを見つけ買い込む。
 19時25分、空港バスに。
 B777-300型機。乗客少なく、機内はガラガラ。63番席は両サイドの窓際だけしか乗客がいない。
 20時丁度、離陸。
 早速、機内食。チキン、フライドライス、オクラ、サラダ、ケーキ、パン、赤ワイン。
メインディッシュはカレー味に。
 食後、1時間ほど眠る。目を覚ますと、23時(インド時間21時30分)、スクリーンに、あと20分ほどでデリー到着の文字。
 21時52分、着陸。入国手続き、荷物の受け取り、トーマスクックの窓口で両替。T/C300ドル13890ルピー。後で札を数え直すと50ルピー不足していた。厚い札束にごまかされ、やられてしまった。
 22時30分、出口で、迎えのナヴィさんと会う。空港に近いホテル、アショク・カントリー・リゾートへ。22時45分、チェックイン。102号室。
 ホテルまでの道路に延々と並ぶオート・リキシャ。2ヶ月前に排ガス規制が実施され、オート・リキシャも燃料がガスに変わったそうだ。ところがガススタンドが少ないため、補給のため何時間も待たされているとか。バスも同様だそうだ。
 シャワーを浴び、一息つく。日付が変わりベッドへ。3時半にはモーニングコール。
 
  
[8月18日(土)]
 3時25分、モーニングコール。30分にはドアをノックして起こしてくれる。
 12時半頃まで、テレビでアメリカ版「ゴジラ」を見ていて、すっかり寝不足に。
 4時、ナビさん、迎えに。ロビーでモーニングティを一杯飲み、4時20分にはホテルを出る。さすがにまだ人も車も少ない。風も涼しく、静か。ガススタンドには昨夜からのオートリキシャの列がまだ続いている。徹夜で給ガスはきつい。20分ほどで国内線ターミナルへ。ジェット・エアとインディアン・エアの出発ターミナルが異なっているのは注意要する。悪質ドライバーの口実に利用されやすいので厳重チェック。
 ジェット・エア、9W609便の搭乗手続き。ポーター、50Rs要求するが、20Rs払い、無視。5時前、3番ゲートへ。セキュリティチェック厳重。機内持ち込みの荷物についてはX線検査後、荷札にスタンプ。ボディチェックも。
 5時15分、搭乗機への移動始まる。ゲートで搭乗券、荷札のスタンプ確認。さらにバックなどの手荷物はすべて開かせ、持ち物検査。
 バスにて搭乗機に。夜明け前の暗闇に、B737-700型機。座席は10−C。
 定刻の5時45分、滑走路に。53分に離陸。
 機内食は、ベジタリアン用を選ぶ。野菜カリー、チャパティ、トロピカルフルーツ等。 あっという間に夜が明ける。眼下に、氷河を抱く、ザンスカールの峰々が。
 6時50分、1時間余りの飛行時間で、レーに。タラップに出ると、肌を刺すような日差し、紫外線の強さと涼しい風、そしてなんとなく感じる息苦しさに、海抜3500メートルを意識する。空港内は至る所掘り返しており、まるで荒れ地。
 あちこちに銃をもち立つ兵士、ジャンム・カシミールの緊張を垣間見る。
 小型のバスで空港の建物に。外国人はここで、氏名、パスポートナンバーやビザナンバーなど記帳。ターンテーブルで荷物を待つが、先に出てきたのは、5分後に到着した便の軍人の荷物。
 荷物を受け取り、空港から出ると、現地旅行社のマネージャーがジープで迎えに。
 メインバザールを抜け、レーチェン・パルカル(王宮)の北西、Karzooのホテル・ロータスへ。まだ新しいホテルで、庭にはマリーゴールドやダリア、コスモス、朝顔などの花が咲き乱れている。庭にチャイを運んでもらい、しばらく、レーのシンボルである廃墟となった王宮とツェモ・ゴンパをながめていた。
 9時から14時まで、5時間あまりベッドに横になる。睡眠不足を補うのと高度順化がねらい。幸い、うまくいっている感じ。
 14時50分〜18時過ぎ、レー市内散策。サンダル、杏、カセットテープ等買う。テープ屋ではラダクのフォークソングを中心に、チベットやネパールの曲など、数本聞かせてもらう。チベットホーンやフルートの調べに酔う。チャイまでご馳走になり、30分以上いた。橋のたもとで店開きした水晶売りともついつい長話。大きなマニ車の近くで出会った茶髪の青年、「4人、デリーからバイクで来た。自分は千葉だがグループに岡山の者がいる。明日は世界で一番高いといわれる自動車道路を走る。」等、話し、別れた。(帰国後、岡山の者とは、私が行きつけの写真屋に勤める知り合いであることが判明。)
 18時25分、ゼン・トラベルのマネージャが部屋を訪れ、明日の予定打ち合わせ。午前中は近くのゴンパや博物館を見ることに。
 買ってきた杏をかじり、チャイを飲む。気のせいか、気にしすぎか軽い頭痛が。
 庭に出て、日没を迎える。夕日に赤く染まった岩山とゴンパをぼんやり眺めていると、ジャミモスクよりアザーンの声が心地よく響いてくる。 太鼓の音もつづく。
 薄暗くなった部屋に戻るが、電気がつかない。やむおえずローソクを灯す。19時30分、自家発電機によるものか貧弱ながらも電気が灯る。
 レストランで夕食。客は、アジア系の男とフランス人の3人連れ、それに私の5人。トマトスープと揚げロティが運ばれ、ライス、チョーメン(焼きそば)、野菜炒め、チキンカレー、フライドポテトが盛られる。デザートは甘いインド菓子、コーヒーにミネラルウォーター。一人での食事は味気ないもの。アルコールも口にできず(高山病の誘因になるので)。
 早々、部屋に戻り、洗濯。そして、横になる。
 
[8月19日(日)]
 雲一つない快晴。昨夜は21時に横になった。22時には再び停電に、朝5時まで電気はつかなかった。真っ暗闇の中、1時間置き、30分置き、最後は20分置きに目が覚めた。たまらず2時過ぎにパブロンを2錠飲む。高山病に頭痛薬は効かないことを承知の上で。
 4時過ぎ、モスクよりアザーンが、それを追いかけるようにゴンパの拡声器から読経が。楽器をまじえた読経は1時間あまり続いた。
 5時に電気がついたが、6時、日の出とともに消えた。6時50分〜7時30分、ホテルのまわりを散策。麦畑の中に新しいゲストハウスがつぎつぎと建てられている。丘の上の日本山妙法寺の仏塔が朝日に輝いている。子犬が一匹、ついてくる。岩山のどこから湧き出してくるのか、道沿いの溝には清流がとうとうと流れている。どこからかハーブのいい匂いが漂ってくる。
 8時、朝食。お湯をもらいコーヒーを入れる。コーンミルクにトースト、バナナ。
 9時、ゼン・トラベルのガイドとドライバーがやってくる。
 レーの北、2qほどの所にあるサンカル・ゴンパへ。20世紀初めにバクラ・リンポチェが創建したもの。村の中にあり、入り口は、一般の民家と区別がつかない。鍵を管理する僧が不在で、中に入れず、中庭から外観のみ鑑賞。
 レーの市街地を抜け、ストクに向かう。レー唯一のカレッジ、芝生のない石ころだらけのゴルフ場の横を通り、レー〜マナリ・ロード沿いのチョグラムサルに出る。チベット難民が多く住むそうで、たむろしている男女の中にチベット服姿を見かける。町並みを右折し、インダスに架かる橋を渡る。川幅は30メートル程か。白く濁った水が渦巻いている。
 インダス左岸の扇状地状の緩やかな斜面を登ると谷口の小さな丘の上にストクの王宮(ストク・カル)がある。V字谷の奥の氷河を抱くホーンは海抜6000メートルのストク・カングリ峰。以前、群馬県高体連山岳部が登頂したのがこの尖鋒。
 王宮を囲むように、大小さまざまなチョルテン群があり、マニ石を積み上げた、マニ堤がチョルテンを繋ぐ。
 王宮は、ラダク王、クンガ・ナムギャルが1842年、ドグラ軍に破れたのち、私領としてストクの領有を許され、その子孫が居住してきたもの(ストクの東南東11qのマトも私領として残り、クンガの傍系子孫が領有してきた)。
 外壁の一部をえび茶色に塗った箱形4階建ての王宮は、現在、博物館として内部が公開されている。部屋数80というが、公開されているのは3,4階の一部。まず4階のゴンパ・ラチェンへ。王宮付属の寺院の間。少年僧が一人、堂守りをしている。小銭を寄進し、礼拝、堂内を拝観。中央にドルマとラマ像、お釈迦さんの像はその隣。樹木の上に座るドルマ・カルモやグル・リンポチェ像は珍しい。チベット寺院で中央にお釈迦さんの像が置かれていることは少ない。小さな出窓からチョルテン群やインダスの広い谷間がよく見える。内部の撮影は駄目だが、カメラを外に向けるのはよいとのこと。
 迷彩服を着た管理人が展示物を並べた部屋の鍵を一つ一つ順にあけてくれる。4階のタンカを並べた部屋や仏間を回り、屋上に出る。360度、展望がすばらしい。北には、インダスに注ぐ谷沿いに開けた、レーの緑の帯が、その帯から左に目を向けると、岩山の上に、スピトク・ゴンパが見える。東には、インダスの右岸沿いに、チョグラムサラからシェイに続く緑の帯、そして、南には、谷の奥に、氷河を抱くストク・カングリ峰が。しばし眺望を楽しみ、3階の王の寝室や宝石や装身具を展示している部屋を回る。1時間あまりゆっくりと。
 11時10分、ホテルに戻る。
 昼は、お湯と紅茶をもらい、持参のカップヌードルで済ます。
 13時30分、家に電話するが、ラッシュ時で、回線がつまり、通じず。
 ごついホッチキスの針を何本も使ってがっちりと止めた1万ルピーの札束、ばらそうとするが釘のように堅い針に手こずり、指に傷をつけながら15分格闘。終いには腹が立つ。お札を束ねるのにホッチキスを使う無謀な習慣。お札は痛めるし、ばらすために無駄な時間を使い、さらに怪我までしたのでは。どうにかならぬかインドの方々。
 ナムギャル・ツェモの西麓、サンカルへ向かう道を歩く。山麓に無数のチョルテンとマニ石の山。羊と山羊の群を追って、岩山を牧童が下りてくるのに出会った。紫外線が強く、露出した部分は顔も手も足も見る見る赤くなる。放牧された牛の中にヤクを見かける。
 木陰でしばらく休み、ナン屋の並ぶ裏道を抜け、メイン・バザールへ。
 15時50分、バザールの電話屋(ISDの看板)で家に電話。229Rs。
 誘われるまま入った土産物屋で、言い値50$のタンカ、20$に値切る。絵はがきを買いによった他の店で見せると、20$は安いとのこと。
 歩き疲れ、ホテルに戻ったのは18時過ぎ。身体がだるく、頭痛。シャワー浴びるが、頭痛さらにひどく、悪寒も。セーターを着込み、横になる。
 20時、夕食。トマトスープとボーイが持ってきた料理を少し皿にとり、次の料理を待たず、レストランを出る。紅茶を部屋に運ぶよう頼んでおいたが持ってこず。
 頓服を飲み、セーターを着たまま横になる。薬が効いたのか2時頃まで眠る。
 後は2,30分置きに頭痛で目覚める。高山病の症状。
 
 
[8月20日(月)]
 4時、モスクからのアザーン、そして読経。濡れタオルで頭を冷やす。少し楽になり1時間ほど眠る。
 雲が少し多いが、晴れ。
 7時〜7時40分、朝食。トースト、ジュース、コーンミルク、紅茶。
 8時、ラマユルに向け出発。昨日のガイド、別のツアーに。カングラチャン・ホテルのゼン・トラベルに一度寄る。新しいガイドの名はドルジェ、昨日からのドライバーはタシ。
 空港近くで、トマト、リンゴ、ミネラルウォーターを買う(60Rs)。ガイドの知り合いらしき女性が助手席に同乗。よくあることだが。空港のはずれで降りる。
 岩山の上にゴンパ。昨日、ストク王宮の屋上から遙かインダスの対岸に小さく見えていたスピトク・ゴンパだ。15世紀前半に建立されたゲルク派の寺院。
 ゴンパのある岩山を過ぎると、谷幅が広がり、荒涼とした平原になる。軍の駐屯地があるが、その荒涼とした平原の彼方に、ピャン・ゴンパを見ることができる。岩山の上に立つ数棟の大きな建物。16世紀に建立されたもの。
 しばらく走ると、谷幅が狭まり、左手にはインダスの濁流が迫る。ニンムの手前で、支流のザンスカール川が合流している。
 ニンムの谷は、緑豊か。
 レーから40キロ、約1時間で、かつてラダック王国の重要な拠点であったバスゴ。狭い谷沿い集落の背後、ラブタン・ラツェと呼ばれる丘陵一帯にゴンパや王宮の跡などが残る。谷を挟んだ上り坂の、見晴らしのいい路肩に車を止め写真を撮る。
 拝観予定のリキル・ゴンパはバスコから20キロ。街道から植生の乏しい斜面を上って行く。屋上の四隅に経文の旗を立てた日干し煉瓦の民家が点在している緑の谷に出る。リンの集落だ。ドルジェはその民家を指さし、遊牧民の家だという。
 前方の小丘上(海抜3760m)にリキル・ゴンパが。1キロほど手前のチョルテンの側で小休止。
 ゴンパを目指し歩く、パンジャビー姿の若い女性。リンのゲストハウスから歩いてゴンパに向かう途中。調子のよいドルジェがまたもや同乗させる。
 小さな谷を挟んで対岸に位置する丘に建つゴンパまでは車を降りてからも緩やかな坂道を上る。右手、林の中から賑やかな子どもの声。ゴンパ付属のラマの小学校(タツァン)。野外で、アメリカ人らしき男女が英会話の授業をしていた。
 ゴンパは大きく、新しい。ヘミス・ゴンパと共にラダックでは最も権威のあるゲルク派のゴンパとか。座主は14世ダライラマの実弟ンガリ・リンポチェ。18世紀半ばに火災があり、現在の建物はその後に建てられたもの。
 ドゥカン、ゴンカン、バカンと拝観して回る。老人中心のチベット人巡礼者が本尊の前で五体投地をしながら真言を唱えている。
 バカンの階上は博物館になっておりタンカや仮面などが展示されている。北の小窓から金ぴかの弥勒菩薩(チャンバ)大仏(高さ20m)の横顔を見ることができる。この大仏は1997年に完成したばかり。鎌倉の大仏のように、屋外に造られている。台座に腰掛けた姿も珍しい。10時5分から11時30分までの滞在だった。
 ゴンパからラマ僧とリンのゲストハウスに戻るというパンジャビーの女性(オランダ人)を乗せる。
 リンから峠を越え、再びインダスの右岸に出る。チョルテン群の先の集落がサスポル。対岸に仏教美術の宝庫アルチ・ゴンパがあるが、アルチには帰途に寄る予定。ラマ僧はサスポルで降りた。
 インダス沿いに走ること1時間余り、13時5分、チェック・ポスト、街道の宿場町、カルシでやっと昼食にありつける。ベジタブルカリー、ダル、サラダ。杏を袋に詰めて売る人、タマネギやジャガイモを麻袋に詰めて並べている人など、街道沿いは小バザール。ここで食事をとる人が多く、道の両側には車が並び、通過する車は一苦労。30分の食事休憩、パスポートチェック。男一人が便乗。
 カルシの先で、インダスを渡る。橋が流されており、仮設橋。兵士がおり、多分写真は駄目。上手で新しい橋を建設中。橋を渡らず、インダス沿いに下れば、ダー村、そして最も緊張状態にある印パ停戦ラインに出る。
 左岸の岩山を超え、インダスの支流に。古い道は、さらにこの支流から葛折りの道(Hangru Loops)を上り、ラマユル背後の山上に出る。最近開通したという新道は支流沿いに造られているが、それでも谷底を覗くと目もくらむ。岩山の重なり合う、断崖の道を走る。前方の山肌の姿、色が突然変わる。異様に黄色ぽい。ドルジェは「ムーン・ランド」と言った。なるほど「月世界」と言う言葉がぴったり。黄色な地層は、数万年前、この地に大きな湖があり、その湖底堆積物によって形成されたと言う。
 道ばたに牧草を積み上げている家族がいた。そこから先には谷沿いに大麦の畑も現れ始めた。ふと右前方の岩山に目を向けると、何度も写真で見ていたラマユル・ゴンパの姿。
 14時30分、今日の目的地、ラマユルに着いた。
 ゴンパの麓、バス停に面したドラゴン・ホテルの一室に宿をとる。
 部屋も、共同のトイレ・シャワーも清潔とは言い難いが、二階にある部屋からは、杏の枝越しにゴンパが見えるし、トイレの水も流れていることで満足しなければ。
 30分ほど昼寝。ハエの多いのに閉口。
 16時、ゴンパに行く約束。ドルジェ現れず。杏の木の下にテーブルを並べた食堂で、チャイを注文。食堂の少年が、杏の木を揺らし、落下する実を拾っている。一つもらって口に入れる。甘酸っぱさが広がる。
 16時30分〜18時15分、ゴンパ、拝観。
 ホテルを出て、村のメインストリート(と言っても、凸凹だらけで、窪地は水場から排水が流れる下水。)を登っていくと、物置代わりの石窟前に、馬の群。学校帰りの少年が2人。
 入口のマニ車の側にいたラマ僧がゆっくりと登っていく私を気の毒そうに見下ろしている。
真新しいゴンパ・ゲストハウス前の広場では僧坊改装の木組み作りがされていた。
 ラマユル・ゴンパは16世紀中頃に建てられ、19世紀にドグラ軍により破壊され、その後、再建されたと言う。
 1階のドゥカンでは読経の最中。末席の小坊主達を見ているとつい吹き出しそうになる。手悪さ、ちょっかい。読経の終わりを待ちかね飛び出す。年長のラマ僧にコッンとやられ、それでも何食わぬ顔。
 カーテンで仕切られた中に、砂曼陀羅があり、許可を得て、カメラに納める。
 鍵番の小坊主が、40年前のトルマ(バターと麦粉の供物)がある守護女尊アプチを祠ったアプチカン、たくさんの新しいトルマと古い塑像があるゴンカンを案内。ゴンカンで記念写真。
 一度、ゴンパの側のチョルテン群を回り、現存する建物では最も古い13世紀頃の建物、センゲカンへ。ここにも古い塑像が多く祠られている。ゴンポ像が面白い。
 急斜面に日干し煉瓦の家が並ぶ村中を抜け、ホテルに戻る。
 19時、街道に出て、ラマユルの谷を眺める。日没と共に、岩山が黄色から赤褐色に、そして紫色へと変わっていく。バス停のへりに、キャンプ場があり、ドイツ人やフランス人のキャンパーが泊まっている。
 ホテルの西側には麦畑があり、その背後にたくさんのチョルテンがある。一回りして戻り、20時から杏の木の下で夕食。野菜スープ、チョーメン、モモ、フライドライス。旨いが量が多すぎる。ドライバーのタシ君を呼ぶ。ドルジェがタシに英語を教えている。ラダックで最も収入のある観光産業に携わるには英語が欠かせない。
 20時から夕食にしたのは、電気が19時30分に点くからだ。通電時間は23時までの3時間半。
 顔と手足を洗い、21時、ベッドに寝袋を広げ横になる。
 食堂のカセット、そして村人の話し声が大きく寝付かれず。
 
[8月21日(火)]
 4時過ぎ、ロバの鳴き声で目が覚める。ロバに、馬、それに鶏の鳴き声が加わりうるさくてとても寝ておられぬ。部屋にハエが多いのも、家畜のせいか。高度順化がうまくいっているのか、頭痛もなく、よく眠れた。
 世俗を断ちたい旅の途上、見る夢の世界はいつも世俗、極限に自分を置けば、離脱するどころか、極限の苦しみの方が先に襲い、身体が耐えられぬ。さてさて自分とは我が儘で情けないものよ。しばらく、ベッドに横たわったまま、岩山に聳えるラマユル・ゴンパをながめ、思いに更けていた。5時40分、寝袋から出る。今日も快晴。
 7時30分〜8時30分、村を散策。牛を追う少年、草刈りに出かける女性、孫を連れた老婦、通りすがりに「ジュレー(挨拶の言葉)」と声をかけると、にこにこしながら「ジュレー、ジュレー」と返事が返ってくる。月世界のような周辺の岩山が朝日を浴びている。谷間は、円形の段々畑。小麦と牧草が植えられている。村を一回り、8時30分〜9時、杏の木の下で、朝食。ナンにバター茶、紅茶。
 9時20分、ホテル・ドラゴンを後にし、旧道をカルシまで戻る。
 ラマユル・ゴンパを眼下に見る峠道。海抜4000メートル近い険しい道。今は谷沿いに新道がつくられたため、トレッカーを乗せたジープが上ってくるだけで、トラックやバスはほとんど走らない。しかし、「ムーン・ランド」と呼ばれるラマユルの景色を楽しむなら、このルートを通ることをお薦めしたい。
 10分ほど走り、ラマユルの上まで登ったところで、ガイドのドルジェがランチボックスを忘れてきたことに気づき、ドライバーのタシと私を残し、ホテルに引き返す。植生と言えば赤紫の小さな花をつけた高山植物が点々とあるだけの荒漠とした岩山。尾根の出っ張りまで行き、ラマユルの谷、そして対岸の色とりどりの地層が、風化や浸食によって形を変えた珍しい地形を堪能。タシに歳を聞くと、24歳。次男と同じ歳。
 ヘアーピンカーブの急坂を下り、10時52分、昨日通ってきた新道と合流する。歩哨の立つインダスに架かる仮設橋を渡ると昨日昼食をとったカルシ。ジープトレッキング途上のアメリカ人らしきグループが、道ばたで杏を買っている。
 軍の給水車も飲料水を汲み上げている清流がインダスに注ぐヌルラから、その清流に沿って石ころだらけの道を登っていく。道は悪路でも、谷沿いは緑の木々に覆われ、杏やリンゴ、クルミの木がたわわに実をつけた桃源郷。
 12時5分、今日の目的地、ティンモスガンのNamra Guest House cum Camping Site着。 庭先で、老夫婦が杏の種を取っている。干し杏にするために。
 ゲストハウスは、新築されて、1,2年。母屋はまだ一部建築途中。トイレ、シャワー付きの清潔な部屋。
 食堂でランチボックスを開く。トースト、ジャム、ジャガイモ、チョコレート、マンゴジュース、ゆで卵、リンゴ。ランチボックスメニューの定番。
 食後はズボンやポロシャツなど洗濯。空気が乾燥しているので、夕方までにはジーパンも乾く。
 14時、近くのゴンパや城塞跡巡りに出発。
 清流に恵まれたティンモスガンの村は、ラダックの中でも豊かな所と聞いていたが、確かに、村人の衣服や建物、顔にもゆとりが見られた。屋根の上にいっぱい杏が干してある。 村のシンボルでもあるナムギャル・ボタン(15世紀初め、下ラダック王ダクパ・ブムによって建立された城塞跡)北麓の小学校を併設した新しいゴンパ(タシ・チョリン・チョモ・ゴンパ…1997年、オランダの援助団体によって建てられたばかりの尼寺)による。 車の音を聞きつけ、若いラマ僧が出てくる。ドルジェの知り合いらしい。小学校(ラマ僧養成の)の先生でもあった。狭い教室で僧衣を着た子供が8人、授業を受けていた。英語、チベット語、ヒンディ語や算数の勉強をしているとのこと。複数の言葉を学ばなければならないの多民族国家に住む人にとって当たり前のことかも知れないが、大変だ。もちろん、自分たちの言葉、ラダッキもあるのだから。授業をしばらく参観、ラカンなど一巡。奥の建物から老尼僧が2人現れ、ベランダのテーブルに紅茶とビスケットを用意してくれる。
 先生が、パンフレットを持ってやってくる。この小学校充実のための募金活動について書いてある。レーに団体事務所があるようで、そこへの送金を求めている。きらきらした目の輝きを見た子供たちに、少しでも役立てばと、20$の寄付を申し出る。
 子供たちと一緒に写真を撮り、辞す。
 小学校から、狭い谷沿いに10分ほど登ると谷間にまた杏の林があらわれる。谷頭部の山裾に日干し煉瓦造りの小さなゴンパがあった。タスカルモン・ゴンパ。声をかけると老婆(老けているようだが私と同じ年頃?)が一人出てきた。堂守りらしい。ドルジェが拝観を頼むと快くラカンの鍵をあけてくれる。一見、民家のような造りのゴンパだが、ラカンの壁画やラマ像などはすばらしい。訪問する人も少ない小さなゴンパに思いがけぬ立派な壁画やタンカが残されている。先年味わった、スピティの小さなゴンパでの感激を再び味わうことになった。気前な堂守りは写真撮影も許してくれる。薄暗い2つのお堂をゆっくりと拝観。狭い階段を上り屋上に出ると紫外線の強い日差しに目がくらむ。黄金色の杏がいっぱいに干されている。
 谷頭部には小さな泉があり、泉の流れがマニ車を回している。その泉の水は小さなため池に貯められ、谷間の樹園を潤している。さわやかで心地よい木陰に腰を下ろし、しばらく休息。
 15時45分、車を止めているところまで戻る。ドライバーのタシは谷の水で洗車をして、待っていた。
 小学校の横からナムギャル・ボタンのある岩山に登っていく。
 岩山には城壁や砦の一部が残っているが、それ自体特別見るべきところはなく、ここでもゴンパが目当て。北側に海老茶色のチャンバ・ラカン、南側に白壁のチェンレジ・ラカンが並ぶ。チャンバ・ラカンには鍵が掛かっており入れず、階段を上り、チェンレジ・ラカンへ。お堂の増築工事が行われており、中で鎚の音がする。声をかけると、初老の小柄なラマ僧が出てきた。鎚をふるっていたのは耳が遠く、言葉も不自由な中年の男。僧の案内で、新しいお堂に移されたばかりの、本尊、大理石のチェンレジと化粧直しされたチユーチグザル(千手十一面観音)の像(せっかく古色の出たものに極彩色で化粧直し、骨董趣味の者は目を剥くことだろう。しかし、信仰の対象である観音像、信仰する人々にとっては創建当時のお姿こそ最上のお姿。国宝になるようなものであっても信仰の対象である限り、元のお姿にお戻りいただきたいということだろう。)を拝観。そして古いお堂に。15、6世紀の建立というゴンパ、長年のバターの灯明による煤が古色を醸し、文化的価値を発散している。
 僧は、小窓からはるか下に緑の谷間の見える、台所兼居間兼寝所になっている部屋でチャイをご馳走してくださる。ビスケットのお茶請けとともに。
 案内のお礼を兼ね100Rs寄進。律儀に領収書を書いてくれる。
 ゴンパの屋上に立つと、東にはアリ、リキルに続く緑の谷、そして北西方向にはティアに続く緑の谷が一望できる。西に傾きかけた光によって山並みがしだいに線になり、陰が長くなっていく。強い風さえなければ、いつまでも眺めていたい景色。
 17時20分、ゲストハウスに戻る。
 シャワーを浴び、付近を散策。ゲストハウスの入り口、水路の縁にチョルテンとまだ新しい大きなマニ車がある。樹齢2、300年はあろうかと思われる大木がチョルテンに木陰を提供している。私も西日を避けるため木陰を拝借、しばし瞑想。
 庭先では相変わらず杏の種だしをしている。先ほどやってきた、イギリス人女性(小学校の先生)も手伝っている。だれかれなくやってきては手伝っている様子。私も仲間入り、20分ほどで腰がだるくなりギブアップ。
 リンゴ、杏、クルミの木に囲まれたキャンプサイト、黄金色に色づき始めたチンコー麦の畑、いろいろの野菜(ニンニク、唐辛子、カリフラワー、キャベツ、人参等)を混植した菜園を一回り。菜園の中に真っ赤な花をつけたケシが数本。まさか阿片の採集が行われているわけではあるまいが、ナムギャル・ボタンの背後に日が沈み、谷間に暗闇が忍び寄る直前、一際目立つ真っ赤な花に、なぜか妖気を感じる。
 7時半、電気がつく。通電時間、7時半から11時まではラマユルと同じ。テレビ塔があると言っても電気が来なければ見れないと思うが。
 8時前、夕食。トゥパ(うどん)、野菜カレー、ダル、ライス、チャイ。
 食後、庭に出て星空を見上げる。満天の星。天の川がはっきりと見える。隙間のないほどびっしりと空を埋める星に感動。「一番星みーつけた。」「二番星みーつけた。」とはしゃいでいた子供の頃をふと思い出す。
 暗闇の中から、男女3人連れのトレッカーが現れた。
 空き部屋が1つしかなく、慌てている。どうやらドルジェが采配し、納めた様子。
 
 
[8月22日(水)]
 6時過ぎに起きる。カーテンの隙間からナムギャル・ボタンの稜線が朝焼けに染まり始める。カメラを持って部屋を出る。
 谷間のせせらぎを細分し、灌漑に、そして生活用水として利用する人間の知恵。早朝から水辺に村人の営みが見られる。水くみに急ぐ少女、牛を追う若い女性、草刈りに汗を流す男、石臼を回している老婆。「ジュレー」と声をかけると、笑顔で「ジュレー、ジュレー」と返事が返ってくる。
 大きなマニ車とチョルテン。マニ石を積み上げた堤。現世に近い仏の世界。
 7時6分、雲の切れ目から谷間の村に朝日が射し込む。チンコー麦の畑が黄金色に輝く。 7時50分、モーニングティーを運んでくる。
 窓の外で、先ほどからパチパチとものの弾けるような音。のぞいてみると、海老茶の着古した僧衣を纏った老婆が麦焦がしを作っている。早速、一掴みいただき口に入れる。懐かしい味がした。
 8時30分、朝食。ながし焼きに杏ジャムが旨い。
 9時前、ティンモスガン村を後にする。
 清流の流れる谷沿いに下り、20分ほどでヌラへ。
 インダスの右岸を10数キロ遡る。川沿いには軍の駐屯地点在。新しく開かれた段々畑もある。
 サスポルの手前で橋を渡り、インダス左岸の急崖を上るとチョルテン群が現れる。チベット仏教美術の宝庫といわれるアルチだ。10時過ぎには着いてしまった。
 土産物屋、露店、ゲストハウス等々の立ち並ぶ大観光地(?)。トレッカー多く、英語、ドイツ語、フランス語が飛び交う。急に俗化した観光地に入ってしまった違和感。
 駐車場から土塀に挟まれ、ゲストハウスや露店の土産物屋が点在する路地を進むと何時の間にかアルチ・チョスコル・ゴンパ の境内に入っていた。境内にはいるとまず目の前に大きなチョルテンが立ちはだかる。13世紀の初め頃建てられたというチョルテン・ゴンガ(五頭チョルテン)だ。下部の空洞に入ると内壁いっぱいに壁画が描かれている。千仏や諸ラマで埋まっている。木組みの輿が一つ。葬儀に使われるものか。
 いくつかのチョルテンに囲まれるように境内北西にラカン・ソマ(新堂)、その前にカンギュール・ラカン、その奥にスムツェク(三層堂)と続く。鍵番の僧はドルジェの友人、人口希薄なラダックのこと。ガイドをしているドルジェの知り合いはどこにでもいる。
 ラカン・ソマは13〜15世紀に建てられた白壁の建物。正方形の建物の内部は真ん中にチョルテンを置き、それを囲む四面の壁にびっしりと壁画が描かれている。薄暗く懐中電灯でもなければ上部の方はよくわからないが、曼陀羅や諸仏像等々、目を奪われるような見事なものばかり。
 スムチェクは、やはり真ん中にチョルテンを置き、北正面に弥勒菩薩(チャンバ)、西に観世音菩薩(チェレンジ)、東に文殊菩薩(ジャムヤン)の大立像が置かれている。5メートルはある塑像が圧倒する。壁にはびっしりと壁画が描かれている。立像の下半身を覆う衣にも細密な紋様が描かれている。一つ一つの壁画や塑像を丁寧に見ているといくら時間があっても足りない。
 スムチェクの東隣り、白い土塀の内側に、最も古い建物とされるドゥカンがある。11世紀に創建されたという。日の射し込む前庭部分には真ん中にチョルテンが置かれ、回廊状になった内壁には千仏画が描かれている。この千仏画は新しく、18世紀前半のものとか。前庭に向かって左右の小堂には左右に大きな塑像がある。右側の塑像は弥勒菩薩。
 前庭と本堂の間には細かい彫刻が施された重厚な木製の開き戸がある。中の本堂正面は四面の如来像(ナンパ・ナンツァ)、周りの壁画は種々の曼陀羅。
 ドゥルカンの隣には、リンチェン・サンポを記念した小堂、ロツァヴァ・ラカンと文殊菩薩を祀るジャムヤン・ラカンが並んでいる。どちらも潜り戸のような小さな入り口。壁画の千仏も塑像もなんとなくユーモラス。色の鮮やかさからも修復時にこのような姿になったものと思われる。
 両ラカンの前は、ガーデン・カフェになっていたが、客おらず。布巾を持ったボーイが木陰に佇んでいた。
 駐車場に近いホテルのガーデン・カフェで、瓶入りのアップルジュースを飲む。無茶苦茶に甘い。瓶を置くとすぐに蜂が2、3匹飛んでくる。追い払っても、離れず、ついに瓶の中に入り込んでしまう。よほど蜜に飢えているのか。
 1時間半ほどで、アルチを発つ。もう少しのんびりしたかったが、ガイドは少しでも早くレーに戻りたい様子。
 12時半、ニンムの外れ、インダスに注ぐ清流の河原でランチボックスを開く。
 近くに学校があるのか、制服姿の子供が三々五々通り過ぎていく。日差しは強いが、木陰はひんやりとするほど涼しい。
 ニンムからレーまでは1時間あまり。道もよく、ドライバーのタシ君、グングン、スピードをあげる。レーの市街地に入ると警察官あちこちにおり、車の通行規制をしている。VIPでも来ているのか。ニュー・バザールを大きく迂回し、ロータス・ホテルに。
 当然、レーの宿は、ロータス・ホテルと思っていた私もガイドも、3日前と同じ人物かと思われるマネージャーの態度に驚く。突っ慳貪に、「今日は予約されていない。未納金が75Rsあるので支払え。」という。ガイドのドルジェが怒り出す。今にも飛びかからん様子。間に入り止めるが、客相手の商売では考えられぬ態度に幻滅。
 とにかく、気分害す。早々に精算し、ゼン・トラベルの事務所のあるホテルに。
 事務所のあるカングラチャン・ホテルはもともとレーで、予定されていたホテル。
 2階の214号室に案内される。
 どっと疲れが出る。しばらくベッドに横になっていたが、16時、国際電話をかけにニュー・バザールへ。18時過ぎまで、バザールをうろうろ。
 鼻水にのどの痛みひどい。
 19時45分、1階レストランにて、夕食。ベジタリアンに徹す。ジャガイモ煮やキャベツ煮が旨い。幸い食欲はある。
 早々床につくが、鼻水で何度も目を覚ます。
 
 
[8月23日(木)]
 4時10分、アザーン。5時過ぎ、次第に窓外が白み始める。なぜかホッとする。
 5時30分、モーニングコール。トースト、コーヒーの簡単な朝食。
 6時10分、ホテルを発つ。マルチの軽ワゴンに変わり、ガイドのドルジェが運転。曇天、雨もパラつく
 インダスの右岸を20分ほど走ると、シェイ。15世紀までラダックの王都。1647年に建てられた王宮(カル)とゴンパが残る。 車を降りて、急坂を登る。眼下には広々としたインダスの氾濫原が広がる。湿地帯に排水路を設けるなど、少しずつ開発が進んでいる。カルは下から見上げると、保存状態がよさそうに見えたが、外観だけで、内部ではかなり崩壊している。カルを抜けると2階建てのゴンパがある。1階手前の広い部屋がドゥカン。部屋の周囲は壁画。千仏と如来、正面左手にはチャンバ(弥勒菩薩)とシャキャ・トゥバ(釈迦牟尼像)。薄暗いドゥカンを抜け、奥にはいると、目の前に巨大なシャキャ・トゥバの座像(1655年建造)が。高さ11メートル。上部は見えない。一度外に出て、階段を登る。ドゥカンの屋根はベランダ状になっており、そこから2階に入ると目の前にシャキャ・トゥバの大きな顔が。僧が一人、読経中。大きな切れ目に、筋の通った鼻、かすかに笑みを浮かべた顔が印象的。20Rs紙幣を一枚供え、合掌。回廊状になったお堂の内壁は見事な壁画。僧の許可を得て、写真を撮る。一部、煤けていたり、剥落したところもあるが、かえってそれが古色を醸し出している。
 カルを出ると、丁度真上を、デリーからの定期便がレーの空港に向かって高度を下げていた。時計を見ると7時前、ほぼ定刻に飛んでいる。
 シェイから4キロほど走ると左手の岩山にティクセ・ゴンパが現れる。ポタラ宮を思わせる山上のゴンパ、山腹には大小の僧坊が建てられ、山麓には無数のチョルテン。このゴンパだけ見て満足する観光客が多いというが、確かに絵になるラダックを代表する僧院。先を急ぐ私は、麓から写真を撮るだけ。
 ティクセから4,5キロほど走ると、インダスの対岸の小さな岩山の上に砦のような白壁の建物が目に付く。ドルジェに聞くと、スタクナ・ゴンパとのこと。確か森田さんの書かれた著書にここの座主のことが載っていた。
 スタクナ・ゴンパの背後、はるか彼方の山裾に、ストクとともに1842年、ラダック王廃位後も、王家の私領となってきたマトのゴンパがかすかに見える。
 さらに15キロほど走るとカル。河岸を固め、堰堤を造る工事が進められているインダスに鉄骨づくりの橋が架かっている。この橋を渡り、左岸の扇状地を登ると小さな谷に入る。谷の入り口には大きなチョルテンとマニ石の堤が築かれている。
 小さな集落を抜け、カーブした道を2〜300メートルほど登ると、谷の左岸斜面に重なるように大きなゴンパが現れる。ラダック最大のゴンパ、ヘミス・ゴンパだ。
 17世紀、センゲ・ナムギャル王によって創建され、以後、王家の菩提寺となってきたゴンパ。グル・リンポチェの誕生を祝うヘミス・ツェチュの祭りは、ラダック観光の目玉とされ、仮面舞踊が行われることでもよく知られている。
 建物の東側、坂を登ったところに車を止め、中に入る。ロの字型になった建物の北側、3階建ての部分が本館。10段ほどの石段を上り、ドゥカン・チェンモに入る。朝の勤行中のところをそっと拝観。早朝でもあり、私とドルジェの他に外来者なく、ゴンパの普段の生活が粛々と流れていた。50人ほどのラマ僧が生活しているそうだが、広い境内は閑散としていた。ゴンパでは改築、増築工事が行われており、足場の木組みが造られ、内庭には煉瓦や石が積み上げられていた。ドゥカン・チェンモ以外の部屋には入れず、内庭を挟んで南側の建物1階に描かれた八十四大成就者の壁画を鑑賞。
 8時、ゴンパを後にする。
 8時15分、カルでマナリから迎えにきたマルコポーロ社の車(タタ製四駆スモウ)に乗り換える。ドルジェともここでお別れ。
 マナリのドライバー、リグジンとの2人旅が始まる。
 雲行きがあやしい。雨がぱらつき始める。乾燥地域での雨は恐ろしい。岩山を削っただけの道では、僅かの雨でもすぐに土砂崩れが発生する。昨夜から断続的に降っているらしく、一部ののり面では土砂が押し出されている。緊張感が背筋を走る。
 レーからマナリまで485キロ、カルの先ウプシまではインダスに沿った道。ウプシでインダスに架かる橋を渡り、麦畑の中に白いチョルテンが点在するインダス本流と別れを告げる。
 ウプシからインダスの支流、ギャア・チュー沿いに走る。霧がかかり、雨足がはやくなりなる。不安が募る。対向車もほとんどない。ところどころで道路工事をしている人を見かけるのみ。
 ウプシから15キロ、9時、海抜3740m、道沿いに10数軒の民家が並ぶミルーの集落を抜ける。右手の岩山にゴンパあり。ミルー・ゴンパ(17世紀建立)という。
 さらに数キロ、河原が広がり、視界も広くなる。雨もあがってホッと一息。その河原に、赤い合成樹脂のイスとテーブルを並べたテント張りの茶店があった。ギャア・チューの冷水で顔と手を洗い、熱いチャイを啜る。夏場だけ営業しているという30歳前後と思われる男。デジタルカメラに興味を示す。地名を尋ねると「サルサル」と答える。20分ほど休み、9時47分発つ。
 茶店から300メートルほど先の道ばたに大きなチョルテンあり、このような場所にと不思議に思っていたが、尾根の出っ張りが目隠しになって見えなかっただけで、その先にギャアの集落が続いていた。谷間に開けた村の対岸の岩山に見える建物はギャア・ゴンパ。その背後には城塞の跡も残る。次第に高度が上がり、ギャアは海抜4100m。チンコウ麦の畑もあるが、このあたりが耕作限界か。
 大きなチョルテンのあるサソマ、軍施設のあるルムチェの集落を抜ける。この先にはしばらく集落らしきものはない。ギャア・チューの谷を眼下に見ながら、道は岩山の山肌を削り、ジグザグにつけられている。道幅を広げたり、崩れた路肩を補修したり、舗装したりとあちこちで工事が行われている。対向する車は派手な装飾のトラックか軍の車両、土埃をあげながら突走ってくるのはジープトレッキングの四駆。
 一部舗装箇所もあるが石ころだらけの悪路、しかも急斜面。自転車で登るグループを追い越す。先頭から後尾を走る者まで10キロ以上の差ができていたが、それにしても健脚。顔を見ると、20代の若者もいるが、50代、60代の男女も交じっている。5000m級の峠を4つも越えるレー・マナリ・ロードを自転車で走る者がいるとは聞いていたが、荷物を積んだ車を伴走させながらのグループでのサイクリングとは。車に乗っていても、薄い空気に苦しめられている我が身の貧弱さよ。
 11時20分、今回の旅の最高度地点、5317m、タグラン・ラ(峠)に着く。峠には道路案内を兼ねたチョルテン風の標識と満艦飾にタルチョが張られたヒンドゥーの神を祀る緑の屋根のお堂が一つ。道路工事関連の建物一棟に蒲鉾型テント、それにアスファルトのドラム缶などの資材が積まれた殺風景な場所。自転車の先頭集団の4、5人が休んでおり、軍のレッカー車が1台止まっていた。どんよりと雲は垂れ下がっているが、周囲の山並みは稜線まで一望できる。
 右手に氷河を抱くカールを見ながら峠を下る。
 薄黄緑色の絨毯を敷き詰めたような草原に入る。山裾に2つ、3つ、白いテントが見える。チャンタン高原からやってきた遊牧民とのこと。ヤクが放牧され、山羊、羊の群が山肌を少しずつ移動している。道路からあまり離れていないところに1つ張られたテントを訪問する。3歳の男の子と母親がいた。放牧をしていた若い主人が帰ってきた。ダルの鍋をかけた竈には乾燥したヤクの糞が赤々と燃えており、薄い布製のテントでも、中は暖かい。突然の訪問者のため、纏い付く子供をあやしながら、しっかり使い込んで黒光りのする筒に、お茶と熱湯、バター、塩を加え撹拌、バター茶を入れてくれる。冷えた身体に、塩味のきいた熱いバター茶が、五臓六腑、指先まで染み渡る。テントの中には鍋や水を入れたポリタンクがあるだけ、テントの外に毛布や布袋などが積み上げてあるが何と言って何もない。移動生活をする彼らにとって必要最小限の生活用品以外はじゃま物でしかない。
 訪問したテントの主人はソナミさんという。2家族14人のグループで、30頭のヤクと羊200頭、馬4頭を所有しているそうだ。現在、この周辺で70グループほどが放牧しているとのこと。彼のグループが平均的なグループとした場合、1000人近い遊牧民が、2000頭ほどのヤクと15000頭余りの羊を連れて移動していることになる。
 30分ほどバター茶をお代わりしながら、話を聞いていた。何時の間にやって来たのか、グループの若者が2人加わっていた。 
 馬に乗ってヤクの群を追う遊牧民の姿を見ながら、海抜4500mあまりの高原を走る。 しだいに青空が広がり、稜線の白雪がきらきらと輝く。
 14時、トゼ・ルンパ川の谷間、軍のキャンプに隣接したテント造りの夏場の茶店村パン(Pang)で昼食。色とりどりの合成樹脂製イスとテーブルの並ぶテントの一つに車を止める。ドライバーはレーへ、私を迎えにくる途上、茶店の主人に買い物を頼まれていたらしく、ダンボール箱を一つ降ろす。ブラックティにチョウメン、トマトスープ。ボーとした感覚は高地のせい。しかし、頭痛はない。風は冷たいが、日差しが強く、日に当たるところだけは暑い。紫外線の強さを肌に感じる。チェック・ポストがあり、茶店の子どもが私のパスポートを持っていく。
 土柱の林立する谷間を抜け、15時20分、再び峠に。2つ目の峠は、海抜5065mのラチュルン・ラ。黄色の標識と石積みの塚にタルチョ。ルンタが風に舞っている。
峠の手前に、青色の家型テント群。これは道路工事人のためのキャンプ。
 石ころだらけの峠の下り道で、オートバイを押している青年を追い越す。ヘルメットを抱えて歩く、ブロンドの女性と一緒だ。目があった瞬間、青年が「こんにちは」と日本語で。ケララ州ナンバーのバイクに大荷物を載せ、しかも二人乗りでツーリング。
 16時、3つ目の峠、ナキー・ラを越える。峠を下るとザンスカールへのトレッキングルートの一つ、タク(Takh)への分岐点。広々とした河原を網状に水が流れている。段丘上を迂回しながら、はるか岩山の下に白いテントの点在する、セルチュを目指す。17時20分、チェック・ポストのあるセルチュに着く。陽もしだいに傾き肌寒くなってきた。テントの茶店に入り、チャイを啜る。お茶請けにビスケットを出してくれるが、乾燥して粘っこくなった口の中ではその欠片や粉がくっつき飲み込みづらい。
 18時、やっと今日の宿泊地、ノース・クエスト・アドベンチャーズ・キャンプ に到着。 キャンプは海抜4113mの位置にある。広い河岸段丘の山際に、大小30ばかりのテントが張られている。レー・マナリ・ロードにはこのようなテント・ホテルが夏場に何カ所かでき、バスの乗客やトレッカーなどに供されている。
 家型テントの中には折り畳み式の簡易ベッドが2つと合成樹脂製の丸テーブルにイスが置かれており、厚い毛布に真っ白なシーツ。自家発電による豆球までついている。なかなか快適な空間。食堂からトイレまで揃ったテント・ホテル。今夜の宿泊客はマイクロバスでやって来たフランス人の一行、ジープトレッキングの二人連れと私。
 5000メートル級の峠を越えながらも、思っていたより楽な一日であったが、ベッドに横になると急に息苦しく、頭痛もしてくる。
 愛想の良いキッチン・ボーイがインスタント・コーヒーと湯の入ったポットを持ってくる。早速、その湯を使って、みそ汁を。疲れがとれ、生き返る心地。
 19時半、ボーイがチョウメンとトマトスープをテントまで運んでくる。昼と同じになってしまった。スープは旨いが、チョウメンは1/3がやっと。
 20時にはベッドにもぐり込む。寒い。ウィンドー・ブレーカーを着込み、毛布の間にシュラフを広げる。
 風の音と、息苦しさに何度も目が覚める。
 12時頃トイレに出る。満天の星。星の明かりが足下を照らす。真っ暗闇ではない。稜線もくっきりと見える。星明かりの下でのキャンプ、学生時代を思い出す。
 
 
[8月24日(金)]
 ほとんどのゲストが7時までに出発した。私の今日の行程は100キロ足らず。ゆっくり、のんびりを決め込む。谷間にも日が射し込み始めるのを待ち、テント周辺を散策。寒い。気温は5℃位か。吐く息も真っ白。耳が痛い。タオルをマフラー代わりにする。砂礫質の段丘面上の植生は乏しく、草丈2、3pの禾本科植物が疎らに生えているだけ。それでも山羊、羊の放牧が行われているらしく、乾燥したビー玉のような糞が転がっている。
 テント・ホテルの背後は舌状に大小の岩が押し出されたような尾根になっており、その右手奥には、真っ白な氷河を抱くカールが、朝日に輝いている。
 テントに戻り、ボーイに湯をもらい、コーヒーとみそ汁を入れる。冷えていた身体が暖まり、頭痛も和らぐ。
 朝食はバター、ジャムトーストとブラックティ。
 シュラフを畳むのも、荷物を整理するのも、メモをするのも、動作が鈍くなる。思考力の減退を感じる。私の場合、日中、動いているときは、高山病の症状はほとんどないが、夜になると出てくる。
 7時45分、尾根影になっていたテントにも、朝の陽が射し込んでくる。ポカポカと気持ちよい。
 8時40分、食堂テントでブラックティを一杯飲み、50分、出発。
 テント・ホテル周辺に投棄されたゴミの処理、気にかかる。レー・マナリ・ロードでは至る所で工事が行われているが、簡易舗装に使われたコールタールの空きドラム缶などが道ばたや谷底に放棄されている。ゴミ問題は先進国や都市だけの問題ではなく、今や地球全体の問題であることがよくわかる。
 対向してきた43台の軍用車両に行く手を妨げられながらも、ビィユー・ポイントで何度も車を止めながら、それでも、10時20分にはバララチャ・ラに着く。
 2年前、今は亡き、シェルさんと来た峠に、今日は反対方向から来た。この旅も、2年前、ここでシェルさんに、「次はラダックまで行きたい。」と話したのがきっかけだった。 石積みの大きな塚と何重にも積み重なってはためくタルチョの周りを右回りに一周し、小石を積んでシェルさんの冥福を祈る。
 石の間に2年前と同じように、黄色とピンクの可憐な花が咲いていた。懐かしさが込み上げてくる。
 寒風の中、しばらく佇み、瞑想。
 チャンドラ・タールに向かうトレッカーの姿、今日はなく、荒漠たる鞍部の向こうには氷河を抱く山並みが続き、紺碧の空を白雲が駆け足で通り過ぎていくのみ。
 峠に近いサン・レイクは、今日も、サファイアブルーの湖水を湛え、さざ波が銀色に光っていた。
 葛折りの道を下る。2年前に道の側まで落下していた氷河は見られず。この辺りでも地球温暖化の影響による氷河の後退があらわれているようだ。前方に、ホーン(尖峰)と複数のカール(圏谷)をもつ見覚えのある山塊が。ザンスカールへの入り口シンゴ・ラに続く、6318mをピークとする山塊と思われる。それにしても、まるで山岳氷河地形のサンプル。
 ジン・ジン・バーの道路工事飯場、11時20分。
 2年前に休憩したパテシオ、ゲストハウスはそのままだが、放牧地の茶店はなくなっていた。美しい小さな湖も、湖岸の道路を拡張したためか、ヒンドゥーの神を祀った祠がなくなり、少し痛々しく変わっていた。道がよくなるのはありがたいが、自然との調和、特に、景観を壊さない配慮が必要。
 ダルチャの手前、前方で激しい土埃。「地滑りか?」と不安がよぎる。違っていた。道路の拡幅工事中のブルトーザーが、土砂を路肩からバガ川の谷に押し落としている。見るからに大雑把な工事。雨が降ればそこら中で崩れ落ちる場所とは言え。
 ダルチャからバガ川の支流、バライ・カデの谷を4キロほど入る。ダルチャを起点にするザンスカール・ルートの玄関だ。日干しレンガと石積みの家が10軒ばかり集まった集落、ラリ。ドアに南京錠のかかった石積みの茶店があり、店先のベンチに座って、ランチボックスを開く。ドライバーのリッグジンが隣家からチャイを仕入れてくる。ジャガイモを頬張っていると、店の主人と数人の男が戻り、南京錠を開け、薄暗い店内で車座になる。「何事か?」と思ったが、特に激論を交わすわけでもなく、雑談をしているだけ。そのうち、男達はジプシー(小型の四駆)に乗り、ダルチャの方向に走り去った。
 ラリの背後は、切り立った岩山。その裾に広がる緩斜面のペジメントと河岸段丘に麦畑とジャガイモ畑がある。畑には農婦の姿もあった。12時40分〜13時10分、30分ほどベンチに座っていた。
 ダルチャではパスポート・チェックもなく、14時前にはジスパのアイベックス・ホテルに着く。2年前には未完成であったベランダの柵ができており、壁の色も塗り替えられている。青色に塗られた屋根には、白ペンキで「HOTEL JISPA」の文字。ジスパの村にも新築の民家が増えている。
 案内されたのは2年前に宿泊した2階の隣の部屋。
 ジスパでは、1994年、ダライラマを迎えカーラチャクラ大灌頂が開かれた。ホテルのレストランの壁には、その時撮したものらしいダライラマの写真が飾ってある。また、村には、ダライラマを迎えるために建てられたというカーラチャクラ・ポタンも残されている。ポタンの前には大きなチョルテンがあり、チョルテンの側から畑の畦を通り抜け、バガ川の河原に下りることができる。
 ノートとカメラを持って、河原に出た。せせらぎの音を聞きながらメモの整理を。ポツポツとにわか雨が。2年前にも、この河原で同じようなにわか雨に遇った。山羊に樹皮を食われないように、ビニールシートや野バラの枯れ枝を巻き付けた柳の幼木も2年の間に少し大きくなった。キャンプ場は畑になり、今日はサイクリングのグループが河原の一角にテントを張っていた。
 山の姿はそのままだが、人間の営みに関わるところは着実に変化している。トレッカーや観光客など余所から入ってくる者が増えれば、当然、人の心もまた変化する。村人に、以前のような素朴さが、失われてきているように感じられた。
 ホテルのマネージャーに2年前のホテルの写真を進呈。ホテルで一番愛想のいい男が(と言っても、このホテルで愛想のいいのはこの男だけだが)、写真を見て、「これは3年前のものだ。」と言い張る。撮した本人が2年前と言っているのに、おかしな奴。
 河原から一度部屋に戻り、下着、ソックス等の洗濯。
 16時半頃、今度は村の中を散策。
 新築された家、大きなパラボラアンテナを設置した家が目立つ。バガ川と道路の間は石ころだらけの荒れ地が多かったが、きれいに石ころを取り除き、取り除いた石は囲いに使い、畑や放牧地を拓いていた。2年前に蕎麦を植えていた畑には、大麦が、大麦が植えられていた畑にはジャガイモが植えられていた。グリンピースは、収穫が終わっており、鋤き込みの直前。これらの作物を組み合わせた輪作が基本になっている様子がよくわかる。 放牧地で出会った5,6歳の女の子2人。近寄ってきて、「ギブ ミイ チョコレート」。 18時、部屋に戻る。何故かくつろいだ気分に。
 熱い湯が出るのもうれしい。頭を洗うと湯が茶色に濁る。
 19時〜19時45分、夕食。チキンカレー、ダル、野菜煮込み、ブラックティ。
 ポットにお湯をもらい、部屋に戻って、インスタントみそ汁とコーヒーを入れる。
 頭痛もなく、爽快。ラダックのガイドブック、改めて読み直す。ウルトラガイドの副題の通り、本当に詳しい。読みながら感心する。 
 
 
[8月25日(土)]
 5時起床。晴れ。久しぶりに熟睡。ただし、インド人の大家族が泊まっており、昨夜は遅くまでうるさかったが。
 朝食までに、残り物の処理。「梅干し粥」や「リンゴ」等。
 7時10分、朝食(バタートースト、コーンフレーク、ブラックティ)。
 7時35分、出発。
 ゲムルの集落を抜けた辺りから、前方に氷河を抱く見事なカールが眺望できる。2年前にシェルさんと上がったカンサル・タクールの城からもよく見えたカールだ。朝日に照らされ、一層、輝きを増している。放牧に向かう山羊、羊の群を追い越しながら、キーロンへ。ドライバーが朝食をとりたいと食堂へ。
 キーロンはラホールの中心地。バガ川の右岸、河岸段丘に発達した大きな集落。谷底と集落のある段丘面までは比高100メートルはある急崖。V字谷の僅かな平坦面、傾斜地を拓いた段々畑、目もくらむ急斜面での放牧に糧を得る生活。
 対岸のはるか上方、急斜面の山腹に金色の屋根が光っている。ラホール最大のゴンパ、カルダン・ゴンパだ。キーロンには、他にも、集落の背後にあたる山腹にシャシュル・ゴンパ、バガ川とチャンドラ川の合流近くにトゥプチリン・ゴンパなどがある。
 2年前には、立ち寄る時間がとれず、素通りした。ドライバーに、「カルダン・ゴンパに寄りたい。」と言うと、気持ちよく「OK」の返事。キーロンの対岸にあることから、簡単に行けると思って頼んだが、実は大変なルート。キーロンには対岸に渡る橋がない。一度下流のタンディでバガ川を渡り、再び左岸の岩棚のようなジープ道を戻ってこなければならない。右側は今にも崩れ落ちそうな岩肌、左側は断崖絶壁が谷底までつづく。道は狭く、カーブでは切り返しが必要なほど。デコボコの上、石ころだらけ。対向車でもあれば、もうお手上げである。
 その危険な道の途中で、カルダン村に戻る夫婦を乗せる。
 ゴンパは、村からさらに2〜300メートル上にあり、ジープ道は大きく迂回しながらつづいている。
 ゴンパの裏山を削った駐車場に車を止め、大木の茂る急坂を下ると新築間もないマニ堂の前に出る。大きなマニ車を回していると、数珠を手にした少年が現れる。僧衣は着ていないが、修行僧らしい。彼の案内で、やはり新築間もない、金色の屋根、コンクリートの壁にパネルの跡がまだ残る本堂に入る。明るく、ガランとした堂内であるが、収蔵されている釈迦牟尼像やラマ像は古い。白木の棚に整然と並べられた諸像、教典、銀製のチョルテンが誇らしげである。
 石垣を積みテラスになった本堂の前庭からの眺望はすばらしい。バガ川の対岸、キーロンの全ての家並み、さらには背後の山、谷の上流・下流が一望できる。キーロンのはるか上方、山の中腹には、やはり金色の屋根のゴンパが一つ見える。それがシャシュル・ゴンパであった。ドライバーの話だと、外観は新しいが、内部は古く、すばらしいとのこと。 本堂に隣接する古い建物に案内してくれる。階段を上がると、ダライラマの写真やタンカ、小さなチョルテンなどが置かれた小部屋があった。
 カルダン・ゴンパには現在、13人のラマ僧がいるとのこと。ゴンパの傍の急斜面で草刈りをしている女達は、カルダン村の住民で、村の人口は25人。ラホール最大のゴンパ、カルダンの普段の生活は村人を含め38人によって営まれている。
 危険な道を、再びタンディまで引き返し、ゴンドラに向かう。タンディからカルダン・ゴンパ往復、拝観を含み2時間20分。思わぬ長時間の寄り道になった。しかし、満足した寄り道だった。
 ゴンドラは97年のスピティの旅と99年のバララチャ・ラの旅を共にしたドライバー、シェルさんの実家の在る所。
 チャンドラ川に沿う緑豊かな村。対岸に見覚えのある氷河。はやる心が、手前の集落を実家のある集落と勘違いさせる。2年の間に、水路も道もコンクリートで固められており、集落の様相が変わっている。しかし、直ぐにわかった。道から一番はずれた見覚えのある新しい家。
 だが玄関に鍵がかかっている。ドライバーが裏隣で尋ねると、畑に出かけているとのこと。ジスパでは終わっていたが、海抜高度が少し低いゴンドラでは、丁度今が、グリーンピースの収穫期。
 あぜ道を辿り、家から400メートルほど離れた畑に向かう。 
 濃い緑のジャガイモ畑の中に、黄色になったグリンピースの畑ががあり、家族総出で収穫に勤しんでいる。見慣れない侵入者に、好奇の目が。ドライバーがシェル家の所在を尋ねる。100メートルほど先を指さす。3人の男女が見える。老婦人は見覚えのある顔。2年前にお会いしたシェルさんのお母さんだ。男はシェルさんと生き写しの顔。お父さんに間違いない。若い女性は、弟さんの奥さんか。
 ドライバーが3人に声をかける。私の来意を伝える。驚いた様子で、お父さんが近づいてくる。
 言葉が通じない。ドライバーが通訳をしてくれ、やっと、「シェルさんが事故で亡くなったことを知り訪ねてきたこと」、「シェルさんと今回のジープトレッキングを約束していたこと」を伝える。そして、用意してきた写真を数枚手渡す。2年前、スピティやゴンドラで撮したシェルさんの写真だ。マナリのシェルさん宅でシェルさんと奥さんを一緒に撮した写真も。
 お父さんの目が潤んできた。お母さんに手渡され、お母さんはそれを見るなり泣き崩れてしまった。悲しい出来事を呼び戻してしまったようだ。
 丁度、お昼でもあったが、3人は畑仕事を打ち上げ、私を家に寄るよう促し、あぜ道を戻る。好奇の目で見ていた人たちも、私の来意が伝わったのか、柔らかいまなざしに変わった。
 2年前と同じ2階の居間に通される。壁に貼られたカレンダーまで2年前と同じ。甥と姪が珍しい来客にはしゃいでいたのが昨日のよう。
 義妹さんがホットミルクとビスケットを運んでくださる。寂しそうなお父さんの顔に、話しかける言葉がない。ただご冥福を祈るのみ。それでも、「ゴンドラを通ることがあればまた是非寄ってほしい」という彼の言葉に救われる。
 玄関前で、写真を撮り、車に戻る。お父さんは車道まで見送ってこられ、手を握り再会を約す。
 今回の旅の目的がまた一つ達成できた。
 バララチャ・ラとロータン・パス間は3回目、ロータン・パスとマナリ間は5回目の道。 見慣れた風景も、来る度に少しずつ変化している。言うまでもなく人手によるもの。道路の舗装部分が延長され、河川の護岸工事や砂防工事も進捗している。民家も見違えるように立派になったものが目立つ。小綺麗なパンジャビー姿の女性が多くなり、生活がずいぶんと豊かになっているようだ。
 しかし、その一方で、折角の美しい風景が、無惨にも壊され、トレッカーの立場からは残念な思いをしなければならない場面に何度も出くわした。
 チャンドラ川の大きな淀みに出来た河跡湖、湖面に影を落とす氷河を抱く尖峰、岩山から大量の融水を落下する見事な滝、まるで絵はがきのような風景に感動したシッスは、河跡湖の周囲に造られた舗装道路と河床のヘリポートによって見るも無惨な姿に変わっていた。
 コックサルで最後のパスポート・チェック。一昨日、ナキー・ラで追い越したブロンドの女性と二人乗りの日本人バイカーに再会。
 道路沿いの茶店でランチボックスを開く。おきまりメニューのジャガイモ、トースト、ゆで卵、ビスケット、チョコレートにマンゴジュース。
 マナリ方面からラダックに向かうサイクリングの一団、多分アメリカ人、がやってきてチェック・ポストに入っていた。
 14時前、ロータン・パスに向かって出発。
 チャンドラ渓谷側斜面では牧草が増え、高山植物が減っている。道路工事による生態系への影響も大きいが、放牧によるものも無視できない。
 峠に着いて驚いた。まるで遊園地の有様。車と人で溢れかえっている。涼を求めてやってきた人たちでいっぱいだ。生活が豊かになれば当然起こってくる現象ではあるが、高山植物の群落はここでも痛めつけられている。
 峠から4、5分下ったところで、ドライバーが車を止めた。シェルさんが事故に遭った現場だと言う。急勾配のジグザグの道。ヘアピンカーブで圧雪にタイヤを取られ、勢いをつけて一気に上ろうと後退。それが仇になり、ギアがバックに入ったまま谷に転落していったという。一度、ジグザグの下の道でバウンドし、はるか下の直線距離で2、3百メートルはある谷底に落下した。昨年(2000年12月30日)の出来事。彼の車には、3人の乗客がいた。4人全員が死んだ。今も残る車の残骸。2年前、彼とジープトレッキングを楽しんだ車が。
 手を合わせ冥福を祈る。小石を拾いポケットに。
 皮肉にも、峠の上やチャンドラ渓谷側斜面と異なり、高山植物が色とりどりの花をつけている。シェルさんとブルーポピーを探していたときと同じように。
 彼が探し出してくれたブルーポピーは今年も咲いているだろうか。
 ここだったと思う場所に車を止め、1時間余り探し回るが見つけることはできなかった。 ドライバーは「花の季節が終わったのだろう。」と慰めてくれるが。
 17時前、マリの茶店集落に着いた。ここもまた見違えるほどあか抜けた集落になっている。考えてみれば、マリで休憩するのは4度目であるが、こんなに天気の良い、暖かいマリは初めてだ。
 茶店で休んでいる先ほどの日本人バイカーを見つけ、挨拶がてら、2年前、ロータン・パスで撮したブルーポピーの写真を進呈する。
 マリでドライバーの知り合いらしい、1歳の女の子を連れた母子孫の3人連れを同乗させ、マナリに。途中、2度ばかり写真ストップ。
 激しく崩落したベアス川沿いの道を走り、車から降り、さらに谷川沿いの細い道を登り、18時15分、森田さんの待つ「風来坊」に着く。森田さん、奥さん、そしてサンペルさんの出迎えを受ける。
 2階ベランダで、早速ビール。8日ぶりのアルコールは直ぐに酔いを誘う。おみやげに持参した40度の焼酎も栓を切られ、森田さんの興味深い話につい酒量が増す。
 夕食には、日本の「おつまみ」いろいろが並び、その上、みそ汁、野菜煮込みと日本の味いっぱい。チキンカレーまでも日本の味がする。
 食後、一人屋上に上がり、星空を眺める。どうやら雨季も終わりに近づいているらしい。今回は、土砂崩れの心配をしなくてよさそう。
 22時、就寝。
 
 
[8月26日(日)]
 晴れ。昨夜は熟睡。明るくなってやっと目が覚める。時計を見ると、7時前。今回の旅行では、はじめて、7時頃まで寝ていた。
 山並みもくっきり見える。一昨日までは、毎日雨が降っていたそうだが。
 屋上に出て写真を撮る。
 その後、部屋でメモの整理。8時30分、モーニングティを運んでくれる。
 8時50分〜9時30分、朝食。野菜入りのお粥にみそ汁、京漬け物、その上トマト、リンゴ、バナナ。奥さんはお腹の具合が悪いとか。心配。
 食後、再び、メモ等の整理。
 10時20分、マナリに出かける。
 巨大な礫で埋め尽くされたベアス川に沿う道を30分ほど歩くとマナリの市街地。市街地の背後、丘の上にあるヒディンバ寺院に向かう。ホテル街を抜け、11時30分、やっと木造のヒンドゥー教寺院に辿り着く。ヒマラヤ杉の大木が茂る境内は心地よい。派手な民族衣装を身につけた女性がウサギや手織のショールなどを売っている。ウサギはどうやら生贄用か。ヒンドゥーの神様の中には、血生臭い生贄を好まれる方がおられるので。
 ヒディンバ寺院は名前の通り、ヒディンバという、この地方の守護神でもある女神を祠ったもの。三重の方形屋根の上にさらに円錐形の屋根の載ったユニークな寺院。一階の部分、正面の壁や柱等にはびっしりと動物や神像の彫刻が施されている。三方は白壁。アイベックスの角が飾られている。1533年に建立されたと伝えられているが、円錐屋根はトタン葺き、少なくともこの部分は後代のもの。
 日曜日でもあって、家族連れの参拝客が多い。
 メリーゴーランドのある小さな遊園地の傍には、露店や茶店がある。崖っぷちの、床の抜けそうな茶店でチャイを注文し、休む。一杯5ルピー。
 帰路は自動車道を避け、寺院の右手をオールド・マナリの方向に下りる。釈迦牟尼像などが描かれた大岩の側を抜け、谷沿いの道を下る。谷間の河原は洗濯場兼もの干場。色とりどりのサリーや円形のスカートが広げられ、さながら花火の静止画像のよう。
 中心街の北はずれのネルー像まで戻り、STD・ISDの看板のある事務所に。行きがけにも寄ったが、外線はパンク状態で通じず。2時間以上たっても同じ。
 市街地を抜け、ペマ・ウーリン・ゴンパへ。本堂には大きな釈迦牟尼像、2階に上がるとラマ僧が一人、供物用のトルマ(バターと大麦の粉を練って、仏塔などを造り、艶やかに着色したもの)を造っていた。あまりに見事な手仕事に見とれてしまう。写真を撮らしてもらう。
 入り口の建物のベンチに数人の初老の男。その中の一人、見覚えのある顔。確か、サンペルさんのお父さん。
 ゴンパを出て、ISDの看板のある小さな店により、3度目の挑戦。あっけなく母さんの携帯に通じる。135.56ルピー。
 ネルー像の近くで、車に牛を載せたサドゥが、大声で何か叫んでいる。人だかりが、見る見る膨らんでいく。神聖なるその牛は、5本足。珍しさよりも、ヒンドゥーの人たちにとっては、あくまで聖なるもの。小銭を供える人、牛に草を与える人、みんな神妙な顔つき。
 通りのレストランで、レモンティを一杯飲み(5Rs)、オート・リキシャでヴァシシトの風来坊に戻る。17時を少しまわっていた。
 18時前、ベランダで森田さんとビール2本。木造寺院、御輿、御柱等々、興味深い話。
 19時、夕食、マトン入りのうどん、野菜煮込み、カリー等。少々飲み過ぎ。
 シャワー浴び、ベッドに。夜中に全身痒み。どこからか南京虫でも運んでしまったか。虫除けスプレーを吹きつけ、オイラックスを塗りたくる。
 
 
[8月27日(月)]
 夜中に雨の音。6時前、部屋の窓から覗くと、曇天。
 7時10分、起床。青空に変わり、海抜6020mのムカル峰がくっきり。10日ぶりにすっかり伸びた無精髭を剃り落とす。
 屋上に上がり、山並みの写真を撮る。
 7時40分、モーニングティ。8時過ぎ、朝食。お粥がおいしい。
 森田さん、サンペルさんに頼み、車をチャーター。今日は、ナガルに出かけることにする。チャーター料600ルピー。
 10時25分、ドライバーのソハンさんが迎えに来る。2年間、小学校の先生をしていたそうだ。「給料が安いので辞めて、ドライバーをしている。」と笑う。
 ビアス川の左岸沿いに、寺院や建物など見ながらナガルまで走る。
 マナリの対岸には中・高級ホテルが並んでいるが、その一角で昨日の5本足の牛を載せたサドゥの車を見かけた。斜面はほとんどリンゴ畑。丁度、収穫期。道路沿いには選果小屋があり、リンゴ箱(木箱)を積み上げた直販店も点在する。
 ジャガツク(Jagatsukh)の町中にあるサンドヤー・ガーヤトリー寺院に寄る。神谷武夫氏の分類によると合掌型と呼ばれるタイプの寺院である。木組みに石をはめ込んだ壁、正面は切り妻、裏面は入母屋の屋根。20本の柱に支えられた軒下は回廊になっている。柱は彫刻で飾られており、建物の中のご神体は、また、彫刻で飾られた合掌造りの建物の中に納められている。正面右手に森田さんの話されていた御柱が2本立てられている。背後の石段の上には石造りの小さな寺院。日本の神社の本殿を思わせる造り。
 寺院に隣接して小学校があり、賑やかな子どもの声が境内に響いていた。
 同じような合掌型のドチャモチャ・デヴィー寺院はガザン(Gajan)の通りから、山手にリンゴ畑の中、野生の大麻が茂る狭い道を登っていくとあった。登り口の民家、水車小屋もおもしろい。寺院は、まだ新しく、3,4年前に立て替えられたばかりという。ここにも朽ち果てたものを含め4本の御柱が立てられていた。建物は入母屋造り、やはり軒下は回廊。小さな建物で、村の鎮守と言った趣。
 ハリプル(Haripur)からリンゴ畑の中を抜け、山道を少し登ると、9世紀頃に建てられたという塔状の石造寺院、ガウリー・シャンカラ寺院に至る。正面に向かって二匹の狛犬(狛山羊?)が鎮座し、内部にはご神体のリンガが安置されている。ホラ貝が置かれていたが、ホラ貝やアンモナイトの化石はシバ神のターバンを象徴するものとして崇められている。ソハンさんが寺院の石積みの間を指さし何か言っている。見ると派手な色をした蛇がいる。彼らにとっては神聖なものかも知れないが私は苦手。一瞬たじろぐ。
 木陰でサドゥが3人、村人に何やら説法をしている。木立に囲まれた小さな空間が神域。鉄柵に囲まれた境内だけが石畳になっている。
 この辺りの民家は合掌型の寺院の造りと同じで、木組みに石をはめ込んで壁を造り、屋根は入母屋、2階もしくは3階部分は軒下部分をベランダの回廊にしている。一階は牛小屋として利用されており、ベランダの下には干し藁などが積まれている。
 あらかじめわかっていたが、ナガルのニコライ・レーリッヒ記念館は月曜休館のため入れず、記念館入り口まで行って引き返した。記念館は丘の上にあり、ナガルの集落、ビアス川の谷が一望できる。まだ建設途上のレストランでチャイを飲む。一杯僅か3Rs。
 マナリのヒディンバ寺院と同じ、木造のトリプラスンダリー寺院は王宮に近い小さな谷間にあった。周囲を石垣に囲まれた石畳の中に、三重の塔のような造りの寺院。方形二層の屋根の上に、円錐形の屋根が載っている。板葺きの屋根は風雨にさらされると、当然痛みが早い。30年に一度建て替えられるという。今の寺院は1990年に建て替えられたもの。この寺院の裏にも小学校があり、拝観中に、休み時間になり、子供たちが境内にどっと流れ込んできた。
 ナガルの王宮は、現在「ナガル・キャッスル・ホテル」として利用されているが、10Rs払えば入ることができる。宿泊料は500〜600Rsとのこと。
 造りは、この付近の民家と同じ、木と石を組み合わせたもの。屋根は入母屋と切り妻。二階のベランダとベランダの下を回廊として利用。王宮の中に小さな合掌型寺院(ジャティパット寺院)や博物館もある。
 王宮の直ぐ裏に、民家に囲まれ、ガウリー・シャンカラ寺院とよく似た石造りの寺院がある。木製の屋根を載せたジャガンナッサ寺院という。
 ビアス川の谷の斜面はほとんどリンゴ畑とトウモロコシ畑。しかし、谷底に近い平坦面には水田も拓かれている。ソハンさんの話によれば、この水田では赤米が栽培されているとのこと。御柱といい、赤米といい、日本との関わりを思わせるものが多い。
 14時過ぎ、マナリの市街地で降ろしてもらう。通りに面したレストランで昼食。チョウメン(50Rs)、紅茶(8Rs)、ペプシ(20Rs)。
 クル・ショール、皮製バックなどの土産を買い、オート・リキシャで風来坊に。
 雨がパラパラするがたいしたことなく、すぐ止む。
 部屋で一休みし、風来坊の上手になる温泉地「ヴァシシト村」に出かける。安宿と土産物屋の並ぶ坂道を上ると小さな広場があり、広場に面し、石段を上ったところに建つ、ラグナータ寺院はジャガンナッサ寺院と同じような石造りに木製屋根。石段に男女二人連れの日本人が座って何やら言い合いをしている。
 石造りの寺院の下には合掌型の寺院があり、御柱もある。こちらは境内に座り込んだ人でいっぱい。
 薄く削った竹に細かく描き細工した絵やキンノール帽など買い込み、18時前には戻る。 森田さんとのベランダでの一杯はビールとヒマラヤの焼酎「ロキシ」。
 酔いが回るのも早い。
 夕食は、完全日本食に。冷や奴にみそ汁、ニジマスの包み焼き、焼きナスに青ジソの入ったサラダ。
 アルコールのせいだけでなく、すっかり口が軽くなり、森田さん、そして奥さんとの会話が弾む。
 22時、シャワーを浴び、ベッドへ。月は出ているが、雲が多い。
 
 
[8月28日(火)]
 夜中に雨音。4時起床。森田さん、カップヌードルとコーヒーを。
 4時30分、モーニングティ。
 5時、奥さんの見送りを受け、懐中電灯の灯りで自動車道まで下る。森田さん、サンペルさんに再会を約し、別れを告げ、車に。ドライバーは2年前、チャンディガルとマナリを往復したときと同じ人。
 6時、クルで給油。ガソリン42リットル。
 6時25分、空港の側を抜ける。
 2年前、土砂崩れで何時間も立ち往生した現場も今回は無事通過。
 6時50分、ジャロリ峠への分岐点、橋畔集落アウト(Aut)
 6時55分、大岩がせり出し、落石が頻繁に起きていた危険箇所。トンネルが完成していた。
 7時05分、滝
 7時10分、ヒンドゥー教寺院(アナギマタ)。ドライバー参拝。
 7時30分、バンドォ(Pandoh)。ダムの堰堤渡る。ポリスが居り、撮影禁止。放流中。
ドライバー、道ばたの店で、レモンを買いかじっている。嘔吐しているらしく、何度も車を止める。最初は下痢かと思い、正露丸を渡す。嘔吐と分かり、漢方胃腸薬を飲ます。
 7時45分、4年前に昼食をとったグリーン・ビュウ・レストハウス前通過
 8時、マンディ(海抜750m)の市街地を抜ける。
 8時20分、4年前、ランプル(Rampur)から山道を越えて出てきたNer Chowkの三叉路。水田に水牛。 
 8時30分、サンダーナガル(Sundernagar)海抜1175m。自動車修理屋、雑多な商店街、運河、ダム湖。撮影禁止。
 8時55分、のり面崩落地域。道路脇に猿の群。眼下に大きなセメント工場。
 9時05分、発電所。サトレジ川を渡る。
       トラック・ターミナル?
 9時35分、ビラスプル(Bilaspur)海抜673m。
 10時、バークラ・ナンガルダム湖に沿う道。はるか下にダム湖。路肩やのり面の崩落が頻発する地帯。2年前には広範囲に渡り崩れ、仮設橋や通行止めなどで大渋滞。
 10時20分、ダム湖に注ぐ、小さな谷沿いの茶店で休憩。チャイを飲む。
 11時、スワルガート(Swarghat)の三叉路。掘っ建て小屋の茶店や果物屋などが並んでいる。
 11時15分、眼下に大平原。気温上昇。うとうと。
 12時、ナラガー(Nalagarh)。
 12時10分〜45分、ホテル・アンナプルナのレストラン(3回目)で昼食。ダル、トマトスープ、バター・ナン、ブラックティを注文。
 チャンディガルに近づくに連れ、川原などに蒲鉾型の粗末な家が。
 13時10分、ピンジョール(Pinjore)の踏切を渡る。シムラに向かう鉄道。
 13時30分、チャンディガルのアーミー・エリアを抜ける。市街地を避け、脇道を抜ける。
 13時52分、バーワラ(Barwala)。サトウキビ畑と水田。
 14時25分、トラックが横転している。デリーまで200qの標識。
 15時09分、デリーまで160qの標識。はじめて信号機。アジアハイウェー1号線に入る。ハイウェーとはいえ、歩行者も、家畜も、トラクターも。聖なる牛は悠々と横断。
 15時25分〜45分、ドライブインで休憩。チャイ5Rs。本、米、寝具、薬なども売っている。
 15時50分、クンジャプラ(Kunjapra)。蜂蜜を売りが道ばたに。
 16時23分、パニパト(Panipat)。大きな町。
 17時、デリーまで46qの標識。モロコシ畑。荒れ地目立つ。工業団地の造成中?
 17時18分、デリーに入るために、25Rsの通行税。中央分離帯にヘルメット屋。排気ガスと排泄物の臭いが混ざった悪臭。渋滞。
 18時15分、インペリアル・ホテルに着く。高級。
 170号室。
 まずシャワー。白いズボン、シャツは土埃で真っ黒。当然、頭を洗えば黒い汁。
 残り物のリンゴ、お粥等で腹ごしらえ。
 20時、外出。ジャンパス(Janpath)通りの土産物屋は閉店中。衣類ばかり扱う露店市でT−シャツ等購入。
 21時、早々就寝。
 
 
[8月29日(水)]
 晴れ。窓の外側で工事中。カーテンさえ開けられず。鳥の声で夜明けを知る。
 7時15分、起床。
 8時20分〜9時05分、1階のレストラン「1911」で朝食。ブッフェでハム、チーズ、パン、果物、ジュース、紅茶等。山の中から出てきた私にはあまりにも場違いのレストラン。
 10時、外出。
 コンノートプレイスをのんびり歩くのは89年以来。本屋を覗いたり、土産物を物色したりしながら。
 オールドデリーに向かおうと、地図を広げていると、タクシーやオートリキシャが何台も近寄ってくる。こちらは歩いて行くつもり。断るのも面倒なくらい。
 環状道路を歩いていると、いつの間にか方向がわからなくなってしまう。通りの名前を地図で確認していても、迷ってしまう。学生風の男に途中まで道案内を頼む。
 ニューデリー駅前近くまで来て、リキシャに乗る。オールドデリーの雑踏は、リキシャが正解。とても荷物を持って、写真を撮りながら歩ける場所ではない。牛はいなくなったが初めて訪れた30年前と同様、リキシャ、馬車、オートリキシャ全て健在。車の数は当然何倍も増えている。しかし、道幅は変わっていない。歩行者がひしめき合っているところに、これらの乗り物が入り込むのだから、もう身動きさえ出来ない状態。にもかかわらず、私の乗ったリキシャは隙間を見つけ進んでいく。ジャミー・モスクまで35Rsは安い。スリにも置き引きにもしつこい靴磨き小僧にも会わず。
 モスクでは丁度、礼拝の時間で、異教徒は中に入れず。
 モスクを半周し、レッドフォート前に出る。
 リキシャで通学する子ども、屋台の物売り、路地の暮らし、派手でけばけばしい看板等々、写真の被写体には事欠かない。
 レッドフォート前でフイルムを1本買う。カメラ屋とはいえ、ズーム付きの日本製一眼レフは高嶺の花。しばらくいじり回される。
 インド製の時計を買えとしきりに勧める。熱意に負け買う。1000円足らずの時計(半年後、正常に、しかも誤差もほとんどなく動いている)。
 オートリキシャでコンノートプレイスまで戻る。50Rs。
 「Volga」で昼食。マトンシシカバブーとビールを注文。昨日から探し求めていたビール。旨い。
 ジャンパス通りに面した公園の地下、パリカ・バザールを巡り、土産物屋街を覗き、17時半、ホテルに戻る。毎年、インドに来ておりながらも、デリーはいつも夜着いて、朝出発の中継地。丸一日、ゆっくりと滞在したのは13年振り。
 シャワーで汗を流し、荷物の整理。
 ナヴィさんより電話があり、19時30分〜20時の間に迎えに行くとのこと。
 19時半、ポーターが荷物を取りに来る。
 空港まで渋滞もなく、20時15分着。
 ナヴィさんは空港内に入る許可書を取得していないため、空港内は別人が担当。
 20時50分、出国手続き。国際線待合室で待つこと2時間、紅茶一杯で時間を潰す。2年前の薄暗い待合室は、化粧直しで少し明るくなった。22時頃から人が増え、ガラガラの待合室がいっぱいに。
 23時前、「バンコク行きの乗客はセキュリティ・チェックを」のアナウンス。
 ボディチェックもありの厳重な関門を抜け、10番ゲートへ。
 ここで葉書の投函忘れに気づき、案内係の女性に頼む。
 23時25分、タイ航空、TG316便の搭乗開始。ボーイング777-200型。
 
 
[8月30日(木)]
 24時15分、離陸。隣席の女性、手にした数珠を片時も離さず。
 離陸してまもなく、飲み物サービス。まずはシンガービール。
 1時20分〜45分、機内食。チキン、インゲン、人参、野菜サラダ、赤ワイン、コーヒー。ビールとワインで心地よい眠りに。
 3時46分、タイ時間5時16分、バンコク着陸。
 2時間余りの待ち時間。
 TG774便、関空軽油ロサンゼルス行きは5番ゲートより、空港バスで移動。国内線のまだ先に駐機されたボーイング747-200型ジャンボ。
 64-A席。7時35分発は10分遅れで動き始める。
 バンコク国際空港は拡張中。シンガポールと東南アジアのハブ空港を争っている様子。 離陸数分で雲の中。
 トマトジュースのサービス。
 機内食は日本食(鮭、椎茸と鶏肉の煮込み、ご飯)に。ただし、果物はトロピカル。
 食後はただひたすら眠る。時々、激しい振動に目が覚めるが、直ぐに睡魔が襲う。
 いつの間にか膝の上にイエロー用紙。
 11時35分、洗面。
 青い海。12時24分、モニターに関空まで300qの文字。
 12時52分、日本時間14時52分、関空着。
 はるか38号16時18分、のぞみ19号17時28分と乗り継ぎ18時10分、帰岡。