アンコール・ワットとルアン・パバーンの旅
2008年4月7日〜13日
4月7日(月)
4時過ぎ起床。駅前より5時発の高速バスに乗る。JRの半額以下の料金。時間はかかるが乗り換えなしで便利。インターネットで新幹線・在来線のセット予約できなくなり、ばらばらで予約したものをキャンセルすると手数料1,060円も取られ、頭に来てバスに切り替えたが、手数料を払っても、往復すれば半額に。これからはバス。
しかし、乗客は駅で乗ったのは二人、岡山インターで一人、山陽インターには誰も居らず、結局、わずか三人。これでは採算割れ。この路線いつまで持つのか心許ない。
6時半、権現湖PAで10分休憩。昨日までの天気も今朝まで。しだいに雲が厚く。見頃を迎えた桜も、この雨で散り始めか。
8時10分、定刻よりもかなり早く関空着。
4F、団体受付カウンターで航空券を受け取る。思っていたより混雑している。新学期がはじまり、海外旅行も一段落かと想像していたが、年金生活者が多くなった昨今、余り関係なさそうだ。
VN941便はJALとの共同運行便。Gカウンターでチェックイン。ホーチミン乗り継ぎで、シェムリアップまで。窓側座席確保。
3Fの「そじ坊」で朝のメニュー。エディーでの支払いは、また、一年ぶり。
9時20分、出国手続き。セキュリティ部署は大混雑。やむを得ぬこととはいえ、厄介なこと。31番ゲート、10時半集合、35分搭乗。家に電話入れる。
ベトナム航空、777-200型機。14K席。三席独占。
定刻の11時、ゲートを離れる。雨、大降りに。
12時10分、ランチ。赤ワインで眠気。14時過ぎまで仮眠。
日本時間16時23分(ベトナム14時23分)ホーチミン着。ベトナム海岸線の地表、まるで塩でも吹いているかのような白、ラトソルむき出しの赤、水田・マングローブ林の緑と不思議な光景。荒涼とした白が気にかかる。ホーチミンは急速に拡大。都市化の波が周辺農村に。赤屋根の新築家屋見られる一方、トタン葺き片流れ屋根の古い民家密集地も。
ホーチミンでは約2時間の待ち合わせ。
16時30分発のVN829便に。三年前工事中だった国際線のターミナルビルがほぼ完成し、昨年より使用されている。連絡通路など一部はいまだ工事中。免税店などの店舗数少なく、商品の種類も乏しい。空き店舗もあり、これからか。
11番ゲートより駐機場まではバスで移動。エアーバス321型機。25G席。また三席独り占め。
16時35分、離陸。カンボジア出入国カードの記入中、簡易なスナック(フルーツ、KitKat、水)配られる。眼下を見れば、黄土色の湖水。トンレサップ湖か。定置網も。湖上住居も。
17時30分、定刻にシェムリアップ着。韓国人ツアー客、目立って多い。VISA申請。20ドル。わざわざ高い金を払って、旅行社に取ってもらわなくても、最近は到着時に空港でVISAの取れる国が多い。空港内の銀行で両替。一万円が345,000リエル。ドル安にかかわらず、ドルの換算率がよい。東南アジアにはドル持参おすすめ。
出口で、現地案内のコイさん出迎え。車でホテルまで約15分。道路沿いには真新しい高級ホテルが並ぶ。いかにも観光地。漢字とハングルの看板やたら多し。華僑や韓国資本の進出をうかがわせる。
サリナ・ホテルのロビーで明日の打ち合わせ。フリー・ステイで申し込んでいたため、明日、明後日午前中、アンコールワットでブラブラするつもりでいた。しかし、効率よく見るには現地ツアーに加わるのが気楽と考え直す。カンボジアの物価から考えれば高額だが、昼食込み70ドルのツアーに。
部屋に荷物を置き、早速、街へ。ホテルから歩いて15分。セントラル・マーケットへ。土産物屋ばかり数十軒。一回りし、帽子とTシャツを買う。声はかけてくるが、あまりひつこさはない。通路に座って食事をする家族も。
シヴォタ通りに面したレストラン、「DAMNAK KHMER」の二階で、カンボジア風の肉とチャーハンのセットを頼み、アンコール・ビールを一杯。
ガソリンスタンドのマーケットで缶ビール(0.65ドル)、ミネラルウオーター1.5l(0.65ドル)。マンゴスチンは一個60円ほど。21時20分、部屋に戻り、シャワー。さっぱりしたところで、缶ビールを飲み、NHKの衛星放送を見ながら就寝。
4月8日(火)
エアコンのせいか何度も目が覚める。
6時過ぎ、ホテルを出、オールド・マーケットに。すでに朝の賑わい。やはり生鮮食品売り場がいい。トンレサップやメコンの魚、血の滴る肉塊、裸にされたニワトリ、香菜やトロピカルフルーツ。マーケット中程の屋台ではうまそうなフォーをすする人も。ドラゴンフルーツを一個、ランブータンを0.5kg買う。230円ほど。
シェムリアップ川沿いにワットプリヤまで行き、再びオールド・マーケットに戻り、7時40分、ホテルに戻る。
朝食は、コーヒーにもっとも簡素なコンチネンタルを。
8時半、ロビーでガイドのシラーさんを待つ。ソファーに座っている青年、どうやら同じガイドを待っているらしい。
ホテルからアンコルトム南門まで車で二十分ほど。「カンボジアの面積は、18.1万kuで日本の1/2。人口1450万人。ほとんどの人が農村に住んでいて、農業中心の国です」、「一人あたりの国民所得は450ドルほど。賃金は月に30〜70ドルぐらい」、「今は乾季、一年で一番暑い季節です」。シラーさんの聞き取りにくい日本語に耳を傾けているうちに遺跡入場のチェックポストに。一人一人写真を撮り、アンコール・パスを発行。一日券が20ドル。カンボジアにとって大きな収入源。
シラーさんの話をメモする青年、最初は同業者かと思っていたが、実はベンチャー企業の若き経営者。ハノイで開催された「桜まつり」の主宰者として参加された後、一人でシェムリアップに来られたとか。このような青年に出会うと、気持ちが救われる。日本も、日本人も、まだまだ捨てたものではないなと。
アンコールワットの濠沿いの道を時計回りに半周し、アンコールトム南大門前で車を降りる。一辺3キロの城壁と濠に囲まれたアンコールトムは12世紀末、アンコール王朝のジャヤヴァルマン7世によって再建された城都。アンコール(大きい)、トム(城都)。大蛇で乳海を攪拌する阿修羅と神々の像をモチーフにした欄干のある橋を渡り、クメールの微笑みで知られる菩薩の顔を持つ塔の下を抜け、城内へ。
再び車に乗り、アンコールトムの中心、バイヨンに。バイヨンは、元来、大乗仏教の寺院。寺院であると同時に天界の中心、須弥山を現していると言う。城壁はヒマラヤ、濠は大海と。塔を彩る四面体の観音菩薩は遺跡の象徴。寺院内に49体、五城門に1体ずつ、計54体あり、王国内の州の数と一致すると言う。
第一回廊から拝観。回廊に描かれた浮き彫りの壁画。チャンバンとの戦闘、庶民の生活が生き生きと、しかも面白く描かれている。その風貌も、クメール、チャム、中国人と見事に描き分けられている。
第二回廊はヒンドゥー教の神話や伝説に基づくものが中心。仏教徒だった7世の死後、ヒンドゥー教寺院に改修されたために仏像が破壊されたり撤去された跡が残る。
本殿の中には、リンガの置かれた祠もある。しかし、現在、上座部仏教を信仰するカンボジアの人々は、祠に再び仏像を置き、信仰の場としている。
本殿で、しばらく休憩。四面体の観音像をゆっくり拝観。しかし、それにしても暑い。ペットボトルの水が、みるみるなくなる。
本殿から北側の広場に出る。ラテライトの赤く硬い石を削り、遺跡の修復作業が行われている。観光客を乗せた象が二頭。地元の人にとっては遺跡も生活の場。
北門に向かって大きな広場があり、西側に、アンコールトムの建都以前に建立されていたヒンドゥー教寺院のバプーオン、ピミヤナカス、そして王宮跡などが残る。広場に面した象のテラスは閲兵のため、ライ王のテラスは内側に迷路のような溝があり、二重構造になっていることから外敵の侵入を防ぐための建造物と言う。その迷路に入ると、地雷で足を失ったのか、男が一人物乞いをしていた。カンボジアの現状を垣間見る。
勝利門まで歩き、車に乗る。
王位継承の争いの中で、建設途上に放置された寺院タケウ(壁面を飾る浮き彫りなどが全くない。当時の寺院建設の過程を知る上で貴重な遺跡)の横を抜け、タブロムへ。
アンコールワットの遺跡群が、かつてジャングルの中に埋もれていた姿を、今も垣間見ることのできる遺跡がタブロムだ。シャヤヴァルマン7世が亡母のために建立した仏教寺院。ガジュマルをはじめ熱帯の巨木が石積みの隙間や割れ目に根を張り、遺跡全体を包み込んでいる。人間の奢り、自然の圧倒的な力、この遺跡群で一番の見所。しかし、韓国人ツアー一行の賑やかで度を越した行為にうんざり。
午前の観光はここまで。一旦、シェムリアップに戻る。
ホテル斜め前のレストランでカンボジア料理の昼食。薩摩揚げ、カボチャ(カンボジアからつけられた作物名)、餅米と、あまり変わったものはない。Tさんとはここで別れ、ホテルに。3時まで、シャワーを浴び、トロピカルフルーツを味わい、昼寝。
3時、ロビーでシラーさん、Tさんと合流。
車で、再び、チェックポストに。アンコール・パスを提示し、確認を受ける。参道入り口で、下車。ここでもパスをチェック。頻繁にチェックされるため、ツアー客はIDカードか定期券のように首からぶら下げている。
濠に囲まれたアンコールワットの参道は、西に向いた寺院正面から真っ直ぐ延び、濠の中を貫いている。入り口には日本人にはなじみのある狛犬(阿吽ではないが)と蛇神。参道の修復は右半分がフランス、左半分(一部は未修復)は日本の援助によるもの。お国柄が表れる修復・援助。信仰の対象として修復しようとするインドは古色は不要。汚れを落とし、化粧を。 フランスは修復より修繕。新しい資材をどんどん使う。日本は修復にこだわる。崩れ落ちた遺跡の破片の一つ一つを元の状態に積み上げ、使っている。当然時間がかかる。ガイドは時間がかかることを笑っていたが、パズルは時間がかかるもの。
城門の中に仏像が一体。ヒマラヤを形取ったという城壁の内側にも石畳の参道が延びる。その正面に、三重の回廊に囲まれた中央祠堂を頂上とする須弥山、すなわちアンコールワットが聳える。参道脇の経蔵の一つも日本の援助により修復されたもの。写真を撮りながら聖池の畔に。観光客全員、必ずこの池の畔で、中央祠堂を背景に記念撮影している。
まずは第一回廊へ。西塔門から時計回りに。見事なレリーフを拝観。ラーマーヤナ、神々と阿修羅の戦い、クリシュナとバーナの戦い、ヴィシュヌと阿修羅の戦い、乳海攪拌(一部修復中)、天国と地獄、スールヤヴァルマンU世の行軍、マハーバーラタと、一巡。インドシナにおけるヒンドゥー文化の影響とその大きさを思い知らされる。
薄暗い十字回廊を通って第二回廊に。十字回廊の列柱の一つに、1632年、肥州の武士、森本右近大夫の墨書(要は落書き)が残っている。当時、アンコールワットは祇園精舎と考えられていたそうだ。落書きも時がたてば文化遺産に?
第二回廊に向かう階段右手奥の壁に未完成の女神のレリーフがある。レリーフがワット建立後に彫られたことを証明するものとして貴重な存在に。
回廊内部には大小多数の女神像。乳房の部分だけが黒光りしているのは?
回廊に残る仏像は、後に置かれたもの。変幻自在のヒンドゥーの神は、お釈迦様にも姿を変えたと信じられているのだから、ヒンドゥー寺院が仏教寺院に変わってもおかしくない。アヤソフィアのようにキリスト教会をモスクに変えた例もある。
第三回廊(中央祠堂)は補修工事等の関係から立ち入り禁止に。第二回廊を一回りして、外に。
車で、夕景スポットとして知られるプノンバケンへ。アンコールワットにやってくる全ての観光客が、夕方になるとここに集まってくるのか、大混雑。物売りも集まり、夕景を楽しむ雰囲気ではない。60mほどの小丘とガイドブックには書いていたが、実際はもう少し高いのでは?木々の生い茂った山道を20分ほど登ると、山頂に石積みの寺院遺跡が。幅の狭い、急な石段を登り、中央祠堂に。すでに夕景スポットは観光客で埋まり、頭と頭の間からのぞき見をしなければならぬほどの混雑。6時までと下で待つシラーさんに言われていたが、木の間に夕日を受けるアンコールワット、まだ高い夕日に光る湖面の西バライを眺め、早々に遺跡の急段を下りる。スリランカのシーギリア遺跡を思い出す急段。暗くなったら危なかしくて。
ツアー最後はやはり土産物店に。「ラージャボレイ」という新しい店。戦災孤児や障害者の制作したものも売られているが、セントラルマーケットなどに比べかなり高い。
夕焼け空に、真っ黒のキノコ型の積乱雲。竜巻でも生まれそうな。
夕食は予約しなかったため、Tさんとはレストラン前で別れ、7時過ぎホテルに。
荷物を置き、セントラルマーケットへ。土産物屋を物色、店員と値段交渉楽しむ。安いが、傷物が多いので注意。およそ言い値の1/3ぐらい。
夕食は、昨晩と同じ、「DAMNAK KHMER」の二階で、野菜カレーと春巻き、ビール。ガソリンスタンドは9時まで。マーケットも閉まり、缶ビールは買えず。街灯も少なく、薄暗い通りをホテルに戻る。充実した1日。疲れた。
4月9日(水)
6時起床。レストランでTさんと一緒になる。なぜか大陸移動説の話に。幅広い知識を持たれた方。懐が広く、柔軟な考え方ができる人。また、会いたいと思う若き経営者。
7時半、ホテルの前で、トクトクのドライバーと、トンレサップ湖行きの交渉。15ドルを3500R(約10ドル)に。10時にはホテルに戻らなくてはならない。湖まで30分、クルーズに1時間半。ぎりぎりだがなんとかなると決断。
シェムリアップ川沿いに20分ばかり走る。トクトクの速度は、沿道の様子を見るのに丁度いい。ペットボトルを並べているのはガソリンの小売り。バイク用に売っているのだが、便利で危険。水田や蓮田が増え、しだいに低湿地に。道沿いに点々と宿泊施設を兼ねた食堂らしき建物。壁のない高床の建物の中にはハンモックが。
一軒の建物の前で、停車。「ここでトレンサップ・クルーズのチケットを購入するのだ」と。政府が運営しているクルーズとか。値段を聞いてびっくり、40ドル。ツアーではホテルから30ドル。トクトクの料金を含めると、20ドルの損。しかし、40ドルは一艘借り上げの料金。20人は乗れる船一艘の料金としては安い。
船着き場まで2キロ余り、新しい道の工事が行われていて、でこぼこ。雨上がりだと、走るのが難しそう。道路だけでなく、港湾施設の建設計画もあるようだ。アンコールワット観光の一環として、トレンサップのリゾート開発が進められている。観光客が何を求めているのかを見極めないと、肝心の資源を失うことに。
道に沿った集落の所々に、国旗が描かれた看板がある。よく見ると、その看板の側には井戸がある。井戸掘りの援助をした国の看板だ。あちこちに見られるNGOやODAによる援助を紹介する看板。まるで援助合戦を宣伝している広告塔。いくつも見ている内、不快感をもよおす。
船着き場はトレンサップ湖から1キロばかり離れた水路にある。小さな店や屋台が集まり、車やバイク、トクトクでごった返していた。操船する少年二人と、ガイドの学生が乗る政府所有のクルーズ船が待っていた。
乾季の終わりの今は、水路の水も少なく、船底をこすりそうな状態。水上生活者のための学校は体育館まで水上家屋。体育施設には韓国の援助を記す看板。
狭い水路をかなりのスピードで行き交う船。そして投網を打つ漁民。見る限り余り取れていない。茶色に濁った水。湖に近づくにつれアオミドロも。水質の汚濁が気になる。
ベトナム系の民が住む水上集落の中を抜け、レストハウスに。湖に生息する魚などを展示する部屋に、レストラン、土産物店が一緒になった水上ハウス。クルーズ・ツアーの観光客目当てにつくられたレストハウスが湖上に点在。どこに行っても同じ仕掛け。
航行中の船に小舟が横付け、女の子が乗り込んでくる。一瞬、どこから現れたのかと思わせる素早さ。物売りだ。湖上にはそれらしき小舟が何艘か停泊している。クルーズ舟がやってくると動き出す。
ベトナム系の水上集落から少し離れ、カンボジア系の水上集落がある。時間がないためのんびりしておれず、早々引き返す。途中、水上ガソリンスタンドで給油。ガソリンも軽油も日本並みの値段。物価全体を考えると異常に突出した石油価格。発展途上国では先進国以上に深刻。
船着き場に着く直前、ガイドがチップのおねだりをはじめる。チップは本来要求されて出すものではない。要求されると無視したくなる。着岸後、愛想のいい、そしておねだりもしない少年キャプテンに、そっと渡しておいた。うれしそうに「サンキュー」と微笑んでいた。
何とか10時10分、ホテルに戻り着いた。急いで荷物をまとめ、約束の10時半にはロビーに。コイさんも迎えに。
ホテルから空港までは10分。出発まで、3時間。空港での待ち時間、もったいない。せめて1時間半ぐらいにならないものか。
出国税25ドル。免税店、カフェなどで時間を潰す。
12時05分、搭乗手続き。駐機場まで歩く。VN868便はFOKKER70型、7E席。定刻の12時40分、離陸。眼下に長方形の貯水池西バライが、その向こうジャングルの中にアンコールワットも。
早速、ラオスの出入国カードとランチボックスが配られる。カードを記入している内に眠気が。しばらくウトウトしていた。白雲が点々。土埃で霞むインドシナ平原は乾季のまっただ中。タイ東部、不規則な地割り、点在する塊村。伝統的なアジアの農村風景。どこまでも続く道。密林に覆われた山地にも延びる道。地上に人あり。自然が残るとかあるとかよく使う言葉であるが、人が関わらない自然が如何ほど残っているのか。
14時、20分早く、ルアンパバーン着。日本人の観光ビザは必要なくなったため、ビザの必要な外国人観光客を横目に早々入国。
HAPPY SMAIL TOURのガイドが迎えに。最近まで出家していたという若いガイド。
三年ぶりのルアンパバーン。カーン川に架かる新橋を渡る。プーシーの丘の南西、Thammamikalath roadのBAN LAO HOTELに。離れの建物の一階310号室。裏には小さな池。椰子やバナナが茂り、鳥や虫、カエルの鳴き声。
HAPPY SMAIL TOURの日本人スタッフがロビーに。赴任して間がないとか。三年前に重宝した貸し自転車。聞くと、最近ではなくなった。禁止されたとか。どこから圧力が。タクシー?トクトク?それとも。実はそれともだった。一日1ドルの貸し自転車は、市内観光、散策には手頃の足だった。大気汚染も起こさず。しかし、当局はそれに目をつけていた。規制し、懐を暖めるため。
後で分かったことだが、貸し自転車屋は残っていた。こっそり、しかも、おおぴらに。メーンストリートに。何と6倍の値段になって。店主に聞くと、やはり当局にかなりの金を払っているらしい。1日単位でしかも1日6ドル、さらに保証金もしくはパスポートを預けるのが条件。やめた、やめた。
空港で両替しておけばよかったのだが、うっかり忘れ、まずは両替と、シーサワンウォン通りに。両替をやっている店が何軒かある。旅行社と兼業が多い。その一軒。為替相場をあらかじめ確認していなかった自分も悪いが、騙された。1万円が730000キープ。三年前には確か900000キープ以上だった。キープ高になっているのかとその時は疑いもせず受け取ったが、実は当時のレートは800000キープ余り。1万円あたり70000キープも騙し取られていたことになる。
三年の間に何か変わっていた。最近では、欧米で、海外観光スポットの上位にランクされ、欧米からの観光客が大幅に増加しているという。当然、観光ずれし、素朴さが失われている。それだけではない。ベトナムとまではいかないがバイクが増え、若者の服装にも変化が現れている。よそよそしさも感じられる。三年前のラオスは影が薄くなっていた。グローバル化の波は、ここにも。
シーサワンウォン通りですれ違うのは外国人観光客ばかり、ビラ・サンティ(三年前に宿泊)の側を抜け、メコン沿いの道に。ゲストハウスやカフェが増えた。ラオスの正月、ビーマイラーオを前に水かけをはじめた子供たちがたむろしている。
ワット・シェントーンに入る。拝観料も三年前の二倍の2万キープに。西に日が傾くまでゆっくり、のんびり、境内で寛いだ。
王宮裏近くのボート乗り場でメコンクルーズを誘われる。バーン・サーンハイまで往復30ドルまで下げたが、そこを25ドルにと。石油の高騰から、22ドルは燃料費。なんとかもう少しと。奥さんもやってきた。臨月が近そう。聞けば初めての出産。「生まれてくる子供に、3ドルチップを出す」と、28ドルで話がまとまる。明日朝8時に会う約束をする。
夕焼けに染まるメコンをながめながらのビールは最高。
そろそろナイト・マーケットの始まる時刻。屋台のカオ・ソーイを食べに。三年前に見つけた屋台。笑みを絶やさぬおかみとあっさり美味しいその味が懐かしい。同じ通りの向かいに場所は変わっていたが健在。開店準備中の屋台の一番客に。
ナイト・マーケットは早かったせいか思いの外人通り少なく、準備中のところも。それにしても今ひとつ活気がない。ラオス人は話せばそうでもないが、控えめで無愛想。余り大声で客引きをする者もなく、日本の夜店の賑やかさと比較すると寂しい。ナイト・マーケットが、外国人観光客を対象としたものに特化してきているためかも知れないが。
地元の人の集まる市場やマーケットは活気があり賑やかところを見ると、当局のお達しがあるのかも知れない。ホテルへの帰り道、開店したばかりのマーケット(タラート・ダラ)で、子供のカラオケ大会をやっていた。家族連れで身動きとれぬほどの人出。
4月10日(木)
6時前にホテルを出、托鉢僧の写真を撮りに。僧列を求め、あちこち歩いている内、王宮前のサッカリン通りに。
ワット・マイの西側の通りで朝市が開かれていた。天秤棒を担いで近郊からやってきた人たちの露店だ。色とりどりの野菜や果物、魚、肉など豊富な食材が並んでいる。山の幸、川の幸。珍しい食材も多い。タケノコやキノコ、キクラゲはともかくセミや蜂の巣、リスなども。みやげ用の川海苔とドラゴンフルーツを1個買う。
7時半、一度ホテルに戻り、コーヒーとハムサンドの朝食。約束の8時になってしまったため船長に電話、「20分遅れる」と。ツーリストのKさんにも電話、リコンファームの確認。貸し自転車の情報この時聞く。
8:30〜13:30メコン・クルーズ。チークを使ったまだ新しい立派な舟。親から譲られたという若夫婦がオーナー。2、30人は乗れそうな舟。半日借り上げれば、燃料費もかさむし、28ドルは値切り過ぎだったかも知れない。
乾季のメコンは水量も減り、大きな中州があちこちにできている。一部では畑に利用されているところも。水辺には水牛がいたり、漁をする人、水浴びをする子供など見飽きない。それでも所々に急流もあり、バーン・サーンハイまで、メコンを遡ること1時間半かかる。岩場で小舟を止め取っていたのは川海苔。もっと水の澄んだ支流で採集されているものと思っていたが、まさか本流の濁った水の中にあるとは。
シーズンオフとはいえバーン・サーンハイに観光客の姿なし。土産物屋ばかり増えた村に三年前の面影を探す。ラオラーオを蒸留していた河岸に近い民家も蒸留所も分からない。たった三年しかたっていないのに。ラオラーオを瓶詰めしてくれた母娘の蒸留所はなく、母親はその近くでわずかの土産物をならべ売っていた。酒造りの村も酒造りを見に来る観光客目当ての観光村に様変わりしていた。もともと地元の人たちに飲まれてきた地酒。外国人観光客にそんなに売れるわけでもなく、観光客は昔ながらの製法で造られる酒の醸造を見に来るだけ。酒造りをやめ土産物屋に変身してもおかしくはない。しかし、醸造所がなくなればこの村にやってくる観光客はいなくなる。酒造りの村は酒造りの村であって、はじめて集客力があることを忘れているようだ。まだ店先で蛇酒やさそり酒を造っている場面に出くわしたりするが。
三年前、村で撮した写真を持って行った。蒸留所の母娘。青いマンゴをくれた女学生三人組。女学生は今はこの村にいなく、たまたま尋ねた土産物屋で、その中の一人の妹に出会い手渡す。
素朴さが失われ観光化が進む村に、一抹の寂しさを感じつつ、船着き場に戻る。
下りはさすがに早い。「織物の村」の一つで、最近「紙造りの村」としても売り出しているバーン・サン・コンに寄る。やはり村は人気が少ない。和紙を見慣れているものにとって、紙漉は珍しくはないが、草花を透き込んだり、色とりどりに着色した手漉きの紙が木枠の網に張られ干されている。スタンドの傘や行灯などに加工され土産物として売
られている。
織物工房も散在しているが、正月を前に、休業中のところが多い。
一軒の工房をのぞくと「中にどうぞと」と案内される。織物工房と直売所が一緒になっている。「工房の方は休みですが」と話しかけてきた青年。師範学校を卒業したばかりだそうだ。教師の給料が安いこの国では、副業を持たないとやっていけないとは聞いていたが。彼も同じことを言っていた。教師にあこがれ、教師になることを夢見て、師範学校に行き、いざ教師になると生活ができないとは。優秀な若者が教育現場に残らず、去っていく。発展途上国の大きな損失は教育行政の無策にある。日本も同じだが。しかし、日本と違い、まだ子供にとって教師はあこがれの職業であり、親は教師を信頼し、モンスターと称されるような親はいない。
5時間のメコンクルーズを楽しみ、ルアンパバーンに戻る。メコン沿いのテラスでフォーとビールの昼食をとり、一度ホテルに戻る。シャワーを浴び、一休み。
4時、ワット・タートルアンに寄り、運動公園に。ワット・タートルアンではやはり三年前に撮した修行僧の写真を手渡し、野外ステージやテント小屋の並ぶ運動公園ではミスコンテストを横目に、雑多の商品から、CDを買った。売り子と値切りの掛け合いおもしろく、楽しい。
薄暗くなり始めた頃、サッカリン通りのナイトマーケットに。昨日同様、カオ・ソーイ屋で腹ごしらえ。ビールを飲んでいると、隣に座った女性、日本人。声をかけると東京からの一人旅OLさん。旅の情報交換。最近では男性、女性に限らず、一人旅の日本人を見かけることが多くなった。日本人と言えば団体様と言われていたが、旅のスタイルも多様化し、意外に団体での海外旅行は目立たなくなった。今回も、韓国人、中国人、アメリカ人などの団体は多く見られたが。そうそう、三年前もこの店で大阪から来た女性と会っていろいろ話をした。
ナイトマーケットでは木彫りの小仏像を一つ買い求め9時半にはホテルに戻る。
4月11日(金)
4時頃から賑やかな鐘の音。数軒先のワット・マノから聞こえてくる。普段の朝のお勤めにしては賑やか。明日が大晦日。もしかしたら関係が。
6時前に起き、荷物を整理。シャワーを浴び、7時から朝食。朝は爽やかだが日が昇るにつれ急に暑くなる。
8時過ぎ、ホテルを出る。ラオス航空の前を通り、カーン川の畔に出る。安宿の多い街角には、大きなバッグを背負ったフランス人やドイツ、アメリカ人の若者多い。
ワット・ビスンナラートのすいか型の塔を眺め、準備中のビーマイ・ラーオの山車を見、プーシーの丘の東麓に。
丘の中腹にある寺院で仏足跡を見、展望台でカーン川の流れを眺め、サッカリン通りに下る。サッカリン通りをワット・シェントーン近くまで歩き、再び、カーン川沿いに。三年の月日は、当たり前のことではあるが、人も物も変えている。あるべき物がなくなり、新しき物を生み出している。変化は変化として認めながらも、思い出を旅する者にとって寂しきこと。過去を確認することは止めようと思いながらついつい繰り返す。
メコンの流れと行き交う小舟をぼんやり見つめているとなぜか心が安らぐ。
世界遺産に指定されれば間違いなく観光客が増え、地域振興に効果がある。日本の場合を見れば明らか。石見銀山を、白神山地を、熊野古道をどれだけの人が知っていたか。ルアンパバーンもまた同じ。増加する観光客に合わせ、ホテル、レストランなどがつぎつぎと建てられ、観光産業は急成長。観光客が落とす金は、大きな収入源になっているが、その恩恵は一部の人に。そして所得格差を生み出す。社会主義国家ラオスでも格差社会が。さらにその金は、物価水準を引き上げ、物価高に喘ぐ人々をつくる。その上、保護されるべき世界遺産がいつの間にか壊されたでは何のための世界遺産か。今や、多くの世界遺産で、観光客の増大が、遺産の破壊を招いている事例が報告されている。ルアンパバーンがそのような例にならぬことを望む。
裏通りの寺院を巡りながら、ワット・マイに。朝市はすでに片付けられ、乾物などを扱う露店が少し残っていた。ラオス産コーヒー豆などを買い、11時40分ホテルに戻る。 チェック・アウトし、ホテルのレストランで缶ビールを飲みながら迎えを待つ。
1時、迎えのツーリスト担当者、また変わり、二ヶ月前ビエンチャンから来たという若者。日本語は全く駄目と英語オンリー。
ハノイ行VN868便は15:00発、空港で待つこと2時間余り。ルアンパバーンからハノイまでは50分ほどの飛行時間。搭乗し、入国カード書いている内に着陸態勢に入る。
着陸後、事情は分からぬが、貨物室に積まれた荷物を早く出してくれと、ヒステリックに叫ぶ女性が現れ、空港バス動けず、全乗客足止め。迷惑至極。あげくに入国審査が終わっても預けた荷物がなかなか出てこず、ハノイ・ノイバイ国際空港で1時間半も費やす。
空港に迎えに来た年配のガイド。まるでメモを棒読みしているような口調。空港から市街地のホテルまで1時間弱。田園の中を走るが、沿線には工業団地が造成され外資系企業が進出している。日本企業の看板も。脱チャイナ、チャイナ・プラス・ワンで注目を集めるベトナム。まるで陣取り合戦の様相。霧雨の中、ホン川の長い橋を渡るとハノイ市街地。ATSホテルは歴史博物館やオペラハウスに近いファムグーラオ通りの突き当たり。
部屋に荷物を置くや早速外出。ホテルの前でタクシーを拾い、トンスアン市場に。市場はすでに閉まっていたが、周辺の通りは人で溢れ、ナイトマーケットの露店が、準備中。延々と露店が並ぶ、ハンドゥオン通り、ハンガン通りを抜け、ホアンキエム湖の畔に。湖畔のベンチでしばし喧噪を忘れ、夜景を楽しむ。湖から吹く風が心地よい。
人、車、バイクの群れと騒音に圧倒され、ただ人の流れに乗って歩く。ウインドーショッピングさえままならず。しばし雑踏に身をまかした後、ファーストフードに入り、定食と生ビールを注文。からから、ざらざらの喉に染み渡る生。
ホアンキエム湖を一周。涼をとる家族連れやアベックが占拠する湖岸を早足で。水上人形劇場近くでタクシーを拾い、10時過ぎホテルに戻る。
4月12日(土)
朝から霧雨。この時期、ハノイは毎日霧雨が降るらしい。
6時起床。散歩にも出ず、荷物の整理。
7時半、1Fレストランで朝食。セルフでパン、コーヒー、ジュース、果物(スイカ、パイン、パパイヤは定番。安価で細分化できる)。
8時20分、ホテル前でタクシーを拾い、ホーチミン廟へ。交通戦争と言う言葉があるが、まさに戦争。交差点でも信号少なく、バイクの群れが四方から押し寄せる。警官が立っているが、交通整理などできる状態ではない。その群れの中を横断する者。命がけだ。 廟は月、金が休館で、開館も午前中のみ。当然、短い開館時間に集中するわけだが、観光客だけではなく、敬愛するホーおじさんに会いに来る人が後を絶たず、開館日はいつも大変な人。長い列の後ろにつきそろそろと進む。カメラやバッグなどは預け、廟に近づくと衛兵が「静粛に」、「脱帽」、「列を整えろ」と指示。ざわざわしていた外国人観光客の一行も衛兵の目を気にしてか、急におとなしくなった。中華人民共和国共産党云々の名で献花された花輪の間を抜け、廟内へ。ヒンヤリとした空気。四人の衛兵に護られホーチミンの遺体が安置されている。死後すでに39年(1890〜1969.9.2)経過したにもかかわらず生前の姿のまま横たわるホーおじさん。本来、個人崇拝とはほど遠いはずの共産主義思想の国家に、なぜか同じようなものが造られる。旧ソ連のレーニン廟、中国の毛沢東廟、そしてホーチミン廟。政権維持、国家統一のために必要だったのか。日本でも昔から死後神として祀られた者が無数に存在していることを考えれば同じことだが。
ホーチミン廟が建てられたのは、1975年9月2日、死後六年たった独立記念日完成した。75年はベトナム戦争終結の年である。彼は遺言に「遺体は火葬し北部、中部、南部に分骨し埋葬すること」と記し、個人崇拝の対象となることを嫌っていたという。
預けた荷物を受け取り、バーディン広場に。廟を背景に写真を撮る観光客の多くが、ここでも中国人、韓国人。
廟に隣接する「ホーチミンの家」と「官邸」に入る。外国人は拝観料1万ドン。廟を出てきた者が流れですべて入るため園内は人で溢れ、前にも後ろにも進めないほど。どこかの国の共産党政権の幹部たちとは雲泥の差、禁欲的で、無私な生活を旨としたホーおじさんの住まいは質素で、汚れを感じさせるものは何もない。ホーおじさんと呼ばれる所以である。
蓮池の中、太い一本の柱の上に造られたユニークなお堂で知られる「一柱寺」には寄ったが、ホーチミン博物館はパス。廟の入り口にたむろするバイクタクシーがつぎつぎと声をかけてくる。同世代かと思われる人の良さそうなドライバーに、つい心を許し、「ベトナム軍事歴史博物館」まで乗っかる。とりあえず1万ドン払い、博物館へ。入館料2万ドン、カメラ持ち込み1万ドン。
中国の支配下に何度かあったベトナムの歴史。11世紀頃その支配下から脱し、成立した李朝大越国、その時代の武具もあるが、やはり圧巻はフランスからの独立戦争とベトナム戦争時の武器や様々な物品、資料だろう。米軍からの戦利品も多く展示されており、戦車、戦闘機、ヘリコプター、野砲などは建物の外に並べられている。
地方からやって来たのか年配の、ベトナム戦争を戦ったと思われる一団が、一つ一つ丁寧に見て回っていた。何か誇らしげに。一方、アメリカ人らしき若者は戦場を撮した写真の前で立ちすくんでいた。戦争とは何か。正義とは何か。誰が加害者で、誰が被害者か。このような博物館や資料館に来るたびに考えさせられる疑問。
1時間余りかけ見て回った。外に出ると、バイクタクシーのドライバーが待っているではないか。パンフレットを持ち出し、民族学博物館行を勧める。「時間がない」、「午後は歴史博物館に行く」と言えば、「歴史博物館は1時半まで休館中だ。それまでには帰れる」としつこい。つい人の良さそうな接客に心を許し、大失敗。
タイ湖岸のクアンタイン祠(玄天鎮武を奉る11世紀に建立された道教寺院)、「文廟」(11世紀に建立された儒教の寺院。科挙合格者を記した石碑。)を回り、13時頃ホアンキエム湖の畔でバイクを降りる。距離、時間から考え5万ドン渡すと「10万ドンくれ」と突き返す。すでに1万ドン払っているのだから11万ドン請求していることになる。大声でやりあったが、しだいに空しくなり、請求通り払う。しばらくむかついていたが、過去にも同じような目に何度もあったし、特に珍しい出来事でもないと思い直す。しかし、力の強い男だった。?まれた二の腕、指の跡が赤く内出血した。
ハンガイ、ハンダオ通りの周辺をふらふらし、土産物など物色、3時頃、ベトナム・コーヒーを買ったドンスアン市場の前でタクシーを拾いホテルに戻る。メーターのついたタクシーなら安心と思いきや昨晩と同じ道を走って、倍額の料金(6.6万ドン)を取られる。バイクタクシーもタクシーも要注意のハノイ。
シャワーを浴び、一息。雨脚が強まり、歴史博物館に行く気にもなれず。
16:20チェックアウト。16:30担当のガイド迎えに。空港まで1時間、最近のベトナム事情など聞くことができた。ベトナム戦争を知らない世代の若者が増え、彼らは歴史としての知識は持っているが、過去にこだわることはない。外国の物も人も積極的に受け入れる。かつての敵国も関係ない。賃金のいい外資系会社は希望者が多い。低賃金と質のよい労働者が得られると外国企業の進出が急増しているベトナムだが、すでに賃金の面では魅力がなくなっているかも知れない。ハノイでの生活は、家賃の急騰などから月2万円ほどかかるという。一方、日本から進出している企業の賃金は月1万円ほど。転職するものが多いとか、サボる者が多いとか言うが仕方がない。1万では副業でも持たなければ生活が無理。サボるのは副業の余力を残すための知恵とか。最近では、ハノイに住む若者で日系企業に就職するものは少ないという。地方出身者ばかりとか。そろそろ低賃金のみを求めて進出するのは考え直すとき。
グローバル化は人や物の移動をもたらすだけではなく、人の心も変えている。豊かさを求めるのは自然かも知れないが、心まで世界中同じようになっている。イスラムの反発も分かるような気がする。
ホーチミン行と関空行のチケット・チェックインまでガイドが手伝ってくれる。
預けた荷物は関空までOK。ホーチミンでの乗り換えに大荷物は苦痛と思っていただけに一安心。
18:35、VN231(A330型)は定刻離陸。32K席。
隣席のビジネスマンらしき男性が話しかけてきた。休日を利用し、友人とダナンとハロン湾に遊びに行ってきたと。息子と同じ年のマレーシア人。宝石の輸出を手がけているという若き経営者。ジャカルタ、シンガポール、バンコク、ホーチミン、香港にオフィスがあり、各地を飛び回る毎日とか。クアラルンプールの自宅にはめったに帰れないそうだ。七年前に結婚したが、子供はできず、家には父親と犬3匹が同居していると、デジカメに保存した写真を見せてくれた。2時間余りの移動も、彼のおかげで退屈することもなく、ホーチミンに着いた。
国内線のターミナルから国際線のターミナルまでは思っていたほど離れていなかった。まだ工事中だが連絡通路で結ばれている。
3時間半余りの待ち時間。新しくなった空港には免税店など少なく、まだ空きスペースが残る。ふっと見るとフット・マッサージの看板。思い切って入る。湯に浸し、ふくらはぎと足の裏を丁寧にもみほぐしてくれる。気持ちがよい。全身の疲れが取れるようだ。病みつきになりそう。
0:10、VN940(B777-200)、16A席。
ハノイから関空に直行する便のチケットが取れず、無駄な国内移動をさせられたが、それはそれで新たな思い出をつくらせてもらった。ホーチミン〜関空は約5時間の飛行。日本時間7:20関空着。