| インド・キンノール巡礼の旅 |
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| 1997年8月19日(火) 土石流から奇跡の生還 |
4時には目を覚ましていた。満月はまだキャンプ地を煌々と照らしていた。テントの中の気温は10℃。外は4〜5℃か。今日はここを撤収し、マナリに戻る予定である。しかし、朝食前に昨日見残した、キー寺院を訪ねるグループ(K、R、N)とアンモナイトの化石を探すグループ(私、A)に分かれ、3時間ほど別行動をとることになった。
5時に私はSHさんの運転するジープ(マルチ・スズキのジプシー)に乗り、キャンプ地北東の岩山を越え、ランザ村Langzaに向かった。右に左に、スピティの谷を見下ろし、西に傾いた満月と日の出間近の淡い光に照らされた幻想的な雪山の風景に見とれながら。
走ること40分余り、前方のカール状の窪地と斜面に平屋根の典型的なチベッタンの家が十数軒現れた。ランザ村である。早朝のためか人の姿はなく、静まり返っている。背後には両翼を広げた四角錐の雪山。この雪山が先日群馬県の高等学校の先生方が登頂されたチャウチャウカンニルダであることを後で知った。
村のはずれに車を止めたSHさんは、「ここからは歩いて行かないと化石は拾えない。」という。しかも往復3時間はかかるとのこと。場所もただ指さすだけではっきりしない。時間に余裕なく、場所さえはっきりしない化石探しはあきらめざるをえなくなる。聞くと村人は拾った化石を持っており譲ってもらえるらしい。せめて、化石だけでもというと、SHさんは村の背後の丘の上の一軒家に私たちを案内した。タルチョが翻り、チョルテンのある建物、普通の民家としてはおかしいなと思ったら案の定ラマ寺であった。ソハンさんが戸を叩きながら何度か大声をあげると中からかすかな返事があった。勝手に戸を開け、中に入る。タンカや仏画に囲まれた部屋の入り口近くの粗末な木のベッドに男が一人、6,7歳の男の子と一緒に寝ていた。この寺の住職だった。来意を告げると、ラマ僧は仏壇の下から10個ばかりのアンモナイトの化石を取り出してきた。全部で200ルピーだという。荷物にはなるがすばらしい土産、すべて買い求める。
寺の周りを歩いてみる。村の一番高い場所に位置しているだけに眺望はすばらしい。なにか、呪術的なことを行った後か、茶碗を割った跡が2カ所あった(日本で葬式の後、死者の茶碗を割るのと何か共通なものを感じた)。高度計を取り出してみると4300メートルをさしていた。
ペットボトルを持って、村に駆け下りていった子供が水を汲んで戻ってきた。チャイをご馳走して下さるとのこと。ついでに寺の中を見せていただく。壁画などの様子からかなり古い寺らしい。ガイドブックには載っていないがこの一帯にはまだまだたくさんのチベットの文化遺産が眠っているようである。
庫裏に入り、チャイをいただく。冷えた身体を芯から暖ためてくれる。住職には4人の子供がいて一緒に住んでいるのは末っ子とのこと。他の家族はマナリに住んでいるとか。 日本人が9人、チャウチャウカンニルダ登頂に成功したという話もここで聞いた(群馬県高体連山岳部の先生方7人が、8月7日と10日の2回にわたりのべ9人登頂された)。
約束の8時、少し過ぎたがキャンプに戻る。キー寺院に行っていたグループはすでに帰っており、早朝にもかかわらず中を見せてもらったとのこと。写真撮影はできなかつたが、内容的にはタボ寺院の方が上ではないかとのこと。
コックのSWさんのつくった暖かい朝食をいただき、9時、キャンプ地を離れる。
今日は雲一つない晴天。真っ青な空に雪山や岩山の稜線がくっきりと映える。
キー寺院をスピティ川の対岸からカメラに収め、落ちてきた大岩にチョルテンが刻まれていたという岩のチョルテンに寄り、スピティ谷入り口のチベット人の大きな村ロザーで休息。チャイをいただき、12時過ぎには今回の旅の最高地点、海抜4551メートルのクンザン峠に着いた。来るときには霧のかかっていた山々も今日は氷河のクレパスの線まで見えるほど澄み切り私たちを迎えてくれた。峠には建立中のチョルテンと古いチョルテンの二つの大きなチョルテンが並んでいる(小さなチョルテンはその二つのチョルテンを囲むように数基あり、チョルテンとチョルテンは色とりどりのタルチョで結ばれ、強風にはためき、「オンマニペニフム」と人々に代わって祈りを捧げている)が、信仰心の厚い、ドライバーとコックはチョルテンの前で五体投地を行い賽銭を入れ、チョルテンの周りを回り、祈り、ラマ僧からサフラン水で祝福(?)を受けている。写真を撮していると、おまえも祝福を受けろと促される。
下りは早かった。途中、山羊の群やトレッキング中のヨーロッパ人、道路工事の人たちに出会ったが、目は青空と山の稜線に釘付けになっていた。
1時半、来るときにも昼食を摂った、バタルに着く。同じレストハウス(名前はレストハウスでも石積みの壁に青いビニールシートの屋根を張った茶店)でコックが用意してくれたチャパティ、ジャガイモ、マンゴジュース等とチャイをいただく。レストハウス2軒のみのバタルはマナリから来れば、スピティへの入り口であり、西ヒマラヤの登山口。西ヒマラヤ登山中に遭難した方の記念碑が2つ建立されていた。
2時20分、バタルを立つ。峠を越えて、道はチャンドラ川に沿って走る。谷底から20〜100メートルの高度差を上がったり下がったりしながら走る。対岸には氷河を抱く6000メートル級の山が並ぶ。バタルから30分ほど走ったか、道路を占領した羊の群を抜けると、前方に一台のトラックが止まっていた。その先20メートルほどのところでは右手の岩山から黄土色の濁流が流れ落ち道路を横切っていた。幅は12,3メートルほど。流れの手前にジープを止め、ドライバーやガイドは流れを渡り様子を見ていた。(ここから後は感謝の気持ちを込め実名を記す)ドライバーの一人セルシンさんに渡れるか聞くと、首をふって「難しい。」と一言。それでも水深はさほどでもなく、流れの向こうに止まっているトラックさえ下がれば、突破できそうであった。
カメラとビデオでその様子を撮影した直後であった。谷全体に雷鳴のようなものすごい音が轟き地響きが起こったのは。何事かと濁流の上部を見上げると、真っ黒な固まりが、落下してきているではないか。「土石流だ!」「逃げろ!」下の方からも悲鳴のような叫び声が耳に入った。流れを見て、瞬時に私は濁流を渡り、下に逃げる決断をした。意外なほど冷静であった。私の足と土石流のどちらが早いかの勝負であった。もし、そこで一瞬でも迷っていたら、まともに土石流に飲まれていただろう。 とにかく走った。濁流の中を。しかし、濁流を渡り切る直前に土石流は私の足をさらった。
私の横にいた今野さんもまた私と同様下に向かって濁流を越えようとした。しかし、谷寄りを走っていた今野さんは濁流に足をとられ、手を付いたところで土石流に捕まった。 濁流を渡りきっていた有川さんは「今野さん!」と、叫ぶや濁流に引き返し、彼もまた土石流に捕まった。一生懸命手をさしのべる有川さん。土石流に流される今野さん。幸いかな、土石流に乗って流されている。その時、私の左手側にあったトラックが谷に押し流されていった。トラックの向こう側を流されていた今野さんの姿が消えた。有川さんはトラックの手前を上半身のみ見せて流されていた。
流れが止まった。私はまだ道の上にいた。土石流の中に這い蹲っていた。「生きていた。」「まだ生きている。」思わず口走っていた。自力で脱出した私は全身どぶネズミのようなみじめな姿であった。潰れたと思った足は残っていた。両足に痛みを感じながらも立つこともできた。
振り返ると、今まで乗っていた2台のジープの姿はどこにもなく、道路も谷も真っ黒な土石流に埋め尽くされていた。
ドライバーのソハンさん、コックのソワンさんが谷に駆け下りて行った。上半身泥だらけの有川さん、足が石の下敷きになっている様子。現地スタッフの懸命の努力で救出され、上がってきた。右足からかなりの出血。「今野さん」「今野さんが」とその場に止まろうとする彼を現地スタッフがなだめ、安全な場所に移動させようとする。
その時また土石流が起こった。「止まれ!」「止まれ!」私と有川さんは口を合わせて叫んでいた。二度三度繰り返し起こったが、幸い小規模のもので、今野さんが埋まっていると思われるところまでは流れてこない。
現地スタッフが大声で、今野さん救出のため手を貸してほしいと呼びかけるが、現場から避難した人は動かない。私も手を貸したいが、この足では谷に下りることもできない。 今野さんの足が見える。有川さんが救出されたすぐ側に。上半身は大きな石の下になっているように見えた。「駄目か。」不吉な予感が頭をよぎる。
有川さんに肩を貸したスタッフが、「あなたも安全な場所に避難したほうがよい。」という。何もできない自分を責めながら、200メートルほど先に止まっているバスに向かって歩き始める。100メートルほど歩いたところで黄色のTシャツの青年が肩を貸してくれる。やっとの思いでバスにたどり着く。「バスの中に入っていなさい」という言葉に促され、座席に座り込むが、寒くてとても座っておられない。有川さんはバスから300メートルほど離れたところにあるレストハウス(チョッタドララChhotADrara)に向かっている。私も下りて後を追う。
今野さんと有川さんは土石流に流されたのをこの目で見たが、河守さんの姿は見ていない。スタッフの一人、ドライバーのセルシンさんの姿もない。河守さん、セルシンさんの消息が気になる。もしジープと共に本流で流されていたら絶望だ。今野さん、河守さん、セルシンさんの顔が浮かび、「何故。」、「どうして。」、「この事故に遭遇することは避けられなかったのか。」と自問自答。しだいに足の痛みが増し一歩前進しては休む。レストハウスから飛び出してきた人に支えられやっとレストハウスの前のベンチにたどり着く。悪寒がひどい。震えが止まらない(土石流は氷河の融水を含んでいるため冷たく、その上乾燥しているため気化熱で体温を奪われ寒かったものと思われる)。ガイドのネギさんがドロドロになった服を脱がせ自分のTシャツとソックス、靴を脱ぎ、レストハウスの少年からジャージのズボンを借り着せてくれる。また、トレッキング中のフランス人グループが、バスタオルで身体を拭き、背中や腕を一生懸命さすってくれる。
震えの止まらぬ私をレストハウスの中に移動させ布団や毛布をかけ、足下にガスバーナーを置いて暖めてくれたのも彼らだった。すでに有川さんはレストハウスのベンチに横になっており、彼らの応急措置を受けていた。収容されて何分たっていただろう。ドイツ人のグループがやって来て大きな救急箱を運び込む。ドクターも2,3人いるようだ。有川さんの手当をてきぱきとこなし、私の脈をとり、触診ながら足も診てくれる。「骨折はないようだ。」「大したことはない。」という診断だった。
「今野さんを救出した。」、「大丈夫だ。」、「バスに収容した。」、「河守さんは上に逃げて無事だ。」という情報をソハンさんが届けてくれたのもその頃だった。半信半疑ながら安堵する。
「今野さんが何か言っているので来てほしい。」とドイツ人の医師が呼んでいるからと、スタッフの一人。レストハウスの前まで帰ってきたバスの中に今野さんは横たわっていた。ドイツ人の医師に付き添われて。今野さんは寒さを訴えていた。私も震えが止まらなかった話をすると少し安心された様子。意識ははっきりしている。助かったのだ。「OKだ」といったソハンさんの言葉は本当だった。喜びがこみ上げる。急いで有川さんに伝える。 「よかった」。二人の目に涙が溢れていた。
有川さんはスタッフにヘリコプターの要請を何度かしていたが、要請の手段がなく、要請してもいつ来るものやら見当が付かぬという判断から、スタッフはスピティに向かっていたジープを借り上げ、車でマナリの病院に運ぶ決断を下した。
私が助手席に、今野さんが後ろのシートに横になりソハンさんとソワンさんが介護、有川さんは最後部に布団を敷いて横になりセワンさんが介護。ネギさんは一足先にドイツ人一行のバスに便乗しグランポーの警察に届け、マナリに連絡をとることに。 事故発生から2時間あまり経過した5時過ぎ、チョッタドララのレストハウスを出発。 寒さを訴える今野さんにチャットゥルChhatru(3560メートル)のレストハウスで布団を借り、グランポーGramphoo(3200メートル)の手前で先発のネギさんを拾い、グランポーの警察のテントにネギさんを降ろす。
来るときは高山植物の美しさに心を奪われたロータン峠も闇の中、葛折の道がいらだたしい。峠を越えると、霧がしだいに深くなった。ついには10メートル先も見えなくなった。ソハンさんと盛んに話していたドライバーも無口になった。登ってくる車もない。走行できる状態ではない。しかしドライバーは車を止めようとはしない。路肩の白いペンキを唯一の目標に前進を続ける。9時過ぎ、やっと峠道を抜けた。
10時過ぎ、約5時間かけて私たちはマナリの病院(LADy Willingdon Hospital)に着いた。
ネギさんからの連絡は入っていないようであった。 直ぐに人集りができた。
とにかく今野さん、それから有川さんの治療を急がなくてはならない。「私は大丈夫だから二人を先に。」とスタッフに二人の搬出を促す。私もしだいに足の痛みが増し、歩行が困難になる。それでも一人で車を降り、庭木の縁石に座り込む。どっと疲れがでる。その様子を窺っていた青年が歩み出て、「チャイを飲むか。」と声をかけてくれる。うれしかった。「ありがとう。下さい。」と答えると、駆け出していった。
当直のドクターと看護婦が集まり、二人の治療が始まった。タンカーでレントゲン室に順番に運ばれ、骨の異常を確認した上で大きな傷を縫合している様子。私は治療室入り口のベンチに横になり痛みをこらえる。青年がチャイを持ってくる。暖かいミルクティが腹に滲みる。やっと私の番が回ってきたらしい。女医(この病院は女医が多い)が一人、両足を触診し、ドイツ人の医師と同様「骨に異常はなさそうだ。」といって診療室に戻っていく。やがて注射器を持ってやって来て「お尻を出せ。」という。どうも破傷風の予防注射と化膿止めの注射らしい。2本打たれた。
森田さんのところで働いているサンペルさん(日本語が少し分かる)がやってくる。やっと森田さんに連絡がついたようだ。彼が来てくれたおかげで意志疎通がスムースになり、中の二人の様子もはっきりしてきた。
今夜は三人ともこの病院に入院することになった。
診療室向かいの木造二階建ての病棟に案内される。若い女性や赤ん坊の寝ている部屋(後で分かったが産婦人科の病棟であった)を抜け、ベッドが3つ並んだあまり衛生的とは思われない病室に入った。私が一番奥のベッドを使い、真ん中が有川さん、入り口に近いベッドは今野さんと決める。
ベッドに横になった私に、サンペルさんをはじめ、はじめて顔を見た方(森田さんのもとで働いておられる方たちだったと思うが)がつぎつぎとやって来ては「何か必要なものはないか」「足の具合はどうか」と声をかけて下さる。胸が熱くなる。 事故現場に残った河守さんとセルシンさんを迎えに明朝サンペルさんの親父さんが出発する。事故報告等はネギさんが行い、日本への連絡、日本大使館への連絡等は万全を期す。森田さんの心強い言葉に安堵する。
今野さん、有川さんも治療を終え病室に運ばれてくる。
あの土石流の中で、一人の犠牲者も出なかったのは奇跡に近い。
不幸中の幸いとはまさにこのようなことをいうのであろう。
ソハンさんが車の中で何度も口にした「ラッキー」という言葉とガッツポーズ。まことに私たちは「ラッキー」であった。みんなこうして生きているのだから。何もなくなったが、命だけは全員助かったのだから。