インド縦断の旅 1989.8.9.〜
[8月9日(水)]
1975年以来14年ぶりの海外旅行。当時2才の長男が高校生になり同行。月日の流れに感慨もひとしお。今回の旅は中国の西域に行くことで春から計画を練っていた。ところが、6月に「天安門事件」が勃発し、中国旅行は不可能になった。やむおえず急遽コースの変更を決定、期間・場所・費用などの点から最終的にインドを選んだ。しかし、8月の盆休み時期だけにどこの会社のツアーも満席、やっと5人分の確保ができたのは出発の1ケ月前。それからインド国内のルートの設定、切符やホテルの手配、全てが完了したのは8月に入ってからという真に慌ただしい旅行になった。
12時30分、約束通り大阪空港国際線一階団体7番カウンターの前でアショカ・ツアーズの中村さんからパスポートと航空券を受け取る。直ちに搭乗手続き、手荷物は一つ一つ中身まで厳重にチェックされる。5人分まとめて荷物を預け搭乗券をもらう。昼食をとり、出国手続き。出国カードの記入を忘れていて慌てる。国際線待合室の免税店で旅行中の飲み分としてオールドパーを1本(1リットル2,400円)仕入れる。それに換算用にカード型電卓1個(1,,000円)。
成田発、大阪、バンコク、デリー経由ボンベイ行きのエアー・インディア305便、B707型機に搭乗。サリーをまとったスチュワーデスに案内され、左側主翼の後ろ42番のA、B、C席に小川、深見さんと座り、近藤さんと護は配膳室を挟んで反対側の右前方の席になった。
定刻、14時35分、搭乗機はゆっくりとゲートを離れ、滑走路に向かって動き始めた。 前の方にはボンベイまで研修旅行に行くという関西学院中等部の生徒100人余りが乗っており賑やかなこと。
離陸して1時間余り、眼下に鹿児島湾、そして九州最南端佐多岬、山頂に白い雲の帽子を被った開聞岳が見える。
機内では映画が始まり、軽食がでる。イヤーホンでインド音楽を聞いている内にいつの間にか眠ってしまう。
ふと眼下を見ると、飛行機は丁度南シナ海からインドシナ半島上空へと向かうところであった。白い直線状の砂浜海岸、ラグーン、そして背後の緑はココ椰子か。集落も見える。しかしそれも束の間、地表は厚い雲の下に隠れてしまう。雨季のインドシナがそこにあった。
18年前、緑の中に残る赤褐色の裸地とクレーター状の水溜まりに、ベトナム戦争の傷跡を見つけ、恐怖感と胸の痛みを感じたのは確かこのあたりであった。
19時30分、雲の切れ目から広大なメナムデルタが見えた。整然とした地割、水路に沿った集落と熱帯性の樹木、久しぶりに異質な世界に接し、気持ちも高ぶる。19時46分(現地時間17時46分)、バンコク国際空港に着陸。トランジット=カードを貰って待合室に。さすが欧亜の航空交通の要衝だけに施設・設備も充実している。14年前に有料トイレで失敗した人のことを思い出しながら、免税店や土産物店を見て回る。帰途にもよれるので錫製のジョッキ1個のみ購入。
21時、再び搭乗機はすっかり暗くなったバンコク国際空港を離陸した。光の海のバンコク上空を過ぎると後はもう窓外は真っ暗闇の世界。機内食が配られる。缶ビールは1本1ドル。
1時10分(現地時間21時40分)、無事デリーに到着。荷物を受け取るのに時間がかかり、税関でビデオカメラの持ち込み登録をし、入国印を貰って空港を出たのは23時。現地旅行会社の社員がハイヤー2台で出迎えてくれており、客引き合戦の中を通り抜け、ホテルへ。ジャンパス・ホテルで社員からホテルのクーポン、汽車の切符を貰い、打ち合わせをする。フロントで手続きをし、ルピーに両替。部屋に落ち着いたのは0時半過ぎであった。
[8月10日(木)]
土間の上にウレタンマットを敷いただけの仮設ベッドに、ウイスキーを一口飲んで寝たものの、天井からぶら下がった大型扇風機の風に顔を撫でられ、その上エアーコンの騒音に悩まされ、夜中に何度も目が覚める。
6時、起床。ニューデリーの中心、コンノート広場から南に10数分、その名のとおり、ジャンパス通りに面した1等地のホテルだが、部屋の広さはともかく、内装の貧相なこと、これで1泊5,000円とは。
近藤さんとホテルの周りを散策。部屋のみすぼらしさに比べ、外観は5階建ての堂々とした造り。表庭に面し、テラスが玄関から左右に延びており、我々の泊まった部屋は玄関から3番目の6号室と5号室。その隣は航空会社や旅行会社の事務所になっている。
早朝から人の動きは活発だ。ホテルの前はタクシーの溜まり場になっており、ドライバーは凸凹で傷だらけの車の手入れに余念がない。オートリキシャーが寄ってきて、「乗らないか」と声をかける。「ノー」というと、すかさず「マネーチェンジ」ときた。壺やポットを持った人があちこちからやってきて、角の建物の前に長蛇の列をつくっている。牛乳屋だ。
一回りして、日本航空のニューデリー支店の前に出た。路上に牛が一匹寝そべっている。インドにいることを実感する。
街路樹やホテルの庭木にシマリスがたくさん巣くっている。愛らしいしぐさに引きつけられ、しばらく眺めていると、通行人は逆に眺めている日本人を珍しそうに見ながら通り過ぎていく。
7時、ホテルのレストランで朝食。トースト、マンゴジュース、紅茶で1人27Rs。ホテルの旅行案内所でスリナガルのハウスボートを予約する。2人部屋で1泊600Rs。1泊分として5人で1,610Rs支払う。
8時40分、タクシーで国内線の空港へ。運転マナーの悪いこと。ただし、強引な運転をしなければとても走れそうにないのだが。メーターは40Rsなのに60Rsを要求される。これからまたタクシーに乗る度に悩まされる料金交渉を思い頭痛がする。
空港入口で切符を提示するよう求められ、荷物はX線による検査。それからカウンターで搭乗手続きをし、荷物を預ける。X線検査に手間がかかる。
昨夜、ホテルでは1人100ドルしか両替して貰えず、手持ちのルピーも僅か。待合室の銀行で300ドル両替。T/C1ドル16.4Rs。みんなが両替しているところを記念にとフラッシュ撮影。どこからか兵士(警察官?)がやってきて注意される。空港内は撮影禁止とのこと。やれやれ。
出発待合室へは再び厳重な手荷物検査とボディチェック。護はカメラの電池を抜かれ、バッグに入っていた電池も取り上げられる。カウンターに戻り、貨物室に預けるように言われ、走る。10時25分、やっと駐機場へのバスが出る。IC−825便エアーバスV、禁煙席12−D。離陸は20分遅れの11時。スナックが出てしばらくすると雲海の下に雪渓の残る山塊が現れてくる。左側の窓からはインダス川の支流が黄土色に蛇行し、あるいは網の目状になって流れているのが見え、深見さんが盛んにシャッターを切る。
12時、何か物々しいスリナガル空港に着陸。武装した兵士がやけに多い。またもや荷物が出てくるのに時間がかかる。ポーターが多く、すきあらば荷物を持とうとする。空港出口で現地旅行社の学生風の社員が「MR.YAMAKAWA」と書いた紙を掲げて出迎えてくれていた。タクシー2台がなかなかつかまらず、結局1台に7人乗って市内に向かう。空港から市内までかなり距離がある。新市街の下駄履き商店街の2階にある旅行社に案内され、そこでハウスボートと連絡をとる。すぐに連絡がとれたらしく、別の社員が代わって案内してくれる。木造3階建て、窓枠やベランダに手の込んだ浮き彫りや透かしを入れた古い家のひしめく旧市街を抜け、ナギン湖の畔のデラックス・ハウスボート、「GOLD MOHOR」へ。1台に6人も乗せたのだからとタクシー代220Rs請求される。
一見インテリーで誠実そうなマネージャーが出てきてボートの中を案内。しかし、予約と異なりシングルの部屋はなく、1つの部屋には3人入ってほしいとのこと。契約違反だと言うと、1泊260Rs負けるから許して欲しいとのこと。柔軟な態度も気に入り了解する。
ハウスボーイも気持ちの良い青年である。すぐに昼食の用意をしてくれた。カリーが3種類。外国人相手の宿だけに味は洗練されている。食後、マネージャーと相談し、3日間の日程を決める。今日はシカラで湖上遊覧(150RS)、明日は車でソナマルクへ(900RS)、明後日はムガール庭園を見学して空港へ(800Rs)。
船尾のデッキ(ベランダ)に座っていると、シカラに乗った物売りが次々とやってくる。木彫りの民芸品、カシミール・ショール、食料品、フイルム、絵はがき等々。
ショール1枚200〜300Rs、ミネラルウォーター3本とリンゴジュース2本で66Rs。木製の柄のついた栓抜きとクルミ割りを75Rsで購入。
3時過ぎ、シカラが迎えにやってくる。1艘に5人は少し窮屈であったが、ヒマラヤの水の都スリナガルの生活の一端を窺うには絶好の遊覧であった。波静かな湖面にシカラの航跡のみが線を描く。対岸の技術大学の学生か、かけ声も賑やかにカッターの練習に励んでいる。湖畔では水遊びに興ずる子供、洗濯に勤しむ女たちなど様々な光景が展開されていく。
モスクから流れてくるナマーズを呼びかける朗唱にイスラム世界にやってきていることを実感する。スリナガルの重要な交通機関の一つシカラは、湖上ではまさに足。物資の輸送から観光客のみならず住民の輸送まで広く利用されている。山のように葦を積んだシカラ、山羊を運ぶシカラ、そして物売りのシカラ。蓮の花、ロータスを売る子供のシカラもやってくる。
小川さんは船頭の青年が吸う水煙草のパイプに目をつけ、とうとう150Rsで譲り受ける。バザールにあがる予定であったが、船頭に話しがついていなかったのか、結局2時間後ハウスボートに戻ってきた。
湯が出ないので、やむおえず水シャワーを浴び、洗濯。湯は朝の2、3時間しか出ないとか。インドのホテルではよくある話し。
7時から夕食。卵入りスープ、マトン、野菜の煮物、じゃがいもとカスタードプリン。大阪空港で買い込んだウイスキーを取り出し、ミネラルウォーターで水割りを楽しむ。後から気がついたのであるが、ハウスボートは禁酒であった。ここはイスラムの土地であった。
そんなことも考えず、デッキで、暗い湖面と対岸のボートの明かりを肴に、10時過ぎまで飲んでいた。
10時15分、デッキでの気温20℃、湿度75%。涼しい。魚の跳ねる音。犬の遠吠え。虫の鳴き声。鳥の声。近くのハウスボートからもれてくる囁くような話し声。誰もいなくなったデッキでしばらく静寂を求める。
[8月11日(金)]
午前4時、ナマーズを呼びかけるモスクからの朗唱に目覚める。不思議ななつかしさが込み上げてくる。
5時過ぎ、ビデオカメラを持って後部デッキに出る。小川さんはすでにスケッチを始めている。日の出前の稜線が美しい。空と湖面の色彩が刻々と変化し、小鳥のさえずりと昆虫の羽音のみが湖面に響く。気温20℃、湿度65%。カワセミが隣のボートの係留ロープにとまり、獲物をねらっている。花を満載したシカラがやってくる。
7時30分、日が昇ると共に気温も上昇、気温25℃、湿度60%。洗濯物を上部甲板に干す。
8時、朝食。トースト、オムレツ、紅茶。トーストがおいしくお代わり要求。
9時30分、小川さんと護はシカラでバザールへ。私と近藤さん、深見さんは車でソナマルクへ。
丁度、通勤、通学の時間帯と重なり、スリナガル市街とその近郊は人と車で溢れ、バス停留所はどこも大混雑であった。スリナガル方面に向かうバスは全て満員。
市街地を抜けると広々とした水田地帯に入る。朝の一仕事を終えた農婦が収穫物を頭に家路についている。その一方で、牛馬車が田畑へ、あるいは町に向かっている。
沿道の畑に桑の木を見た。カシミールは絹の産地でもあった。
カンガンに近い沿道に朝礼中のミドル・スクールがあった。道路と校庭を隔てるものは何もなく、車を止めて貰い訪問する。先生に来意を伝え、ビデオ撮影の許可を得る。我々が同業者と知ってか、再度、国歌(?)の斉唱をして下さる。ミドル・スクールといっても生徒の年齢幅は広く、7、8才ぐらいから14、5才までいるようであった。先生方の関心はもっぱら我々の給料で、校長の月給約100ドルというインドと、日本の教員の給料の格差に驚いていた。
カンガンでは対向車が多く渋滞する。バスターミナルを中心に賑やかなバザールが形成されている。
グンド付近で軍用トラックがシンド川に転落しているのを見かける。この辺りまでくると水田はなくなり、河岸段丘の段丘面や山の斜面はとうもろこしを中心にした畑ばかり。運転手が一本の木をさし、アーモンドだと教えてくれる。
両側の岩山に白いものが見え出すと間もなくソナマルク到着だった。
前面に氷河が望めるその名もグレッシャー・ホテルのレストランで昼食。12時半の気温20℃、湿度60%。マトンと野菜のカリー、ライスに紅茶、サービス料10%で、138Rs。
グレッシャー・ホテルはU字谷の平坦面に立地した、ドライブイン風の一軒家。周囲の平坦面や緩斜面は放牧地。小型の牛や馬が放たれている。牧草は芝のように丈が短い。ホテルの前には小型の馬を連れたガイドがたむろしており、20Rsで氷河のよく見える丘の上まで案内してくれる。しつこく食い下がるガイドと、サフラン売りの子供を振り切り、丘の上まで歩いて登る。丘の上にはヒュッテがあり、その南に3本の山岳氷河が発達した海抜5000m余りの岩山が迫る。一本は山の中腹に薄汚れた氷の壁を造り、そこから融けて流れ出した水が急崖を白糸のように落下している。これらの水を集めるシンド川の色は白濁し、まさにグレッシャーミルクの名の通りである。
[8月12日(土)]
5時40分起床。昨夜12時頃、2人連れの客があり、一番奥の部屋に案内されていた。朝のナギン湖は水鳥の天国。ガマの穂にカワセミがとまり獲物を狙う。
荷物の片付けをし、6時半を待ってシャワーを浴びる。
ハウスボートの中を隅ずみまでビデオ撮影。
シカラの花売りが今日もやってきた。隣のボートのアメリカ人らしいご婦人が1本の花のプレゼントにほだされ花瓶一杯の花を買ったが、カメラを通して見る光景は実にロマンチック。
7時、朝食。トースト、バター、ジャム、紅茶。7時半、迎えの車がやってくる。 ボーイとマネージャーに別れを告げ、車の待つ高台に登る。近藤さんと護と3人年配のドライバーの車に乗る。
未舗装でほこりだらけの狭い路地を抜けナギン湖の北に出る。主要道路は道幅を広げているが、そのほとんどが工事中。しかも道路のまん中に巨木が残されていて、夜間の通行を考えると事故が恐ろしい。郊外の台地上はリンゴ畑が多い。実は小さいが味はいい。低地は水田が卓越する。
土塀に囲まれた、アドベ造りの村を抜け、ダル湖北東岸のムガール時代に造られた、シャリマーガーデンへ向かう。
週末とは言うもののまだ朝早いせいか入園者は少なく、デリーなどからやって来た避暑客らしいインド人や外国人観光客が三々五々園内を散策していた。色とりどりの花が咲き乱れた園内はよく手入れが行き届いており、作業員の姿が目だつ。中央に水路と噴水、滝などを配し、直線的な道で区画するのはムガール庭園に共通する形式だ。かつて、パキスタンのラホールで訪れたシャラマーガデン、アグラのタジマハールの前庭を思い出す。皇帝ジャハーン・ギールが妃のヌール・ジャハーンのために造ったというが、水路では子供がすっ裸で水遊びを楽しむのどかさについ由緒ある庭園にいることを忘れてしまう。夜には音と光のショーが開かれているとのこと。
観光コースに入っているのか、庭園を出ると運転手は「カシミール・カーペットの展示場によろうか。」と、こちらが返事を返す間もなく庭園に隣接したカーペットの工場兼展示場に入る。ガードマンが物々しく門を固めた建物に入ると、髭を蓄えた30才前後のマネージャーらしき男が出てきて案内してくれる。10才前後の男の子が3人機の前に座り細かい手作業でカーペットを織りあげている。1枚織るのに1ケ月以上かかるとか。器用で安価な労働力がここでも重用されている。2階は展示場になっており、大小様々なデザインのカーペットが壁に掛けられ土間に積み上げられている。早速商談。マネージャーとの駆引き。シルクとウールでは値段に倍の差がある。荷物になるので玄関マット程度の小さな物を出してもらったが、それでも1枚500ドルと高価。手作業で織る子供の姿を見た後だけについ値切る言葉に力が入らず400ドル余りで手を打ってしまった。
展示場を出た車はほんの数分で次の目的地ニシャート・バーグへ着く。シャリマー・ガーデンと同じ様な形態の庭園だが建物が少なく芝が広い。中央を流れる水路に水がなく、噴水も止まっておりせっかくの庭園の美しさが半減していた。しかし、高台に位置した庭園からの前景はすばらしく、ダル湖と湖上のフローティング・ガーデン、そして、スリナガルの1つのシンボルにもなっているハリ・パルバットの砦が遠望できる。もう一つのムガール庭園、チャシューマー・シャヒーから巡ってきたのか欧米からの観光客やインド人観光客、学生などが急に増えた。
庭園散策に時間をかけ過ぎてしまい運転手はかなり時計を気にしてた。案の定、猛スピードで市街を走り抜け、空港に向かう。昨日、一昨日に比べ街角に立つ兵士、警察官の数が多いのが気になる。カシミール問題を抱えるそのご当地だけに肌に冷たいものを感じる。
バザールに寄る間もなく、土産の布製のバックを空港の売店で買う始末。搭乗手続きがまた大変。順番待の列に並んでいても、割り込んで来る者、顔を利かせて直接係員に指示する者、さらに係の職員の仕事の遅いこと、少々早く空港へきても時間ばかりかかり、その上余裕もない。搭乗券を手に入れてからがまた大変。ボディチェック、X線による手荷物検査、さらに手荷物は一つ一つ中身をださせ、ウォークマンの電池まで抜き取る厳しさ。ショルダーの隅に残っていた梅干し菓子を見つけこれは何かと問われ、答えに詰まり「ジャパニーズ・クッキー」と答えたところ一つくれという。どうぞと差し上げたがさてどんな顔をして食べたか決果が知りたい。
やっとの思いで出発ロビーにたどり着いたと思い気や今度は貨物室に載せる荷物までいちいち荷札と引き換え書を照合させ不審な荷物が紛れ込むのをチェック。もちろん、空港内は撮影禁止。カシミールという場所を考えればこれも止む負えぬことか。
インディアン・エアーライン、IC826便は30分遅れで離陸。ヒマラヤ山脈の南西麓、海抜1,700mのカシミール盆地の田園風景が眼下に広がる。周囲の山々は白雲がかかり山頂に期待した残雪や氷河は見えない。しかし、田園の緑に比較し山裾の黄土色の山肌が気にかかる。ネパール・ヒマラヤにおける森林破壊と同様のことがここカシミールでも起こっているのではと不安がよぎる。ジャム・カシミール南部の山岳地帯を横切るとパンジャブの平原が開けてくる。搭乗手続きに時間がかかり昼食をとる暇もなく離陸してしまっただけに、機内食のランチは助かった。
広大なパンジャブの平原地帯の集落はまるで中心集落の立地と段階的な周辺集落との関係を表すモデルのようである。一定間隔に大きな町が分布し、その間に小さな町が、そしてその周辺に塊村が、物差しで計ったような集落分布の景観である。
14:20デリー空港に着陸。蒸し暑い。1時間ほどの間に、気温は10度上昇。旅行会社の指示どおりニザムディン駅へタクシーをとばす。一時預かりをホームの外れにやっと捜し、手続きの書類を記入し切符を出したところ、タミル・ナドゥ特急はニューデリー駅発だけどそれでもよいのかとけげんそうな面もち。慌てて大荷物を担ぎ、駅前でタクシーを拾い、ニューデリー駅へ。インド門からジャンパス通りを抜け、コンノート広場からニューデリー駅へ。ニューデリーの主要通りは全て車で走ったようだ。しかし、タクシーを拾うたびに料金交渉と支払いに一悶着。なかなか地元料金では乗せてもらえない。
ニューデリー駅の一時預かりで又もや一苦労。リュックなど鍵のかからない荷物は預からぬとのこと。交渉の末、鍵がかかっていないが了解しているむね書類に記入の上リュック2個は預かってもらう。深見さんは鍵のかからぬショルダーを持って歩くことになる。自分で荷物置き場の棚に運び確認しておくのも日本では考えられないこと。
すっかりくたびれてしまい、ともかくお茶でも飲んで休もうということになり、駅の2階のレストランに入る。熱いミルク・ティーが喉にしみるように旨い。しかも安い。小川さんは駅の周辺を歩くということで、4人、オートリキシャーを止め、ジャンパス通りの土産物屋の並ぶ商店街まで走らせる。本来、客は2人定員のところへ4人乗り、途中でドライバーの友達だと称する男が運転席に同乗し、合計6人が乗ったものだから、さすがのリキシャーも喘ぎ喘ぎ、他のリキシャーやタクシーに道を譲りながら目的地へ。
ジャンパス通りは外国人観光客が多く、土産物屋の呼び込みも賑やかである。真鍮製のティーセットや小物などの土産物と革製のサンダルを買う。履物屋の前で小川さんと逢い、コンノート広場に面した中華料理屋で夕食をとる。283Rsは少し贅沢だったが味はよかった。照明の少ない街路は薄暗く、暗闇の中を大勢の人が動めいている。8時過ぎというのに、この暗闇。露天のカーバイトの灯が昔懐かしい。広場の隅で麻薬の売人に声をかけられる。大麻樹脂を持っているようだった。かってアフガンで何度もお目にかかった「大麻」、インドおまえもか。
駅に戻り、待合室に入る。駅前も、駅舎内も、ホームも、陸橋も至るところに人間が寝そべっている。列車を待っている様子でもなく、いわゆるホームレスの人達だ。物乞の多さ、非生産的な仕事につく人の多さ、18年前とほとんど変わっていない。貧富の差はますます拡大しているように見える。同じ人間でありながら、しかも、自分一人の力でどうすることもできず、目を合わせれば後ろめたさを感じ、つい目を反らし、避けて通ろうとしていまう。心地よい1等待合室に入ってしまったのも一種の逃避だったのかも知れない。
食料はともかく、ミネラルウォーターだけは仕入れておこうと構内の売店を捜すがどこにもない。駅前の食料品店でやっと見つけ出す。9:40ホームへ。手荷物の監視を深見さんに頼み、一時預かりへ。大変な行列。荷物を受け取れたのは発車予定の10分前。赤帽さんを雇い、ホームへ。すでにタミル・ナドゥ特急はホームに入っており、赤帽さんについて、指定席エアーコン2等寝台へ。車両の入口に予約客の名簿がはりだしてある。5人の名前があるのを確認し安心する。乗車して間もなく、ほぼ定刻列車はゆっくり動きだした。4人掛けのコンパーメントに前後2段ベッド、下段が座席、通路を挟んで縦に2段ベッドがある。近藤さんは早速車内探索。コンパーメントではおかきをつまみにオールドパーの水割りで乾杯。貴重なウーロン茶も出る。検札にきた車掌さんは「ウィスキー」と笑っていたが、洗面所前の注意書きには車内での飲酒を禁止すると書いていた。
[8月13日(日)]
7時前に目を覚ます。18年前にカジュラホへの往復に乗降したジャンシーは4時頃に15分ほど停車したらしい。夜は明けているのにいやに薄暗い。セピア色の窓外の風景が窓ガラスに色がついているためと気づくまでしばらく時間がかかる。7時過ぎビナに停車。ホームや線路上など構内のあちこちに山羊や牛がうろついている。雑草の多い構内は手ごろな放牧場か。
デカン高原北部、どんよりした雨季の空。ゴンドワナランドの一部を占めるデカン。エアーズロックを思わせるような巨岩やテーブル状の岩山が残る侵食地形。川沿いには水田が見られるが、ほとんど畑か放牧地。
8時40分、40分遅れでボパル着。石油タンクや薬品輸送用の車両が目だつ。確か数年前アメリカ資本の化学工場の事故で多数の犠牲者を出し、いまなお後遺症で苦しんでいる人が大勢いたのはこの町だった。ボパルに限らないのだが、都市郊外には決まってスラムがある。このスラムの人の中にも犠牲者がいたのではと思うと何故か怒りと寂しさがこみ上げてくる。
各車両には食事の世話をしてくれる乗務員が乗っており、食事時になると予約をとって歩く、紅茶は1人前カップに軽く3杯分が魔法瓶に入って2.5Rs。安くて結構おいしい。食事はナンやチャパティ、カレー、玉葱スライス、ヨーグルトなど朝、昼、夕それぞれ定食一種類、しかも同じ様なメニューだが、アルミホイルに包んだ温かい弁当が座席まで運ばれてくるのだから有難い。値段も8Rsほどでこれまた我々にとっては安い。しかし、一般のインド人にとってはやはり贅沢な食事なのか、三度の食事を全て注文している人は少ない。大体、AC2等寝台に乗車できる人はやはり金持ちの特権階級で一般庶民には縁遠い存在ではあるが。ちなみに、ニューデリー〜マドラス間2,190km、料金を比較すると、AC1等1,360Rs、AC2等寝台733Rs、1等620Rs、特急2等150Rs、普通2等93Rsである。我々は日本で業者を通して購入したため、手数料をしっかりとられ15,400円も支払った。現地で購入する手間と心労を考えれば、限られた時間での駆け足旅行ではこれも仕方がないが。
9:40、地平線の望める高原上を走っていた列車はいつの間にか岩山の中に入っている。潅木の間に深い渓谷が見える。雨が降り出した。減速していた列車は渓谷の側で止まってしまった。窓ガラスに色がついていない隣の1等車から写真を撮る。デッキを開けて覗いて見る。別に変わった様子もなく単なる信号待らしい。
岩山を抜けるとしばらくは丘陵地帯を走る。赤い岩が所々にむき出しになった丘陵地帯は潅木の疎林になっており、林間地は放牧地になっているらしい。窪地には煉瓦造り赤屋根切妻の低い民家が数軒集まり小さな村ができている。その周りはモロコシかトウモロコシか区別はつかないが、穀物らしきものが植え付けられた畑が開かれている。
12:40、昼食のチキンカレー、骨付きの鶏肉、骨ばかりで食べるところがないと近藤さんはむくれている。玉葱も厚く切っている上晒していないとこれまたおかんむり。しかし、味は悪くはない。護はうまそうに平らげ、ヨーグルトは2人分食べた。
小さな町、カトールで停車。ホームに降りて、体を伸ばし、写真を撮る。ホームや列車からの好奇の視線を感じながらも、自分の乗っている車両を外側からじっくり観察する。
15:23、ダイヤより1時間の遅れでナグプール着。曇っているせいもあるが、昼間というのにいやに薄暗いホーム。しかし、人は多い。乗降も結構多い。反対側のホームにはSLが止まっている。売店でコーラを購入。瓶を車内へ持ち込みたいから瓶代も含めて勘定してくれるよう頼んでもなかなか要領を得ない。瓶は持って行っては駄目だの一点張り。側にいた年配の紳士が通訳を買って出てくれ、高い瓶代を払いやっと手に入れる。
ホームを行き来する人の足元を見ると、ほとんどの人が裸足。身なりと履物は無関係。靴を履いている人はほとんどいない。ゴム草履かサンダルを履いていればましといった有様。泥んこ道では確かにゴム草履のほうが合理的。モスクや寺院に入るときもすぐに裸足になれる。しかし、理由はそれだだけではないだろう。日本人の下駄履きと同様の習慣的要素もあろうが、ニューデリーのサンダル屋の店員に、履いている運動靴とサンダルの交換をねだられていたのを思うと。
座席に戻り、栓を抜いたコーラをみると早くも中に蝿が入っている。全く油断も隙もない。コーラの味は予想外。私の味覚には全く合わず。
ナグプルを出た列車は相変わらず変化の乏しいデカン高原の一角を南に向かって走る。ビデオカメラ持って前車両の一等車(ACなし)のデッキに行く。窓に取り付けた鉄格子が邪魔になり、デッキのドアを開けようとしていると、一人の青年が声をかけてきた。勤め先から実家のあるマドラスへ帰省の途上とのこと。姉と姪も一緒らしい。ナグプルに近い石炭関係の企業で働いているとのことで、ナグプル駅の入場券の裏に会社の住所を書いて日本に帰ったら是非手紙をくれるように頼まれる。
平坦な赤土の畑がつづく。川沿いには集落が現れ、赤瓦の屋根に白壁の、ただし、泥で薄汚れた民家が目につく。煉瓦を焼くために掘ったのか、集落の近くには堀のような水溜りがある。
18時過ぎ、石炭会社に勤めるS.Rameshとデッキで話をしていると左前方にボタ山が現れた。Ramesh君によると炭坑があるらしい。インドの炭田といえば、ダモダル炭田しか頭にない自分に苦笑してしまう。聞くところによればデカン高原上の各地に分布しているとのこと。18:24 Balharshahに停車。ホームで記念撮影。
一日曇よりとした空模様であったが、日没を前にして雲の間から真っ赤な夕日が顔をのぞかせ、西の空を赤く染めた。地平線に沈む夕日をねらってカメラを構えたが空を赤く染めたまま再び雲に隠れてしまった。
夕食はやはりカリー弁当。昨夜は冷房が効きすぎ、特に上段の寝台では寒くて困ったとか。上段の者だけでも今夜は寝具を借りようということになり、車両付きの服務員に頼む。枕と毛布のセットで5Rs.と安い。
外が暗くなると、あとはウイスキーの水割りか、横になるだけ。護は一日ヘッドホーンを耳に、寝台に座りこんだまま。
[8月14日(月)]
夜中に何度か目が覚めたが、5、6時間は眠れた。トイレが混む前にと、洗面所に行くが次々とやってきてなかなか番が回ってこない。トイレはオリエンタル風と洋式の2つがあるがどちらにしろ便器も床もいつも水浸し。インド人はトイレットペーパー代わりに水を使うことは解っていても習慣の違いはなかなか受け入れ難い。試してみたという人もいるが最初は下着や服を濡らしたりあたり一面水浸しにしたりで大変だったという。便器の側に水道の蛇口がついているが、それ専用の金属製の水入れを各自持参し用を足している人が多い。
7:30、マドラスが近くなった。東ガーツ山脈の東麓をベンガル湾沿いに南下。それまでの赤瓦に代わり藁屋根の民家が増えてきた。7:38、左側車窓から海が見える。ラグーンのようでもある。漁船か、多数の帆掛船が出ている。ココ椰子の林に囲まれた集落から南インドらしい音楽が流れてくる。十数頭の牛を使って田圃の中で脱穀をしている農夫達を見た。青々とした水田が見られる一方で、稲刈り脱穀などまさに二期作でも三期作でも可能な熱帯、亜熱帯の姿を垣間見るようだ。
8:18、右側車窓から塩田が見える。純粋な天日製塩だ。塩の小山がある。しかし、雨季の今ごろは、製塩には向かないはずだが。
タミル・ナドゥ特急は約1時間遅れでマドラス中央駅に着いた。我先に飛び込んでくるポーターを横目に大荷物を背負い迎え客や乗降客でごったがえすホームを出口に向かう。列車の写真をとっている間に小川、深見両氏の姿を見失う。小川氏は荷物を預けたポーターの後をタクシー乗り場に向かっていた。
客引きのしつこさに駅周辺を散策する気持ちも起こらず、カネマラ・ホテルに直行する。トリプルとツインの部屋をとる。プールも備えた高級ホテルではあるが、一部屋800Rs、日本円に換算すれば安い。もちろんインドの多くの人にとっては1ケ月の収入より高い。エアーコン、バス、トイレ付き、部屋は広く、天井は高い。テーブルには果物も準備されている。
汗を流し、とっておきのカップヌードルを分け合い一息つぐ。ホテル一階のM.H.T.ツアーズでボンベイまでの切符を貰い、ついでにマドラスとマドラス近郊の観光方法を尋ねる。安く、また効率の良い方法として、ここでも車をチャーターすることに決める。今日は午後2時にホテルをでて市内観光、明日は朝からカンチプラムのヒンズー寺院などを巡ることにした。チャーター料は2日分で700Rsほどであった。
予定時間を30分ほど遅れ市内観光に出発。インド国産のアンバサダーに6人乗ると少し窮屈ではあるが、乗り心地はさほど悪くはない。まず、パンテオン・ロードに面した州立博物館に向かう。入館料50Pは安い。南インドの遺跡から集められた石像やレリーフなど豊富な収蔵品に感心する。平日にもかかわらず結構入館者も多い。写真を撮っていると監視人がやってきて「孫がコインを集めているので日本のコインがあればくれないか」と話かけてきた。穴のあいた50円をあげると喜び、お礼にと50Pの記念コインをくれる。