∃ 一 口 ッ パ 旅 行 で 考 え た こ と
 
                               
 
  私は1969年7月28日から8月19日までの23日間、世界地理研究同好会のヨーロッパ東欧圏地理視察団に加わって西欧・東欧など11ケ国を回ってきた。勿論、飛行機をフルに利用した駆け足旅行ゆえ、地理視察と言う名目も充分に果せたとは言い難いが、未知の土地を新鮮な目で観察できたことは、大きな成果となった。少し、間が空きすぎた感もあるが、旅行中に考えたことを綴ってみたい。
 すでに、同好会より出版された視察記の中でも述べたが、我々地理学に関心をもつ者の常道として、巡検に限らず、一歩外に出るとどうしても眼前に展開する景観に地域牲を求めようとする。しかし、時に地域性を求める目には普遍性を見失なう恐れが多分にあり、逆に普遍性の中に存在する地域性さえ見落としてしまう場合がある。今回の旅行で特に感じたのはこの点であった。                             産業革命以来の世界的な工業化の波の中で、我々をとりまく環境が著しく、しかも加速度的に変化していることは周知の通りではあるが、特に最近の政治・経済・文化等の国際化傾向は、たんなる一地域の時間的環境の変化にとどまらず、場所的空間を超越した凡世界的環境変化をもたらしている。その中で、「所変われば品変わる」的な発想のみによって未知の土地を見ると戸惑いを感じざるをえない。確かに、イギリスにはイギリスの、フランスにはフランスの特色がある。自然環境に、また社会環境に違いがある限り、それは当然のことである。しかし、社会環境を構成する要素の普遍化現象には著しいものがあり、今やその問題を全くぬきにして地域性をとらえることは、何か歯の抜けたような感じがしてならない。
 航跡の白い尾が交叉し合う北海が、一面緑の絨毯に変わり、その中に直線状の白く輝く水路と、水路の交差するところに点在する玩具のような風車。これこそまぎれもなく私のイメージ通り、オランダの風景が展開してきた。これが私の見たヨーロッパ最初の景観であった。1620f、羽田空港の4倍半の面積をもつ広大なスキポール空港。動く歩道も珍しく、行列をつくり、入国監査官の前に恐る恐るパスポートを差し出しチェックを受ける。年間乗降客数約300万人。羽田の2倍の空港も早朝のためか、我々一行のざわめきのみが広い近代的なターミナルビルに響いていた。入国印を押してもらうと、ついに外国にやってきたという実感がこみ上げてきた。しかし、それと伺時に、ここは本当にオランダなのかと疑う自分を感じた。羽田からわずか16時間半。羽田を飛び立って間もなくカムチャッカの東あたりで夜が明け、それ以来、太陽は沈むことなく、スキポール空港に到着すると、そこは夜が明けたばかりという白夜の奇妙な現象に戸惑いながらも。また、途中、アンカレッジに立ち途ったにも関わらず。日本の延長と言う思いが強烈なのか。異質なものを見ながら異質性より共通牲・普遍性を強く感じる始末であった。この感覚はオランダに足を踏み入れて以後、旅行中、常に心の中にあって、反作用のように頭をもたげ、また消えていった。特に西欧諸国の都市では、自分が外国にいるということを忘れさせてしまう何かがあった。都市景観のもつ共通性とともに、心理的には銀座通りを一人で歩いているときの、あの大衆の中の孤独感を抱いた。時たま店をのぞき、英語や仏語で話しかけられ、ここが日本でないことに改めて気付くほどであった。
 この原稿執筆中に刊行された人文地理22巻4号の中で、はからずしも浮田典良氏が指摘されているが、地域の特殊性と普遍性を問題にする場合も当然スケールが関係してくる。巨視的に見れば普遍的であっても、微視的に見れば特殊的である場合は多い。日本列島は巨視的に見れば環太平洋造山帯の一部として均一的に捉えられるが、視点を変えると日本列島の地殻構造は大変複雑で、とても均一だとは言えない。即ち、地域性を求める場合その視点が重要であること言うまでもない。
 景観と言う総合的な視点から地域性を把握しようとすると、ミクロな部分を見落し、マクロな普遍性・共通性が気にかかるのかも知れない。しかし、逆に点と線だけの部分的な旅行などではミクロな普遍性がマクロな異質性を超越することもあろう。ミクロな普通性・特殊性に気をとられすぎて、マクロな普遍性・特殊性を見失なう恐れもある。この点、特に気を付ける必要がある。
 カイロからカルカッタに至る機上から眼下に展開する景観を見ながら、私はこの景観の変化と、そこに生活する人のことを考えていた。夜明け前、クウェートの空港に着陸したが、早朝のしっとりとした感触を味わうにはほど遠く、霞がかったような砂埃りの中に砂漠が広がり、上から見るとその砂漠の無限の乾燥した空間の中に油井の炎が点在していた。アラビア海の上空から望むイラン高原も緑っ気のない荒漠とした土地であり、タール砂漠には吹き出した塩と塩湖の白い模様が不気味に広がり、人を寄せ付けない荒々しさだった。ところがタール砂漠が消えた瞬間、それまで見えていた埃っぽい大地は厚い雲に閉ざされてしまった。雨季のデカン高原。陸地と言えば、その厚い雲の彼方に白雪を抱くヒマラヤのスカイラインが望まれるだけであった。そして再び下界が見えたとき、それは今までの世界とは全く異質な水と緑の世界であった。思えば、ローマ以来、アテネ、カイロ、そしてカラチに至るまで水と緑を忘れた世界であった。ところどころに格子状に見える地割の緑の線、点在する民家、それ以外のものは全て水没してしまっている世界。この乾燥と湿潤の著しい対称的景観に接したとき、私の心の葛藤がまたもや始まった。しかし、ここには普遍性も共通性もなかった。全く異質なのだ。乾燥と湿潤。この異質性は絶対的なものであった。人間は、この自然の中では埋没せざるをえない。人間は自然を克服しようとする。乾燥地では湿潤地を夢見、湿潤地では乾燥地を夢見、しかし、所詮、仮に部分的には克服できても、全てを変えることはできない。そこに限界がある。勿論、今後の科学技術の発展に伴なって、その部分は拡大していくであろうが‥‥。飯沼二郎氏は、その薯「風土と歴史」の中で、私が瞥見したのと同じ、東南アジアの湿潤地帯と西南アジアの乾燥地帯の著し違いを見、それを契機として「変転する歴史の根底にあって、常にそれに一定のワクをはめている風土の存在を明らかにする」ことを試み、「風土のうえに生い育った文化相互のあいだの対立と融合」をその中の重要な課題としている。その「対立と融合」の中に、私の考えた共通性と異質性を解くカギがありそうだ。文化相互の対立は相互の異質性を示し、融合は共通性を示す。即ち、風土そのものは絶対的であるが、それを克服しようとする人間の主体的な働きかけには風土に制約された異質性もあれば共通性もある。結局、人間が生活しているところには、必らず主体的な働きかけが存在し、そこには当然普遍的な現象が生じることになる。要は、この普遍的な現象を如何に扱うかであり、それを全く無視することはできないと言うことだ。異質とか共通とか、あるいは特殊とか普遍とか述べてきたが、それらは常に比較論の上に成り立つ。その意味では、地域性と全く同じである。地域性を求めようとするとき、その地域性の中に、それらは全て含まれていることを常に銘記しておかなければならない。
 以上、旅行中、特に考えたことであるが、ついでに、それらと関係がありそうなことを記しておこう。
 マンチェスターの繁華街、ピカデリー通りで、通行人に建物の名を尋ねたが、「私はEnglishでないから知らない。」と言う返事をつづけて2度もらった。間違いなくイギリス人だと思って尋ねたその人たちからの返事の真意はすぐには理解できなかった。しかし、その答えは間もなく意外な形で返ってきた。それから2週間とたたないうちに北アイルランドの暴動、即ち、ケルト系住民とアングロサクソン系住民が衝突し、軍隊が出動する事件が起ったのだ。これは単族国の国民には理解できない異質な一面であろう。    
 また、これは前々から聞いていた話だが、私も経験したことだ。パリのサンラザール駅前のタバコ屋で絵葉書と切手を買ったが、その時、この店の、年配だが人の好さそうな婦人は、私のブロークン・イングリッシュを理解し、切手を出してくれたものの、返事は全てフランス語。最後は筆談になったが、それでも英語を話そうとはしなかった。これは国民性と言えようが、国民性も、また異質てある。
 さらに、最も対称的なのは西ベルリンと東ベルリンであろう。壁一つ隔てて2つの世界が相対している。建物も違えば人々の服装も違う。一方はしゃべり一方は黙る。一方は庶民が多く、一方は兵士が多い。恐ろし、厳しく、緻密な国境検問に極度の異質性を感じる。同一の風土の中に存在する全く異質な世界。これこそ人間の主体条件の違い以外の何ものでもない。しかし。
 蛇足になるが、もう一つ。これは論点からかけ離れるが。
 1969年8月下旬。ロ−マからアテネに向うTWAの707型機がパレスチナゲリラに乗っ取られ、ベイルートに強制着陸させられる事件が発生した。実は同じ便に、1週間前、乗っていた。
 
 ※この一文は、岡山大学教育学部地理教室発行「巡検シリーズ」第6輯(1971)に掲載したものを若干修正した。