以下の小文は1980年に発行された、岡山県立西大寺高校の「紀要」創刊号に投稿したものである。図表等若干省略したが、当時体験したことをまとめたもので、ワープロで打ち直して、ここに掲載することにしました。最近、アフガニスタンの情報が乏しいだけに何かのご参考になればと思います。
 
    アフガニスタン
             〜生徒の関心と体験旅行から〜
1.はじめに
 1979年12月27日、西南アジアの内陸国アフガニスタンで起こったクーデターは、ソ連による大掛かりな軍事介入により、アメリカ合衆国を始め非同盟国を含んだ広範な国々に大きな衝撃を与えている。年末から年始にかけての各新聞は、一面トップ記事にこれを取り上げ、80年代の国際情勢の先行きを占う不安要素になっている。自由主義陣営やイスラーム教国は穀物禁輸、モスクワオリンピックのボイコット、パキスタンに対する武器供与などの報復、対抗措置を次々発表し、国際緊張は高まる一方である。
 しかし、アフガニスタンにおける政変は珍しくない。この1年半程の間に3回もクーデターが起こり、そのいずれもが親ソ派と言われてきた。78年4月のクーデター以来激化した、反政府ゲリラ活動は、社会主義政策を打ち出した新政権に対する反共イスラーム教徒や旧地主層を中心としたものと言われる。
 筆者は、全く個人的な関心から、例え数行の記事でもアフガニスタンに関するものはスクラップするように心掛けている。朝日新聞についてみれば、71年から78年までは、年に大小合わせて数回、多い年でもせいぜい十数回しか掲載されず、この情報化社会の中で取り残された存在であった。ところがイラン革命を契機に78年末から急に増加し、79年一年間には一挙に33回(内、文化的内容3回)になっている。ゲリラ活動の激化や政変など掲載要因が増えたこともあるが、イスラーム圏に対する関心の高まりと無関係ではあるまい。
 とは言え、マスコミの積極的な報道にも関わらず、アフガニスタンに関する知識や関心が深まったとは言い難い。79年12月上旬、本校2年生110名(普通科地理選択者71名、商業科39名)を対象にアンケート調査を実施した。その結果をみると、生徒のアフガニスタンに関する興味・関心・知識は極端に低く、残念ながら大半の生徒はその地理的位置すら知らず、中には国名すら聞いたこともないといった状況であった。
 そこで、本稿では、上記アンケート結果を紹介し、筆者の過去2回(1971年夏、1975年夏)の旅行からアフガニスタンに関してあれこれ思い出すまま記してみたい。
 
2.アンケートの集約(実施 1979年12月上旬、対象 西大寺高校2年生110名)

@次の国の中であなたが一番に行ってみたい国はどの国ですか。
 1位 アメリカ合衆国(39名)、2位 スイス(35名)、3位 中国(17名)、
 4位 ニュージーランド(11名)、5位 ブラジル(3名)、
 6位 西ドイツ(2名)、7位 ポーランド、ケニア、アフガニスタン(1名)

A「アフガニスタン」に関して(○おおよそ正しい △どちらとも言えない ×間違
a.「アフガニスタン」という国名を聞いたとき連想することを書き上げてください
 ○発展途上国、未開発国、生活水準が低い、貧しい国、田舎の国 54
 ×熱帯ある暑い国 12  ○砂漠、乾燥地 9  ○遊牧 5(他に、羊毛、
 らくだ、汗血馬等)  △未知の国、辺境の国 5  ○宗教、イスラム教 6
 △不衛生な国 4     ○農業国 4    △自給自足生活 3
 ×ジャングル、密林 3    ×黒人 3    ×アフリカの国 3
 ×野獣、動物が多い 3   ×人が多い 3    ○土の家、石の家 3
 ○西アジアの国 2○アジアの国 2   ○内覧の多い国 2
 ○シルクロード 2    △暗い国 2     ○中央アジアの国 1
 ○多人種国家 1     ○貧富の差の大きな国 1    ○山岳地帯 1
 ×ヨーロッパの国 1     ×小国 1     ×石油 1
 ×問題の少ない国 1     ×商業の盛んな国 1
 [無記入 25、位置不明・知らない・無関心 14]
b.「アフガニスタン」の首都はどこですか。
 正解「カブール」7  誤答例「イスタンブール」2「イスラマバード」「カラチ」
 「ブダペスト」  無記入 97
c.首都以外に知っている都市があればどこですか。
 首都のカブールをあげた者2名以外になし
d.どのような自然環境の国だと思いますか。
(地形)○砂漠 14  △平原、平坦地、平野、山が少ない7 ○山がちな地形、
    山岳地形6 ○高原地帯 1
(気候)○乾燥気候、降水量が少ない22   △暑い国22  ×熱帯気候 7
    ×温暖な気候7 ○日中と夜の気温差大2 ○雨季と乾季の区別 2
    ○冬は寒冷 1 ×温暖湿潤気候 1  ×多雨 1  ×四季の変化 1
(植生・土壌)×ジャングル、密林 4  ○ステップ 3  ×緑が豊富 2
    ○ やせ地 2  ○ 植生が乏しい 1  × サバナ 1
(位置)△暑い国22 ×赤道に近い国6  ○内陸の国6   ○西南アジア、
    中近東の国6  ○インド近くの国4  ○アジアの中央3
    ×ヨーロッパ1  ○イランの東1
    [無記入26、わからない7]
e.主な産業は何だと思いますか。
 ○農業(綿3,小麦、×ジュート、×ゴム、×バナナ)  ○牧畜7(羊2)
 ×林業6 ○第1次産業8 ×石油7 ×工業9(絹、化学、鉄鋼、精密機械)
  [無記入33、わからない3]
f.歴史、日本との関係、時事的なことなど、この国について知っていることがあ
 れば書いてください。
 △日本となじみのない国   ×イスラム教徒と仏教徒が争っている
 ○最近内乱が激しく、政府軍とゲリラの市街戦が行われている。また、パキスタ
 ンの北部辺境地帯との結びつきが深まっている。旅行者はほとんどいない。
 ○かつてこの国で生まれたガズニ朝、ゴール朝がインドに侵入していった。最近
 イランなどの反米運動に呼応して反米運動をした。イスラム教団。
 △戦争をした
   [回答数6]
 
 生徒のアフガニスタンに対する興味・関心の低さは、@の結果によく表れている。列挙した9か国のうち「一番行ってみたい国」としてはアメリカ合衆国とスイスをあげたものが飛び抜けて多く、アフガニスタンは僅か1名。その理由としては「アニメーション映画『マルコポーロの冒険』をみて、シルクロードに興味を覚えるようになったから」という。しかし、なぜにこのように関心が低いのか。それは「一番行ってみたい国」の理由の正反対の理由が考えられる。それを裏付けるかのようにアフガニスタンのイメージは、「発展途上国、未開発国、生活水準が低い、貧しい国」というのが持つとも多く、以下、「熱帯にある暑い国」「砂漠」「宗教、イスラム」「遊牧」「未知の国」「不衛生な国」などが続く。勿論、これらの中には間違ったイメージも含まれているが、これらのイメージが生徒の興味・関心を低下させる要因になっていることは明らかである。
 アフガニスタンに限らず、欧米追従型の対外政策やマスコミの影響、さらには多くの日本人がもつ先進国意識など心理的な側面から、日本人の関心は一部の国を除くと、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国にはないといってよい。西アジアの産油国に対しては、石油ショック以来、日増しに関心が高まってはいるが、それさえあくまで石油に対してであり、大多数の人たちは、これらの国についての地理的知識を深めようとか、国民性を理解しようとか言うものではない。
 それ故、アフガニスタンに対する関心が低いからといって、別に驚く必要はないが、高校2年生で、しかも、地理選択者もしくは1年で地理を履修した生徒の回答としてはあまりの知識の低さに、教師として反省せざるを得ない。
 首都の「カブール」が答えられた者は110名中、僅か7名。首都以外の都市を知っている者は皆無。さらに位置は、「アジアの中」はともかく、「赤道直下」「アフリカ」「ヨーロッパ」など広範に及び、白地図上で位置が示せる生徒はせいぜい20〜30%程度と思われる。不毛の砂漠と山岳・高原の国が、ジャングルに覆われた熱帯の国になったり、マスコミの報道回数が増えているにもかかわらず、反政府ゲリラの活動を知っている生徒は僅か3名。
 憂うべきことながら、今度の東西間の衝突を予期させる緊張まで発展した「アフガン問題」で、今後、否応なく生徒の関心や知識も深まるであろうが。
 
3.私の見たアフガニスタン
 原稿枚数の制限上、自然環境、71年から75年の間に目についた変化、イスラームとアフガン人の生活、交通の4点に絞り書かせていただくことにした。
(1)メロンは薄く切れば冷える
 「世界の屋根」と呼ばれるパミール高原から南西にのびる一本の枝、海抜5,000〜6,000メートル級の高山を含むヒンズークシ山脈を背骨に、南にイランのルート、カビル砂漠に続くレギスタン砂漠を抱く、面積約65万平方キロメートル(日本の約1.7倍)の国土を擁する国、これがアフガニスタンである。四方はソ連、中国、パキスタン、イランに囲まれた内陸国。ベンガル湾からガンジス川沿いにやってくる夏のモンスーンも、パキスタンとの国境を形成するスライマン山脈に遮られ、ジャララバードの低地に僅かの雨を降らせて去っていく。降水量より蒸発量の方がはるかに多い乾燥した国。南西部のヘルマンド湖の付近では年降水量が100ミリにも満たない。特に夏季は雨が一滴も降らない日が続く。筆者が訪れたのは2度ともそのような乾季のアフガニスタンであつた。
 8月のアフガニスタンは暑い。特に日中は40度を超えることも珍しくない。しかし、空気は極端に乾燥している。洗濯物は直ぐ乾く。カブールの中心、アブドル・ラーマン(在位1880〜1901)の廟のあるザルネガル公園の泉水や、カブール川で、水浴を兼ねて、身につけている物を洗い、芝生や河原に広げ、当のご本人は木陰でのんびり昼寝をしている光景を見ることができる。一時間もすれば普通の物は乾いている。
 あまりきれいな話ではないが、日中炎天下、勿論エアコンの入っているはずもないバスに乗っていると、シートに接し、直接空気に触れない部分、特に尻や背中は汗でびしょ濡れになつてしまう。しかし、それも2,3分、通路にでも立っていれば、たちどころに乾いてしまう。しかも実に気持ちがいい。汗が蒸発するときに気化熱を奪うため一瞬暑さを忘れさてくれるからである。
 生活の知恵で、砂漠の民は古来から冷蔵庫代わりに科学的な気化熱の原理を応用し、まことにうまく利用している。羊の皮袋や素焼きの瓶に水を貯蔵するのもその一つである。皮袋の毛穴や瓶の小さな隙間からしみ出す水が蒸発するとき奪う気化熱で中の水は冷たく保たれる。水代わりによく食べられるスイカやメロンもこの原理を応用する。オアシスの道端には旅人目当てのスイカやメロンを売る小屋掛けの出店が必ずある。地べたに転がされたスイカやメロンは太陽熱を思いっきり吸収し熱くなっている。しかし、触ると熱くなったスイカやメロンも、ナイフを入れ、細かく切っていく内にしだいに冷え、口に持っていく頃には丁度食べ頃になっている。言うまでなく、薄く、細かく切れば、それだけ表面積が広がり気化熱で早く冷えるわけだ。
 だが、利用を誤ったり、侮ったりすると大変なことになる。筆者が、71年、ペシャワールからカイバー峠を越え、カブールのホテルに着いたときの話である。8時間のバスの旅で砂だらけになった身体の汚れを落とすため、何はともあれ一番にとシャワー室に飛び込んだ。そこまではよかったが、次の瞬間悲鳴をあげていた。氷水を頭からかぶったようなショックが全身を走り、しばらく震えが止まらなかった。それ以来アフガニスタンではシャワーを極力避けることにした。原理としては、頭からアルコールをかぶったのと同じであるから元気のある人は試してみるといい。
 また乾燥地と言っても、カブールやヒンズークシ山脈などでは冬季かなりの降雪があり、春は一面緑に覆われる。野生のチューリップなども可憐な花を付けるという。日本とほぼ同緯度にあるアフガニスタンは熱帯ではない。冬は寒く、海抜1,800メートルに位置したカブールでは−20度以下になることも珍しくない。
 南部の砂漠地帯は冬でも暖かいが暑くはない。この砂漠地帯でも時には雨が降る。豪雨になることもある。75年8月18日、アフガニスタン南部からパキスタンにかけて豪雨があった。それを知らぬ筆者らは、翌19ひ、タクシーを雇い意気揚々とカンダハルを発ち、次の目的地パキスタンのクウエッタに向かった。この国最大の河川、ヘルマンド川の支流、タルナック川やアルガスタン川の水量の意外に多いのに驚きながらも、移動中の遊牧民や岩山の散在する砂漠の景観に気を取られ、待ち受けている事態など考えもしなかった。カンダハルから100キロ、国境まであと僅か10数キロ、国境の町スピン・ボルダックの直前で行く手を遮られてしまった。なんと、ワジが氾濫し、濁流が渦巻いているではないか。川の中程で横転してしまったトラックからは積み荷のブドウの入った木箱が流れ出している。とても渡れる状態ではない。平生水の流れていないワジを横切る道路は建設費のかかる橋を架けていない。河床をそのまま、あるいは一定の幅舗装し道路として使用している。両岸に足止めをくった車の列、車体や積み荷を流すまいと腰まで使って悪戦苦闘する男たちを、ただ呆然と眺めていたが、気を取り直し、この日の国境越えはあきらめ元来た道を逆戻り、1日カンダハルで水が引くのを待つ羽目になった。
 植生が乏しく、水に対して無防備な砂漠では、一旦目が降れば、例え数十ミリの雨でも大きな被害を出す。溺死者すら珍しくない。幸い、翌日には膝まで水が引き、辛うじて渡河、国境も無事通過、パキスタン側の国境の町チャーマンに入ることができた。
 この時は、パキスタンに入ってからが大変で、豪雨による被害はアフガニスタン以上、主要道路や鉄道は各地で寸断されており、交通は完全に麻痺状態。そのためチャーマンからクウエッタまでのバスは絶望感に恐怖(バスはポンコツ、今にも分解しそうで、エンジンルームからは煤が出てフロントガラスに積もる。迂回路は断崖絶壁の上を通る悪路。)が入り交じり、さらに騒音(最大にボリュウムをあげた場違いなカーステレオの音。)と飢え(この日朝から口にしたのは、埃だらけのブドウ一房と泥水の濁り消しにミルクを入れた紅茶2杯。)と疲労で散々だった。後日、クウエッタからカラチに向かう飛行機から見たインダスの支流一帯は泥水に沈み集落のみが孤島のように浮かんでいた。
 
(2)変わったのは肖像画とコカコーラだけ?
 1971年に訪れたときには、まだ、モハマッド・ザヒール・シャー国王の治世下で王制をとっていたアフガニスタンであったが、75年に訪れたときには、王制は廃され、共和制に移行していた。2度目の旅の目的の一つは、王制から共和制に変わったこの国の姿を自分の目で確かめることであった。
 一体何が変わっていたか。まず国名が「アフガニスタン王国」から「アフガニスタン共和国」に。国旗のデザインも少し。71年には国中に氾濫していた国王の肖像画や写真が一掃され、ダウード大統領に。紙幣も大統領の肖像の入った新札に切り替えの真っ最中であった。
 政権が変わり、政治形態も変われど、日々の生活に追われる庶民の姿は4年前と同じであった。バザールの喧噪。チャイハナにたむろする男たち。一日5回の礼拝(サラート)を欠かさぬ敬虔なイスラームの民。
 ただ、場違いのように、チャイハナの店先に積まれた瓶詰めコカコーラの山が、新生「アフガニスタン共和国」を象徴するかのようであった。
 71年には、まだこの国に、コカコーラの本格的進出は見られなかった。カンダハルの安宿でコーラを頼んだら、冷蔵庫の奥から表面に錆の浮いた缶入りペプシコーラを1本、大事そうに持ってきてくれた。その時の言い値が40アフガニー(当時約170円)。この安宿の宿代は1泊30アフガニーだった。多分、パキスタンかイランから遠路はるばる持ち込まれた物であろう。
 ところが、この4年間に米国資本の代表的多国籍企業コカコーラ社は見事にこの国を制圧していた。他の物価に比べ、かなり高価(1本10アフガニー)ではあったが、喉の渇きに、背に腹はかえられず、筆者らも毎日2、3本は飲む羽目になった。
 アフガン人は一般に無口であるが人が好く、素朴で親切である。勿論、遊牧民の血が流れる彼らは勇猛果敢で知られる。3次にわたるアフガン戦争で、ついにイギリスの支配から脱し独立した歴史が如実にそれを物語っている。しかし、アジアハイウェーの整備に伴う外国人旅行者の増加は、観光客目当ての雲助タクシーや人の弱みにつけ込み営利を貪る連中を増やしていた。石をぶつける子供が少なくなったかわりに、素朴で愛らしい子供もまた少なくなっているように思えた。
 行きづりの一旅行者が、とやかく言う資格はないが、政治形態がかわったとは言え、所詮上層部の主導権争いの域を出ていない、いわば「上からの革命」ではなかなか民衆のレベルまで何も浸透してこない。文盲率90%ではなおさらである。偶像崇拝を禁止しているイスラーム教国で何か矛盾しているようであるが、大統領の写真や肖像画を飾り立てるのも、政権交代を公示し、民衆の心を掴む手段としてやむおえぬことなのか。
 78年4月の人民民主党によるクーデター後はダウード大統領からタラキ議長に、79年9月の政変後はアミン議長に、12月のクーデターではカルマル議長に、その写真や肖像画は次々変えられたという。バザールの写真売りは政変に実に敏感に反応を示す。アミン議長の処刑後は早速カルマル議長とともにタラキ元議長の写真も復活したという。
 
(3)礼拝・女性・酒・麻薬
 カンダハルからヘラートに向かうバスの中。カンダハルを出て3時間余り。真っ赤な太陽が地平線に没し、残光が西の空を染め、やがてそれも南北から広がってきた藍色の天空に占領されてしまった。旧式のベンツを改造したポンコツバス。3人掛けと2人掛けの硬い座席。合わせて定員40人程か。そこに5、60人も乗っていたのだから、当然、通路まで乗客で満員。その上、屋根の上から座席の下さらには通路まで種々雑多な荷物であふれている。その通路の荷物の上に座り水煙草を吸っていた老人が、筆者に話しかけてくる。ハザラ族(蒙古系の少数民族でアフガニスタン中央部のハザラジャートに多く住む)の男に間違えられたのかも知れない。残念ながらこちらはアフガン語(パシュトゥ語ともいい、ペルシャ語に近い)の知識が全くない。意味を理解しかねていると隣席の青年が助け船を出してくれた。どうやら日没直後の4回目の礼拝のことだったらしい。やがて老人は荷物の上に白い布切れを敷き、裸足になってその上に正座する。時速100キロ以上で走るバスの中、散在する岩山と緩やかな起伏を除いて、何一つ視界を遮断するもののない直線上の道、とは言えメッカの方角が簡単に定まるわけではない。しかし、老人は構うことなく、周りの人に聞きただし、それなりの方角を定めた。そして、持参の水瓶の僅かな水で口をすすぎ、身を清めた。しきたり通りの沐浴をすますと両手を耳に当て、アラーを讃えるコーランの一節を口ずさみながら礼拝を始めた。長い老人の礼拝が終わると、今まで大声でしゃべりまくっていた前席の男がかわって座つた。それまでの彼とは全く異なる敬虔な表情になり、「アッラーフ・アクバル」(神は至大なり)と唱え始めた。
 日常生活の中に深く浸透し、生活の糧として、規範として、あらゆる面でその拠り所になっているイスラーム。まだ夜も明け染まぬ日の出前の晨の礼拝から就寝前の礼拝まで1日5回の礼拝を、時には焼け付く砂漠の中で、また時には目も開けられぬ砂嵐の中で、一回も欠かすことなく行う彼らを見るにつけ、ただ驚嘆するばかりであった。
 バスの中でも例外でなかったのだ。
 旅行者にはラマダーン(9月)の断食(サウム)や礼拝が一時免除されているとは言え、この国では、運転手がイスラームである限り、時間がくれば不毛の砂漠であれ、無人の山中であれ、礼拝のために止まる。水がなければ砂で沐浴し、乗客の中の年長者かイスラームの教義に造型の深い者が先導者となり一斉に礼拝を始める。例え石ころだらけの砂漠でもこの時ばかりはマスジット(回教寺院)に早変わりする。
 非イスラームの乗客はこうなるともう全く形無しである。少し離れたところにたむろし、多分に気恥ずかしさを感じながら眺めている。そして、彼らの身体から自然に発散する宗教的威圧感にのまれてしまうのである。
 だからといって「イスラームは排他的である」と言う俗説は当てはまらない。かつて、ギリシャ・ローマの文化を継承し昇華させたイスラームは寛容で合理的である。例え異教徒であっても、困窮者や旅人には異常と思えるほど献身的に援助の手が差しのべられる。大きな危険はないにしろ、言葉の不自由な筆者らは、旅の途中で何度も立ち往生することがあった。しかしその様なとき必ず救いの神が現れ、無事難関を突破することができた。「余裕のある者は困窮者を援助せよ」すなわち喜捨(ザカート)や慈善行為(サダカ)はイスラームに課せられた義務であり、最も重要な行為の1つなのだ。逆に彼らにとって、困窮者たる自分たちが、余裕のある者によって喜捨や慈善行為を受けるのは当然の権利であり、アッラーに感謝こそすれ行為者に感謝する必要はないと考えている。それ故、もし旅先でどちらか一方だけの現場に出くわせばイスラームに対する認識は相反するものになる。ある人は「イスラームは兄弟愛にあふれ、慈善深く、親切で、心暖かい」と言い、ある人は「イスラームは排他的で、欲深く、無遠慮で、厚かましい」と言う。それぞれ正しいようで正しくない。喜捨(ザカート)の精神を理解してはじめてその謎が解ける。
 アフガニスタンは男の国である。少なくとも旅人にはそう映る。バザールの売り手も買い手も通行人も、公園で憩う二人連れも、チャイハナで日がな一日座っている老人も、その殆どが男である。地方都市ほどその傾向が強い。たまに見かける女性は通学途上の女学生か、水たまりで洗濯しているや道端で泥んこ遊びをしている幼児、さもなければ頭からすっぽりチャドリを覆った年齢不詳の女たち。
 「マホメットよ、男たちに言ってやりなさい。慎み深く目を下げて、陰部は大事にしまっておくように。それから女たちにも言ってやりなさい。慎み深く目を下げて、陰部は大事にしまっておくように。外に出ている部分は仕方がないが、その他の美しいところは人に見せないように。胸は隠しておくように。」(コーラン24章31節)
 これはあまりにも有名なコーランの一節である。イスラーム女性のチャドリも、街の中に女性の姿の少ないのも、また女性に対する偏見も、一夫多妻制の認可とともに、これによるところが大きい。厳しい自然に生きるアフガニスタンではイスラームの厳しい戒律こそ生活の拠り所であり、生活のすべてであると言っても過言でない。女性隔離の風習もそれを反映している。
 しかし、最近では多くのイスラーム国家でチャドリの禁止が実施され、女性の素顔がみられるようになった。保守的なイスラーム国家でも近代化の波に、しだいにベールが剥がされ、知識階級を中心にチャドリの追放と女性の地位向上の要求が起こっている。アフガニスタンも例外ではなく、73年の革命以降、女性の進出が目立ち始めたという。筆者の見た限り、大きな変化はないようにであったが、観光客の増加もあり、外国人が大半であるが、カブールの新市街地では素顔の女性が増えていた。郵便局などの公共機関や公共施設の窓口業務に就いた女性に応対されることもあった。78年の革命後は、社会主義路線をとるタラキ政権の下で土地改革とともに女性開放政策が打ち出されこの傾向は加速されたと言う。タラキ政権誕生後発生した反政府ゲリラ活動の発端は、このような反イスラーム的な政策に対する地主層や旧勢力を中心とした保守的イスラーム教徒の反発である。イスラームへの回帰を求める点においてはイラン革命とアフガンの反政府活動は共通している。イランでは再びチャドリを着けることが強要されているという。しかし、女性の地位回復を求める運動はこれによって後退するものではなく、イスラーム世界全体の問題として今後も進展していくものと思われる。
「アッラーが汝らに禁じ給うた食べ物といえば、死肉・血・豚の肉、それからアッラー以外の名が唱えられたもの・・・」(コーラン2章168節)。コーランを引用するまでもなく、イスラーム教徒は豚肉を忌み嫌うという話はよく知られているが、牛肉もあまり食べない。肉と言えば羊肉をさす。だから、アフガニスタンでは、質にもよるが、羊肉より牛肉の方が安い。脂身が少なく、堅いことを我慢するなら、カブールの中級ホテルのレストランで、30〜40アフガニー(150〜200円)も出せばビーフステーキを食べることができる。
 「禁じ給うたもの」と言えば、もう一つ忘れてならないものに酒がある。禁酒国アフガニスタンは左党にとっては苦行の国である。街にカバブ(焼き肉)屋はあっても、酒はないるチャイ(紅茶)をすすりながら、シシカバブを食らい、早々に退散するしかない。勿論、異教徒である外国人が飲むのは構わない。ボトル1本は持ち込みも可能。だが、それが空になったら出国まで覚悟が必要。大金を払う余裕があれば別だが。パキスタン産のビールの大瓶が150アフガニー。外国人のために特に酒類の販売が許されているカブールはカイバー・ホテルでのお値段。物価の安いこの国では異常な値段である。ちなみにこれだけあれば安宿に一週間滞在できる。
 ところが外身と中身は大違い。71年、カブールで5泊したホテルでの話である。このホテルでは毎週水曜日の夜に、2階のレストランでアフガンの民族音楽を奏でるパーティが開かれる。いつもよれよれのワイシャツに折れ目のとれたズボンのボーイが、この時ばかりはスーツに身を包み、ネクタイを締め、はりきっている。客も正装をして集まり、連れのご婦人たちはチャドリも被らず、レースのドレスさえ身につけている。男女別々のグループに分かれテーブルについた紳士、淑女たちは別に食事をとる様子もなく、談笑しながら単調なメロディに耳を傾けている。午後9時から始まるこのパーティは夜中の3時頃まで続く。予約制になっているのか、会員制になっているのか分からない。筆者も民族楽器の音色に誘われ覗いたところ、「例え宿泊客でも入場禁止だ」と、ボーイに追い返されてしまった。しかし、幸い、その様子を見ていたホテルの支配人の好意で入れてもらうことができ、1時間余りアフガンの生の民族音楽を楽しむことができた。その内、客の様子が何となくおかしいのに気づいた。ボーイもおかしい。いつもレストランにいて「アフガンの日本人」と自称しているハザラ系のボーイの顔が赤くなっている。酒だ。いつの間に飲んだのか、客の大半にアルコールが入っている。イスラームの厳しい戒律を生活そのものとして生きているアフガンの人々を見てきた者にとって驚きは大変なものだった。だがその後注意して観察していると、酒を飲んでいるものは意外に多く、深夜に街路を千鳥足で歩くトラ族も見ることができた。ところで、このパーティーだが、時がたつにつれリズムが激しくなり、参加者は陶酔状態になっているようであった。どうも、アルコールの所為だけではない。
 イランからアフガニスタンにかけてはマルコポーロの「東方見聞録」に出てくる「山の長老」の話で有名な「暗殺教団」(シーア派の一派、ニザール・イスマイル派)の暗躍したところであり、彼らが用いたという麻薬ハシシュ(暗殺者=アサッシンの語源となる)の本場でもある。大麻を精製したハシシュは簡単に手に入る。アフガン人は煙草でも吸う気軽さでハシシュを口にしている。カブール〜ヘラート間1,000キロ、1人でハンドルを握るバスの運転手は疲労と眠気を紛らわすためにしきりにハシシュを吸っていた。カンダハルの土産物屋で品定めをしているときも、この店の主人、何を思ったか、壁に掛けたアフガン服のポケットから茶色の樹脂状の固まりを取り出してきた。ニヤリと笑って「いらないか」と言う。一瞬それが何なのか見当がつかなかったが、よく見ると大麻樹脂であった。その時は聞きそびれたが、相場は1グラムが20〜30アフガニー(100〜150円)だそうである。アジアハイウェーを走るとヨーロッパナンバーのポンコツ車によく出会うし、長距離バスには髭面に、薄汚れたよれよれの服を着たヒッピーが必ず乗っていた。ネパールのカトマンズとともにカブールは流浪の民ヒッピーの聖地と言われている。彼らの目的は言うまでもなく麻薬である。
 現場を見たわけではないが、このパーティーでも酒と一緒に麻薬も使われていただろう。マリファナパーティーのアフガン版と言いたいところであるが、実際はそれほど不健康なものではなかった。娯楽の少ないこの国では仕方のないことかも知れない。ただ、イスラーム世界にも西欧文明による近代化の嵐の中で、その精神的変革を迫る波がやってきていることは明白である。急速な変革に対しては当然反発が起きる。前述のイラン革命やアフガンの反政府ゲリラ活動、さらにはパキスタンのブッド政権の崩壊などすべてに共通した原因である。だが、酒や麻薬など道徳的退廃はともかく、本来寛容で融通盛のあるイスラームは捨てるべきを捨て、受け容れるべきを受け容れ、この変化に冷静に対応していくものと思われる。カブール川に架かるつり橋の上で、ふと、前を歩くチャドリ姿の女性の足下を見ると、ハイヒールにナイロンストッキングがのぞいているではないか。ニューファッションの上にチャドリ、これこそ現在のイスラームを象徴しているのではないだろうか。
 
(4)背中をつつく鶏
 アフガニスタンには鉄道がない。飛行機を除けば自動車が唯一の近代的な交通機関である。しかし、道路の方はソ連とアメリカ合衆国の援助合戦で整備されたアジアハイウェーと一部の環状路線を除いて、未舗装の凸凹道である。一歩、間道に入ると道とは名ばかり、砂漠の上に残る轍の跡がやつとそこが道であることを示している場合も少なくない。そのような道を、ひどい砂埃をあげ、数十頭、数百頭のらくだや羊の群を追いながら移動する遊牧民の一家を散見するのもアフガニスタンならではの風物詩ではある。大荷物を背負わされバザールの中を巧みにかき分け、急ぎ足で通り過ぎるロバの一団。タクシー代わりの馬車。これらはまだこの国に原始的な駄獣交通や担夫交通が主要な交通機関として残存していることを示している。
 主要都市間には、定期・不定期のバスが運行されている。乗客数に応じて便数もまちまちであるが、「アフガン・ポスト」「カデリ」などを除いてあまり大きな会社はないようである。1、2台のトラックを改造したスクラップ同然のバスを保有した、個人タクシーならぬ個人バスもある。それだけに幹線のバス路線では客引き合戦も激しく、当然バス料金にも差がある。概して設備のよい「アフガン・ポスト」でカブール〜ヘラート間(約1,050キロ)が200アフガニー。1アフガニーは約5円。73年の革命後、インフレ状態が続いているという情報もあったが、バス料金に関する限り、値上げもなく、1,000キロ、1,000円は維持されていた。だが、このバス、床には穴が空いているし、フロントガラスはひび割れ、ボンネットはない。それでいて100キロを越えるスピードを出すのだからたまったものではない。事故の内のが不思議なくらいである。その上、乗客も荷物も車体が潰れるほどのせる。
 ヘラートからカンダハルに向かうバスの中での話だが、砂漠と岩山の間に点在する遊牧民の黒いテントに気を取られていると、誰かしきりに背中をつつく。振り返ってびっくりした。なんと座席の隙間から鶏が3羽、首を出しているではないか。後席の男が持ち込んでいたのだ。目を合わせても、別に謝るでもない。
 この鶏に羽虫でもいたのか、それとも座席に南京虫でも巣くっていたのか、その時から体中に痒みを覚えるようになり、ついにカブール到着後、右足首が真っ赤に腫れあがり、膿がたまり、歩行に支障をきたすまでになった。
 バスの積み荷は鶏ばかりではない。礼拝のためバスが止まったとき、ラジエーターが破損したのか、バスの車体からかなりの水が流れ落ちていた。これは大変なことになったと思ったが、運転手は別に慌てている様子もない。礼拝が終わるとそのまま出発した。この水の正体はそれからしばらく走ったギリスクの停留所で明らかになった。ここで、数人の男が下車したが、その中の一人が床下のトランクに羊を数頭載せていたのである。ラジエーターの水漏れと思ったのは実は羊の排泄物であった。道理で走行中、床下で何か変な音がしていたわけだ。バスの中が厩のように臭い理由も分かった。
 他に交通機関のないこの国では、数少ないバスやトラックが、ロバ、馬、ラクダなどの駄獣とともにみんなの足であり、貨物輸送もそのすべてを担っている。それ故に余裕がある限りトラックが乗客を拒むことはないし、バスが積み荷の内容を制限することもない。人間と家畜が同乗する事になっても、乗客から苦情が出ることもない。「パロワネス」(気にしない)だ。気にすればこの国ではバスにも乗れない。文句を言えば降ろされてしまうだろう。この国では運転手は強い。数少ない技術者だ。
 
4.おわりに
 「文明の十字路」とか「シルクロードの十字路」と呼ばれるアフガニスタン。辺境の地アフガニスタンにも、最近では、シルクロード熱のあおりから多くの日本人が訪れるようになった。The Republic of Afganistan Annual −1974 によれば1969年に入国した日本人は786人であったが、1972年には1,764人に増加し、全外国人入国者に占める割合も1.2%から1.6%に増加している。手元に資料はないが、73年の革命以降、新政権の観光政策も関係し、日本人観光客は急増しているという。
 75年の時であるが、カブールのホテルで偶然日本人団体客と一緒になった。東京及びその周辺の小中学校の先生方が殆どだったが、その中に大学の同級生の顔を見たときには本当に驚いた。卒業後10年あまり、年賀状の交換こそしていたが、まさかカブールで再会するとは。「地球は小さく、狭い」と、この時ほど感じたことはない。
 日本人観光客が増加しているとは言え、海外旅行ブームの今日、年間日本から出国する人285万(1976年)、その0.1%にも満たない、いわば物好きな者が訪れているのがアフガニスタンか。高校地理Bの教科書でもこの国に関する部分は僅か2、3行。手元にある5社の地理Bの教科書の内1社のものには記載さえない。ちなみに最も詳しいと思われるN社の教科書を例に挙げると「アフガニスタンでは、羊・やぎの遊牧、オアシス農業および乾燥農法による農業が行われている。パミール高原から南西にのびるヒンズークシ山脈などの山間盆地に発達した都市は、首都のカブールをはじめ、かつて東西交通、シルクロードの要地として栄えた」(以上121文字)。
 やはり日本人にとっては未知の国である。生徒の無知を責めることはできない。蛇足になるが、先日のソ連の軍事介入に関するテレビの特集番組で、「アフガニスタンでは、山と平原の所々に湧き出す泉、オアシスに集落がかたちづくられていた」という解説があった。ところがこの国のオアシスのほとんどは、ヒンズークシ山脈などから流れ出す河川のほとりや、はるか離れた所から、地下水をカレーズと呼ぶ地下暗渠によって地表に導き出した所に成立している。「オアシス=泉」という固定観念も間違いである。
※カレーズやアフガニスタンの遊牧民については岡山大学教育学部社会科地理教室発行の巡検記第7輯に「パキスタン・アフガニスタン紀行」という一文を載せているので、今回は省かせていただいた。
 
 前後2回、延べ20日間の滞在で、しかも、点と線のそれこそ象の額をなでるような旅行でこのようなものをまとめるのは気が引けたが、誤解や誤りも覚悟の上であえて思いつくまま書いてみた。ご叱正賜れば幸甚である。
 原稿を書き始めて4週間、筆者のスクラップブックは連日アフガニスタンの記事で埋まっている。「カーター大統領のソ連のペルシア湾介入に対する新ドクトリンの発表」「米国オリンピック委員会のモスクワ五輪中止または開催地変更・会規延期の決議」「ソ連、サハロフ博士流刑」「イスラム外相会議、ソ連介入非難決議」などなど。この連載記事が一日も早く完結し、アフガニスタン人によるアフガニスタンの平和な生活がも度つてくることを祈ってやまない。そして、三度この国を訪れる日の来ることを切望している。
 最後にこの2回にわたる旅を共にした片山智士先生、75年の旅を共にした藤沢 雅、小川尊一の両先生に謝意を表すものです。    (1980年2月1日)
         付表   アフガニスタン略史
 西暦 (年)      歴  史  的  事  項
BC1500
   330
   305
AD 135
   241
   642
   872
   962
  1148
  1220
  1369
  1504

  1747

  1826
  1838-42
  1878-80
  1919
  1921.11
  1929. 1
  1933.11
  1973. 7
  1978. 4

  1978.6-11
  1978.12
  1979. 2
  1979. 8

  1979. 9
  1979.12

  1980. 1
アーリア人の侵入
アレキサンダー大王によって征服される
マウリア朝による支配(アショカ王BC268〜233)
クシャナ朝による支配(カニシカ王の仏教奨励、ガンダーラ美術)
ササン朝ペルシアの支配下になる
ササン朝ペルシアの滅亡(イスラームの侵入)
サーマン朝の成立(ボハラ中心)
ガズニ朝の成立
ゴール朝の成立
モンゴルによる支配(主要都市の破壊、カレーズの破壊)
チムール朝の成立(ヘラート栄える)
ムガール帝国、バーブル(1483〜1530)による支配
   カンダハルを境に西はペルシア、東はムガールに
マフマド・シャー・ドウラニ即位
      (「アフガニスタンの父」、カンダハル首都に)
アミール・ドスト・ムハマド即位(バラクザイ朝の成立)
第一次アフガン戦争
第二次アフガン戦争    イギリスの保護国になる
第三次アフガン戦争
独立
アマヌラ王イタリアに亡命、ナディール・シャー即位
ナディール・シャー暗殺され、ザヒール・シャー即位
クーデターにより王制廃止、共和制に移行、ダウード大統領就任
人民民主党によるクーデター、ダウード政権倒れ、タラキ政権誕生
共和国から民主共和国に移行し社会主義政策をとる
人民民主党の内部抗争から旧ハルク党によるパルチャム党の追放
ソ連アフガニスタン友好善隣協力条約締結
アフガニスタン駐米大使、シーア派回教徒によって殺害される
反政府イスラム教徒組織「イスラム戦線」ラズマト州にイスラム政府樹立したと発表、反政府ゲリラ活動活発になる
アミン首相による宮廷革命によりタラキ議長失脚、アミン議長就任
カルマル元副議長によるクーデター起こり、アミン議長処刑。ソ連の軍事介入、米ソの対立深まる
国連緊急総会においてソ連の軍事介入非難の決議行われる
      「An Historical Guide to Afghanistan」「朝日新聞」より作成