スリランカ再訪
2009年4月1日〜11日
旅 程
4月 1日(水) |
岡山駅前4:25〜両備高速バス〜7:50関空10:10〜CX503〜13:05香港(乗り換え)16:15〜CX711〜19:48シンガポール・チャンギ空港(乗継)21:30〜22:50バンダーラナーヤカ国際空港〜車〜23:45ニゴンボ
パラダイス・ホリデー・イン・ホテル泊 |
4月 2日(木) |
ニゴンボ8:30〜80km〜10:30クルネガラ(郵便局)〜20km〜11:10ワンヤポラ(両替)〜15km〜12:00A28沿いホテル(昼食)〜20km〜14:00ヤーパフワ〜45km〜15:20タンブテッガ〜20km〜16:00アヌラーダプラ(タンテリマレの寺に)〜
17:00ホテルにチェックイン
ホテル・ランディア泊 |
4月 3日(金) |
アヌラーダプラ8:30 〜40km〜10:30リティガラ12:05〜15km〜12:30ハバラナ(給油、昼食)13:35〜90km〜16:30キャンディ〜50km〜19:00ヌワラエリヤ
アルペン・ホテル泊 |
4月 4日(土) |
ヌワラエリヤ9:00〜45km〜12:00ハットン〜20km〜13:00ナラタニア(ホテル・チェックイン、昼食) 14:30〜21:35スリー・パーダ登山・参拝
ワトサラ・イン泊 |
4月 5日(日) |
ナラタニア9:00〜65km〜12:00ヌワラエリヤ〜50km〜13:40バンダラウエラ(昼食)15:00〜10km〜エッラ〜30km〜16:50ウェッラウエイ(給油)〜60km〜18:00ティッサマハーラーマ(ティッサマハーラーマヤ寺院参拝)〜19:00ホテル
ホテル・チャントリカ泊 |
4月 6日(月) |
ティッサマハーラーマ9:20〜20km〜10:00カタラガマ〜5km〜セッラ・カタラガマ13:00〜60km〜14:40ハンバントタ(昼食)15:15〜30km〜16:00温泉17:00〜60km〜18:30タンガッラ(休憩)19:00〜40km〜20:00マータラ(ポルヘナ・ビーチ)
サニー・ランカ・ゲストハウス泊 |
4月 7日(火) |
マータラ(ポルヘナ・ビーチ)8:30〜25km〜9:30ディツクウエラ(ウェウルカンナラヴィハーラ、潮吹き岩)11:20〜15km〜12:10デウンダラ岬(ヒンドゥー教寺院、灯台)13:20〜5km〜13:30マータラ(ウェヘラヘナ寺院、小島の寺院)14:20〜5km〜14:50 マータラ(ポルヘナ・ビーチ)
ポルヘナ・ビーチで海水浴(15:30〜18:00)
サニー・ランカ・ゲストハウス泊 |
4月 8日(水) |
マータラ(ポルヘナ・ビーチ)9:10〜30km〜10:00ハバラドウワ(船でマドドゥワ島に)10:40〜15km〜11:10ゴール12:40〜20km〜13:30ヒッカドゥワ(昼食)14:20〜15km〜14:50アンバラゴダ(仮面博物館)15:10〜30km海亀保護施設等に寄る〜16:30ベントタ(Tと再会)17:25〜20kmベールワラでラー〜18:30カルタラ(夕食後ゲストハウスに)
パーム・グローブ・ゲストハウス泊 |
4月 9日(木) |
カルタラ8:00〜カルタラボディヤ参拝(満月法要)〜45km〜10:00マハガマ〜10:20パイヤンガナ寺院(法顕滞在の寺)12:30〜30km〜14:00モラガラ〜10km〜14:30ホラワラ(昼食、ラー)16:00〜35km〜17:00カルタラ17:40〜30km〜18:30マウント・ラヴィニア
ホテル・マウント・ブリーズ泊 |
4月10日(金) |
マウント・ラヴィニア10:00〜10km〜コロンボ市内〜10km〜12:30ヌゲゴダ13:20〜5km〜13:40スリジャヤワルダナプラコッテ16:00〜40km〜17:30ニゴンボ20:30〜15km〜21:00バンダーラナーヤカ国際空港 |
4月11日(土) |
バンダーラナーヤカ国際空港0:20〜CX710〜6:50シンガポール(乗継)8:30〜12:05香港(乗り換え)13:15〜CX564〜14:45台北(乗継)16:10〜19:24関空20:30〜高速バス〜23:45岡山駅前 |
※スリランカ国内走行距離約1600km
3年ぶりのスリランカであった。
2006年4月、初めてのスリランカの旅で知り合ったガイド、サリーと、連絡がとれるようになり、再訪を決めた。
この間にスリランカ情勢は緊迫の度合いを高め、停戦の崩れた政府軍とLTTEの戦闘は激しさを増した。
今年に入り、政府軍はLTTEの武装勢力を、北部のムッライティーヴー付近に追いつめ、最終局面を迎えているという。
その一方で、2月には小型機二機によるコロンボ攻撃(二機とも政府軍によって撃墜されたが、巻き添えで2名の死者が出た)、アクレッサでの郵便・通信大臣を狙った自爆テロ(14名死亡、大臣を含む40名以上が重軽傷)があり、LTTEによる捨て身戦とも思われる事件も起こっている。
何より、戦闘に巻き込まれ逃げ場を失っている一般人(はっきりしないが数万人?)の安否が気にかかる。政府側はLTTEが「人間の盾」としていると言い、LTTEは政府軍が一般住民や施設に対し無差別攻撃をしていると言っているが。
シンハラ人とタミル人の対立の歴史は古く、両者による興亡の歴史は2000年に及ぶという。それだけに一朝一夕に解決するような単純なものでないことは想像がつく。
「スリランカに行く」と話せば、「大丈夫?」と必ず問われる。ネパールやインドに行くときも同様に問われる。答えはいつも同じ。「危険な場所には行かないから」と。
もちろん危険の範囲も広い。交通事故やスリ、盗難などはどこでも起こる。国内を旅行していても当然起こりうるようなことまで心配していたらどこにも行けなくなってしまう。
スリランカの場合、政府軍とLTTEの戦闘が行われている北部には行きたくても行けないし、チェックが厳しく、行動が制限されている。テロが発生している場所はこれまた限られている。LTTEのターゲットは政府、軍の要人。イラクやパキスタンなどのテロとは少し異なる。注意しておれば、まず、巻き込まれることはない。日本で交通事故に遭う確率より格段に低い。
情報網が張り巡らされた現在では、67億分の一の出来事が、瞬時に世界を駆け巡り、まるで身近な出来事のごとく耳に入ってくる。それに一喜一憂し生活している。自分が巻き込まれる確率が数億分の一であっても。
今回は、インターネットで格安の航空券を探し、代金はカード払いした。e−チケットをプリントアウトし、空港で搭乗券を発行して貰うだけという簡略な方法をとった。海外旅行もPCだけでOKの時代。一昔前には考えられなかったこと。
関空からスリランカに行く方法は、直行便はないが、いくつかある。タイ航空を利用し、バンコクで乗り換える方法やシンガポール航空を利用し、シンガポールで乗り換える方法が一般的であるが、一番安く、便利なのがキャセイパシフィック。香港で乗り換え、シンガポール経由でコロンボまで。往復92,764円。4月から燃料サーチャージが安くなったこともあり、航空運賃は一頃に比べ割安に。
直行便と違い、乗り換え、乗り継ぎに時間がかかることが難点。
関空を4月1日午前10時05分に発ち、コロンボに着いたのが午後10時40分(日本時間2日午前1時10分)。15時間05分かかったことになる。そのうち1/3は香港、シンガポールでの待ち時間だ。関空での待ち時間を加えれば、往復の飛行時間になりそうだ。
Sとはバンダーラナーヤカ(コロンボ)国際空港で待ち合わせをしていた。空港内の銀行で両替をし、表に出ると、直ぐに駆け寄ってきた。「お久しぶりです」と。一時、スキンヘッドにしていた頭はロングヘアーに変わっており、体型も、肉がつき、まるでレスラーのよう。顎髭をたくわえ、ぎょろりとした目。風貌は厳ついが、誠実で心優しい好青年。実業家であった父と女優であった母と共に、少年時代、来日。北海道から九州まで旅行した経験を持ち、その後も何度か来日、流ちょうな日本語を話す。奥さんも日本留学をしており、訛りのない日本語を話す。弟は日本人と結婚し、在日中。
今回は、ドライバーとしてSの友人、Jが一緒だった。29才、5才の女の子がいるそうだ。小柄だが、ロングヘアーに顎髭、風貌はSとそっくり。
300万円したというカローラの中古車が旅の足。高額な関税を課すスリランカでは車は高嶺の花。しかし、にもかかわらず、自家用車を持つ者も少なくない。大卒の給料が2、3万では買えないが、海外への出稼ぎ人口の多い、この国ならの光景。ガソリンは1リットルが約120ルピー。日本とほとんど変わらないが。
深夜、ニゴンボのホテルにチェックイン。
ニゴンボはコロンボの北35km余り、国際空港に近いため、深夜に発着する便を利用する観光客は大方ここで宿を取る。
延々と続く砂浜。ココヤシの林。その背後にはリゾート・ホテルが並ぶ。
翌朝、浜に出た。7時前。すでに、水着のリゾート客、ウォーキングやランニングをする人(見るからに富裕層)、バイクを乗り入れる若者などビーチの営みが始まっていた。 小さな入江は、沖からつぎつぎ帰ってくる漁船とそれを迎える人でざわめいていた。船が戻ると十人余りの男が駆け寄り、一斉に船を浜に押し上げる。それから獲物を運び出す。浜は、まるでセリ場。
ニゴンボでは、道路脇にマリア像や十字架のキリスト像を多く見かける。スリランカの宗教人口は仏教徒76.7%、イスラム教徒8.5%、ヒンドゥー教徒7.9%、キリスト教徒6.8%の順で、クリスチャンは多くない。しかし、海岸沿いの集落やエステートにあるタミル人の集落では必ず教会がある。ニゴンボは特に目立つ。
インドと同様、スリランカにも職業と強く結びついたカーストがある。仏教徒のシンハラ社会にも存在している。殺生を嫌う仏教世界で、漁業に従事する漁民は、下位のカーストに位置づけられ、それを嫌いキリスト教に改宗したという。ヒンドゥー世界でも下位カーストからのキリスト教や仏教への改宗があるが、仏教世界にも同様のことが。
コロンボやゴールなど古くから港町として栄えたところではイスラム教徒も多い。商人にはイスラム教徒が多いという。ポルトガルやオランダが進出する前から活躍していたアラビア商人やマレー人はインド洋交易を生業にしていた。彼らの子孫がムーア人だ。ムーア人の中にはシンハラやタミルからの改宗者も含まれている。
改宗の理由はカーストの問題だけでなく、異教徒との接触や布教活動によるところも当然ある。敬虔な仏教徒であるSから改宗の問題を聞くことはできなかったが。
8時半にニゴンボを発ち、アヌラーダプラに向かって走る。3年前、ヌワラ・エリヤの郵便局で知り合ったLさんに会えればと。
彼からは何度か手紙やメールをもらっていた。手紙の中で、出身地のトリンコマリーのことや元校長のお父さんのことは伺っていたが、昨年夏、ヌワラ・エリヤからトリンコマリーに近いムトゥールの郵便局に転勤になったと連絡があった。その後、今年になって、再び、ムトゥールから10kmほど南のトップールに転勤したと。
「トリンコマリーは美しい所です。是非来てください」、「機会があれば行きたい」と手紙のやりとりをしていたこともあり、今回の旅の目的の一つになった。
日本を出発する前、メールで連絡を取りあってはいたが、外務省海外安全ホームページによるとトリンコマリーを含む東部州には渡航情報(危険情報)「渡航の是非を検討してください。」の発出中。治安はよくなっているらしいが、軍と警察によるチェックはかなり厳しいという。
Lさんの携帯は、奥さんが持っており、奥さんはシンハラ語も英語も解さないため電話をしても、こちらの事情は通じない。クルネガラの郵便局で、トップール郵便局の電話番号を聞く。「ムトゥール郵便局は分かったが、トップールは分からない」とS。ムトゥールに電話し、トップールの電話番号を教えて貰い、やっと繋がった。
スリランカに来ていることと、会いたい旨告げ、あとはSに。しばらく話していたが、結論は、万が一を考え、トリンコマリー行は中止。Lさんも選挙運動の真っ最中でしばらく動けず、再会はお流れ。
手土産は、後日、ヌワラエリヤの郵便局から小包で送った。
小包も大変で、中身を局員が、すべて確認した上で、梱包しなければならない。その手間だけで小一時間かかる。テロを警戒する事情を考えればやむを得ぬが。
昼食に立ち寄ったA28沿いのホテルでは結婚披露宴の最中、案内された二階のベランダでは新郎が記念撮影をしていた。シンハラの古い衣装が珍しく、写真を撮らせて貰う。
三期作が行われているスリランカでは、稲刈りと田植えが同時に行われている。ホテルの裏には水田が広がり、稲穂が垂れていた。隣の白鷺の群れが輪舞するのは田植え前の水田。水田の風景はなぜか心を和ませる。共通する米文化が成せるものか。
ダラダガマで、右折し、数キロ走ると右手に大きな岩山が現れる。シーギリア・ロックに似た岩山がヤーパフワの遺跡。山頂に1272〜84年の12年間、シンハラ王朝の要塞兼王宮が置かれていた。
岩山の麓、じりじり照りつける日差しの中、人気なし。チケットオフィスでSが声をかけると隣の建物から男が現れた。隣の建物は考古学博物館。人気はないが、赤土の広場も周辺の緑も手入れが行き届いている。
仏歯寺跡までの急な石段とガードストーン、石柱と門の一部が残っている。ガードストーンの浮き彫りや装飾がこの遺跡の目玉。特に狛犬のようなライオン像は有名で、10Rs紙幣にも描かれている。
例え遺跡であろうとも寺院の境内は裸足が建前。石段の手前で靴を脱ぐ。気温32℃。日が当たる石段は熱く、火傷をしかねない。なるべく影になったところを選び、そろそろと登る。テラス状に開けた寺跡には赤い煉瓦の礎石が残るのみ。背後の岩山に登るには、さらに1時間、険しい道を進まなければならない。急峻な岩肌を眺めただけで、怖じ気づき、早々に諦める。見晴らしはともかく、山頂に残るのは「小さな建物の跡らしい穴と朽ちかけた仏塔」だけというガイドブックの言葉も理由に。
眼下に広がる緑のジャングル、原野はテラスからも十分堪能できる。
A28に戻り、北上。タムブッテガ15:20。道路沿いの小屋がけや屋台には殻付きのピーナッツや乾燥させた唐辛子を並べている。タンビリで喉の渇きを癒す。タンビリは未熟なココヤシの実と同様、果汁を飲む。ココヤシより一回り小さく、黄色な実。切り口にストローをさし込んで渡してくれる。飲み終わると、二つ割り、表皮で簡易スプーンを作り、中のゼリー状の胚乳を食べる。さっぱりとした甘さ。スリランカでは果汁を飲むのはもっぱらタンビリ。
16:00前にアヌラーダプラに着く。ホテルに行く前に、先ほど見かけたポスターの寺へ。Sもはじめて訪れる寺。寺に向かう三叉路で、武装した兵士が検問を行っている。戦闘の続く、北部地域への玄関口。厳重なチェックもやむを得ぬ。
目的の寺は、アヌラーダプラから少し離れた道路沿いにあつた。寺の名前を聞くと「タンテリマレの古い寺跡」と。古寺跡に再建された寺は、地名に「古い寺跡」を意味する言葉をつけて呼んでいるとのこと。
境内にペンキで着色されたコンクリート製の托鉢僧像が延々と並んでいる。470体あるという像の一体一体が微妙に異なり、表情も面白い。まだ百体以上が無着色で、最後尾の方では新たな像造りも行われている。着色している男の側に看板があり、2000Rsの寄進で一体の着色ができると書かれていた。強い日差しと風雨にさらされ、四五年もすればペンキがはがれ落ちるだろう。その時はまた寄進を募って着色を繰り返す。それが功徳。
ここでも境内に入るときには履き物を脱ぐ。ヒンヤリとした土の上はよいが、コンクリートや石畳の上は熱く、小石があれば痛い。ガラスの破片や金属片などあれば怪我をする。
日頃から裸足に慣れている地元の人は足の裏が靴底のようになり、気にかける様子もない。一人、ヨチヨチ、ヨタヨタ歩いている。スリランカで寺院や遺跡巡りをするときは素足にサンダル履きを勧める。靴はいちいち脱ぐのに時間がかかり、その上、汚れた足で、ドロドロになる。
チェックインした新市街地はずれのホテルは3年前に昼食をとったホテル。まだ早い。
パサワックラマ・ウェワの湖畔まで車を走らせ、夕景を楽しむ。遠浅の湖岸は芦原に。シギやサギ、カイツブリなど水鳥が戯れ、傾いた陽が湖面を染める。静かな一時。湖岸の道は遺跡地区のメインストリート。道を挟んでルワンウエリ・サーヤの大塔が白く輝いている。よく見ると、55mもある塔の上に豆粒のような人影が。白ペンキで化粧直しをしている。のどかな光景も、土塀に囲まれた建物によって現実に戻らざるを得ない。建物の前には土嚢が積まれ、銃を構えた兵士が数人こちらの様子を見ている。
新市街地に戻り、リカーショップでアラック(椰子酒を蒸留したスリランカの酒)を一本(575Rs)仕入れる。
ホテルに戻るや早速、庭のテーブルを占拠。三人の宴会を。ライオンビールにアラック。すっかり盛り上がり、話が弾み、気がつけば10時。昼間は30℃を超えるが、日が沈むと涼しい。エアコンの入った部屋は冷えすぎに。
3日目は、レストランのテラスで一人朝食をとり、8:30、出発。
アヌラーダプラには灌漑用の大きなため池いくつもある。これらは3世紀にこの地を統治したシンハラ王朝の名君、マハーセーナ王が築造したものと言われ、アヌラーダプラ繁栄の礎となった。その一つが昨日夕景を楽しんだパサワックラマ・ウェワであり、その南のティッサ・ウェワだ。
ホテルを出て間もなく、右手に大きな堤があり、灌漑図を描いた看板が立てられていた。 ヌワラ・ウェワの文字も。満々と水を湛えた大きな貯水池。水辺に近づくと、慌てて深場に潜ろうと魚が水草の中でもがく。ペリカンが二羽、2,30mほど沖の水面に浮かんでいた。岸辺の大木にはシマリスが遊び、小型のキツツキが幹をつつく。しばらく彼らの仕草、動きを観察。今は自然に溶け込んだ巨大な貯水池。南西季節風の風下に位置し、降水量の少ない北部内陸に貴重な水を千数百年もの間供給してきた貯水池。それを造り上げた王の先見性には驚くばかり。
A13からA11に左折し、10キロ余り、「RITIGALA」の遺跡を示す看板に従って、未舗装の狭い道に入る。ブッシュの中の道は雨季になれば川に変わり、水に洗われるのか、あちこちに大きな石や窪地があり、倒木が道を塞ぐなど、車体の低い車で走るのは無謀。無謀を承知で突き進む。Jが運転し、Sが車の前を歩き、障害物を除ける。
インド半島と同様、ゴンドワナランドの一部をなすセイロン島は長い間の差別浸食により、平坦化された平野と取り残されたような岩山(残丘)が見られる。昨日訪れたヤーパフワもシーギリア・ロックやリティガラも広々とした浸食平野の中に取り残された岩山。スリランカの遺跡の多くが岩山にある。岩山の上に立てば360度はるか地平線の彼方まで見渡せ、岩肌には身を隠す窪みがいくらでもある。周りはジャングル。城砦を造るにも、修行の場にするのも最適の場。
リティガラはガイドブックによると900年余りジャングルに埋もれていた遺跡。アヌラーダプラと同じ時期の古い遺跡だが、詳細は不明とのこと。
悪路を走ること30分余り、人里離れた岩山の中に寺が。確か遺跡は石造りの基壇のみが広範囲に残っているはず。この寺院について書かれた本はない。寺からは読経が聞こえ、老若男女二十人ばかりの参拝客が集まっていた。聞けば、僧侶に食事の布施をするために来たそうだ。食材を持ち寄り、寺で料理し、提供する。人里離れた山奥から托鉢に出る僧に代わり、在家の者が寺を訪れ、布施をする。「出家者に対して供養などの功徳を積むことが求められる」のが上座部仏教。寺=僧侶と在家者の関係が、日常の暮らしに根を下ろしている。日本のお寺さんとは違う。
この寺の僧侶は6人。大岩の窪みを利用して造られた本殿や僧院は、歴史を感じる建物。大木が塞ぐ急坂を登ったところにはまだ新しい仏塔と奥の院が。お布施に来ていた村人の中に居た少年が二人ついてくる。デジカメで撮した写真を再生してみせると喜ぶ。
境内にいた犬が二匹、吠えかかる。飼い犬か野良犬か分からぬが、放し飼いされた犬がそこかしこにいる。しかし、吠えかかる犬はいない。初めてのこと。どうやら、手に持っていたストックのせい。棒を持った人間は敵だと思っているらしい。少年にストックを預けるとおとなしくなった。
ジャングルを切り開いた道を走っていると、蝶の大群や狐、猿にも出会う。ゾウも出没するという。ジャングルに囲まれた耕地はジャングルに潜む動物には格好の餌場。日本なら猪囲いだが、相手がゾウでは。田圃のあちこちに造られた「ターザン」の映画に出てくるような樹上家屋は見張小屋。
樹上家屋が珍しく、写真を撮っていると側でガサガサと物音。目の前ブッシュからクジャクが飛び立った。自然保護区に指定されているとはいえ車の中からでも野生を堪能できる。ただこの道、雨季には車の走行無理?
寺から遺跡入口まで20分ばかり。高木と岩に囲まれた駐車場にはツアー会社のマイクロが1台止まっていた。ドイツ人のグループ十数人が登っていると。
遺跡の入園は文化三角地帯の周遊券に含まれているそうだ。しかし、今回は三角地帯の遺跡巡りは計画になく、周遊券は買っていない。「『1000Rs払えば入園させる』と言っているけどどうしますか」とS。遺跡は広く、岩山の上まで登っていると今日中にキャンディーまで行くのも難しい。石造りの基壇が残っているだけらしいので入園は止め。
A11に出、ハバラナに。A6との交叉点近くで給油。リッター120.3Rs。
昼食をとったホテルACMAは3年前と同じ。広いレストランに、客は我々だけ。テーブルいっぱいに、次々とスリランカ料理が並ぶ。チキンカリーや野菜カリー、ダルカリー、サンボルなど14皿とライスが。甘いもの、辛いもの、酸っぱいもの、甘辛いもの、甘酸っぱいものいろいろ。欲しいものを欲しいだけ、ライスを入れた皿にとり、ライスに混ぜて食べる。
13:45、ヌワラエリヤに向かって出発。A6をダンブッラへ。ダンブッラでA9に入る。石窟寺院の手前で、「ここでバスが爆破されたんですよ」とS。昨年2月、独立記念日を控えた2日、一般バスを狙った爆弾攻撃があり乗客ら20名が死亡(翌日にはコロンボのフォート駅で自爆テロがあり11名が死亡している)する事件のことだ。直後には、あの木の枝に遺体がぶら下がっていたとも。A9は血に染まってきた国道だ。
A9沿いには史跡も多い。ダンブッラの石窟寺院は3年前訪れたが、寺院から20キロばかりキャンディーに向かって走ると、左手に8世紀に建立されたというヒンドゥー様式の仏教寺院ナーランダが、さらに10数キロ走ると右手に紀元前1世紀に建立されたというアルヴィハーラ寺院がある。口誦されてきた仏陀の教えをはじめて文字で記録した第4回仏典結集は、大乗仏教と上座部仏教では行われた場所に食い違いがあるが、上座部ではここアルヴィハーラで行われたとされる。寺にはその貝葉(椰子の葉でつくられた紙)の仏典が残されているとか。
寺院の前に車を止めたが、中には入らず、門前で写真のみ撮る。
マータレにかけてはスパイスガーデンが点在するが、ここも素通り。
マータレ〜キャンディー間の道路沿いでマンゴスチン売りを見かけ停車。10個で100Rs。最近、近所のスーパーでも輸入品が売られているが、1個200円以上する。それから比べれば1/20以下の値段。それでもSは「高い」と。確かに、ここでは贅沢品ではない。バナナ、パパイヤ、マンゴ、マンゴスチン、ランブータン…すべて庭先で実る。物価水準からすれば1個10Rsは確かに高い。
キャンディーに入ると、相変わらずの渋滞。16:30頃、ベーラーデニヤ植物園の前を抜ける。A5を南に。17:00、ガンポラを通過。雨が降り始める。3年前工事中だった道路は拡幅、舗装工事が完了し、快適な走行が。所要時間は半減。しかし、道沿いに点在した小屋がけの茶屋や果物屋、野菜の直売所などはほとんどなくなっていた。
見覚えのあるエステート(茶園)の看板近くに、カード会員用の休憩所ができていた。清潔なトイレはありがたい。カードを持つ、自家用車を持つ所得層を対象にしたサービスは、ある意味、格差社会の象徴的存在になるが。
本降りになり、薄暗くなった18:00時、以前、工場見学した、マクウッド社のラブーケリーティーセンターに着いた。閉店前、何とか滑り込んだ。先客は日本人夫婦。ガイドはSと元同僚。外気温は15℃まで下がり、冷えてきた身体に、熱い紅茶がうれしい。売店でオレンジペコとブロークンオレンジペコを5箱ずつ購入。店員は、シルバーチップとゴールデンチップを盛んに勧める。余りの高額な茶葉に驚くが、日本ではその5倍の価格になるという。
すっかり暗くなった道をヌワラエリヤに。右手に見覚えのあるレクリエーション・グランドが。タウンホールの手前を左折。Sの知り合いが経営しているというホテルに。経営者はヌワラエリヤのホテル協会の会長とか。
海抜2000m余り、涼しさを超え、肌寒い。長袖シャツの上にベストを羽織り、楽しみにしていたライオンビールの生が飲めるパブに。ホテルの前でスリーウィーラーを拾い、街中へ。パブは場所が変わり、ウィンザーホテルの先に移って営業していた。満席だったが、先客が帰り、何とか席を確保。ほとんどの客はライオンのストロングビールを飲んでいる。アルコール濃度が10%のビールだ。
ジョッキで運ばれてきた生で、「パブ再訪、乾杯」。
場所が変わり、雰囲気も少し変わった。前は、いかにも大衆酒場の雰囲気だったが。と言って、特別小綺麗になったわけでもないが。三人で、飲み、食って、1100Rs。日本の1/10ほどの値段。
出国以来の疲労と食の変化が原因か手足、顔に蕁麻疹発症。足の痒みはホテルに着く前にあったが。
翌朝、腫れぼったい顔に不快感。しかし、習慣になった朝の散歩。ホテルの周辺をゆっくり散策。
イギリスの植民地時代、避暑地として開発されたヌワラエリヤ。熱帯の国に居ることを忘れてしまうほど。朝霧のかかる谷筋を眺めながらホテル裏の斜面を登る。手入れの行き届いた庭には、色とりどりの花が咲き乱れている。畑にはネギ、大根、キャベツなど見慣れた野菜が。
雲の切れ目から柔らかい朝の日差しが山の斜面を照らし出す。整然と植えられた茶園、その淡い緑の新芽に溜まった露がきらきらと輝く。
野良犬(?)さえ居なければ、車の音や人の気配さえなければ、時を忘れ佇みたい。
ホテルのレストランで、一人、「コンチネンタルブレックファースト」を注文。ゆっくり本場の紅茶を味合う。
9時、ホテルを出る。植民地時代の姿を留める郵便局で、3年前ここで知り合った局員のLさんに土産を発送。国内に送る小包も一つ一つ厳重に中身をチェック。白桃とマスカットのジェリー菓子も包装をはがされ、こけしと共に無理矢理、小包用の段ボールに詰め込まれ、粘着テープで密閉される。
Lさんとは一緒に働いていたという局員のおかげで何とか無事手続き完了。
内戦状態を考えれば、中身まで厳重にチェックするのもやむを得ぬこと。しかし、小包一つ送るのも大変な作業。
ヌワラエリヤからA7をコロンボ方面に向かって走る。見覚えのある風景。ヌワラエリヤの鉄道玄関口、ナヌ・オヤ駅に立ち寄る。時刻表を確認したS、「しばらく列車はないです」と。ホームを覗いて、退散。
茶摘み風景に車を止め、セント・クレアーとデヴォンの滝でも車を止めた。デヴォンの滝の見えるエステート直営のティショップで一休み。
茶園に植えられた遠目、白樺の木肌のような母の木。名を聞くと、Jの答えは「グレヴィリア」。地元の人は「ターパンタイン」。ある本では「ガムプラス」。どれが正しいのか。標高が低く、霧の発生が乏しい地域では、木陰をつくる母の木の存在が大きくなる。
ハットンからA7を外れ、スリーパーダへの参拝道に入る。コロンボに流れるケラニ・ガンガの上流、二つの支流にそれぞれ造られたダム湖。まず右手に見えてきたのがCastlereagh貯水池、貯水池背後の急斜面にも茶園が広がる。やがて槍ケ岳のような山容をしたスリーパーダが現れる。銃を持った兵士に守られ、厳しい検問が行われているダムの堰堤にさしかかる。広い湖面はMaussakelle貯水池。ここまで来るとスリーパーダは目前。
登り口の集落、ナラタニヤに着いたのは午後1時。手頃なホテルを探す。満室だったり、部屋が汚いなどで、結局、少し引き返し、集落の外れ、道路沿いのホテルに。ガイドブックには「広場から離れているので開いていることが多いが、少し高め」と書かれていたが。正にその通り。
昼食はホテルのレストランで。崖っぷちに建っているホテル。フロントやレストランのある道路沿いのフロアーは三階。部屋は二階だった。
正面にスリーパーダの見える席で、チキンスープとトーストを。275Rsは高すぎる。SとJは、このホテルでの食事をこれっきりにした。
2時半、隣の店でビスケットとミネラルウォーターを仕入れ、いよいよスリーパーダ参拝登山。
参拝者の多くは、夜中に登り、山頂で日の出を待ち、夜が明けて下山する。暑さを避けるには最適とは思うが、人混みを避けるにはこの時間帯を外した方が賢明。
バスターミナルであり駐車場にもなっている広場から両側に土産物屋やレストハウスの並ぶ参道を奥に進むと突き当たりに大仏の建ったお堂がある。まずそのお堂で登頂祈願をする。手順はサリーの指示通りに。
お堂の側を流れる谷川では沐浴をしている人がいる。スリーパーダは標高2238m、山頂の岩に残る足跡をシンハラは仏陀の足跡とし、ヒンドゥー教徒はシバの足跡、キリスト教徒はアダムが地上に降りたときつけた足跡とし、それぞれ聖なる山として信仰を集めている。沐浴をしているのはヒンドゥー教徒のタミールか。
谷川に架かる石橋では警察官が荷物をチェックしている。「酒の持ち込みを調べているのです」とS。聖地での飲酒が禁じられているだけでなく、酔っぱらっての悪行が問題になっているらしい。
しばらくレストハウスや土産物、供え物を並べた小屋が並ぶ。境内に優しいお顔の真新しい仏陀座像が置かれた建物があり、吹き抜けの土間に座った参拝客にスリーパーダの縁起を話し、説法する僧が。我々もその傍らに座す。説法の内容は全く分からぬが、終わると、それぞれ御布施を渡し、右手首に黄色か白の紐を結んで貰う。御布施の金額で色が違うとか。
ヒンドゥーの神にも詣で、イスラム教徒のために用意された沐浴場(シャワー)の側を抜け、大きな涅槃像の前に。左右にはガネッシュ像などヒンドゥーの神が。ここが多民族国家スリランカを象徴する聖地であることを実感する。
「スリーパーダの門」を抜け、谷川に架かる橋を渡る。石段を日本山妙法寺の白い仏塔(ダーガバ)に向かう。碑や石塔に彫られた「南無妙法蓮華経」の文字。スリー・パーダの緑の山腹に一筋の滝が見える。
仏塔を一周し、妙法寺の本堂前で手を合わせる。
突き出した岩を屋根代わりにしたお堂の側を抜け、数軒のお供え物を並べた小屋やレストハウスの前を通る。Jがお供えセットを買った。線香に針と糸。怪訝そうな顔を見て、「すぐ解ります」と、S。
谷川を渡ると参道は急坂となり、延々と石段が続く。傍らに石に彫られた神像や仏陀像が参拝者を迎える。その一つに針のついた糸が捧げられ、見れば周囲の木の枝、参道沿いにも、白い糸が束になって伸びている。「お釈迦様がスリー・パーダにお登りになった際、ここで綻びた衣を繕われた」そうだ。
参道沿いには、レストハウスが点々とあるが、それらは無視し、ペットボトルの水と飴で喉を潤し、疲れを取りながら歩いた。昨年秋のヒマラヤ・ランタンのトレッキング以降も、毎朝、ウォーキングを続け、ある程度足には自信があったが、4800段の石段はさすがにこたえる。100段ほど登っては一呼吸、また100段ほど登っては一休みの繰り返し。足にまで広がった蕁麻疹が辛さに追い打ちをかける。なんとか日が暮れる前に山頂にたどり着きたいと一心に。ブッシュから聞こえるカエルの鳴き声に励まされながら。
雨季が近づき、午前中は晴れていても、午後になると雨が降る日が多くなったとか。今日も、少しおかしな空模様に。なんとか雨にはなっていないが。妙法寺の白い仏塔も流れる霧に、隠れたり、姿をあらわしたり。
老若男女、赤子を抱いた若い夫婦や老夫婦、大家族、いろいろなグループが思い思いに登っている。ほとんどがサンダルか裸足。聖地に詣でる喜びで溢れている。家族に支えられ登る老人。山頂まで何時間かかるだろうか。苦行もまた喜びに通じるのであろう。
足下に気を取られ一段一段登っている内、目の前に山頂の建物が迫ってきた。
雲がかかり、楽しみにしていた夕日を拝むことは出来なかったが何とか明るい内に登り切った。
山頂の聖地では写真、ビデオの撮影は禁止。折角の眺望も、我が目に焼き付けるのみ。内戦状態のスリランカでは軍の施設やテロの対象になりうる施設・場所の撮影は禁じられている。しかし、宗教施設の場合、建物の内部はともかく、外観や眺望を禁じている場所はなかった。建物の内部でもほとんどがOKだった。警察官の駐在所まで設けられた山頂はそれだけ重要な要衝ということか。
裸足になって、Sに言われるまま、参拝者の列の最後尾に並ぶ。Sに習い、金色に塗られた岩の上に御布施を置き、合掌する。岩の前に座す者、岩に額をつけ拝む者も多い。岩の奥に、仏足跡があるそうだが、のぞき見ることもできず。
時計の逆回りに進むとさらにもう一つ祭壇があり、ここにはヒンドゥー教の祭司が座っている。ここでも御布施を渡し、額に印を付けて貰う。
一周し終えると鐘を鳴らす。詣でた回数だけ鳴らすのだそうだ。Sは4回、Jは2回、私は1回鳴らし、再びここに詣でられることを祈る。
全てが終わった頃にはすっかり下界は闇に包まれ、周囲の山々の黒い影が、まだかすかに残る空の明るみの中に。
まるで要塞のような山頂のコンクリートの建物の中。壁にもたれ、土間に座り込んだ人が100人以上は居た。次々登ってくる人の多くは、ここで夜が明けるのを待つ。日の出を拝むために。熱帯とはいえ、二千メートルを超える山頂の冷え込みは想像以上。独立峰の山頂を吹く風は強く、そして冷たい。
6:30、下山に。急斜面に造られた石段は、登りより、下りの方がきつい。年末年始の休みに入った、それも週末。「今日は参拝者が多いです」とS。多くの参拝者は、日中の暑さを避け、夜登り、日の出を待って下ってくる。下るにつれ、登ってくる者の数がますます増えてくる。11月の満月から5月の満月までの半年が、参拝のシーズンとされ、麓から山頂まで百数十基の街灯が点く。しかし、街灯と街灯の間には薄暗いところも多く、暗闇の中から次々と人の群れが現れてくるような感覚に襲われた。
中には、ご詠歌のような歌を口ずさみながら登ってくる集団も。
9:30、何とか宿にたどり着いた。登り3時間半、下り3時間のスリーパーダ参拝登山だった。
翌5日(日)は6時前に起きた。疲れ過ぎと深夜にスリーパーダに出発する客の足音や話し声でほとんど眠れず、夜明けを待っていた。
窓からスリーパーダを眺めていたが、雲が多く、朝日に染まる姿は見られず。山頂で夜明かしした人たちもがっかりしただろう。
6時過ぎから小一時間、宿の近くを散策。「LAXPANA ESTET」の看板がでた茶園の中を歩く。朝のヒンヤリとした空気が疲れを癒してくれる。小鳥の鳴き声も心地よい。それにしても広大なエステート。見渡す限り、斜面は茶樹。
部屋に戻り、湯を沸かし、コーヒーを入れる。日頃は毎朝コーヒーの生活。茶所の旅に出ると、当然紅茶が中心になる。大抵茶所でコーヒーを注文すると、出てくるのはインスタントコーヒー。香り高い挽き立ての豆で入れたコーヒーを期待するのは無理。挽き立てではなくても、せめて抽出したコーヒーを、時には、飲みたいと、電気ポットを持ち歩く。 朝食はレストランでバター・トーストとライムジュース、フルーツ。SとJの姿が見えない。後で聞くと、「レストランは高いので外で食べてきた」と。
9時、ホテルを発つ。昨日来た道をヌワラエリヤまで引き返す。
ホテルから5分ほどのところに「モーヒニ・アルラ」と言う小さな滝がある。「モーヒニと言う女性のお化けが出るそうです」、「子どもが白装束のこのお化と出会うと、連れ去られ、殺されると言われています」。どこにでもあるお化け伝説ではある。
滝に近い道路脇の茶園で、茶摘みをする一団を見つけ車を止める。
「LAXPANA ESTET」に属する人たちだった。この付近一帯の茶園を所有するエステートで、1,500人余りの人が働いているそうだ。茶摘みの労働者はすべてタミル。シンハラのSはタミル語ができない。監督をしていた小柄な男がシンハラ語を解し、何とか話しが聞けた。摘み取った量で賃金が支払われるため、話しながらも指先は茶葉を器用に摘んでいる。新芽のまだ柔らかい葉を選びながら。シルバーステックやオレンジペコなど高級品には「一芯二葉」を摘むと聞かされていたが、ここでは開いた葉を摘んでいた。芯と葉、葉も二葉までと三葉では収穫量は幾何級数的に違う。当然、製品の価格に跳ね返る。
ダム湖沿いの道をハットンに向かって走る。スリーパーダともお別れだ。今まで気づかなかったが、スリーパーダの左手、緑の山の斜面に白線が2本。大きな滝だ。名を尋ねたが、「分からない」の返事。SとJも初めて気づいたと。
ハットンの街に入ると、十字架を先頭に行進している一団があり、渋滞。タミルにはキリスト教徒も多く、タミルの多い街にはヒンドゥー教の寺院とともに教会が必ずある。
セント・クレアーの滝が見える道沿いで、アボカドやマンゴの青い実を売っている。車を止め、サリーはマンゴを買ってきた。マンゴが熟す季節はもう少し先と聞いていたが。海岸近くから運んできたらしい。「どうぞ」と差し出されたが、遠慮した。実は、ウルシ科の植物であるマンゴには弱く、過去に手や顔がかぶれ、大変な目に遭ったことがある。 丁度12時、ヌワラエリヤに戻ってきた。A7からA5に入る。日曜日のためか年末の休暇に入ったためか、湖畔には家族連れが多い。ボート遊びに興ずる者や乗馬を楽しむ者。対岸にはモトクロスのコースがあるらしく、騒音をたてながらバイクが走り回っている。 峠を下ると斜面は野菜畑に。ジャガイモとネギ畑が多い。ネギの収穫に精出す一団も。道沿いの店頭にイチゴを見つけ、Sが買ってきた。1パックが120Rs。日本ではとても売り物にならぬ代物だが、スリランカでは珍しく、貴重な果物。二三個頂き、残りは二人に。
小学校の校庭で賑やかな声。家族総出の運動会が開かれていた。子ども大人も一緒になって楽しんでいる。目隠ししてボールを叩く競技は、まるでスイカ割り。パン食い競争のようなゲームも。見ていて微笑ましい光景。車を止め、しばらく見物。
前方に黒雲が。「雲の下は激しい雨が降っているよ」と話しながらも、車はその雲に向かって進む。レストランを探すが、適当なレストランがない。その内、雨の区域に突っ込む。まるで洗車場に入ったような激しさ。そろそろスリランカ南部も雨季か。
結局バンダーラウェラまで走り、13:40、レストハウスに。レストハウスはもともと国営。出されたメニューの値段もリージョナブル。スリランカ料理のフルコースにライオンビールを注文。美味しく頂いたところまではよかったが、いざ支払いになると、メニュー価格の倍近い請求書が。怒ったSが噛みつく。ガイドの証明書を見せ、不正を糾す。Sの剣幕に最初は言い訳をしていたマネージャーもいくらか値引きした請求書を作り直してきた。それでもメニューの1.5倍。2100Rs。日本円で2500円ほどだが。Sの話によれば、国営のレストハウスを今は、現在のオーナーが借り受け、経営しているとか。メニューは以前のまま使っているが、民営なのでと言い訳をしたらしい。しばらく怒り収まらず。三人とも無口に。15:00、買い物客で賑わうバンダーラウェラ駅に近いロータリーまで戻り、A16に。
竹内雅夫著「スリランカ時空の旅」の中に出てくるエッラが何となく気にかかり、日本を出る前からSにエッラに行きたいと伝えていた。そのエッラも高原地帯から走ってきた目には一泊して散策するほどの魅力を感じる街ではなかった。緑豊かで、涼しく、落ち着いた避暑地ではあるが。
ガイドブックに載っているエッラ・ロックに行きかけるが、途中から山道を2時間ばかり歩かねばならない。少年が「案内する」と車を追いかけてきた。雨がパラパラしている上、これから往復すると日が暮れる。「やめよう」。決断は早い。
Sは今日中にティッサマハーラーマに行きたい様子。エッラ周辺についてはガイドの経験がないそうだ。
こちらも本の知識しかない。それも薄ら覚えの。「この近くに仏陀と菩薩の大きな磨崖仏があるはずだが」と尋ねても要領を得ない。
街外れまで来ると、目の前にエッラ・ロックが現れ、谷の向こうには広々としたインド洋に続く平原が眼下に。しばらく走ると右手、丁度エッラ・ロックの真下と思われる場所に大きな滝が。ラワナ・エッラ滝。落差100m余りの滝だ。暑い低地から登ってきた者には打って付けの休憩地。しばし涼を求めて止まる車も多い。飲み物や駄菓子などを並べた出店も数軒ある。滝壺近くで歓声をあげている若者も見かけた。
ウェッラワーヤに下るA23沿いで、以前、ジャックフルーツを売っていたと言う店に寄る。残念ながら今日はないらしい。一度熟したジャックフルーツを存分食べてみたいと思っていたが。
17:00、ウェッラワーヤ着。ロータリー近くで給油。リッターが120.3Rs。2000Rs分。
ロータリーからはA2に。道がよく、交通量も少ないためスピードがでる。時速70~80kmで一気にティッサマハーラーマへ。
途中、野生の象が出没するという人家のない荒れ地の中を抜け、公認で大麻栽培が行われているという村を通過。1時間でティッサマハーラーマに着いた。
ティッサ貯水池沿いの道で日没を迎えた。あちこちから群れになった白鷺が小島に集まっている。
ホテルに行く前、夕暮れのティッサマハーラーマヤ寺院に参拝。白いダーガバ(仏塔)を一周。ふと目を上げると仏塔の上に上弦の月が。月を崇めるシンハラの民にとって申し分のない情景。
宿は貯水池から2kmばかり離れたホテル・チャンドリカ。
6日(月)、4時頃、着信メールに起こされ、その後眠れず。
6時過ぎから散歩に出る。中庭に面した部屋のドアを開けると、賑やかな鳥の鳴き声。プール脇のマンゴの木からだ。虹色をした大型のカワセミもいる。緑色のインコも数羽飛んできた。しばらく中庭を歩き、外に出た。
貯水池に向かって歩いていると開店準備中の人や通りがかりの人などが次々と声をかけてくる。「グッドモーニング」の一言が爽やかで気持ちがよい。
大通りをはずれ裏通りに入ってみるが、道の両側は庭木が生い茂り、まるでジャングル。 あちこちに寝そべっている犬が、ジロリと睨み付ける。吠えかかるわけでも、襲ってくるわけでもないが、万が一噛みつかれ、狂犬病でも移されては大変。
大通りに戻る。ふと電線を見るとシマリスがチョロチョロしている。黒い固まりは感電死したオオコウモリ。
池の畔まで40分ほど。白鷺の巣になっている小島の対岸。静寂を求めてやって来たが無駄だった。近づいてきた男がしきりに話しかける。「ボートに乗らないか」、「ジープ・サファリは」と。断ると、「腕時計と自分のネックレスを交換してくれ」と言い出す。しつこい。無視すると。「You are No Good」ときた。爽やかな気分が吹き飛んでしまった。
7時を過ぎると人通りも多くなり、車の量も増える。神風バスが轟音をたて側を通り過ぎていく。
帰り道でも、「ハロー、グッドモーニング」と声をかけてくれる人が。挨拶はムカムカした気持ちも解してくれる。
この日は、ゆっくり、9時20分、ホテルを出る。
午前中は、聖地カタラガマ巡り。
ホテルからだと車で20分ほど。プージャ(供物)用の果物や仏具、土産物など売る小屋の並んだ駐車場に車を止める。SとJは一軒の供物屋に。プージャ・ワッティ(カタラガマ神に供える供物)を注文。神殿前まで持ってくるよう依頼した。
聖地カタラガマの門前町でもある市街地はマニック川の右岸。駐車場の奥を左折するともう境内の一部。橋の下は沐浴場になってるが、先のスマトラ沖地震による津波の時は、この辺りでも数メートルほどの高さで海水が入ってきたそうだ。
橋を渡り、川辺に下り、手足を洗う。
カタラガマ神はヒンドゥーの神。しかし、ここにはモスクやダーガバもある。ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、すべての宗教の聖地になっている。と言うより、かなり政治的意図で造られている宗教公園都市だが。
南北約1キロ、東西約250メートル、「く」の字型の広大な敷地に、これらの宗教施設が建っている。
その中央にカタラガマ神殿がある。沐浴(?)の後、神殿と白い大きなダーガバのあるキリ・ヴィハーラを巡る。
神殿入り口で靴を預け、素足に。帽子も駄目と言われ、腰に吊す。カタラガマを祀る本殿は後回し。本殿西側の菩提樹を廻り、キリ・ヴィハーラの参道に出る。ダーガバまで約500メートル。幅広い、真っ直ぐの道。両側は緑地として整備されている。香りのいい白い花をつけた木を眺めていて、不愉快な物を見つけてしまった。木の幹に彫り込まれた落書き。それも漢字。「茶名」と刻まれていた。意味不明だが、もしかして日本人の仕業とすれば恥ずかしい。
朝から厳しい日差し、素足での参拝は苦痛。焼け石を避けながら、木陰から木陰にと、場所を選びながら歩く。何軒も並ぶ供物屋の一軒で、白い蓮の花と線香、それに油の入った瓶と白紐を買う。油は小さな容器に注ぎ紐を漬け、その先に点火する。日本なら蝋燭だが。建物の中だと危険な代物。しかし、油の灯明は回りに燃え移る物のない参道沿いに造られた鉄製の灯明受けに置かれ、点火する。紐に油が染み込むまで火が点かず、染み込むと逆に油が燃え出す恐れもある。と思っているのはよそ者の自分だけ。
一段高く、白壁に囲まれた、これまた真っ白の巨大な仏塔(ダーガバ)の前に立つ。敬虔な仏教徒であるSとJは正面の仏像に蓮の花を供え、しばらく合掌、礼拝。見よう見まねで同じ動作を繰り返す。
塔を左回りに一周。塔の西、北、東に鎮座される仏像や四隅の仏像にも合掌、礼拝を。
真っ青な空に真っ白の塔。塔の先から、青空に吸い込まれそうだ。壁に寄り添うように座した白衣の女性が呟くように、バーリー語のティ・サラナム(三帰依)を唱えている。
「ブッダン サラナム ガッチャーミ。ダンマン サラナム ガッチヤーミ。サンガン サラナム ガッチャーミ」。仏法僧への帰依を。
信仰心の強弱は別として、手を合わせた後は何となく清々しく、心が安らぐ。宗教施設とはそんな物かも知れない。
今や仏教徒シンハラの民にとって欠かせない存在となってるキリ・ヴィハーラであるが、巨大な仏塔が建立され宗教公園として整備されたのは独立後のこと。それ以前はヒンドゥー教徒タミルの聖地だった。カタラガマを祀る神殿が全てだった。
南インドのタミルが敬愛し、拠り所にしている神カタラガマは、日本では足の神様「韋駄天」として知られている。シヴァの子の一人で、象の頭を持つガネーシャ(歓喜天)とは兄弟。
そのカタラガマをスリー・パーダ同様、全ての宗教の聖地として整備し、民族融和の地にと目論んだ計画が「宗教公園都市」。しかし、巨大な仏塔(ダーガバ)が建立されたことにより、仏教徒シンハラの聖地と化し、さらにシンハラとタミルの対立からヒンドゥー教徒を遠ざけることにしてしまった。
実はスリランカ南部の仏教寺院やヒンドゥー寺院を訪ねて思うことは、その境界が曖昧で、はっきりしないことだ。小乗仏教の寺では、信仰の対象はあくまで釈迦牟尼。釈迦牟尼像以外の仏像を本尊として祀ることはない。ダンブッラの石窟寺院などでは一つの石窟に何十体もの仏像が安置されている。
ところが南部の寺院はまるで神仏混交。境内に仏殿もあれば神殿もある。カタラガマも巨大な寺院の境内。他の寺院と同じようにシンハラの民は、仏前で手を合わせてから、神殿に向かう。
駐車場の供物屋が届けてくれたプージャ・ワッティを持って神殿を取り巻く長い列に並ぶ。神殿の中からはドラやラッパの賑やかな音が聞こえてくるが様子は分からない。10分ほどすると列が動き始めた。Sの後ろに続き神殿内に。人で溢れた神殿内を後ろから押されながらそろそろと前進。クジャクに乗ったカタラガマ神の垂れ幕の前で神官に供物を渡す。しばらくすると半分切り取られた供物が返されてくる。灰を額に付けて貰い、返された供物を頂く。儀式にはそれなりの意味があるとは思うが、それはさておき、このような体験は、旅の思い出を深化させる。プージャに参加している時には肌の色も言葉もすべて無関係。神の前では同じ人間。それが実感できる時でもある。
返された供物のバナナとスイカを少し食べたが、食べきれる量ではない。その上半分に切られた果物。持ち歩くわけにもいかぬ。それを狙って集まっているのがサル。スリランカ・ハイイロオナガザルの群れが、待ち構えている。中には襲いかかる凶暴なサルもいるそうだが、ほとんどのサルは、おとなしくお下がりを待っている。
お下がりを待っているのはサルだけではない。お下がりを目当てに待つ人がいるのも現実。
SとJはサルがたむろする前の建物でお祓いを受け、布きれにコインを包み込んだお守りを貰った。「交通安全のお守りです」と。自分はプージャに付いていた造花の花輪を持ち帰ることにした。この花輪も、車内に吊り下げている車をよく見かけた。
駐車場に戻り、マニック川の上流、セッラ・カタラガマに向かう。高温多雨のスリランカでは樹木の成長は早い。並木は鬱蒼とした大木。樹冠に赤やマハラという黄色の花をつけたものも。
セッラ・カタラガマでは、アミューズメント・パークのような寺を含め、3カ所の寺院を回った。
谷川の左岸、台状の土地に建つ、一番大きな寺院の伽藍配置は、まず石段を登ったところに仏塔、左手に菩提樹があり、その側に仏陀像のあるお堂が建てられている。その裏にはスカンダ、仏塔の裏にはオフィスがあるが、その背後にはバッダラ・カーリ・マータ、
パッテニ・アンマ(安産の神)、インシュワラ・デビオ(火の神)のお堂が続く。またスカンダの左手にはガネーシャの堂、僧坊が続く。そして一番奥には、中央にムールガン(カタラガマ)と妻のワリアンマの像、左にサラスバティ(音楽の神)、右にスーニヤン(土地神)の像のあるお堂がある。
参拝の順は、菩提樹の前に置かれた線香、灯明立てに線香と灯明を捧げ、次に、仏堂に入り、蓮の花を供え、合掌、礼拝する。後は左回りに一番奥のカタラガマのお堂に、そしてインシュワラ・デビオのお堂へと移動する。八百万の神が祀られた神社の社を次々と柏手を拍ちながらお参りしているのと同じか。
大きな岩のある寺は、南インドからやって来たムールガンが一目惚れし、娶ったという妻、ワリアンマの伝説に基づくもの。大岩の下には洞窟があり、カタラガマまで続いているとか。
ホテイアオイと睡蓮が水面を覆う貯水池と刈り入れ直前の稲田に挟まれた並木道の向こう、300mほどの山頂に白い仏塔が見える。Sの話しでは、カタラガマより古い寺院らしい。山の麓に仏陀像とムールガン、ワリアンマ、ガネーシャなどの描かれた垂れ幕が掛かったお堂と僧坊らしき建物がある。参拝者は、ここで礼拝し、山に登るらしい。山頂まではジープでも上がれるそうだ。
ティッサマハーラーマヤに戻り、マニック・ダーガバ近くで、昨日分からなかった「仏陀と菩薩の大きな磨崖仏」の情報を、タンビリを売る母子に尋ねる。話している内にSも気がついたようだ。「ブドゥルワーガラ」。ジャングルの中に残る磨崖仏。
昨日、給油したウェッラワーヤの近くにあるらしい。しかし、この辺りのジャングルでは、半年ほど前、反政府ゲリラによると見られる襲撃があり、犠牲者も出ているそうだ。無理をしないほうがいい。今回はあきらめることに。
A2に入り、ハンバントタに向かって車を走らせる。インド洋が近いこの付近は、湿地が多く、芦原やブッシュが手つかずのまま残されている。そのため野生の動物も豊富。特に野鳥は種類も数も多い。道路沿いにクジャクや象までも現れる。今回は、象には出会えなかったが、クジャクには何度か出くわした。
ハンバントタは最近、中国の援助で、港湾の整備が、急ピッチで行われている。そのため新しい道路が造られたり、通行規制をしたり、いろいろやられているようだ。絶大な権力を有する現大統領の出身地と聞けば、なるほど頷ける。欧米から、何かと批判される現政権。中国に接近。インド洋に進出したい中国にとっては棚からぼた餅か。今や最大のパートナー。
まるで湖のような広大な塩田。仕切られたプールに海水を入れ、天日によって塩分濃度を高め、沈殿した塩の結晶を集める製塩法。カメラを向けると、「駄目」とS。軍事施設でもないのにと怪訝そうな顔をすると、「塩田は駄目」と念を押される。
塩田と新しい道の間にドライブインのようなレストランがあった。ここで、昼食をとる。 バイキング形式のレストランで、手作りの菓子がいくつか並んでいた。デザートにゼリー状の菓子を少し食べてみたが、甘すぎて口に合わず。
Sの車はトヨタのコロナ。中古車だが、スリランカでは新車以上の値段。高額な関税が課されるためだ。気がつかなかったが、後部のナンバープレートの側に「近藤勇」、「土方歳三」のシールが貼られている。また小さな初心者マークと「走り屋」のシールも。 スリランカでは、「〇〇建設」のトラックや「△△幼稚園」のマイクロバスなど、日本語でペイントされたままの車や郵便局から払い下げられたのか「〒」のついた赤いバイクをよく見かける。なぜ消さないのか尋ねると、「格好がいい」とか「日本車の証拠」と言う。ご丁寧に装飾として漢字を書いた車さえ。中には裏表、上下逆さまの文字を書いた車も見かけた。
彼の場合は、日本に来たとき、「百円ショップ」で買ったものを貼っていたのだが。つい大笑いしてしまった。
物価の安いスリランカの人でも、「百円ショップ」には驚かされるらしい。日本から帰る時には「百円ショップ」で土産を買うそうだ。
ハンバントタが左手、遙か彼方に望める海岸近くを走っているとき、Sが「山川さん、温泉に行きませんか」と言い出した。まさかスリランカに温泉があるなど思いもよらなかった。願ってもない話し、「行こう」と、即決。
海岸から内陸に20キロ余り、ワラウェ河流域、鷺が群れ、水牛が放たれた、水田や湿地の中に、忽然と温泉がある(後で気づいたが、手元の50万分の1のロード・マップにも「Hot Spring」の文字がある)。
駐車場の側の小屋で、スリランカ人のSとJは20Rs、外国人の私は100Rsの入湯料を払い、果樹や草花の植えられた小道を通り、温泉に。何棟か見える建物の中に浴場があるものと思っていたが、そこは予想外の施設だった。
回りの目を遮るように土を盛り、真ん中を掘り込み、コンクリートで固め、5つの水槽が造られている。真ん中の水槽から温泉が湧き出している。泉温44.0℃。結構熱い。そ

の湯を4つの水槽に流し、温度を下げ、溜めている。
利用者は、側の脱衣場で水着に着替え、溜まったお湯をバケツに汲み、身体にかける。水槽に入ってはいけない。かけ湯オンリーの温泉だった。温泉に浸かれることを期待していただけにちょっとがっかり。しかし、SとJは大喜びだ。ついこちらもつられて、お湯の掛け合いをし、楽しんだ。
管理人が、「ゆで卵はいらないか?」と声をかけてくる。Sは私が卵を食べないことは知っている。「何の卵?」と尋ねると、「野鳥の卵」だと。見れば鶏の卵より少し小ぶり。手に入れた二人は旨そうに。
脱衣場で着替えをしていると家族連れがやってきた。温水シャワーの代用。地元の人も利用しているようだ。
気がつけば4時を回り、陽も西に傾いている。今日の目的地マータラまではまだかなりある。風呂上がりにビールでも飲みたい気分だが。
どこを走っているのか分からなかったが、気づけばA18号線に出ていた。17:40、ゴール・ロードA2号線と交わるノナガマを通過、すっかり暗くなった18:30、タンガッラの街に入る。海岸のレストハウスで、運転手のJには申し訳ないが、待望のビールを頂く。隣に軍の施設があり、撮影は制限される。30分ほど休み、海岸沿いの道を走ること約1時間、マッタラに着く。
通りの店でビールと果物を買いビーチに近いゲストハウスに。退役軍人の経営するこぢんまりとしたゲストハウスだ。
7日(火)、6:20頃から散歩に出る。ポルヘナ・ビーチまで5分ほど。すでに日も昇り、シュノーケルをつけ海に入っている若者もいる。最初、魚でも捕っているのかと見ていたが、銛を持っているわけでもなく様子が違う。何かを探しているようだ。波打ち際に沿って泳いでいる。二、三度往復し上がってきた。遊泳中に落としたネックレスやイヤリングなど、金目の物拾っていたのだ。「宝石の島」故、原石でもあるのか、それとも大航海時代の金貨でも見つかるのかと想像を巡らしたが、狙いは落とし物だった。
砂浜の東端に建つ、鉄筋の二階建ての建物に付随した見張り台に登ってみる。壁には韓国企業の援助によって建てられた旨書かれていたが、潮風に晒され、手入れがされていない建物は荒れ始めていた。
朝の散歩を楽しむ同類が一人、二人と浜に出てくる。
浜と道を挟んだ建物はスマトラ地震の津波を受け、壊れたまま。庭は雑草と庭木でジャングルの如し。傍らのゴミの山に、リスが遊び、カラスが騒ぐ。
朝食は、パンとカリー2種に紅茶、バナナ。
8:30、ゲストハウスを出、昨晩の道をディックウエッラまで戻る。1960年代に建立されたという巨大な大仏像があるウエウルカンナラ・ヴィハーラへ。本尊の涅槃像に合掌し、19Cの作と言う、ロの字の回廊を一周すると釈迦の生涯が解るように造られた塑像群を拝観、そして背後の大仏を拝顔。仏像の前(仏像に背を向け)で、写真を撮ることも許さぬ人の多いスリランカにあって、この大仏は頭部の裏が展望台になっている。背面は、世俗の者が素足で登っても許されるおおらかさは何だろう。信仰の本音と建前を垣間見るようだ。
隣接する講堂のような建物からまるで授業中の教室を思わせる人声が聞こえてくる。先生の語りに唱和する児童の声のように。説法しているらしい。
次に、向かったのは「潮吹き岩」。
店先に車を止め、魚臭い路地を海岸に向かって歩くこと数分。砂浜に引き上げられた小舟の並ぶ漁村に出る。魚臭いはずだ、庭先にはアジの開きが干されている。
海岸沿いに少し歩くと、まだ新しい鉄筋の建物が一つ。政府が運営する入場券の販売所兼海洋資料館だ。入場料はやはり外国人料金があり100Rs。
岩の隙間に入り込んだ海水が噴水のように吹き上げるのが「潮吹き岩」。波が強い日であればもっと迫力があったのかも知れぬが、この日は、4、5分に一度、海面から7、8mの潮が吹き上げてきた。
先客は白い制服の高校生たち。この時期、研修旅行か、修学旅行か、貸し切りバスで名所、旧跡を巡っている学生の一行に出会うことが多い。
大騒ぎしながら去っていった。
こちらも海水を浴び、子どものようにはしゃぎ、写真を撮った。
海洋資料館にも入ってみたが、写真やポスター中心で、魅力のないものだった。
漁村の浜に出ると、男が二人、魚の料理をしていた。覗くと、カワハギの皮を剥いでいる。やはり干物にするそうだ。
車を止めていた店で飲み物を求め、スリランカの最南端デウンダラ岬に。
岬の近くにヴィシュニを祀るヒンドゥー教寺院がある。隣接し、涅槃仏を本尊とする仏堂があり、参拝はこちらから。仏堂の中にはウエウルカンナラ・ヴィハーラ同様、釈迦の生涯や釈迦の前世を描いた壁画や塑像がある。芸術性はともかく素朴でけばけばしい絵が並んでいる。
ヒンドゥー教寺院の方は古刹らしく、神殿の回りにかつての建物を支えた石柱が残っている。幼子を抱いた若夫婦がプージャーに来ていた。日本の宮参りと同じ習慣?
神殿の側に真新しい大仏立像が建てられていた。本来、ヒンドゥー教の神域が仏教寺院に取り込まれている様子は、カタラガマと同じ。少なくともここでは仏教寺院をヒンドゥー教寺院が取り込む姿は見られない。
デウンダラ岬には19C末に建立された石造りの灯台がある。ココヤシの木陰で水平線を行くタンカーの姿を追っていると灯台員と立ち話していたSが「300Rsで灯台に入れてくれるそうですよ」と。願ってもない話。
最上階まで231段あった。最上階のベランダに出る。風が強い。鉄索にしがみつきながら記念撮影を。足はすくむが、展望の誘惑が強い。元来、高所恐怖症だが、高いところから俯瞰するのが好きで、いつも上に上に登っていく自分がいる。
眼下に見えるのは緑の椰子林と青い海。水平線の彼方、同一経線上にあるのは南極大陸。南極まで陸地はない。西に向かっている大型タンカーは、この青い空間が、紛れもなく戦略的要衝になっていることを表す。西アジアの石油に依存する国にとり、スリランカは無視できない存在。ある意味、内戦の拡大も、それぞれの思惑で背後についた大国のため。 岬からマータラに戻り、ウェヘラヘナ寺院に。まだ新しい極彩色の巨大仏がコンクリートの仏殿に鎮座した寺院。石とコンクリートで固められた境内は、真昼の日差しで焼かれ、素足で歩くのは難しい。寺院の参拝、見学で最大の関門。木陰でもあればよいが、なければ火傷を覚悟で小走りするしかない。這々の体で境内の下になる建物の中に。ここにも壁一面に仏陀の生涯や、仏伝などを描いた絵がある。稚拙な絵が多く、神聖さにも欠けているが、スリランカの人たちは何を感じているのだろうか。肖像写真やネームプレートも沢山ある。100Rs以上寄進すれば誰でも掲げて貰えるそうだ。日本人の名前もちらほら。しかし、数年もすると色あせ、破れ、その内廃棄処分に。「諸行無常」。
バスターミナル前の海岸に。長い砂浜の真ん中、沖合に小島がある。江ノ島の小型版。弁天様ではないが、やはり寺院がある。陸地化されていないが、トンボロで繋がっており、吊り橋が架けられている。橋のたもとで供物用の蓮の花を買い、寺院に。
橋を渡ったところで素足に。岩山に造られた寺院は、石段を上らねば入られぬ。また、「あっちち」と言いながら。見晴らしのいい寺院は、手頃なデートスポットになっている。アベックの多いこと。
2時半、寺院巡りのマータラ観光?終了。
ランチボックスとビールを買い、ゲストハウスに戻る。
一休みし、水着に着替え、ビーチに。
スイカをビーチボール代わりにして遊ぶ。SとJも子どもの様にはしゃぎ、気がつけば、日が西に傾いていた。
海水に漬けていたスイカは塩味がついて旨い。
白い大型の車が浜に横付け、中から犬がつぎつぎと出てきた。キャンディから来た警察犬だった。タンガッラでショウがあるために来たそうだ。犬と警察官、どちらが楽しんでいるのか分からぬが、海水浴を満喫した様子。
日本人らしき若者を二人見かけたが、声はかけず。
6時、薄暗くなりゲストハウスに。
8時から食堂に集まり、持参の焼酎とおつまみ、ライオンビールで乾杯。夕食はカリー4種。
8日(水)、暑く、寝苦しく、天井のファンを回そうかと迷う。激しい雨音が。雨音を聞きながらも、2時から5時頃までは熟睡。
日の出を見たくなり、5:50、ビーチに。残念ながら南西に開けたビーチでは、水平線から昇る日の出を見ることできず。しかも、インド洋の上は、その大部分が真っ黒な雲に覆われている。その下は激しい雨が降っているのが分かる。昨日訪れたデウンダラ灯台の灯が点滅している。
ビーチでは今日もシュノーケルで捜し物をしている男が三人。ジョギング中の人も二、三人。
ビーチにつづく道ばた、ゴミ山の側にリスの死骸があった。昨日ちょろちょろしていたリスだろうか。しかし、帰り道にはその姿はなかった。カラスが持ち去ったのか。
7寺頃、土砂降りの雨に。
SとJがカリーの入った調理パンを買ってきた。朝食は一昨日買ったバナナとミルクティ、それに調理パン。
9時過ぎ、ゲストハウスを発つ。三人の2泊分、チップを含め4000Rs。
A2(ゴールロード)を西に。浜では、沖から帰ってきたばかりの小舟から獲物が降ろされ、道路沿いに並ぶ屋台に並べられている。イカ、アジなどの小物からカツオ、サワラ、ヨコハ、カマスなどの大物まで、種類も多い。名前の分からぬ熱帯魚も。Sはカツオとヨコハの区別が出来ない様子。漁師でもある店主とマグロ談義。日本のマグロ価格に驚いていた。
アハンガマ付近では、スリランカの代表的な風物詩となったストルト・フィッシングを見ることが出来た。最近では、すっかり観光化され、観光客がやってくると金を貰って見せるショウになっているそうだ。確かに、ほとんどのストルトに釣り人の姿なく、釣り人がいたのは2本のみ。幸い?鑑賞料を請求されることもなかった。
ハバラドゥワで小舟を雇いマドドゥワ島に渡る。ラグーンの中に点在する小島の一つだ。ラグーンは浅く、あちこちに小型の定置網が仕掛けられている。釣り人も見かけた。熱帯林に覆われた小島は、かつて映画の舞台になり、スリランカでは知られる存在となったそうだが、特別見るべきものはない。また雨が降りだし、早々引き上げる。
湖岸にはリゾートホテルができていた。白人保養客の姿が。
左車窓に港湾施設が。ゴールの港だ。カメラを向けると、Sが制止した。「軍の施設だから駄目」と。特に秘密にすべき軍事施設とも思えなかったが、彼の指示に従いカメラを隠した。
世界遺産「ゴール旧市街」。城塞都市ゴール。三年振りだが、懐かしい。網にかかった小イワシを、外しながら、その場で売っている漁港脇を抜け、砦の中に。真っ直ぐ、最南端の稜堡に。海に飛び込み見物料を貰っている男や土産物売りなどが屯してるが、灯台をバックに記念撮影するには最適の場所。風が強い。記念撮影をし、フォートの中に。
「MUSEAM」の看板が出ている建物に入ってみる。個人収集の雑多なものが所狭しと並べられている。ゴールらしいアンティークな品もあるが、世界各国の現行貨幣まで展示している。日本の硬貨もあったが、50円がなかったので進呈。
中には、レース編みをしている婦人や宝石の研磨をしている人がおり、中庭を挟んでショップが設けられている。MUSEAMと工房を兼ねたショップだった。Sと一緒だったからか、特にショップに引き留められる訳でもなく、ただで展示品を見せて貰った上、フォートの古い建物の内部まで見られ、ありがたかった。
眼下にクリケット場と新市街地を望めるムーン要塞は、銃を抱えた兵士がおり、立ち入り禁止に。時計塔の側を抜け、北西端のスター稜堡に。一旦、時計塔に戻り、北東端のサン
稜堡まで砦の上を歩く。観光客以外で目につくのは若いアベック。
3年前は正月休みだったが国営の博物館があるはず、行ってみようと提案。Sは、記憶がないと言う。確か、アマンガッラ・ホテルの隣だった。記憶は間違っていなかった。ホテルの隣に「ゴール国立博物館」はあった。展示品は少なく、がらんとした倉庫のような建物だったが、海のシルクロードとして栄えたいにしえの面影が残されていた。オランダの東インド会社がもたらした伊万里の焼き物も並んでいた。
スマトラ沖地震による大津波で大きな被害を受けたバスターミナルから鉄道駅付近にかけては、復旧が進み、その痕跡は外見上ほとんど見受けられないほどだ。
Sが「キララジュースを飲みましょう」と言い出した。キララと言う木の実から作ったジュースらしいが、初耳だった。青い山柿のような、キララの実を描いた看板が出ている店に立ち寄った。大きめのグラスになみなみと注がれたジュース。リンゴと桃をミックスしたような味。キララとは、可愛らしい名前の木だ。確か、北海道産の米の銘柄にもあったはず。一度見てみたいと伝えておいた。

(ジュースは、果肉を、湯を入れた器て潰し、それを漉し、ココナツミルクと砂糖を加えてつくるそうだ。実は香りはいいが、甘くなく、そのまま生食はしないとか。)
遅い昼食になったが、ヒッカドゥアの海浜レストランで魚のフライとチャーハンを食べた。島国だけに魚介類は身近な食材だが、その気にならないと意外に口に入らない。シーフードがメインになっているレストランだったが、味もまあまあ。
ビーチに面したテーブルで食事をしていると、白人のグループや家族連れがやって来た。水着姿の母子が波打ち際ではしゃいでいる。津波の爪痕はいずこに。
ヒッカドゥアからアンバランゴダにかけての海岸沿いには津波の跡が生々しく残っている。沖の小島と向かいの浜に建てられた寺院は交通安全にも御利益があるのか、通行する車は一様に停車し、道路脇に設けられた賽銭箱に小銭を入れて行く。3年前と同じように、Sも手を合わせ、賽銭箱の側で売っていたピーナッツを買ってきた。
近くに、真新しい大仏の立像が建っていた。看板には「TUNAMI HONGANGI VIHARA」の文字と日の丸、仏教旗、スリランカ国旗が描かれていた。津波の犠牲者を供養するために本願寺が建立したものだろう。同じ仏教国として、宗教的な繋がりもありとは思うが、同じ金を使うなら、先にすべきものがあるはず。カメラを向けながらなんとなく考えさせられる建造物。
スリランカ土産の代表的な物に、「悪魔の仮面」があるが、それを作っているのがアンバランゴダ。ショップには以前にも立ち寄ったが、今回は仮面博物館に寄った。
博物館と言っても仮面を制作する工房とショップを兼ねたもの。乾燥させた丸太を50cmほどの長さに切り揃え、隅に積んでいる。長机の前に職人が三人、それぞれ鑿で木片を削っている。見物人にも工程がわかるように、加工の各段階をあらわす見本も用意されていた。観光客慣れした職人の無愛想なこと。
博物館は仮面踊りの衣装等と共に種類別に解りやすく展示されていたが、一つ一つの説明文を読む余裕もなく、滑稽な仮面やおどろおどろしい仮面を急ぎ足で一通り見せてもらった。入館料は無料だったが、お志を頂ければと声をかけられ、100Rs置いてきた。
懐かしい海岸風景が続く。「この先に海亀を飼っている所があります」とS。寄ってみることにした。柵で囲われた施設の中にはコンクリートで造られた水槽がいくつか並んでいる。アカウミガメ、アオウミガメ、オサガメなど何種類かの海亀が飼育されている。親ガメの中には、津波で打ち上げられたものや、傷ついて保護されたものもいる。砂浜の続く、この付近一帯、海亀の産卵場になっているが、孵化する前に掘り出されたり、潰されたりすることが多く、地元出身で韓国に留学していた人がKSTCPと言う組織を立ち上げ保護活動を10年ほど前から始めたらしい。今では地元の人だけではなく、外国からもボランティアを集めているとのこと。「ウエルカメ」のスリランカ版か。

案内してくれたのもボランティアの白人女性。年頃から、大学生か。
施設の規模や内容から考えると入場料の400Rsは高すぎるが、プロジェクトに対する寄付だと割り切れば納得できる。
400Rsも払って来るのは、外国人ばかりだから。
コスゴダから3年前二泊したインドゥルワは3kmほど。何度も往復したビーチが見えてきた。ホテルの前で電話屋をしていた若者は元気だろうか。土間で車座になり、持ち寄った酒で盛り上がったのは楽しい思い出。しかし、建物は残っていたが、店は閉まっていた。看板もない。町の食堂や酒屋がみんな休みの正月に、ビールを求めて、知り合いの家を回ってくれた若者。夜食の弁当を酒の肴に提供してくれた彼。今はいずこに。
こんな時、SとJは心強い。早速、聞き込みを始めた。コミュニティのしっかりしたスリランカでは地域住民の消息や情報は共有されている。すぐに彼の両親が分かった。その住まいも。
コスゴダ方面に少し引き返し、ゴールロードから100mほど離れた集落の中に両親の家はあった。そこに彼は居なかったが、居場所は分かった。アルトガマのビーチに居るらしい。ビーチを探すが彼らしき姿なし。Sは携帯の番号も聞いていた。携帯に電話する。通じた。探していた場所から僅か二、三百メートルの所で小屋がけの店を開いていた。土産物や海水浴用品などを並べて。
ペプシを飲みながらの思い出話。ホテルの従業員まで加わっての酒盛り。つい口に出るオーナーへの愚痴。それが肴になり盛り上がる。旅の楽しみはいろいろあるが、人との出会いが一番だ。一期一会の付き合いになることが多いが、何時までも心に残るのは物より人だ。彼もまたその一人に。
今の店は、前の電話屋よりは儲かっていると話していたが、三ヶ月後の便りには、「客がなく、店を閉めた」と書かれていた。
再会の記念にと、旅の間使ってきたHONDAのキャップを渡した。汗でシミができていたキャップだが、喜んでくれた。
ベールワラに面白い店があると言う。実際はカルタラ寄りのパイヤガラだったが。
海岸と平行して鉄道が走っているが、線路沿いの塀に囲まれた建物がそれであった。中には百人余り男が屯していた。異様な雰囲気だ。怪訝そうな目を向ける者もいる。SとJに促され中に。そこはラー(椰子酒)の酒場だった。カウンターでプラスチックの器に一杯、大きなグラス3,4杯分ほどのラーを求め、塩を舐めながら立ち飲みする。少し酸味が出ているが、案外それが癖になるのかも知れぬ。
怪訝そうな目をしていた者も、こちらが同じように飲み始めると笑顔になった。飲み助に国境なしと言うことか。
明日は満月。ボヤ。禁酒日。酒場に人が多いはず。
すっかり暗くなってカルタラの街に。しかし、街中は人で溢れている。年末の買い物客で。裏通りのリカーショップに寄り、土産用のアラックを三本購入。1740Rs。
宿泊予定のゲストハウスは門が閉まり、人気がない。買い物でも出かけていたのか。
ビーチに面したレストランで夕食をとることに。黒雲に覆われた空。時々稲妻が走る。ライオンビールにチキン、焼きめし。運転手のJには気の毒ながら、飲み、語り、心地よい酔いに浸った。
8時過ぎ、ゲストハウスに。灯りが点き、人の気配が。声をかけると品の良い婦人が現れた。Sの英語の先生だと紹介された。手入れの行き届いた室内。壁にマリア像。クリスチャンらしい。ご主人を亡くされた後、お宅をゲストハウスとしておられるとか。
話しが弾み、気がつけば11時過ぎに。
真っ白な壁、見るからに女性らしい細やかさを感じさせる部屋に心が安らぐ。シャワーを浴び、真っ白なシーツにくるまる。
耳元で「ブーン」と羽音。蚊が一匹。蚊取り線香の臭いを部屋に充満させるのは気が引けたが、マラリアやデング熱に罹っても困る。線香に火をつけ、眠りつく。
9日、近くに寺院があるらしく、満月法要の読経で目が覚める。6時過ぎから30分ほど散歩する。
マンゴにパパイヤ、バナナ。鬱蒼とした熱帯の木々の間に、自家用の果樹が植えられた庭をながめながら、自分では海岸に向かって歩いていたつもりだが、実は逆方向に。踏切で気づく。海岸に出るのはあきらめ引き返す。すれ違う人が「グッドモーニング」と声をかけてくれる。朝の挨拶は清々しく心が和む。
ゲストハウスに戻ると、庭掃除をされている夫人の姿。
部屋で寛いでいると、「お茶の準備ができました」と。暖かいミルクティが旨い。
8時、夫人に別れを告げ、ボヤで賑わう「カルタラ・ボディヤ」に。駐車場になっている広場の隅に子牛がたくさん繋がれている。水牛や山羊は、ヒンドゥー教では犠牲として供え物と一緒に売られているが、ここは仏教寺院。境内の壁にも、殺生を戒める写真が貼られている。してみれば小鳥や魚を逃がし、功徳を積むのと同じ行為を子牛で?
橋のたもとの一本の木をJが指さし「キララ」だと教えてくれた。昨日飲んだジュースの原料。小さな実がついていたが、熟すといい香りがするそうだ。
境内は参拝客で混雑していた。白い衣を身に纏った女性があちこちに座り、スピーカーから流れる法話に耳を傾けていた。一日、寺院で過ごす人も多いという。
カルタラのシンボルになっている白い仏塔の中に入り、中心の東西南北に安置された仏陀像に合掌し、菩提樹の回りを一周し、参拝を終える。ここも二度目の参拝になるが、日常生活に溶け込んだ宗教に圧倒される。
街角のベーカリーで朝食をとる。調理パンにミックスジュース、それにネスカフェ。正月行事のパンフレットを配る若者。一枚手に入れる。機関銃を構える兵士の写真が一面を飾る、まるで新兵募集のポスターを思わせる。Sによれば、兵士は内戦の終結を求めるもので、平和への思いを表しているそうだ。シンハラ語で書かれた新年の日程表の中身は解らなかったが、何時にどの方角を向いてミルクライスを食べるかまで書かれているらしい。最近はやりの節分の恵方巻とまるで同じような習慣がスリランカにもある。
この日、Sが案内してくれたのは、ガイドブックにも載っていない寺とココヤシとは異なる椰子から取れるという珍しいラーを採集している所だった。
カルタラから内陸に向かって車を走らせる。ナゴダからドダンゴダにかけてはゴム園が多い。ドダンゴタ付近でコロンボとマートラを結ぶ高速道路の建設現場を横切る。スリランカも近いうちに高速交通社会突入か。山が崩され、畑が埋め立てられ、赤土の地肌がむき出しになっている。
マツガマは3年前、ショートカットし、ヌワラエリヤからインドゥルワに向かう途中、通り抜けたことがある。アガラワッタからマハガマを経て10:20頃、目的地の寺院入口に着いた。岩山の中腹に造られた寺院、パイヤンガナは、5世紀の初め、中国の僧、法顕がしばらく滞在していたという由緒ある寺。入口近くに中華人民共和国が建立した石碑もある。
駐車場になっている空き地でランブータンを売っていた。近くの農家の人か。大きく新鮮な実。買い求め、車の座席に。
寺までは急な石段が数百段。きついがスリーパーダに比べれば。
大きな岩の窪みを利用した寺院。土塀の中に赤い衣の大涅槃像が安置されていた。かつての寺院は礎石などを残すのみ。一部では発掘調査が行われている様子。それでも家族連れが次々と登ってくる。スピーカーからボヤの法話が途切れることなく流されている。
岩山の窪みに黒い固まりがぶら下がっている。蜂の巣だ。シーギリアでは蜂に襲われ被害者が続出したそうだが、ここでも起こりそう。
岩ツバメの巣も無数に。
パパイヤの木で、枝分かれしたものを見かけたことは余りないが、崖縁に枝分かれした大きなパパイヤの木が一本。サリーも珍しがっていた。
一度、駐車場近くまで戻り、迂回し、山道を岩山の上まで登る。道と言うよりジャングルの中にできた谷川の底。足下の悪い急斜面をよじ登ること50分、やっと山頂に。
頂上にはまだ新しいお堂が一つと僅かに水が溜まった貯水槽があり、林の中にテントと小屋が散在していた。修行僧が生活しながら、新たな寺院を造っている様子。崖っぷちに立つと目が眩むが、眺望はすばらしい。吹き上げてくる風が汗をぬぐい、疲れを忘れさせてくれる。Sは裸になって、Tシャツを絞っている。まるで濡れ雑巾の如く、汗が水となって流れ落ちる。
下りは30分ほどで駐車場に。
25日が国会議員選挙とか。あちこちに候補者のポスターや政党のポスター、横断幕などが掲げられている。道路沿いに並ぶ白い小旗や黄色い小旗は最近亡くなった人の家と墓地を結ぶもの。白は一般の人、黄は僧侶らしい。ところが、赤や青の小旗もたくさんある。赤や青は政党のシンボルらしい。ややこおしい。
数字に×印は、候補者番号と投票用紙に×を、の意味。
次の目的地はラーの採集場。
アブラヤシやゴム、茶、シナモンなど様々の農園がある。ドラゴンフルーツも最近作られるようになってきたそうだ。車窓から畑や民家を眺めているだけでも楽しい。
昼食に、モラガラのレストハウスに寄った。天然のプール(?)があるとかで、結構有名らしいが、閉まっていた。側のチャイニーズ・レストランもライス切れ。オーダーしても1時間かかると言われ諦める。
先に、ラーを採集している家を訪ねる。採集する家人は出かけていて留守。帰ってくるまでの間に昼食をと、「ホリディリゾート」の看板を目当てに車を走らせる。
狭い山道、人家など一軒もない山の中に突然現れた「ホリディリゾート」。小さなプールではしゃぐ子どもの声。紛れもないリゾート。きれいな湧き水が呼び物らしい。
ベランダのテーブルに焼きめしとコーラを運んで貰う。黒雲が次第に空を覆い、雨が降り始めた。午後になると雨が降る。雨季特有の空模様に。4月下旬頃から雨季が始まると言うが、実際は上旬からその兆候が見られる。
ラーを採集しているお宅に戻る。家人も帰宅していた。早速、庭先の高木に登り、ラーを壺一杯汲んできてくれた。キトゥルガハと呼ばれる椰子。ココヤシとは全く異なる葉。樹肌も違う。土砂降りの雨を避け、玄関脇にイスを並べて試飲。ほのかな甘み。あっさりとして飲み口がいい。酸っぱくなった酒場のラーなど比較にならぬ。こんなことならリゾートで水やコーラを飲むのではなかった。
木に登りラーを汲んでくれた男の本業は大工。スリーパーダの話しをすると、自分は41回登ったと。ラーの採集はなかなか大変な仕事。まずラーが取れるかの見極めに三週間かかるという。花を切って三週間、大丈夫と見極められたら、朝、傷を付け、壺をくくりつける。そして夕方集める。高い木の上での作業。
鱈腹頂き、お礼に200Rs渡し、お宅を後にした。キトゥルガハの木の前に、大きなマンゴスチンの木があった。まだ青く、熟すにはしばらくかかりそうであったが、木に成っているマンゴスチンは初めて見た。
まだ4時だと言うに薄暗くなってしまった。マツガマ、ナゴダを経て、カルタラには5時に着いた。今晩もカルタラに泊まろうかと宿探しをするが、手頃な宿がない。時間があるのでと、一気に、マウント・ラヴィニアまで走ることに。
線路を挟んでビーチに面したホテルは、以前、Sが遠縁だと言っていた。三年の間にすっかりリニューアールされ、部屋も見違えるようになっていた。ビーチに造られていたプライベート空間もなくなり、工事中に。
シャワーを浴び、一休みし、20時から夕食。ちょっと贅沢なメニュー。魚の黒胡椒焼き、サラダ、オニオンスープ、フライドポテトに紅茶。ボヤの日は禁酒。
10日(金)、汗疹が痒く、蒸し暑く、寝苦しい夜だった。5時過ぎに起きた。まだ暗い。薄明るくなった6時前、ビーチに出る。3年前より汚れが目立つ。ゴミだけでなく、波打ち際にヘドロ状の泥が溜まり、異臭を放っているところも。取りあえずマウント・ラヴィニア・ホテル方面に向かって歩く。人気のない砂浜。波も穏やかだ。砂浜が切れ、ホテルに近づいたところで引き返す。ビーチのあちこちに人の姿が。ほとんどの人がジョギングを始めた。
遙か彼方、延々と続くビーチの彼方にコロンボの高層ビル群が小さく見える。沖から小さな漁船が次々向かっている浜がある。獲物が気になる。1km以上先だが。砂に足をとられながらも興味深々。
モーターボートのエンジンを取り付けた小舟は猛スピードで海岸に向かってくる。遠浅の海岸に近づき、船底を擦る直前にモーターを揚げ、一気に砂浜に乗り上げる。海岸で待ち構えていた男達が、さらに押し上げる。
小舟の中には無造作に獲物が置かれている。1m余りのサワラ、ローニンアジ、カツオ、ヨコハなどの大物からイカやアジなどの小物まで多種多様の獲物が。
威勢のいい漁民の姿は、万国共通。ただ眺めているだけでも気持ちが晴れる。
8時前、部屋に戻る。
朝食は一階のレストランで。客はなく、一人、コンチネンタルブレックファーストを注文し、黙々と。足下に出没する蚊とすぐ側を走る列車の騒音さえなければ言うことなし。 9時前から1時間余り、水着に着替えビーチに出た。波が荒くなり、海には入れない。海水浴客も少なく、水着に着替えていない者の方が多い。3年前の賑やかさが嘘のようなビーチ光景。
近くで、ラグビーボールを投げ合って、はしゃぐ若者たちがいたのが唯一の賑わい。
それでもインド洋の海水に浸かり、砂浜に寝そべり、日光浴を楽しんだ。
以前あったシャワー室も取り壊されており、ホテルに戻り、水まきのホースで身体を洗う。きれいに洗ったつもりだったが、水着の中に細かい砂が溜まっており、再度、部屋のシャワーで洗い直し。
10時、「友達が車で迎えに来ています」とボーイが。
SとJは昨晩、彼らの友人宅に泊まった。ガイド仲間でもあり、家族付き合いをしている親友らしい。彼の母親は現大統領の子どもの先生とか。その母が作ってくれたと言うミルクライスを頂いた。切り分けられたミルクライスはおにぎりのように食べやすい。米をココナツミルクで炊いたものだが、スリランカの正月には欠かせない食べ物。一足お先に、正月料理をいただいた。
コロンボ国立博物館近くの土産物屋と独立記念館に寄り、Sの母親の住むヌゲゴダに。
コロンボ南東部郊外の住宅衛星都市ヌゲゴダはSが育った町でもある。町のあちこちに彼にとっての思い出の場所がある。それは映画館であったり、友達の家であったり、母校であったり、いたずらをした建物である。彼の思い出話を聞きながら町の中を少し歩いた。様々な店が集まったモールのようなビルに入った。彼の用事は、日本から持ち帰った携帯電話がスリランカで使えるか否かを確かめることだったが、私は、近くのCDショップで最近のヒット曲の入ったCDを二枚買った。
モールに店を構える人や通りすがりの人にもSの顔見知りが多く、あちこちから声がかかる。車に向かう道路脇で、すれ違った婦人としばらく立ち話。「今のは私の姉です」と。
中心街から少し離れると高級住宅街。高い塀に囲まれた立派な家が多い。そんな一軒の前に車を止めた。それが彼の母の住む家でだった。クラクションを鳴らし、声をかけると、中から上品なご婦人が、可愛らしい女の子と一緒に出てきた。
彼のお母さんと、姪御さんだった。広々とした居間に通される。壁や棚に沢山の写真が飾られている。ほとんどが家族の写真。今は亡きご主人(Sの父)の写真と若かりし頃のお母さんの写真が大半。以前から話しは聞いていたが、お母さんは元女優。スリランカではかなり有名な方だったらしい。ブロマイドのような、ポーズをとった、写真の中のお母さんは紛れもなくスター。魅力的で、美しい。無論、今もその面影を残す。
クッキーとバナナ、紅茶でのおもてなし。日常生活は英語を話される一家。4才の姪も英語を話す。シンハラ語はほとんど知らないと言う。姉さんはアメリカに留学し、そのままアメリカで結婚し、アメリカに住んでいたそうだから仕方のないことかも知れないが、自分たちの言葉を大切にしないのも考えもの。
実業家として羽振りの良かった父親の死後、兄はイギリス、弟は日本、そして姉はアメリカと、家族バラバラの生活に。こんなプライベートな話しも語ってくれていたが。
幸せそうなお母さんの様子を見、何かホッとする。
1時間足らずの滞在ではあったが、シンハラの上流家庭の一端を垣間見させていただいた。
スリランカと言えば大変長たらしい首都で知られている。その名を覚えると、つい自慢したくなる地名でもある。「スリジャヤワルダナプラコーッテ」。ジャヤワルダナはスリランカ初代大統領の名。サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席し、ソ連の修正案に反対し、日本に対する賠償請求権を放棄し、会議参加国に仏教精神をもとに寛容の精神を求めた、いわば日本の恩人とも言える人でもある。しかし、残念ながら、今の日本人のほとんどがこの逸話を知らない。「スリ」は光輝く、「コーッテ」は15世紀、この地にあったシンハラの国名だ。
「スリジャヤワルダナプラコーッテ」は一度訪れたいと思っていた。「行きましょう」と二つ返事。
ヌゲゴダの町外れで昨晩二人がお世話になった友人を乗せる。英語でのガイドが本業とか。明るく元気のいい若者。
「スリジャヤワルダナプラコーッテ」は1985年にコロンボから行政上の首都になったが、この地にあるのは国会議事堂だけと言ってもよい。広い沼地を整備し、ディヤワンナ・オヤ・レイクと言う湖を造り、その中に議事堂を建てた。建設を請け負ったのは日本の大手建設会社とのことだが建物は中国風。設計はスリランカの著名なジェフリー・バワによるものらしいが。
湖の周りは緑地になっており、あちこちに兵士の姿。「セキュリティ・ゾーン」の看板が、物々しい。「写真は駄目」とSの厳しい目。「ガイドブックには写真も載っているのになあ」と言ってはみるが、今のご時世を考えればやはり仕方のないことかと、カメラはバッグの中に仕舞い込む。
やはり、警備が厳重そうな建物が並ぶ通りに出た。議員宿舎らしい。その通りに面したレストランに入る。薄暗い、場末のバーのような雰囲気。彼らは、時々、利用している店らしい。店員と親しげに話している。
まずはライオンビールで乾杯を。飲み、食い、しゃべり、笑い、愉快で、楽しい昼食になった。飲めないJ気の毒。
気がつけば4時近くなっていた。しかし、飛行機は0:20発。三時間前に空港へ行くにしてもまだ5時間以上ある。
とにかく空港に近いニゴンボまで行こうと、ほろ酔い気分の三人を乗せ、Jが運転する車は北に向かって走る。
途中のスーパーマーケットに立ち寄り、カレー粉、シナモン、胡椒などの香辛料や石けん、シャンプーを買い込んだ。安くていい土産物が買えた。最近、どこに行っても、ほとんどの土産物は、直販店やスーパーなどで買うことにしている。海外旅行も例外ではない。
どうせ時間を潰すならビーチ近くがいいと、ニゴンボのビーチに面したレストランで、浜風にあたりながら、宴会の続きを。
こうして「スリランカ再訪」の旅は終わった。
彼らとの再会を約し。