インド・ネパールの旅
1999年8月18日〜30日
[8月18日(水)]
関空発10時10分の飛行機に乗るためには、6時5分の「のぞみ2号」を使わないと間に合わない。国際線に搭乗する場合は、「2時間前に空港へ。」という何か決まりのようなものがあるためだ。しかし、実際は待合室で1時間以上待たされ、あげく免税店で何か買わされるはめになるのだが。
新大阪で関空特急「はるか5号」を待っていると家族連れの男が声をかけてきた。どこかで見た顔だと思っていたら、西大寺高校45年卒のI君。バカンスでパラオに行くそうだ。勤務医をしている彼は、仕事柄なかなかまとまった休みが取れず、毎年夏は4、5日取るのがやっととか。臨席になった彼と思い出話などしている内に関空に着いた。
団体カウンター11番でチケットを受け取り、シンガポール航空のカウンターへ。シンガポールまでの搭乗券とシンガポールからデリーまでの搭乗券を受け取る。
SQ983便は台北経由のシンガポール行き。座席は最後部、尾翼に近い63H。
少し遅れ、10時30分、離陸。台北まで約2時間の飛行時間。一杯のシャンパンが心地よい眠りを与えてくれる。
12時35分(現地時間11時35分)、台北空港に着陸。トランジットで台北空港に降りたのは確か71年。あれから28年か。マナリのサンペルさんやシェルさんの土産にクロスのボールペンを買う。思いの外、高い。台湾の急激な経済成長が物価にも現れているのか。14時(現地時間13時)、離陸。ほとんど満席になる。
臨席の女性、年は40前後。機内放送を無視し、携帯電話。マナーの悪さに、不快感。
飛行機は台湾島の東海岸沿いに飛ぶ。玉山(新高山)3997mを主峰とする台湾山脈の峰峰が連なり、海岸は山が迫り、平地が乏しい。ユーラシアプレートの端に位置する台湾島に、フィリピン海プレートがぶつかり形成された褶曲山地。地球の営みにただ畏敬の念を感ず。
ランチに茶そばが出る。4時間あまりの飛行時間。シンガポール航空の新型機には各座席に液晶のモニターがあり、VTRを楽しめる。
18時05分(現地時間17時05分)、シンガポール・チャンギ空港着。トランスファー・カウンターで、SQ408便、デリー行きの出発ゲートを確認。D51ゲート。
待合室に入る時に、X線によるチェックあり。
19時20分(現地時間18時20分)、搭乗。SQ408便、B777型機、56A席。後ろから2番目、左窓際の席。19時56分、離陸。
ビールは韓国製のHITE、記念品にトランプ。スマトラと平行にマングローブの島が続く。ペナン島付近で夕闇につつまれる。
ディナーは魚のフライ、エビサラダにワイン。
モニターの画面に、飛行機の現在位置が刻々と表示される。0時20分(インド時間20時50分)、カンプール上空10668m、時速959km、外気温-38℃。デリー到着予定時刻21時16分。
窓から三日月が見える。
2年振りのインド。カリーの臭いとのんびりとした入国審査官の仕事ぶりにインドに着いた実感。空港内の銀行窓口で230ドル両替。1ドルが42.65ルピー。
インド・アシア・ツアーのドライバーとツアー・エスコートのカウルさんが出迎えに。カウルさんはカシミール出身の大学4年生。アルバイトでツアー・エスコートをやっているとのこと。
現地時間22時40分、ニューデリーのメルディアンホテル着。チェックイン後、カウルさんと明日の打ち合わせ。
926号室。
[8月19日(木)]
0時30分に就寝するが、何度も目が覚め、4時30分には起床。
5時15分、ロビーに。カウルさん、ドライバーとともに迎えに。チェックアウトや両替に時間がかかりすぎ。「郷に入らば郷に従え」とは言うものの、窓口の非能率さには閉口する。
5時45分、ホテルを出てニューデリー駅へ。10分ほどで着く。ポーターに荷物を持たせホームへ。カウルさんが駅員に確認、なんと彼の言う6時10分発のチャンディガル行きの列車はない。どうやらツアー会社のスタッフが勘違いしていたようで、日程表に書かれていたとおり、7時30分発が正しい。
こんなことなら、もうすこし睡眠時間がとれたのに。恨み言の一つも言いたいところだったが、カウルさん、気持ちを察したのか、「一度ホテルに戻り、朝食をとって、出直しましょう。」と、ポーターに再び荷物を持たせ車に戻る。
ホテルの料金はもともと朝食付きになっていたため、1階のレストランで事情を話し、いただく。バイキングは有り難い。果物中心のダイエット食?。
カウルさんとは、印パ紛争のこともあり、宗教問題や人口問題、さらにはインド経済の現状や貧富の問題など話題は尽きなかった。
7時35分、5分遅れでチャンディガル行き特急列車発車。チケットによればチャンディガルまで270km、1Aクラスのエアーコン車(座席番号33)の料金865ルピー。
新聞、ミネラルウォーター、紅茶、スナックそしてランチのサービスもある。
鉄道警察官が一つ一つ荷物と持ち主を確認し、シールを貼って歩く。
エアコン車両は窓が開かず、外から車内が見えないようにコーティングした窓ガラスを使っているため、日中も夕方のような車窓風景になる。
インドに限らず、鉄道沿線は、空き地ができるためか、スラム化する傾向がある。デリーの市街地を抜けるまで、泥作りの粗末な家が並ぶ。
市街地を抜けると、後は、ヒンドスタン平原のまっただ中、水田とサトウキビ畑が延々連なるのみ。煉瓦工場の煙突がアクセントに。
途中ハルサナクラム駅に信号待ちで停車した以外は、チャンディガルまでの間唯一の停車駅はアムバーラ・キャントンであった。
引き込み線の線路が敷かれた構内は牛や山羊の放牧場。今だ、インドの列車のトイレはたれ流し。適度に肥料が撒かれ、草の成長もよく、その上一日数往復の列車しか走らないのだから、最高の放牧場だろう。しかし、駅のホームに面した線路上は便器と言ってもよい。分厚くこびりついた糞尿が悪臭を出し、とても見られたものではない。
ホームの上では揚げ菓子売や弁当が売られ目の前の線路上は糞尿の山、その糞尿を食らう豚に犬、こざっぱりした服装の若者とドーティ姿の中年男、サリーの女性に、髭ぼうぼうのサドゥ(ヒンズー教の修行者)、混沌とした駅風景。ここは、インド。
アムバーラの手前で、薄紫色のヒャシンスが一面に咲き誇る沼地があった。白い蓮の花も丁度見ごろだった。人間が集まれば集まるほど、増えれば増えるほど、地球は汚れるということか。
10時58分、約30分遅れでチャンディガルに着く。ホームがわずか3本、まるでローカル駅の雰囲気に、一瞬、ここが終点のチャンディガルか気になり、臨席の男に確認する。乗客の多くは、ホームまで出迎えている人と足早に駐車場の方に去り、一人取り残される。荷物を引きずりながら駅舎に入ると、漢字で「山川様」と書いた紙切れを掲げた白のワイシャツ姿の男がいた。マナリから出迎えに来たドライバーだった。
2年前、やっとの思いでたどり着いたチャンディガルのホテルでのことを思い出しているうちに、車はチャンディガル郊外の陸軍基地の一角を走っていた。最近の印パ国境における衝突を反映してか、基地はなんとなく張りつめた感じがした。
1時間ほど走るうちに土砂降りの雨になった。
「アンナプルナ・ホテル」のレストランに立ち寄り、昼食。カリーにナン、トマトスープにチャイで46ルピー、チップを入れて50ルピー、130円ほど。
雨は小降りになったが、バークラダムのダム湖を見下ろす、山の中腹を走る21号線は至る所に土砂崩れの跡が。橋が流されたところもある。軍の仮設橋は重量制限があり、トラックやバスは一台しか渡れない。当然、交互通行。橋の両側に長蛇の列ができている。私のドライバーは心得たもので、2、3キロも続く長蛇の車列の横をすり抜け先頭近くに入り込む。おかげで、1、2時間待ちの場面を15分ほどで通過。大型バスやトラックでは無理な芸当。事実、後日聞いた話では、ここを抜けるのにバスでは3時間ほどかかっていた。
2年前、事故後、待っていた飛行機が欠航になったため、急遽、マナリからデリーまで車で出たが、その時通った道を、今日は逆にマナリに向かっているはず。しかし、この辺りは、その時すでに暗くなっており、まったく様子が分からなかった。ダム湖が眼下にあるとは。「サトレジ川の総合開発は、バークラ・ナンガル計画と呼ばれ、多目的ダムとしてバークラ・ナンガルダムが建設され、その水は、パンジャブ地方の灌漑と水力発電に利用された。」毎年、授業で取り上げているバークラダムである。
サトレジ川を渡る橋まで来て2年前の道であることが確認できた。見覚えのある変電所の建物が右岸斜面に。
マンディを17時通過。クルの手前の峡谷部、落石の多い難所。トンネル工事が進められている。ヒンドゥ教の寺院があり、ドライバーは車を止め、参拝。ポップライスを一握りもらってきてお裾分けしてくれる。どうも日本の神社の洗米のようなものか。道沿いには小さな祠がたくさんあるが、その前を通過するときは必ずクラクションを軽く一つならす。信仰心は厚い。このような道をいつも走っていれば何かにすがりたい気持ちになるのも当然だろう。
ビアス川の対岸に大きな滝が2つあり、休憩をとる。この滝一つでも、日本にあれば一躍観光名所になろう。
クルの町を通過する頃には日も落ち、19時45分、やっとマナリに到着。ISDの看板の出た店で日本に電話。
「風来坊」には20時15分着。森田さんは、団体客がマナリに来ており、そのため不在。奥様と息子さんが出迎えてくれる。
シャワーを浴び、夕食。森田さんとサンペルさんが帰ってこられ、2年前のお礼を申し上げる。
夕食は、埼玉県の高校に勤めておられる吉住先生と一緒に。先生は林制史の研究のため1か月ほど滞在とか。山登りから山地での放牧に興味をもたれ、それが林制史へと発展そうで、過去何度も当地に来られ調査されておられるとのこと。
森田さんとは明日以降の日程について打ち合わせを行う。
[8月20日(金)]
昨夜は、11時に床につくが、何度も目が覚め、寝ずかれず。
6時に起き、日記をつける。
雨模様。
7時過ぎにモーニングティを運んでくれる。インドの旅でうれしいのがこのサービス。
8時15分〜50分、吉住先生と朝食。先生の調査や研究について、昨夜の続き話につい吸い込まれる。
荷物の一部を森田さんに預け、9時20分「風来坊」を出る。これから4日間はドライバーのシェルさんと2人旅。シェルさんは土石流に流された2年前のジープトレッキングの時のドライバー。再会を喜ぶ。
雨の中、谷川沿いの道をビアス川の河岸まで下る。車はマルチ・スズキのジプシー。ジープ型の小型4輪駆動車。
ビアス川沿いの道をロータン・パスに向かって走る。しだいに霧が深くなり、視界は悪くなるばかり。せいぜい2、30メートルほどしかない。霧の中から飛び出してくる対向車や牛に、助手席でハラハラするのみ。
確かこの辺りには落差数百メートルもあるような滝があったはずだ。この辺りの斜面は見事なお花畑であったはずだ。・・・・2年前に走ったときのことを思い出しながらも、車窓にはせいぜい道沿いのわずかな部分しか見えない。
10時40分頃、チャイハナ集落マリ着。チャイを飲み休憩。ミネラルウォーターを数本仕入れる。小型のデジタルビデオカメラは珍しいのか、チャイハナの客や従業員が集まってくる。
マリから先も、ジグザグの急な坂道が続く。相変わらず、小雨が降り続き、霧は晴れない。11時30分、ロータン・パスまで4、5キロか、岩と岩との間にいろいろな高山植物が咲き乱れている山際の道路脇に車を止める。シェルさんが先に立って急斜面を登り、高山植物の中に私の求める花を探す。「ブルーポピー・ヒャー」の声に、カメラをもって駆けよる。あった、あった、求めていた花が。ただそのブルーポピーはすでに盛りを過ぎ、実を付け、わずかに一輪残った花も花びらが萎れかかっていた。
近くにまだあるはずだ。海抜3700mを忘れ、夢中になって探す。結局2、30メートル四方の中に、3株のブルーポピーを見つけたが、いずれも盛りを過ぎたものばかりだった。少し残念だったが、ブルーポピー以外の可愛らしく、美しく、また、清楚な花もたくさんあり、ロータンパスのすばらしさを改めて実感した一時だった。
シェルさんもブルーポピーの状態の悪さを気の毒がり、「ノーグッド。帰りに、もう一度探してみましょう」と、元気づけてくれる。
あまりに動き回ったためか、息苦しくなり、車の中で、深呼吸を繰り返す。道とは名ばかりの悪路。石ころとぬかるみの中、喘ぎながら登ること10分。前方でアクシデント。軍のトラックが一台道路脇の山肌に突っ込んでいる。山際に突っ込んだからよかったものの、反対側なら100mほどの崖下に落下し、大事故になっていただろう。レッカー車がトラックを移動させる間、動けず。その間にしだいに霧が晴れてくる。峠上から谷間に向かって、蛇行した道をショートカットで山羊、羊の群が下りてくる。その谷の向こうにマリの集落が。
20分ほどで開通。12時30分にはロータンパスへ着く。海抜3978mの峠は肌寒く、道路と鞍部によって100mほど隔てられた場所には、色とりどりのタルチョが、寒風に、はためいていた。チベット系の少年が3人座り込んで湯を沸かしている。チャイでも入れるのか。峠の手前に夏場だけのチャイハナ集落があり、峠上にも一軒のチャイハナがある。観光客目当ての馬が10数頭おり、結構賑やか。
チベットの人達に習い、タルチョの周りを時計回りに一周する。チャンドラ川を挟んで北に氷河を抱く、5、6000m級のなつかして山並みが見える。グレートヒマラヤの峠、ロータンパスを越えれば、モンスーンの影響はほとんどない。みるみる乾燥世界に変わる。
峠からチャンドラ川の谷底までの高度差850m余りをジグザグの道が延々と続く。お花畑を無惨にも切り取り、道路の拡張と舗装が進められている。一夏でどれほど進むのか、また、冬になれば雪崩で、春になれば融雪水により崩落する道。イタチゴッコのような道路工事(それでも一昨年よりは舗装区間は確かにのびてはいたが)が行われている。
スピティとラホールの分岐、グランポ(Grampho)のチャイハナで昼食。屋外のテーブルにダル(豆カレー)とモモ(餃子)を運んでもらう。次第に青空が広がり、氷雪に覆われた峰峰が眩しい。チャイを飲んでいると、今晩一緒にキャンプするという日本人のグループの車がそばを何台も通過する。聞くと75人の日本人が35台の車(ジプシー)をチャーターしてチャンドラタールに入るとのこと。150人もの大キャンプになるという。
14時、一行の土埃の収まるのを待ち、チャンドラ川沿いの道をスピティ方向に向かって出発。途中でペジメント状の放牧地で昼食を摂っている一行を追い越す。チャンドラ川に架かる吊り橋を渡り、橋の畔、チャハトル(Chhatru)のチャイハナで休憩。確か、一昨年の事故後、マナリに向かう途中、寒さを訴える今野さんのために毛布を借りたのがここだった。サンペルさんの車が通り過ぎる。先発した現地のスタッフがキャンプ場の設営をしているらしい。
14時10分、タダルプーのキャンプ場に着く。地名はあっても別に民家の一軒もない、放牧地に利用されている広い河原だ。緑の芝生のような草はよく見ると、クローバーだ。可愛らしい白い花をつけている。当たり前だが、至る所に馬糞や山羊の糞がころがっている。
すでに大小20余りのテントとトイレ用のテントが建てられていたが、それでもまだ足りないのか、現地スタッフが10数人、車からテントの入った袋を運んでいた。
河原には家畜の飲用つけられた小川が流れており、この水があるために、また、ここがいいキャンプ場になっている。 勿論、生水は禁物だが。
炊事用テントで忙しく夕食の準備をしていたのは、セワンさんであった。キッチンボーイのソラン君もいた。彼らも気が付いて、やってきた。お互い手を握り合うが言葉が出ない。「再会できて、うれしい。」「ありがとう。あの時は。」やっと出たのは、これだけの言葉だった。
日はまだ高い。明日行く予定であった、一昨年の事故現場。ここからわずか数キロの距離。シェルさんに「これから行けないか。」と声をかけると、「OK」の返事。セワンさんの用意してくれたチャイを飲んで、16時10分、チョッタダラに向かう。
至る所で道路工事をしているが崩落した部分を補修するのが精一杯。相変わらずの悪路に、車の屋根に載せた荷物を固定するロープはすぐに緩む。
キャンプ地と事故現場の丁度中間辺りまで来たところで、トラックとバスが数台立ち往生。チャンドラ川右岸の急斜面を流れ落ちる谷川の水が増水し、道路が川になっている。直径2m以上はある円礫の山の中に川となった道路がある。1か月ほど前発生したという土石流がこの円礫を運んできたという。
「今日は無理だ。」「明日の朝になれば水も減る。」と言う私の言葉に、シェルさんは「問題ない。」と、谷川になった道路に車を乗り入れ、一気に乗り切る。バスの乗客も呆気にとられた顔をしている。
17時20分、見覚えのある景観が現れたのは間もなくだった。間違いなく、2年前土石流に襲われた現場だ。あの時と同じように道路上を氷河の融水が流れ落ちている。土石の一部は取り除かれていたが、山頂付近のモレーンが残っている限り、何時かまた同じような土石流が発生するだろう。
流れ落ちる黄土色に濁った水を見ている内、目頭が熱くなってきた。あの時の光景が蘇ってきた。流されていく2人の姿、スローモーション映像を見るようなトラックの転落。自分の死を予感した一瞬。今、再び、此処にいることの重みを噛み締める。
言葉にはならなかったがシェルさんにも私の気持ちが伝わっているようだった。有川さんが下半身埋まった谷から助け出され、全身ドブネズミのような姿で這い上がってきた場所から土石流の発生した流れまで約50メートル。シェルさんは「その先まで行ってみよう。」と言ってくれたが、私には、ここまでで十分だった。今回は。
シェルさんの手を握りしめ「有り難う。」と言うのがやっとだった。
南インドから出稼ぎでやってきているのか、ドラビダ系の若者が数人、砕石を並べ、凹凸のできた道を補修していた。岩山にカメラを構える私を怪訝そうに見ていたが、シェルさんから話を聞いたらしく、真っ黒な顔に真っ白の歯がこぼれた。
彼にカメラを渡し、シェルさんと肩を並べ記念写真を撮ってもらう。
ジャージを借り、暖をとらしてもらい、ドイツ人の医師に応急手当をしてもらったチョッタダラのチャイハナは思っていたより離れていた。現場から1キロは十分ある。骨折した足でよく歩いたと感心するほどだ。
石積みのチャイハナにはあの時の若者が一人店番をしていた。顔は思い出せなかったが、彼は覚えていた。御礼を言うとにこにこ笑っている。言葉が通じないのが我ながら情けない。土産に用意していた煙草を2箱差し出すと、気持ちよく受け取ってくれる。チャイを一杯いただき、今回の旅の一番の目的地に別れを告げる。
往路にトラック、バスが立ち往生していた現場では、谷川に化した道路の水量が増えている様子。運転手や乗客は、深みに石を投げ込み、車の通れる状態にしようと頑張ってはいたが。
その横をまたもやシェルさんは流れに車を突っ込んだ。四駆の力を見せつけるように。しかし、今度は車輪が岩の間に挟まれ動かなくなった。水深は50pほどだが氷河の融けた冷水だ。それも水かさが少し増えてきている。2年前に流されたシェルさんの車は今も土石に埋まったまま発見されていない。あの車に乗っているとき土石流に巻き込まれていれば今の自分はいない。このままこの車に乗っていて土石流が起こればと考えると急に恐ろしくなり、シェルさんには悪いが車を降り、避難する。ジャッキを使っての悪戦苦闘も、石を投げ入れていた男の1人が手伝いをかって出てくれたおかげで、15分ほどで終わり、無事脱出。日もすっかり傾き、谷間はしだいに夕闇に包まれだした19時頃、キャンプ地に戻る。
テントにはいると急に疲れとともに、高山病の症状があらわれてきた。
2年前のもう1人のドライバー、ソナムさんが夕食をテントまで運んでくれるが、食欲が全くない。スープと野菜炒めだけいただく。
ソナムさんやセワンさんらとゆっくり話したいと思っていたが、頭痛がひどく、テントを出る気力もない。ソナムさんに土産に持参したウィスキーやボールペンなど手渡すのがやっと。12時頃までキャンパーやスタッフの賑やかな話し声が聞こえていたが、私はシュラフに潜り込み、頭痛に耐えていた。ノーシンを2錠飲んでみるが、気休め。
2時頃にテントから出て見ると満天の星。一つ一つの星が瞬いている。星空をゆっくりと眺めたのも考えてみれば、2年前の事故直前のスピティでのキャンプだった。
5、6分もすると寒さで身震いする。気温は4、5℃か。
[8月21日(土)]
よく眠れず、5時頃起きる。身体が思うように動かない。頭痛がする。テントの前を流れる幅50pほどの水路で顔を洗い、口をすすぐと少しよくなる。とにかく身体を動かすと気分が悪くなる。
6時、テントまでモーニングティを運んでくれる。シュラフを畳むのもきつい。梅干しをほうばると酸味で少し気分が和らぐ。
5時頃には雲がかかっていた稜線も、いつの間にか広がった青空にくっきりと縁取られている。
大部隊のキャンプ撤収と朝食の準備で、現地スタッフはてんやわんや。
朝食は風来坊の日本人スタッフと2人、コックのテントの側に敷いたビニールシートの上で。味噌味の雑炊が旨い。トーストなども用意してくれたが、雑炊を2杯いただく。
2年前の事故の話題になり、持参した写真を見せ、一部を記念に差し上げる。
これから大部隊はクンザ峠を経て、チャンドラタールまで登るとのこと。老若男女数十人が4551メートルの峠を越え、4270メートルの湖畔で2日間のキャンプをするのだから、これは大変なことだ。高山病の危険性もある。酸素ボンベの用意はもちろんドクターもついているとのことだが。
出発前に、2年前のスタッフと記念撮影をする。キッチンボーイのコナン君だけはすでにチャンドラタールへ出発しており、ドライバーのシェルさん、ソナムさん、コックのセワンさん、それに風来坊のサンペルさんの4人と一緒の写真を撮ることができた。
8時50分、大部隊と別れ、シェルさんの運転するジプシーで、昨日の道をチャンドラ川沿いに引き返す。途中、高山植物の写真を撮りながらロータン峠の登り口、チャンドラ谷とラホール谷の分岐を10時頃通過。このあたりから河原や崖垂を利用した畑が増える。栽培されているのは紫色の花をつけたジャガイモとアラスカ豆がほとんどだ。
コックサー(Khoksar)は橋畔集落で軍の駐屯地とゴンパ(ラマ教寺院)がある。橋を渡る前に検問所があり、パスポートのチェックがある。私がチャイを飲んでいる間にシェルさんが検問所にパスポートを持参する。ラホールはシェルさんの出身地。ポリスも、チャイハナの主人も知り合いらしい。
ロータン峠を下った付近からは、武装した兵士が3、4人ずつ、一定間隔に配置されている。印パの緊張状態が否応なく感じられる光景。
診療所のあるシッス(Sissu)3130mの手前はチャンドラ川に注ぐシッス川の水が濁りが少ないためか、広い河原の一部が澄んだ水を溜めた湖のようになっており、対岸の滝や遠く氷河を抱くバラカンダピーク5860mの峰と共に絵はがきのような風景が楽しめる。
シェルさんは診療所の前で車を止め、薬を貰いに行く。
12時、シェルさんの実家のあるゴンドラ(Gondla)3160mに着く。道路沿いのチャイハナで昼食。朝、コックが用意してくれたランチボックスを広げる。茹でたジャガイモにパンケーキ、リンゴ、ジュースなどが入っていた。チャイ2杯にジャガイモ2個で満腹する。チャイハナの2階から賑やかな声。どうもサイコロ賭博をやっている様子。
道路から5、60メートル下の段丘面に古い塔状の櫓が残っている。サラハンのビーマカリー寺院の櫓によく似ている。シェルさんの話ではかなり古い城の一部で、寺院でもあるという。
12時40分、ゴンドラ発。シェルさんの実家の側を通り抜け、道はしだいにチャンドラ川の谷底平野へ下る。駐屯地の前で歩哨の兵士とたむろしていた数人の男もシェルさんの知り合いらしく、言葉を交わし、おかげて特にチェックもなく通過。
海抜高度が下がってきたためか息苦しさがいつの間にかなくなる。ウデイプル(Udeypur)との分岐、タンディ(Tandi)は地図で見ると海抜2573mだ。
タンディから道路はチャンドラ川の支流ブハンガ(Bhanga)川の右岸沿いを遡る。ラホールの中心集落キーロン(Keylong)まで8キロ、13時30分着。
キーロン入口にゲートが造られているが、その脇で検問が行われていた。シェルさんも免許書やツーリスト車両の証明書など抱えて出ていった。
キーロンの中心は一段下の段丘面にあり、道路沿いにはチャイハナ集落が形成されている。ここから家に電話を入れる。3分ほど話して、120ルピー余りだった。
今日、明日宿泊予定のジスパとキーロンの間は、そのほとんどが河床面から200メートルほどの切り立った崖の上を走ることになる。しかし、斜面に植生があるため荒々しさはない。対岸の山並みに氷河を抱く先鋒が1つ。地図で確認するが無名。山肌(と言っても断崖のような急斜面)に何本も滝が見られる。まるで竜が天空に昇るかのように。
道路沿いにも所々山肌を流れ落ちる水があり、埃だらけの顔を洗い、休息するのに格好の場になっている。さすがに口にいれる勇気はなかったが、地元の人は平気で飲んでいる。
20分ほど休憩したが、ジスパには15時に着いてしまった。
アイベックスホテルは村の入り口にあり、まだ新しい。新しいどころか、ベランダや上階の方はまだ未完成のまま。聞くとそれでももう開業して4、5年になるそうだから悠長なものだ。
2階の階段横の部屋に案内される。湯の出るシャワーがあり、部屋も清潔で申し分ない。荷物を置いて、1階のフロント兼レストランへ。壁に一枚の地図と近辺の案内を書いた紙が貼ってあった。紅茶(ティパックに湯の入ったポットが出されたのであえてチャイと言わずに紅茶と表現する。このホテルでは紅茶が常に出された。)を飲みながら、その紙に書いてある近くのゴンパと古い城に行けないものかシェルさんに持ちかけてみる。日暮れまでにはまだたっぷり時間があるし、問題ない。行こうと言うことになった。
900年前に建立されたというゴンパ(GemourMonastry)は、村人の話では、急な山道を、歩いて1時間はかかるという。登り口であきらめる。古い城(KhangsarCastle)の方は車で上がれるらしい。ジスパから4、5キロ、キーロン方向に戻り、ブハンガ川右岸の急斜面をジグザグに登ること15分ほどで目的地に着いた。108の部屋を持つという古城は
ブハンガ川の深い谷を見下ろすテラスに残っていた。外見は日干し煉瓦造りの少し大きめの建物にしかみえない。実際、一階部分は今も住まいとして使われており、中に入るには家人の了解を得なければならない。幸いシェルさんが掛け合ってくれたおかげで中に入ることができた。
薄暗い建物の中で目を凝らしてみると確かに小部屋がいくつもある。狭い階段を上り、最上階の広間に案内された。小さな天窓から差し込む薄あかりに、柱にかけたハイベックスの角が、農家の作業場のようになった部屋に神秘さをもたらしている。写真を撮っているとシェルさんが手招き。案内してくれた男が、仏間を見せてくれるというのだ。写真はだめと念をおされ入る。見事な仏像、そしてタンカ。20Rs紙幣を供えると、男は仏像にかかったカタの一部を切り裂き手首に巻いてくれる。この仏間が見られただけでもここにやってきた価値がある。
18時、ホテルに戻る。
19時、1階のレストランで夕食。モモ、マッシュルーム入りクリームスープ、野菜フライドライス、オニオンサラダ、ホットミルク、チャイ。
隣のキャンプ場にいるヨーロツパ人が間もなく食事に来るとかで厨房は慌ただしい。
20時、シャワー、洗濯。昨夜に比べ体調よし。ジスパの海抜3200m余り、それでも昨日より400m下がっている。
[8月22日(日)]
昨夜は、シャワー後、悪寒がし、21時過ぎには床にはいるが、夜中にまたもや寒気で目が覚める。シャツを一枚重ね着するが、まだ寒く、毛布を二枚重ねにする。
6時起床。洗濯。ズボンはボーイに頼む。
7時過ぎ、紅茶とトーストの朝食。
8時35分、バララチャ峠に向け出発。
9時、ダルチャ(Darcha)3300m着。検問所があり、パスポートチェック。スペヤタイヤが少し空気漏れを起こしているらしく、シェルさんはしばらく水に浸けたりして点検していたが、結局、通りすがりの仲間のドライバーからスペアタイヤを借り、屋根にくくりつける。摩耗し、溝が見えなくなるほどツルツルになったタイヤであったが。
ダルチャはバライ川(Barai Nala)との合流点に発達した落合集落。バライ川を遡り、ザンスカールへ向かう道もここから始まる。ザンスカールへのトレッキングの起点でもある。やはり兵士や警察官が多い。
ここから先は急な岩山を道はくねりながら登っていく。しばらくは右に左にダルチャの集落を見下ろしながら走る。
谷はますます深くなり、植生は乏しくなる。
10時半、小さな湖の畔で休息。コバルトブルーの湖面と薄黄緑色の湖岸の高山植物、羊と山羊の群れが放牧されている厳しくも牧歌的な風景。しばし、高山病の息苦しさを忘れる。
最初の予定では、21日と22日の2泊、キャンプをする予定であったパティシオ(Patseo)3820mはその湖のすぐ先であった。道路沿いに2軒のチャイハナがあり、少し離れたところにレストハウスなど2、3軒があるだけの鞍部になった峠。もし昨夜ここでキャンプをしておれば間違いなく、タダルプーの夜よりひどい頭痛に襲われただろう。
パティシオから少し道は下りになるが、その谷間に軍の駐屯地があり、道は駐屯地の真ん中を走っている。駐屯地の入り口と出口にはバーがあり、検問所が設けられている。ここはさすがにシェルさんの顔も利かない。パスポートの写真との照合、簡単な職務質問までされた。
ここまで来るとさすがに人家はなく、軍と道路工事のキャンプが点在するのみ。
崖垂状の急斜面を九十九折りに登る。氷河の一部が落下してきたものか砕石を含む大きな氷の塊が横たわっている。はるか谷の向こうには白く輝く峰が続いている。雄大な景観に見とれる。
崖垂を登り切り、岩山の間を抜けると突然湖水が目に飛び込んできた。スラタール(Sura Tal)4802mだ。「スラとはSun、すなわち太陽のこと。」「太陽の湖と言う意味です。」とシェルさんが教えてくれる。
今日の目的地バララチャ峠(Baralacha La)4891mはそこからほんの数キロであった。
12時少し前、目的地に到着した。四方にのびる尾根のど真ん中の大きな窪み、それがバララチャであった。中パ国境のクンジュラブ峠やチベット高原の峠の姿と脳裏でしだいに重なっていく。
遙か彼方、岩山の山肌に豆粒のように見える隊列はチャンドラタールに向かうトレッキングの一行とか。ここから2、3泊で、昨日の朝分かれた大部隊が目指したチャンドラタールに、反対方向から行くことが出来る。タルチョの周りを回りながら岩の間にへばりつくように咲いたミニチュアの高山植物にカメラを向ける。ゆっくり歩いていても呼気は荒くなり、心臓の鼓動は早鐘のように鳴る。
30分ほど滞在の間にラダックからマナリに向かうバイク・トレッキングのアメリカ人グループ3人とマナリからやって来たマイクロバスのアメリカ人グループ10人余りがタルチョの側に来た以外は、ラダックに向かうトラックとマナリ方面に向かうトラックが数台通過したのみでであった。
帰路は早い。バイクの3人に抜きつ抜かれつ走る。ジンジンバー(Zingzingbar)で、1人の道路工事関係者らしき男を同乗させ、タパチャン(Tapachan)で降ろす。バイクにもヒッチハイクの男が同乗していた。
パティシオでチャイタイム。13時〜13時30分。高山植物が美しいと聞いていたが、少なくとも道路沿いの芝生のような植生はクローバー。放牧地になっているところはよく見るとクローバーの種を播いているところが多い。
鞍部の広い放牧地の中を深い谷が貫いているが、その反対側にレストハウスの建物がある。その前にいた黒の長い毛をした犬が一匹吠えながらこちらに向かって走ってくる。チャイハナの前に横たわっている犬と対照的。しかし、ヒマラヤやチベットで注意するものの一つに誰もが放し飼いの犬をあげる。狂犬病の恐れがあるからだ。
ダルチャで遅い昼食。ペプシとベジタリアン用の野菜(グリーンピース、キャベツ、トマト、タマネギ)焼きそばを注文。ケチャップをかけると結構旨い。仕上げはやはりチャイ。
スペアタイヤのことやらで時間を費やし、1時間余りダルチャで過ごす。
ダルチャでジスパに戻る老人を同乗させ、軍のトラック隊の間に挟まれながら、16時前ホテルに帰る。
一休みした後、ジスパの村を散策する。ホテルの周りはジャガイモ畑と収穫もそろそろ終わりに近づいたアラスカ豆(グリーンピース)の畑になっている。収穫されたグリーンピースは大きなジュートの袋に詰められ道ばたに積み上げられている。丁度、散策中にそれを買い付けに来たトラックに出会った。一袋ずつ測り、金を払っている。村人にとって貴重な現金収入源になっているのであろう。天秤で測る業者の一挙手一動足を見る目は真剣そのものだ。
小学校の横に道を挟んで4つのチョルテンがあり、道と平行にチョルテンとチョルテンの間に20mほど石垣が造られている。気をつけてみるとその石垣と思われた石の全てがマニ石であった。村のはずれには新しいゴンパがあり、ホテルの隣にはチベット医院の建物がある。ジスパはラマ教の村、チベット人の村であった。
河原に下りると、至る所にハーブの群落がある。2年前、キンノールの道ばたで気づいたあのハーブの群落が。
また、河原にソバ畑があった。ピンク色の花もすでに盛りを過ぎ、実をつけはじめていた。河原に横になって稜線を見ていると、心が洗われていく。実感として、最高に贅沢な時間を持つことが出来た。
私の旅の原点は確かこれを求めていたはず。
軌道修正しなくては。
18時、ホテルに戻り、紅茶で一服。
昨夜、ホテルの近くのキャンプ場でテントを張っていたフランス人キャンパーは午前中に発っていた。キャンプ場には、インドでは珍しく、長いロープに牛が一頭繋がれていた。 ホテルのレストランもキャンパーが夕食を予約していたため、なんとなく賑わいでいたが、今晩は閑散としている。
「7時頃、注文をとりに、部屋に伺います。」というボーイの言葉を信じ、部屋で待つが、19時半になっても現れず。待ちくたびれレストランに。
カリー料理にナン、オニオンスープを注文する。
[8月23日(月)]
6時半、起床。7時朝食(トースト、チャイ、ジュース)。
8時過ぎ、アイベックスホテルの従業員の見送りを受け、マナリに向け出発。後部の補助席に、シェルさんの所属するマルコポーロ社のメンバーが1人同乗する。
またまたインド軍のトラック隊の間に挟まれ、埃まみれのドライブとなる。
キーロン(Keylong)を9時10分に通過。
キーロンの手前、ブハンガ川に注ぐ支流沿いで、20人余りの男が赤々と燃える炎を見つめている光景に一瞬息をのむ。道路からわずか十数メートルのところで荼毘に付される遺体に驚愕し、合掌す。
タディ(Tadi)9時半に通過。兵士が目立つ。排気ガスと埃に閉口。
シェルさんの実家のあるゴンドラ(Gondla)着、10時。
シェルさんの誘いに応じ、実家を訪問。チャンドラ川の右岸、北側の緩やかな斜面に2、30軒の農家が集まっている。その中でも新しく立派な家がシェルさんの実家であった。家ではシェルさんの母親と一番下の弟さん、それにまだ幼い姪と甥が迎えてくれた。二階の居間に案内され、ビスケットとホットミルクをご馳走になる。
余程珍しいお客様か、二人の姪と甥がはしゃぎ回る。
居間の窓からの眺めはすばらしく、氷河を抱く、グプトパルバット(Guputparbat)6159mがチャンドラ川対岸に聳え、緩斜面には緑に覆われた畑がつづく。畑の緑はここでもほとんどがジャガイモとマメ。
30分ほど休憩し、車に戻る。後部補助席にシェルさんの親戚らしい初老の男と5、6歳の男の子が乗ってくる。二人はシッスの診療所で下車する。
11時半、往路と同じく、コックサーでパスポートチェック。今度は大荷物を持った女性が1人、同乗してくる。彼女はロータンパスの登り口で下車。ラホールはシェルさんの
故郷だけに、知り合いが多く、頼まれれば仕方なく乗せているようだ。最初はサーブ、即ち私の了解を得ていたが、その内、勝手に乗せてしまうようになった。もちろん、空席があるのだから私は構わなかったのだが。
ロータンパスで、またもや前後を軍のトラックに挟まれる。
ジグザグの急坂に喘ぐトラックを避け、工事中の道をショートカット。タールまみれになって道路工事をする男女は、南インドやネパールからの出稼ぎ者が多いという。
峠を登るにつれしだいに青空が狭くなり、雲と霧がわき上がってくる。グレートヒマラヤの北と南の差異がこれほど明瞭とは。
13時、峠を越え、クルバレー側に。
2、3度車を止め、高山植物の写真を撮る。状態のよいブルーポピーを探すが見つからない。シェルさんには何箇所かのポイントがあるらしく、車を止めるとさっさと岩の間を登っていく。霧の切れ目にマリの集落が、眼下に、見える。マリが海抜3320mだから、3600m付近か。岩の上でシェルさんが手招きしている。カメラとデジタルビデオカメラを手に道から5、6mほど急斜面を登ると岩の隙間に淡いブルーの可憐な花をつけたブルーポピーが。状態もよい。盛りを過ぎたこの時期にこのような状態のよい花に出会えるとは。さすがロータンパス。気を付けてみると岩の陰や棚にも咲いている。実をつけたものが多く、最後の一輪が残っているものが大半。
14時過ぎ、マリにて昼食。焼きそば、野菜スープ、ペプシで46ルピー。
下りは早い。途中ビアス川沿いで崩落した岩を取り除く工事のため15分ほど待たされるが、15時40分には「風来坊」の下の道まで戻ってくる。そのままマナリまで行き土産物をさがす。マニ車や仏像、瑪瑙やトルコ石の装飾品など、チベットやネパールで売られているものと変わりがない。日本での価格を考えれば確かに安いが、欲しいものがない。とりあえず、羊の皮で作られたバックとラピスのネックレスを買い、毛糸の靴下を物色。田舎のチャイハナでも軒先にぶら下げられているのが手編みの毛糸の靴下。店番をしながら編み物をしている女性をよく見かけたが、彼女らの手によって編まれているのが色鮮やかな靴下だ。
シェルさんの言葉を借りると、土産物屋の靴下は、出来が悪いそうだ。なるほど編み目が粗い。「靴下なら女房が編んでいる。家に来ないか。」と誘われる。
ゴンパ通りのアパートの2階がシェルさんのお宅。奥さんと2人暮らし。寝室兼居間と台所の二間の部屋に案内される。赤いサリーを身につけた奥さんは最初は驚いたような顔をされていたが、やがていそいそとお茶の用意をしてくださる。シェルさんは台所から写真を一枚持ってくる。その写真は2年前、車とともに土石流に埋まったキンノール入域許可書に貼られていた私の証明写真であった。泥に汚れ変色してはいるが痛みは少ない。
「掘り出したジープの中にあった。記念にとっておいたがお返しする。」とのこと。掘り出されたジープの中に残っていたものはほとんど原型をとどめず、使用に耐えるものはなかったと聞いていた。わずかプラスチックのケースに入れていた撮影済みフイルムが3、4本のみ(大変貴重なものになったが)生き残り、現像した写真をいただいてはいたが、まさかの思い出の品。びっくりすると共に大切に保存して下さっていたことに感謝する。 さらに奥さんが編まれた緑色の毛糸の靴下を一足家内への土産にと下さる。
17時半、「風来坊」に戻る。ベランダで、森田さん、サンペルさんの親父さんと早速一杯。チャンドラタールに登った一行の内4、5人が高山病で下山してきたとか。幸い軽症でたいしたことはなかったそうだ。そういえばマリですれ違ったマルコポーロ社の車のドライバーがそんな話をしていた。ラホールではサンペルさんの弟が添乗した車と出会ったが、この車はレーまで行き、帰りはスピティによって帰るとのこと。
18時半、部屋に荷物を置き、マナリに戻るシェルさんの車に再度乗せてもらい街まで出る。
2年前に入院した病院をさがす。市街地は思っていたより狭く、一回りするのに20分もかからない。病院も商店街の一角にあった。自由に動けない身体で想像していた街と実際の街の様子にはかなり差がある。
カシミアのセーターやショールを扱う1軒の店に入り話し込んでいる内に遅くなり、オートリキシャーで「風来坊」の登り口に帰ってきたのは20時。懐中電灯を持って出ることを忘れた自分を責めつつ、足下も見えない真っ暗闇の谷沿いの坂道を辿る。
夕食は今日デリーからバスでやってきた大窪さんと1階食堂で。
ビールを飲みながら歓談。若い人は羨ましい。
[8月24日(火)]
4時起床。荷造り。マナリからチャンディガルまでは普通なら8時間から9時間だが、雨季のこの時期何が起こるか分からないのでと、昨晩、森田さんから、5時出発を告げられた。チャンディガル17時35分発の列車に乗るために5時出発とは。
玄米茶を一杯いただき、5時、森田さんの見送りを受けつつ自動車道まで下る。ドライバーは昨晩から車で(寝て)待っていた由。19日にチャンディガルに迎えに来てくれていたドライバーだ。
人通りの少ないマナリの街を抜け、クルの空港まで1時間15分。順調にとばす。クルの街を過ぎた辺りから雨がぽつぽつ降り出す。雨そのものは小降りであったが、ここ数日来の雨で地盤はすっかり弛んでいた。往路、ドライバーが立ち寄ったヒンズー教寺院の手前で、土砂崩れが発生していた。川沿いの道は幅15メートルほど大岩と泥に埋まっていた。発生してまだ間がないのか、完全に崩れ落ちてはなく、目前で崩落が続く。
クルの方からやってきたブルトーザーはなぜか引き返し、手作業での除去作業は遅々として進まず。8時前に反対方向よりやってきたブルトーザーによって、9時半にやっと通行可能になった。しかし、完全に崩落が終わったわけではない、作業員の指示に従い1台ずつ一気に現場を抜ける。「南無さん」。無事通過。これでどうにか列車に間に合うか。
ところが、そんなに甘くはなかった。10分も走らない内にまたもや車の列の後ろに。150メートルばかり前方の崖が幅20〜30メートル崩れ落ちている。雨はしだいに激しくなり、いつまた大規模な崩落が起きるか分からない。車を止めた右手山の斜面からも泥混じりの濁流が流れ落ちてくる。ドライバーに車を移動するよう促す。こちらの心配も知ってか知らずか意外にのんびり構えるドライバー。彼らにとってこのようなことは日常茶飯事のことかも知れない。それでも30分ほどで通行可能になった。軍用道路だけに修復は早い。土砂崩れの起こりそうな場所にはあらかじめブルトーザーやシャベルカーを置いているようだ。
その先も、マンディまでの間では落石が道を塞いでいたり、土砂が流れ出していたりで、対向車が一台も来ない道をすり抜けるように、それはもう奇跡的に突っ走り、11時にマンディに着いた。往路はマンディの先、バークラダム湖畔での落石や土砂崩れが激しく、渋滞していた。とにかく危険個所を抜けるまでは安心できない。雨はあがった。休憩なしで車をとばす。
往路、土砂崩れで渋滞していたところも、その後は崩れておらず問題なく通過。緊張が解れるとお腹もすいてくる。スワガートの露店でバナナを4本(5Rs)買い、しのぐ。
2時半、マラワラのアンナプルナ・ホテル・レストラン(往路にも寄る)で遅い昼食。ダル、サラダ、スープ、コーラしめて50Rs。ここからチャンディガル駅まで丁度1時間。4時、駅に着いた。マナリから11時間かかったが、急行ヒマラヤ・クイーン号の発車時刻までは十分余裕があった。ほとんどノンストップで走り続けたドライバーの疲労も激しいとは思うが、とんぼ返りでマナリに戻るとか。
1stクラス、Aキャビンは定員4人。男女のアメリカ人に連れのインド人、ノートパソコンを持ち出し、うるさいこと。特にインド人のはしゃぎようにうんざり。10分遅れの17時45分に発車、途中で寝台に仕立て、横になる。30分ほど寝たか。22時40分、ニューデリー着。カウルさんが出迎えに。23時15分、メルディアン・ホテルへ。724号室。
[8月25日(水)]
6時起床。NHKの「おはよう日本」(録画、日本時間の6時に放映)を見る。アメリカの公定歩合の引き上げ、トルコの大地震、上原(巨人)連勝のばす等々。
7時、1Fでバイキングの朝食。昨夜は携帯食のお粥で済ませた。
部屋からは、国会議事堂やインド門などニューデリーの核になる建物がよく見える。
8時45分、フロントに。約束の時間であったが、旅行社の者現れず。9時にやってくる。空港まで25分、100メートル間隔に警備兵が立つ。インド連邦構成の各州首相が集まっているとか。雨季にも関わらず、最近デリーではほとんど雨が降らないそうだ。干ばつにならなければよいが。
入国時インドルピーに両替したがほとんどそのまま残った。空港待合室で本や紅茶など買うがそれでも3500Rs残る。
家に電話をしたが誰も出ず。
10時45分、7番出発ゲートへ。IC813便、A300、24A席。(後日、カトマンズからデリーに向かうICのA300がハイジャックされ、アフガニスタンのカンダハルまで転々とすることになる。もしかしたらこの飛行機だったかも知れない。)11時25分離陸。ヒンドスタンの上空を北東に向かう。モザイク状の耕地が果てしなく続く。一定間隔に散在する町や村、そして蛇行する川がアクセントになるのみ。
13時、雲の下に雨季の緑に覆われたカトマンズが。
空港は、現在改修中。ビザをとるのに30分かかる。
旅行社からの出迎えはテジさんと同郷の青年。
14時30分、ホテル・マルシャンディ。309号室。チェックインの時間が早すぎたか、清掃中。荷物を置き、ダルバール広場に出かけようと廊下に出たところで、エレベータから降りてきたテジさんにばったり。
部屋に逆戻りし、1時間半余り語り合う。
16時15分、ケダー君に会うためダルバール広場に向かう。28日に宿泊予定のホテルに立ち寄り、広場に向かうが、テジさんが新ダルバール広場と勘違いしており、逆方向に歩いていた。リキシャを拾い、ケダー君が店開きしている旧王宮前のダルバール広場へ。雨上がりの広場には、昨年と変わらず土産物を売る露店がびっしり並んでいる。その割に客は少ない。ケダー君の店を探していると、彼の方から現れた。今日は雨が降ったので、店を出さなかったそうだ。17時半頃から待っていてくれたらしい。
タメルのカトマンズ・ゲストハウスの屋外レストランで再会を祝し3人で乾杯。
22時頃まで飲み、語る。
ケダー君とは、28日にもう一度会う約束をし、別れる。
夜中、かなり激しい雨音が。
[8月26日(木)]
6時20分起床。7時、5Fのレストランで朝食。「風の旅行社」のツアーで来たという日本人女性2人と7〜8人連れのアメリカ人と一緒になる。
部屋に戻ると、テジさんが迎えに。
チャーターしてくれた車はかなり旧式で傷だらけではあるがベンツ。
最近引っ越ししたというテジさんのアパートに寄り、荷物の一部を保管してもらい、チベット国境のコダリに向け出発。テジさんの住むアパートは新王宮の裏手、タメルから歩いてもせいぜい20分ほどだが、まだ田畑が残っている。典型的なスプロール現象を見ることができる。道は狭く曲がりくねった農道がそのまま街路化している。農業用水は下水道に。未舗装の道は至る所に水たまりや泥濘ができ、車が走る道ではない。それでも近年地価の高騰が著しく、400坪ほどの土地が7000万円するとか。
中尼公路として、中国の援助により整備された道はさすがに立派と話をしていた矢先、車の列。土砂崩れにより1,2キロ前方で通行止めになっている。30分ほど様子をみていたが復旧の気配はない。2時間ばかり走っていたから、コダリまであと2時間というところか。とりあえずカトマンズまで一度戻り、様子をみて、場合によっては行き先変更も考えることにする。
カトマンズ郊外に新しく建設されたサッカー場に近いファーストフードでモモとヌードル、ビールで昼食。
引き返す途中で、現場に向かうブルトーザーに出会ったので、その内、通れるようになるどろうと、昼食後、再びコダリに向かう。
別に急ぐわけでもなく、昨年も行ったバクタプルに寄ることにする。
小雨の降る中、1時間余り散策する。昨年はダルバール広場(王宮前広場はすべてダルバール広場と呼ばれている。そのためカトマンズにもパタンにもバクタプルにも同じ名の広場がある。)周辺のみを見て回ったが、今回はビムセン寺院やダッタトラヤ寺院まで大方の寺院全てを見て回った。
3時過ぎ、事故現場まで戻ってるが、ブルを使った復旧作業は先程始まったばかりと、待たされること1時間半、4時半にやっと開通。
3,4キロは快調にとばすが、またもや道路上に大量の土砂。バスやトラックなど車高の高い車はどうにかクリアーできるが車高の低い乗用車はとても無理。コダリ行きは諦めざるをえない。
カトマンズから75キロほどの道を結局2往復することになる。
雨季の8月、ヒマラヤを望めることはほとんどないが、カトマンズとの中間地点、ドウリケル峠(1524m)はヒマラヤの見所になっているらしい。ホテルもあり、シーズンは賑わうとのこと。残念ながら、この日は濃い霧。また、バネパのヒンズー教寺院はこの日が祭礼、道路沿いを寺院に向かって歩く人の群れに会う。
19時、カトマンズを素通りし、マナカマナに向かう。
カトマンズからポカラに向かう道はかなり整備されているが、それでもカトマンズ盆地からマルシャンディ川の谷に下る峠は怖い。急斜面に葛折りの道が続き、落石や土砂崩れの跡が生々しく、いつも工事をしている。幸い日が暮れてからの峠越え、深い谷は見えず、恐怖感を抱くことはなかったが、峠を下る途中でパンク、修理の間、茶店で休息。チャイ1杯5Rs。
仮面をつけた踊り子に道を占拠されたりしたが(もちろんこちらも楽しめたのだが)、21時半にはマルシャンディ川沿いの茶屋集落(マナカマナの手前、約50キロ)に着き、モーテルに宿をとる。
夕食は道端に並ぶ薄暗い食堂の一軒に入り、ダルとライスを用意してもらう。それにバナナとガバを買い、デザートにし、ビールで乾杯。
モーテルにはシャワー、トイレ付きのコッテージがあり、向かい合わせの2棟が今晩の宿。「電気蚊取り」を準備してくれるが、見かけより清潔で、ノミやシラミの心配なし。
[8月27日(金)]
4時過ぎ、にぎやかな鳥の鳴き声に一度目を覚ます。6時、起床。身体を拭く。
7時、コッテージ前の庭で、朝食。トースト、チャイ。2部屋分の宿泊料、672Rs。
7時半、ホテル発。川沿いの道を無茶苦茶とばすこと40分、マナカマナのロープウェー乗り場に。創業間もないこのロープウェー、経営者は王族、機材はすべてスイス製。往復250Rsはネパールの人々にとってあまりに高額。とても庶民が利用できる乗り物ではない。外国人は10$=900Rs、ここでも外国人料金。ロープウェーでのぼるマナカマナは女神マナカマナを祀る寺院。願い事をよく叶えてくれると、ネパール人参拝客が多い寺院でもある。彼らの多くはロープウェーを横目に、急坂を3時間以上かけて登ってくる。特権階級と外国人観光客のための施設であることは明らか。
シーズンオフのため運行開始時間9時。集まってくる乗客の観察。なるほど、やってくるのはパジェロに乗った特権階級の家族連れやご子息。高価な貴金属を身につけたご婦人、マナーの悪い若者。
そんなご婦人と一緒にゴンドラに乗る。
歩くと3時間以上もかかる尾根の上にわずか10分ほどで到着。
ロープウェーが開通してできたという参道沿いにはにわか造りの供物を売る店や土産物屋が軒を連ねる。ヒンドゥの神様は生贄がお好きなようで、山羊やニワトリなども供物として売られている。
テジさんも35Rsの供物セットを買い込んだ。ココナッツと赤い花のセットだ。
寺院は10メートル四方ほどの2層の建物で、ヒンドゥ教徒のみが堂内に入ることを許されている。靴を脱ぎ、革製品(バンド等)を置き、神妙な顔つきで供物を捧げて並ぶ列に、特権階級の方々もテジさんもいた。靴やバンドを預かるのは地元の子ども。いい小遣い稼ぎになっている。お客の奪い合いだ。
正面左手の一角が生贄の処理場。山羊はククリで一刀のもとに首をはねられる。さすがに直視できず。断末魔の悲鳴に振り向くと、そこには首のない、鮮血のしたたり落ちる山羊を持ち上げる男が。
尾根道に沿って連なる門前の集落は、小さいながらも立派な門前町。茶店や旅館、土産物屋、供物屋が並ぶ。
冬場にはマナスルやアンナプルナが見えるという老人が一人店番をしている茶店で一杯7Rsのチャイを飲み、寺院の背後に続く道を歩く。ワラビを摘みながら。のんびり2時間半ばかりのトレッキングを楽しむ。ヒマラヤの姿を望むことはできなかったが、小鳥の鳴き声や虫の声を聞き、突然目の前に飛び立つ山鳥に驚き、時々行き違う村人とテジさんの会話に耳を傾け。
マナカマナ寺院から2、3キロ離れた山の中腹に奥の院ともいえる小さなお堂がある。マナカマナに参拝してもそこまで行く者は少ない。女性のグループが三々五々登っていく。 一方山の上から籠を背負って下ってくる村人もいる。見晴らしのよい尾根に記念碑とベンチが作られていた。冬場は絶好のヒマラヤ展望台になるのだろう。碑の年号にはネパール歴が記されていた。テジさんによれば、今日は2056年4月11日だそうだ。
昼食は茶店の前のファーストフード(?)で、焼きそばとビール。
門前の集落を歩いてみる。新しいホテルの建設が目立つ。ロープウェー効果か。
昼休みが終わり、14時からロープウェーが動き出すとか。乗り場へ。土産物屋の店頭に並ぶものは、おもちゃのようなネックレスやお守り、壁掛けなど。蝉を捕まえた子ども。握った手の中でジャージャーと鳴いている。クマゼミによく似ている。気をつけてみると近くの木の枝にも止まっている。
ロープウェー(スキー場のリフトのように30m余りの間隔で5人乗りのゴンドラがぶら下がったもの)、途中で止まる。このまま動かなくなったらと一瞬思ったが、幸いすぐに復旧。14時30分、カトマンドゥに向け発進。スピード狂のドライバー、2時間半で雨上がりのカトマンドゥ着。
テジさんのアパートへ。
半年ほど前まではタメルのアパートに住んでいたが、家賃が高く、居間のアパートに引っ越したそうだ。4階建てアパートの3階。タメルから歩いても30分ほどの王宮の裏。周囲には水田も残る、まさにスプロールの典型的な場所。農道がそのまま街路に取り組まれているため狭く、車一台がやっと通れる幅。もちろん舗装はされておらず、雨上がりの道は泥濘。
しかし、都市化の波はまもなくこの地域を飲み込んでしまうだろう。200坪あまりの農地が7,8万ドルほどと話していたが、多分、1年後には10万ドル、15万ドルに跳ね上がっていることだろう。
奥さん手作りのモモ、ポテトフライ、揚げロティ、それにチャン(手作りの地酒)で歓待される。
22時半頃までチャンを飲みながら話していた。一人娘のラシニタちゃんは9歳、英語学校の4年生。当然、日常会話はできる。公立の小学校と違い英語学校はお金もかかるらしいが、子どもの教育だけは生活費を節約してもしっかりしたいそうだ。教育費がかかるので子ども1人しかつくれないとこぼす。奥さんも時々会話に加わるが、日本語も英語も駄目だからと聞き役に。
居間のソファベッドを借り横になる。
[8月28日(土)]
6時半、起床。
朝食にパンケーキを焼いてくださるが、卵アレルギーの私にはせっかくの好意も無駄になり、失礼してしまった。かわりにバタートーストとチャイを準備してくださる。
8時、テジさんのお宅を出、カトマンドゥの北、巨大なストゥーパで知られるボダナート北西の山上にあるゲルク派の僧院コパン・ゴンパへ。途中の道は砂利道やでこぼこ道(カトマンドゥでは町中の道ほどでこぼこがひどい。アスファルトに穴があいても補修しないのでかえってひどい道になる。)だが、ゴンパに登る道は舗装され快適。欧米人の帰依者が多く経済的に恵まれたゴンパとのこと。一般にチベット仏教の寺院は財政的には恵まれたものが多く、僧坊などの増築をしているものが目立つ。
このゴンパも新しく、僧坊の増築が行われていた。修行僧(子供)が多く、凧揚げや卓球に興ずるくったくないその顔が印象に残った。
静かで、眺望のよい山上のゴンパ。
図書館で、ダライラマや自由チベットのステッカーを買い求める。
次に向かったのはヒンドゥー教の寺院、ダクシンカリ寺院。
コパン・ゴンパからカトマンドゥを挟んで対称的な位置にある。カトマンドゥの南、約17qほどの山間にある。
土曜日のため参拝者が多く、参道には露店が並んでいる。野菜、果物、香辛料、日用雑貨から土産物まで、露店を見ているだけでも結構おもしろい。
谷川沿いの寺院の建物は小さいが、参拝者が多いこともあり、広く整備されている。寺院内にはヒンドゥー教徒以外は入れないが、狭い寺院内は供物を持った人で一杯だ。シヴァ神の妃、カーリー神を祀るダクシンカリ寺院は、マナカマナ同様、生贄を捧げる人が多い。カーリー神は殺戮やチベットのステッカー好む暗黒の神、ニワトリや山羊を捧げ、大願成就を祈る。
ダクシンカリから山道を20分ほど登ったところに奥の院のようなマタ寺院がある。さすがにここまで登ってくる者はそんなに多くない。山頂近い出っ張りの、しかも、狭いスペースに小さなお堂が建っている。お堂と茶店が一軒、他に何もない。緑の絨毯のような樹冠の向こうにまだ新しいゴンパが見える。チベット仏教の勢いをこのような場所にも見た。
珍しいネパールの包丁(いちばん小さいやつ)を35Rsで買う。
13時頃、テジさん宅に戻る。タクシー代693Rs、チップ200Rs。5時間、60q以上走っての料金。
昼は、また、テジさんの奥さんが用意してくれていた。チキンカリーにダルスープ。チキンカリーにはマナカマナで摘んだワラビが入っていた。テジさんは昼から奥さん手製のチャンを旨そうに飲んでいる。
長居は申し訳ないので、タメルのホテルに。テジさんが時々使っているというムーンライトホテルへ。
17時前、旧王宮広場(ダルバール広場)の一角、クマリの館の東側、露店の並ぶバサンタプルにケダーを訪ねる。今日は一日天気がよいので朝から店開きをしていたそうだ。日本人の若い女性客と露店をぶらつきアンモナイトの化石4個購入、かなり値切って270Rs。クマリの館前に人だかり、のぞいてみるとクマリの御輿が出ていた。
ケダーの店でチャイを頂き、ホワイト・タラの像を1つ700Rsで買う。去年から店に転がっていた仏眼石、記念に持って帰ってくれと包んでくれる。
17時半、兄さんと甥が店じまいを始める。結構手間のかかる店じまいだ。一つ一つ丁寧に箱詰めする。
19時半にカトマンドゥ・ゲスト・ハウスで会うことを約し、買い物がてら、インドラチョークからアサン広場に出、タメルへと夕刻の雑踏を抜ける。真鍮製の水差し680Rsと手刷りのカレンダー(3冊で200Rs)を買う。
カレンダーを買っていると背後からケダーが。
ゲスト・ハウスのレストラン・テラスでピーナッツとポテトフライを肴に3人でサンミゲルビール5本。日本円で1000円ほど。
ケダーの話によると、アンモナイトの化石は、ヴィシュヌ神の化身とか、これを壊すと手が使えなくなるそうで、化石の採集は、ヒンドゥー教徒はしないそうだ。カトマンドゥで売られている化石のほとんどはチベット人が採集したものらしい。実際、ヒンドゥー教徒が信仰の対象としているリンガのそばにアンモナイトの化石が置かれていることが多い。金銀の真贋を見分けるときにもアンモナイトの化石を使うそうだ。
雨が降り出し、22時前、ケダーと別れ、ホテルへ。来年カトマンドゥに来るときにはお土産に日本人形を持ってくることを約す。
久しぶりに入浴。湯が濁るほど汚れた身体もさっぱり。
[8月29日(日)]
夜中に降っていた雨も朝には上がり、青空が出た。
5時前、隣のヒンドゥー教の祠に下がる鐘の音、風呂場の水滴の音に目かさめる。CNNニュースや世界陸上の中継を6時半頃まで見ていた。
7時、朝食。ジュース、チャイ、トースト。そして、荷造り。
ホテルの回りを20分ほど散歩。戻るとテジさんが。
奥さんからのお土産と、ラム酒を1本。
8時半〜9時40分、土産物を求め、再びタメルへ。前から気になっていた民族楽器の太鼓、680Rsで手に入れる。女房のセーター、ヤク柄のカーペット風敷物、だんだん荷物が増え、買い物旅行の雰囲気に。気がつけば残しておくべき出国税1000Rsにも手をつけていた。結局、200Rs、テジさんに頂く羽目に。
10時、ホテルを出る。ベンツのスピード狂のドライバーが待っている。空港までわずか20分。
テジさんと再会を約し、トリブヴァン空港内に。荷物のセキュリティチェック、カウンターでの搭乗手続き、SQ413便、A310型機、座席40A、出国税は銀行へ。2階待合室、なんとなく薄暗く、くすんだ感じ。スナックと免税店1つ。チャイ1杯40Rsは茶店の6、7倍。予定時間12時25分過ぎても搭乗の案内なし。12時45分、やっと搭乗開始。後発のタイ航空機もすでに入っている。
離陸、13時5分。カトマンドゥの上空を旋回、王宮やスラヤンブナートも眼下に見える。カトマンドゥ盆地にもしばしの別れ。雲の中に入り、いつの間にかうとうとしていた。13時35分、ピーナッツにビールが配られ目を覚ます。45分、バングラデシュの上空か。黄土色の大河が眼下に。水田も水に呑まれているようだ。洪水か。
今年の旅も終演に近づいた。自己確認できたか。自然体であったか。無我になれたか。一年の垢は流せたか。自分がどこに向かっているか分かったか。自問自答を繰り返す。
機内食ランチ、ビーフ・ジャガイモ・エンドウ・ニンジンのメインディッシュ、魚・トマト等のサラダ、パパイヤ・メロン・パイナップルのデザート、パンにコーヒー、赤ワイン。贅沢な食生活に戻った。
飛行1時間ほどでベンガル湾に。厚い雲の中。機体が時々激しく揺れる。
16時15分、マレー半島上空に。何度か雲の中に入るものの視界はいい。桂林のような石灰岩地形が見える。マレー鉄道で走っているときに見た光景を思い出す。沿岸沿いに蛇行した河川が、緑の島は、マングローブの島か。16時35分、広々とした平野、直線的な海岸線、日もしだいに西に傾いている。シンガポール時間では18時50分。それから1時間余り、17時45分(シンガポール時間20時丁度)、シンガポール空港に着陸。
雨が降っている。
SQ986便の案内はまだない。
待合室でついふらふら回転寿司屋に入る。日本に着くまで我慢した方がよかったと後悔。 4時間の待ち合わせを免税店のウィンドーショッピングで過ごす。
23時10分、やっとゲートD51へ。日本人でごった返す待合室。夏休みの最後を海外で過ごした若者、家族連れ。
23時35分、搭乗開始。B747型機、36K席。出発時間遅れ、0時35分離陸。
すぐに軽食。エビのにぎり1個に海苔巻き2個。ウイスキーの水割りをちびりちびり飲みながらイヤホーンから流れるBGを聞いているうち眠っていた。5時、日本時間6時、日の出。黒雲に真っ赤な朝日。朝食は山菜に鮭、ご飯に果物、緑茶。もう日本だ。
6時20分(日本時間7時20分)、関空着。飛行時間5時間45分。
ターンテーブルに荷物なかなかあらわれず。
家に無事帰国のTEL。
8時48分の「はるか8号」、新大阪10時6分「ひかり103号」を乗り継ぎ帰宅。
1999年の旅 完
※この旅は、1997年、インドヒマラヤで遭遇した土石流の現場を再訪し、その時お世話になった方々に、一言お礼が言いたくて計画した旅であった。
幸い、マナリ在住の森田さんのおかげで所期の目的を達成することができた。
97年と同じ、ドライバーのシェルさんの運転するジプシー(小型の4輪駆動車)で、事故現場を訪れ、当時のスタッフのほとんどに再会できた。
4日間、シェルさんと旅をし、2001年には、ラダックからマナリまでの旅を約束した。しかし、この約束は果たせなくなった。2000年12月30日、シェルさんはロータンパスへの途中、凍結した道路でスリップ、運転していたジプシーは500メートルも転落、同乗のお客さん共々亡くなられてしまった。この訃報を耳にしたとき、あまりのことに我が耳を疑った。
森田さんからも直接、その状況をお聞きし、その現実を受け入れざるを得なかった。
彼との旅を心の中に、再度、約束の地に出かけ、彼の冥福を祈りたい。
2001年7月